幸せのキーホルダー
ばしゃばしゃと、水が声を上げる。
邪魔するなと、そこからどけと、わたしをどかそうとばしゃばしゃと声を上げる。わたしはその声を無視し、水の中に両手を突っ込んだ。冷たい。手だけじゃない、水に浸かった足だって、……いや、冷たいを通り越して、何も感じない。痛みすらない。
わたしは寒いのも、痛いのも、冷たいのも、何も感じないのも無視して探す。
ない。
ない。
どこにも、どこにも――――――ない。
声にもならない悲鳴を上げる喉、温かな液体で歪む視界、それ以上に大好きなあの子の想いに心が締め付けられていく。
見つけなきゃ。
見つけなきゃ。
見つからなかったとき、わたしはどうなってしまうのか。
悲しみで、歩けなくなってしまうのだろうか。
怒りで、息ができなくなってしまうのだろうか。
それとも――――――なにも、感じないのだろうか。
あぁ、それはとても怖いことだ。
ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃとあの子の想いを探す。あの子のために、わたしのために探す。太陽は地平線にゆっくり食べられ、消えていく。わたしの心象を表すかのように世界は暗くなっていく。ここはあまりに暗い。自分の姿さえ見えやしない。
暗闇の中を探す。
空に輝くたった一つの星を探すように。
石とは違う固いものに、指先が触れた気がした。
「……ぁ」
声が、息が、感情がわたしの口から漏れた。
石とは違う固さのそれを、逃がさないように両手で、あの子がわたしの心を救ってくれたように、ソレを掬う。
―――見つけたっ!
手のひらに転がったそれに安堵の息。喜び。歓喜。わたしの知っている言葉では言い表せないほどの安心感。
さぁ。目当てのものを見つけたのだ。こんなところから早く出て、家に帰ろう。それから、また明日、今回のことをあの子にお話をしよう。そんな些細なことを想像するだけど、わたしの心は不思議なくらい浮足立っていく。なんて現金な心なのだろう。
浮足立っていたのがよくなかったのだ。
幸と不幸は、代わる代わるやってくる。
落とした不幸と、掬った幸福のその次は――――――ずるり。
ぬるついた石に足を取られ、わたしの体は斜めに傾いていく。ゆっくりと回転する視界に、頭の冷静な部分が掬った幸せの象徴を捨てされば助かると踏切のようにカンカンカンカンと主張する。
あぁ、わたしはきっとどうしようもない馬鹿だったのだ。
あの子の気持ちを優先するふりして、わたしはわたしの気持ちを優先させた。
■ ■ ■ ■ ■
ピロリン。
机の上のスマホが誰かからのメッセージを受信した音に、自室のベッドに寝転がっていた黒川士郎は起き上がりスマホを確認する。
「めずらしいな」
同じ中学時代を過ごした吉沢絵里からの連絡であった。メッセージを開けば、よくある挨拶から始まり、どうやって現在の士郎の連絡先を知ったのかが、つらつらと書いてあった。自身に確認することなく連絡先を他人に教えた友達に怒りを覚えつつも、メッセージを読み進めていく。
『急でごめんなんだけどさ。黒川って、今なんでも屋でアルバイトしてるって聞いて連絡した。依頼したいことがあるんだけどいいかな?』
士郎は数秒考えたのち、当たり障りない挨拶と、なんでも屋の住所を送った。士郎はあくまでもアルバイトに過ぎず、依頼を受けるかどうかは店長である山本達人の判断による。すぐさま絵里から返信が来た。
『明日、学校終わりに行くわ』
それだけ切羽詰まっているのか、絵里からの早い返信、行動に士郎は首を傾げるも、士郎が考えたところで理由はわかるはずもないので早々に頭の隅へと追いやり、記憶の中の吉沢絵里を思い返す。
