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力を借りる為の正しい道を歩むまで

作者: 八崎節子

 これをせねばならない、という時はある。それも、他に何がある、という時が。




「今から言う事を、よおく覚えておくんだよ、一度しか言わないからね」


 何かしら鳥が遠くで鳴いていた。そのあっけらかんとした声すら、空気を凍えさせる役に加わっているかのようだった。

 

 「そこ」は、遠く離れた所にあり、しかも入り組んだ道を何度も曲がらねば辿り着かない。かといって着いた所に周りに人通りがない訳でもなく、しかし決められた通りに行かないと何故か現れない。


「『そこ』で念じると、どんな縁も断ち切れるそうだよ。ただし、心から念じるんだよ。芯が少しでも外れると、間違った道に行ってしまうそうだ」


 確かその時、会話の輪の中にいた一人の娘は、いつもと同じように一歩下がった位置に立っていたが、しかしその常なら俯いていた顔を、教えてくれた人の眼にじっと向け、やがてはっきりと頷いた。




 ある夫婦がいた。残念ながらご多分に漏れず、連れ合ってすぐから夫は妻をあらゆる悪事で苦しめ、妻は耐えるばかりの日々を過ごしていた。


 近所の者達は痩せ細っていくばかりの妻を見かねて、声をかけた。とはいえお節介も重ねると却って拒まれてしまうかもしれない。何人もの人間がそっと声をかけ続けてやっと、


「何とか今の、どうしようもない所から抜け出したい、とは思ってはいるのですが」


 という言葉を引き出した。

 

「でも、離縁などを切り出せば、あの人の事だもの、何をしてくるか分からない、それが恐ろしい。今でも生きた心地がしないのに」


 近所の面々は顔を見合わせた。更にたちの悪い事に、夫はこの界隈でも抜きん出た腕っぷしで知られていた。しかも酒はうわばみときた。


「でも、やっぱりという時が来たら、いつでも逃げ込んでおいで。あたしらやうちの男達でも、力を合わせて守れば何とかなるだろうからさ」

「ありがとうございます」


 ようよう、頭を下げたが、半端に守ると妻に害が及ぶだけになってしまうだろう。近所の女衆は、妻に見られないように頷き合った。 




 女は近所の者と別れてから、用事があると告げて歩き始めたが、実際の所はあてどない放浪であった。口に出した事で、今の家は帰る所ではない、そう確信したかのように、足取りはゆっくりだが、賑やかな道とはいえ段々とその身は家から遠ざかっていた。


 立ち止まると、そこは今のようになる前、暮らしていた界隈であった。さほど離れていないというのに、女にとってそこはずいぶんと以前に通ったきりとなっていた。


 入ってくる者、出ていく者、共に多い所で、今はもう、女の知っている者はまず、いない筈であろうほどであった。その日初めて、女はうつむかずに辺りを見回した。前の家を始め、ゆかりの深い所はいくつもあった。


 女は、ゆっくりと界隈を回っていった。道や建物は、以前のままのようで、時折、目を少し、細めた。


「えんをたつ」


 声が降ったのは、その時だった。年の頃も、女か男かも分からぬ声は、

 素早く、口が動いた。


「『そこ』で念じると、どんな縁も断ち切れる」


 それまでのゆっくりとした動きが嘘のように、女の足が動いた。時にその場で回ったり、道の端から端まで通ったと思ったら来た道を戻ったりと、尋常の動きではなかったが、行き交う人で、そんな動きに不審がる者はおろか、ちらと目をとめる者もいなかった。


「確か、この辺りだった」


 立ち止まったのは、建物と建物の間に簡素な門が現れ、そのすぐ奥に本堂が背の高い木々に囲まれているような、この界隈ではよくある境内だった。

 

「ここだ」

(お願いします)


 声に出さず、口がそう動きながら、中に入ろうとした時だった。


 どん、と、後ろから押され、女は「ああっ」とどうにか腕と脚とを丸めて転がり、難を逃れた。


「ごめんよっ」


 何かの急ぎの使いらしき男が、そうとだけ声をかけて駆け去っていく。


 こういう時は近所だったら大抵、「何て事しやがるんだ」と誰かが現れて代わりに咎めてくれていたが、そこは知り合い等誰もいない。通りすがりの者はちらりと今の出来事を目にしただけで、通り過ぎていった。


 女が身を起こすと、目を向けた先には境内への境目である門と、空とがあった。雲もまた女一人どころか地上の事など素知らぬ顔で青い大空に浮かんでいた。


 しばらく見上げていたが、女の細い手が、ついた地面をやがて、ゆっくりと握り始めた。爪に土が入っていくのも気にせず、手は大きく、固まりの拳を作った。


「切る、己で。他に何がある」


 先ほどまでの声とは全く違う、腹の底から出たかのような声だった。


 その眼は瞬きもせずに雲と、門とに向けられていたが、やがて拳は土につけられたまま、門に向き合い、本堂の、固く閉ざされた扉へと見開かれた。


「そうであろう?」


 下を向く。それは俯くのではなく、上げた両の拳を見つめる為であった。ゆっくりと開くと、指の間から、土がこぼれ落ちていく。しかし、その中から、大きめの石が一つ、女の手の上に残った。


 何が出来るか分からぬような、ただの石であった。しかしそれは鋭い尖りがあった。人の皮膚など、簡単に裂けそうであった。


 女は立ち上がった。直前の動作が嘘のように、丁寧に土をはらってから、改めてしっかとその石を握りしめ、翻り、髪や衣の乱れもそのままに、歩き出す。本堂や門へは微かにも振り向きはしない。


 その姿は、行き交う人の流れに紛れ込んでいき、やがて、界隈の風景に溶けていった。


サイト「お題.com」より「風景」にまつわるワードから、

「縁切り寺」をお借りしました。


https://xn--t8jz542a.com/%e3%80%8c%e9%a2%a8%e6%99%af%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%be%e3%81%a4%e3%82%8f%e3%82%8b%e3%83%af%e3%83%bc%e3%83%89/


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