プロローグ ガラスを境に優劣はない
重たい扉が開く音がした。中には誰もいない。肌寒いこの部屋の電気は薄暗いが資料を読むのには困らないと女は思った。
「あら、まだみたいね」
「そうですね」
二人の男女はパイプ椅子に腰掛けると相手が来るのを待った。間も無く数人の足音が聞こえて顔を上げれば、ガラスで区切られた向こうのスペースに彼女は現れた。サラサラの黒髪を腰の辺りまで伸ばしている。顔色も悪くないようで、生まれもっての美貌がようやく電灯の下に顕になった。左目の端を縦に走る大きな裂傷の痕がなければ、何者でもない普通の綺麗な女性だと思えるのだろう。
「……」
『面会は20分です。それ以上は――』
「わーかってるわよ♡」
そう言って男はウインクをした。女口調とそれらしい仕草に明らかに戸惑ったらしい。刑務官は少し間をおいてから咳払いをした。
『それでは始めてください』
刑務官が時計を見たのを確認してから、男は話し始めた。
「ごめんね急に呼びつけちゃって。刑務所生活はどう?」
「馴れ馴れしく話してくるところ悪いんだけどー、誰?」
「警視庁公安対神組織課の者です」
「アタシは捜査協力者。だから特に話すこともないのよね、ついきてきてるだけだから」
「リーダーは離席していて構いませんよ。警部と約束がありますよね」
「あら、もういいの?じゃ遠慮なく」
席を立つと男は、にこりと笑う。それから隣にいた女に顔を近づけ小声で話しかける。
「彼のことは言うの?」
「干渉しないでください」
「……んふ、そうね」
目を伏せて笑うと男は、手をひらりと振るとその場を後にした。
「リーダーさんってオネェの人?」
「さぁ、あの人の性的対象まで存じ上げていませんので」
「ふーん。……あ、あたし。ヒュウガミオ。ヒュウガ、ミオ。あんたは?」
「あくまでもその名を名乗るんですね」
「……んっふふ〜?なぁにぃ〜〜?」
「私のことは『ミカエル』とでも呼んでください」
「へぇ〜、面白いじゃん。ここにきて天使?」
「皮肉のつもりだったんですが、何か」
「あっは、怒ってる感じね。誰の関係者かなぁ〜」
椅子の上で上半身を左右に捻りながらニコニコとこちらを品定めするような目つきは、はっきり言って不快だと女は思った。だが、時間も少ない。重要なのは相手の会話に呑まれず自分のペースに引き摺り込むことだ。
「さて、ヒュウガさん。今日は交渉に来ました」
「交渉!そーなんだー」
「たくさん話しましょう」
「20分で?」
「えぇ、20分で」
「…報酬は?」
「あなたの協力度合いと成果次第ですけど、今よりは快適な暮らしができると思います」
「んっふふ」
頬を綻ばせたヒュウガは目の前にある机に両肘をついた。始めてこちらに前のめりになったのだと気づくと、女はヒュウガの目を見つめた。
「で?何がお望み?」
「……本命の前に、いくつか教えておきたいことがあります」
「教えときたいことー?……あ!そうだよあたしなーんも聞いてないよ!」
にんまり顔を蕩けさせていたかと思えば、目を見開き驚く。よくもまぁこんなに表情がコロコロと変わるものだ、と女は思った。
「どうせなら説明してもらおっかな。どうして私がここに戻ってくるハメになったのかをね?」
「えぇ、そのためにこの事件の資料を持ってきましたから。なんでも聞いてください」
「どの事件のことー?」
「頭のいい貴方でもわからないもんなんですね」
「いちいちその日食べた肉の種類とか部位とか覚えてるー?それと一緒。死刑囚なんだから。頭の悪い異常者には丁寧に教えてもらわないとさ?」
心底軽蔑したような視線を互いに向けていた。水を打ったように静まり返っている。
時間が惜しくなって、先に目を離したのは女の方だった。資料を読み進めていく。
「12月24日は、なんの日ですか」
「クリスマスイブ」
「3月15日は、なんの日ですか」
「……卒業式とか?」
「5月19日」
「…………」
「7月26日」
「…………」
「1852。なんの数字ですか」
「……あーはいはい。わかったわかった。あれのことね」
「答えろ」
次に目を逸らしたのはヒュウガの方だった。それでも女は目を離さない。離すつもりなどなかった。
「目を逸らすんですか。自分のやったことから」
「……おねーさんさぁ、交渉しに来たんでしょ?相手に圧かけてどーすんのよ」
「圧?そんな生易しいモノではありませんよ」
「大義とか正義とか愛とか疲れたからやめてね。ほんとにくどい」
「拒否し続けていては何も変わりませんよ」
「説教しにきたんだ?」
「いえ、私は貴方に愛情を持ち合わせていませんから」
「でしょーね」
「いろんな人が貴方に優しい言葉をかけたでしょう。たくさん許してくれたでしょう。それでも私は貴方を許しません。被害者は確かにいるんです。数が多いからとかではなくて、ひとつひとつに重みがある。身近なところで救われていてはダメなんです。身近な人の言葉ほど信じてはいけないんです。数多の部外者が余程まともで本当のことを言っている。あなたはそれを忘れてはいけない」
「……あんたさ、」
「忘れてないですよね。本当は」
ふたりの目があった。ヒュウガが目を合わせたのだ。そこに攻撃的な意志はもう感じない。女の目にも悪意は灯っていなかった。吸い込まれるような瞳だとヒュウガは思った。
「私は、あなたを説教しに来たのではありません。ましてや圧をかけに来たわけでも、何かを強制したくて来たわけでもありません。私は、貴方に、ご協力をお願いしに来たんです」
切実な想いであることは、異常者であるヒュウガにもわかった。異常者に、だ。彼女は、頭を下げんばかりの勢いと熱量で話しかけてくれていたのだった。
「……まだ私に、そんな言葉使ってくれるんだ」
「あなたは人間ですから。当然です」
「……そっか」
今までの憑き物が落ちたような優しい微笑みを浮かべた彼女は、まっすぐ前に向き直った。目は赤らんで水分を含んでいる。女はまだ目を離さなかった。
「……私の話、聞いてくれる?」
「えぇ、たくさん。たくさん話しましょう」
「……後悔してるんだ。あの時のこと」
彼女の口から紡がれたのは2033年。
今から1年前、この街で起こった話だった。
次回は一週間後の予定です。