二年生、三年生と同じクラスであった。真面目ではあるが生真面目ではなく、優等生という言葉がよく似合う女子生徒であった。確か、成績も上から数えた方が速かったと記憶しているし、先生からの受けもよかった。士郎にはあまりわからないが、一部クラスメイトから陽の者と呼ばれていたのを覚えている。高校は別れたが、名前を聞けば卒業アルバムを見ずとも顔を思い出せるぐらいにはクラスメイトとして良好な関係を築けていた。と、士郎は思っている。
翌日、士郎はいつものように学校終わりに職場である302号室へ向かった。
「こんにちは!」
元気よく挨拶しながらリビングへ行けば、何でも屋の店長である山本達人はお手元の本から顔を上げ「はい、こんにちは」と挨拶を返す。
「そんなに張り切ってどうしたんだい? 学校でいいことでもあったのかな」
へらり、と笑いながら士郎に問う。
「別に学校はいつも通りで、いいも悪いもないですよ。ただ、今日は中学の同級生が来るかもしれなくて」
どこか落ち着きがない士郎の返答に興味はないのか「ふーん」とだけ返事をし、再び本の世界へと沈んでいく。それを咎めるように士郎は「店長!」と、呼びかける。達人は士郎の呼びかけを聞いていないわけではない。ちゃんと聞いて、その意味だって理解だってしている。
「いつも言っているが、意味がないって言っているだろう」
「だ、か、ら! しないより、したほうが少しましって言ってるじゃないですか!」
相も変わらず鳥の巣のようなボサボサの髪の毛を梳くように言うが、顔を隠すように伸びた前髪の奥にある眼鏡、さらに奥から覗く夜色の瞳は呆れているのを隠さない。ぷりぷり怒りながら「櫛、どこですか?」と聞いてくる士郎に、達人は諦めたように「あっちの部屋」と扉が閉まっている部屋を指さした。
本当にどうしようもない髪の毛を梳く気なのか、部屋へと突き進む士郎の背中に達人は重く、深いため息を吐き出す。別に士郎を止めはしないが、意味のない行為は始まってすらいないのに達人は一足先にやってきた疲労感から本を閉じた。
「ほら、同級生が来る前に少しでも梳きますよ」
「もう好きにしなよ、抵抗なんてしないから」
言葉通り、素直に差し出された頭部に士郎は意気揚々と触れ、そのくしゃくしゃの髪の毛を梳いていく。鼻歌でも歌いだしそうな手つきに、達人は一つの疑問を士郎へ投げかけた。
「それにしても君がここまでするわけだが、来る予定の同級生に思いでも寄せているのかい?」
「違いますけど」
動揺もなく、返ってきた言葉に嘘はない。
「はっきり言いますけど。あなたを知らない人にとって、あなたの見た目は胡散臭い上に、頼りないんですよ。だから、……だから、なるべく少しでも信頼できる人物だと思ってもらえるようにですね」
どんどん小さくなっていく言葉に、達人は二つの瞳をぱちくりと見開いた。それから―――。
「あはははははは!」
笑いが止まらなかった。
士郎の努力も空しく、絵里は達人を信用できなかった。
ひょろりとした体躯は頼りなく、少しだけ猫背な姿勢がさらに拍車をかける。真っ黒な髪の毛は鳥の巣のようにボサボサであり、へらり、と緩む口元はあまりにも怪しい。信用できないのはまだいい。ちらりと視線を士郎に送り、なぜ士郎がこんな怪しさ満点の男の下で働いているのか理解できない。なにか弱みを握られているのか? もしそうであるならば、今すぐ警察に連絡することをも辞さない。
「先に言っておくけど、俺は店長に弱みとか握られていないからな」
疲れたような表情で、右手にスマホ握りしめる絵里を止める。
士郎の言葉に、肩を揺らす店長は実に楽しそうだ。ひとしきり笑ったあと、わざとらしくコホン。と咳ばらいをした。
「―――さて、と。はじめまして。なんでも屋、店長の山本達人です。彼はご存じだと思いますが従業員の黒川士郎です」
セロハンテープで張り付けたかのような笑みに、ますます絵里の中の不信感が募っていく。
「……はじめまして、吉沢絵里です」
いまだに怪しむ絵里の視線から逃げるように、達人は自身の眼鏡をそっと押し上げた。
同級生ということもあり、達人の代りに士郎が話を進める。
「早速だけど、頼みたいことって?」
絵里の眉間にしわが寄り口元がきゅっと締まった。それは小さな子どもが泣くのを我慢しているような表情であった。達人と士郎は、ただ静かに絵里が口を開くのを待った。どれだけの時間が経過したのかわからないが、絵里は漏れ出そうになるものを押し込めながら口を開く。
「…、……証拠を」
覚悟を決めた絵里は、まっすぐ達人のガラス向こうの瞳を見た。
「一緒に、証拠を探してほしいの」
絵里の全て射貫くような瞳には、憎悪が見え隠れしていた。
吉沢絵里には親友がいた。
親友の名は鮎川幸子。今では逆に珍しい古風な名前であるが、本人は自身の名前に恥ずかしさや、名付け親への不満を感じたことはない。甘いものも、かわいいものも好きで、勉強が少し苦手な、極々ありふれた女子高生だ。
絵里と幸子が出会ったのは、桜の花びらが吹雪のように舞い上がる始業式であった。二年生という新たなステージへの期待がそこら中に溢れていた。
そんな期待と、桃色の隙間から現れた幸子は、絵里の二つの瞳には春の妖精のように映った。実に可憐であり、絵里のほかにも彼女に見惚れる男子生徒がちらほらといた。
絵里の存在に気がついた幸子は、ゆっくりとした足取りで確実に絵里との距離を詰めてきた。優雅という言葉の意味を始めて理解した絵里は、緊張で唾を飲みこむ。気がつけば目の前に立っていた幸子は、絵里の頭の上に乗っていた桃色をそっと掴み取った。
「突然すみません。―――ふふ、桜の花びらが頭についていたので」
薄桃色の花びらを見せて笑う彼女に、絵里は――――――。
絵里は幸子と出会う前から、彼女のことを知っていた。
いろいろ噂が絶えない女子生徒であった。
可憐で、清廉で、謙虚で、それはもう入学時から男子生徒からの人気は高かった。彼女に罪はなかったが、咎があった。―――彼女の咎とは、平等であり、お人よしであることだ。
あぁ。こういってしまうと誰かから怒られてしまうからもしれないが絵里は、その噂を知った時から“くだらない”と思っていた。
吉沢絵里は一部女子生徒からいじめられている。らしい。
中学のころから付き合っていたカップルは、幸子が原因で別れた、らしい。男は相手がいるのにも関わらず、幸子に惚れてしまった、らしい。相手の女は男が自分勝手に裏切ったのを、幸子のせいにしている、らしい。幸子に怒るのはお門違いだ。幸子にその気はないのに、勝手に惚れられて、勝手に恨まれた彼女こそ被害者だろう。
そして、これは全て“らしい”などという不確定な話を信じた馬鹿たちにより、彼女は孤独になっていた。その孤独から漂う哀愁に、また彼女の人気は密かに上がり続けた。助ける気はないくせに、どこかエンタメとして彼女の消費していく奴らだって、いじめに加担している事実に気がついていない。
幸子と同じクラスになった絵里は、いじめられている。という噂が本当であると知った。あぁ、くだらない。本当にくだらない!
「理由がないほうが怖いから、まだ理由があるだけいいと思うの」
そう困ったように笑う幸子に、絵里はなにも言えなかった。
だってそうだろう。いくら向こうに、はた迷惑な理由があれど理不尽だ。その理不尽を、そんな理由だけで許容してしまう彼女も許せなかった。だけど、許容してしまうのは、そうしないと彼女の心が壊れてしまうからだ。
「手、出して」
絵里の言葉に、首を傾げつつも素直に両手を差し出した幸子の手のひらに、コロンと一つのキーホルダーが転がった。
「……これは?」
不思議そうにまじまじと見る幸子は、それを知らないらしかった。
「ただのキーホルダー。いつもわたしが近くにいるわけじゃないから、その、あれよ、お守り的、な?」
歯切れの悪い絵里の言葉に、幸子はその名前の通り幸せそうに笑った。
「―――ありがとう、絵里ちゃん」
それから数日後、彼女は川で遺体となって発見された。
誰かが言うには自殺であり、橋から身を投げたのだろう。とのことだ。
葬儀は身内だけで早々に終わらせたらしい。
「吉沢は、鮎川さんが自殺したとは思ってないってこと?」
「あたりまえでしょ」と、ギロリ、士郎を睨む。
「これは殺人よ。だって、」
「彼女は“いじめられていた”からかい?」
達人の言葉に、絵里は静かに頷いた。
「わたし、あの子にキーホルダーをあげたの。だけど、あの子の家に言って両親に直接聞いたの、キーホルダーはありませんでしたか? って」
「どんなキーホルダーだったか聞いても?」
「………仮面ライダーよ。あの子が絶対に買うはずのない、仮面ライダーのキーホルダー。だけど、そんなものは持っていないと言われたわ。わたしがあげた日から、どこにもつけずに持ち歩いていたの。わたしも学校でキーホルダーを眺めているところを見たことあるから、これは確実よ」
士郎は嫌な想像をしてしまう。
いじめ。消えた仮面ライダーのキーホルダー。川で発見された遺体。この三つが士郎の頭の中で繋がる前に絵里は宣言する。
「―――もう一度言うけど、これは殺人よ」
「だから、『証拠を探して』か………」
静かに話を聞いている達人は、ゆっくりと眼鏡を押し上げ、ニコリと笑う。
「なんでも屋として、ご依頼をお受けいたします」
達人の言葉に、絵里は「ありがとうございます!」と、勢いよく頭を下げた。少しだけ上擦った声は、彼女の心情をよく表していた。
彼女のまろい後頭部を静かに見下ろす達人が、何を考えているのか士郎にはわからなかった。
証拠を探すと言っても、国家権力さえ見つけることができなかったものを、ただのなんでも屋が見つけられるわけがない。
「君には申し訳ないが、今回は吉沢絵里さんと一緒に行動してほしい」
「へ?」
達人の言葉に、士郎は動きを止めた。今までそんなことはない……わけではなかったが、最初から別行動なのは今回が初めてであった。
「……えっと、理由を聞いても?」
「まぁ、いろいろあるけど。吉沢絵里さんが、ひとりで突っ走らないように見ていてほしいんだ。―――できるね」
有無を言わせない言葉に、士郎は静かに頷いた。それを見た達人は満足そうにへらり、と笑う。
「別行動の理由には納得ですけど……。もしかして店長は、なにかに気がついたんですか?」
絵里の話だけで、何かに気がついているのであれば従業員として共有してほしい。そんな思いから、士郎は達人に詰め寄るが、いつもの胡散臭いへらへらの薄っぺらな笑顔を見せるだけだ。その顔が苦手なのか、士郎の顔は苦虫を噛み潰したような顔をする。
数秒見つめ合うが、先に折れたのは士郎であった。大きく、深く息を吐き出した士郎は「無理は絶対にしないでくださいね!」と、肩を揺すった。
士郎は現在、達人に言われた通り絵里と一緒に行動している。幸子が身を投げたとされる橋に向かって歩いているが、二人の間には重い沈黙が流れていた。
絵里の中では、幸子がいじめられていたから死んだ、と考えている。それ以外の可能性を疑う隙間がないほどだ。
「気になったこと、聞いてもいい?」
先に沈黙を破ったのは、絵里であった。
「いいよ、なに?」
「黒川はさ、どういう経緯でなんでも屋のアルバイトをしようって思ったわけよ? いいたくないなら、別に無理して言わなくていいよ」
士郎がなんでも屋でアルバイトを始めたのは――――――。
「んー……っと、力になりたかったから、かなあ?」
「意外とお人よし?」
「いやあ、まぁ、そんな感じではないよ」
気まずそうに頬を掻く士郎に、絵里はただ「ふーん」と静かに返した。聞いてきた本人が、一番興味なさそうである事実に士郎は、苦笑いをした。
「まーでも、力になりたいってのは理解できるよ。わたしも、幸子の力に、助けになりたかったから――――――ほら、ここだよ」
士郎が何か言う前に、件の橋についた。
別に特筆すべきことなどない、どこにでもある普通の橋だ。歩道があり、車道があり、橋の下には水が流れている。ただ橋と川は、かなりの距離がある。ここから落ちたら確実に死ぬかはわからないが、無傷ではすまない。と士郎は感じた。
「………自殺を苦にして身を投げたのか、それともここで何かがあったのか」
橋の上から水底を覗き込む絵里は、いまにも落ちてしまいそう雰囲気があった。そんな絵里を気にしつつも、周りに監視カメラがないか辺りを見渡すがカメラらしきものはどこにもない。
二進も三進もいかない状況を打開するように、士郎の持つスマホが震える。慌てて画面を開けば、店長である山本達人から着信であった。
『今から橋の下に来てくれないかい?』
「えっと? もしかして、店長すでに橋の下にいるんですか?」
『うん。だから、君たちも早く橋の下まで降り給え』
要件を伝えるだけ伝えた達人は、一方的に電話を切った。通話を終えた無機質な音に士郎は溜息を吐き出した。絵里に声をかけ、二人は達人の指示通り橋の下へと降りていった。
川に近づくほど、ぬかるんでいく地面にストレスが溜まっていく。なんとか乗り越えていけば、川の中にいる達人が軽やかに手を振っていた。
「二人とも待っていたよ」
「店長! どうして川の中にっ?!」
驚きを隠せない士郎は、慌てて川の中にいる達人に近づくが、川に入る前に達人が士郎を制し、自分の足で川から出た。
べしゃべしゃの足元は不愉快であるはずなのに、相変わらずへらりと笑っている。
「笑ってる場合じゃないでしょ!」と、叱るように達人へと詰め寄る。
「なあに、大丈夫さ。もう川に入る用事は無い」
達人が一歩足を進めるたびに、ぐしゃと音がなる。
ぐしゃ、べしゃと音を立てながら達人は、固まっている絵里の前で足を止めた。
「吉沢絵里さん、手を出してください」
「な、んで……?」
「――――――“証拠”ですよ」
達人の言葉に、恐る恐る両手を出す。差し出された手のひらに、いつの日か絵里が幸子にそうしたように、コロン、と一つのキーホルダーが転がった。
「仮面ライダーのキーホルダー!」
弾かれたように声を上げた士郎は、何が起きているのかわからず達人へと詰め寄る。
「ど、どうしてですか! それに店長、証拠ってことは………」
「証拠は証拠でも、これは“殺人”の証拠ではなく、“事故”の証拠ですよ」
これは殺人ではなく、事故なのだ。
「僕には、とある伝手がありまして。少々確認をさせていただきました」
「鮎川幸子は、川で足を滑らせて亡くなった。とのことです」
無慈悲に告げられた言葉を、絵里も士郎も理解ができなかった。いや、絵里にいたっては理解をしたくなかった。
「吉沢絵里さん、あなたは誰から鮎川幸子さんが“自殺した”と聞いたのですか?」
「そ、れは……」
絵里は必死に思い出す。誰に聞いたのか。誰から聞いたのかを。どんなに必死に脳内で記憶をひっくり返しても―――誰から聞いたのか、わからない。
「―――噂、だったんじゃないですか?」
「うわ、さ」
達人の言葉を繰り返した絵里は、着ぐるみの中に人が入っていることを知った子供のような表情をしていた。
呆然と達人を見つめる絵里を、真っ直ぐ見つめ返す。
「あの日―――」と、達人は言葉を紡いでいく。
そうあの日。
鮎川幸子は、橋の上で幸子からもらった仮面ライダーのキーホルダーを手に持っていた。嬉しそう、楽しそうにしていたそうですよ。
えぇ、見ている人がいたのです。
その人は毎日、同じ時間、同じルートで犬の散歩している男性でした。男性が飼っている犬種はポメラニアンだったそうです。そうそう、ポメラニアンは人懐っこい犬種らしいですね。
仮面ライダーのキーホルダーを見て楽しそうにしている彼女を見て、自分を見て楽しそうにしていると勘違いした彼のポメラニアンは彼女に突撃をしたらしいです。その拍子に、キーホルダーを川へと落としてしまった。
男性は謝り、一緒に探すと申し出たが、それを鮎川幸子は断り、一人で橋の下へ降りていき、川の中へ入っていったそうです。
「それじゃあ、鮎川さんが仮面ライダーのキーホルダーを持っていなかったのは―――」
「川に落としてしまったから、だ。ちなみに、彼女をいじめていた主犯格である立花夕香さんのアリバイは、すでに確認ができているようです」
達人は淡々と“殺人”へのルートを消していく。まるで絵里からの反論を許さないように、都合の悪い現実から逃がさないように。
「……話をする前に伝えたように、これは“殺人の証拠”ではなく、“事故の証拠”です——————力及ばず、申しわけありませんでした」
言葉を返す余力もない絵里に、達人は深く、深く頭を下げる。
「……今回のご依頼はわたしたちの力不足のため、お代は不要です。では、失礼します」
憐憫も、同情も、感じさせることなく達人は、絵里の横を通り抜けていく。士郎は、達人の背中と立ち尽くす絵里を交互に見て、達人の後を追った。
どことなく機嫌の悪そうな背中に、士郎は話しかける。
「あのぅ、店長」
「なんだい?」
振り返ることなく言葉を返す達人に、士郎は言葉を探す。聞きたいことはあるのに、それをどう言葉にしていいのかわからない。あっちこっちへと視線を彷徨わせた結果、そのまま言葉にすることを決めた。
「……店長は最初から知ってたんじゃないですか?」
士郎の言葉に、達人は足を止めた。
「鮎川さんの事故は報道されていなかったけど、新聞の隅の方に小さな記事として載っていたからね。君の言う通り、僕は最初から知っていた」
「それじゃあ、どうしてその場で教えなかったんですか?」
気まずそうに後頭部を、わしわし掻きながら達人は答える。
「……あの場で言っても話を受け入れる余裕が、彼女にはなかったからね。だから、少し間を置きたかったのさ」
「……それだけだよ」と、達人は再び歩き出した。
士郎は知っている。
達人には嫌いなものがあることを。
嫌いなものが関わっているときの達人は、どことなく冷たい……というか、遠ざけたいように感じる。
士郎は少しだけ鮎川幸子が羨ましいと感じていた。あんなにも自分の死を悲しんで、独りよがりだとしても必死になってくれる相手がいるのは、素敵なことだと思うのだ。
「店長は、」
「……なんだい?」
「もし俺が、……もし俺がなにかの拍子に死んじゃったら、吉沢みたいに必死になってくれますか?」
ゆらり、と達人は振り返る。
交わる瞳。
士郎には、達人が何を考えているかわからない。そろりと、先に目を逸らしたのは達人の方であった。
「そんなことを聞く前に――――――なにかの拍子に死なないように、気をつけておくれよ」
そう言いながら歩き出した男の口角が、泣くのを我慢する子どものように、きゅうっと締ったのを青年は確かに見たのであった。
最後までお読みいただきありがとうございました!