虞美人草
覇王は聴く。
祖国、楚のうたを。
姫とともに。
「漢はすでに楚を得たのか。なんと楚人の多きことか」
覇王、項羽は城の中で嘆息を漏らす。
闇夜から、燭台の火によってすくい出されるその巨躯は、怒りと哀しみに震えているようであった。
彼に取って代わるべし、と秦を滅ぼし覇王となった。
しかし、もののさだめ常にあらず。利は漢にあり。いま覇王は、漢軍より響きわたる楚のうたを、垓下の城の中で聴く。
四面楚歌。
四方より、楚のうたは響く。
姫、虞は目を伏せ、杯に酒を満たす。
覇王とともに楚のうたを耳にしながら。
そのうたの高らかなるに、目には涙が溢れる。
「虞よ、そなたには苦労をかける」
「いいえ、これはそのために泣いているのではありません。この城の人々の哀しみを思うとき、どうして泣かずにいられるでしょう」
溢れた涙が、ひとつ、虞の頬をつたう。
その涙は、項羽の心を打った。
「おれは戦にゆけば常勝将軍であった。さればこそ覇王となれた。なのに、殺しても殺しても、敵は滅ばず。……なぜか」
杯を干し、吐くようなつぶやき。
「これは天意であろう。天が、おれを滅ぼそうとしているのだ」
「左様なことは……。いまはご運が悪いだけでしょう」
虞は子を想う母のように、手を、そっと添える。
剣を握り、虞を抱いたその手は、大きかった。それでも、この大きな手は、最後の運を掴みきれなかったのであろうか。
「ふたたびの機会もあるかもしれません。そのときを待ちましょう」
そういう虞の手は払われ。項羽は立ち、その大きな手で剣を握り、剣舞を舞う。
力 山を抜き 気 世をおおう
時は利あらずして 騅逝かず
騅の逝かざるは いかんとすべきも
虞や 虞や 汝をいかんせん
剣舞を舞って、うたった。
そこには、覇王としてでなく、ひとりの男として姫を想う項羽の心情が露にされて。
最後のひと振り、剣より風が舞い起こり、燭台の火をゆらし。虞の心もゆらす。
「その剣をお貸しください」
虞は剣をとり、さきほどの項羽のように、舞い、うたった。
漢兵すでに地を略し 四方に楚の歌声す
大王の意気尽きたれば
賤妾なんぞ生をやすんぜん
振られる剣が、燭台の火の光をうけ、きらめき。きらめきの中で虞の剣は、風に遊ぶ蝶のように舞っていた。
その舞いの終わるころ、楚のうたがやみ、鬨の声とかわった。
虞はすべてを悟り、
「おさらばでございます」
と剣で我が胸を突き、自害した。
項羽がとめる間もなく、虞は息絶え。
血に手が染まるもかまわず、項羽はそのなきがらを抱いて。血のぬくもりを感じながら、泣いた。
やがて、項羽もまた虞のあとを追い、打って出たのちに自害した。
翌年、城の中で一輪の赤い花が咲いた。
その赤い花は、虞の果てたところに咲いて。
人は虞姫のあわれをしのび、この花を虞美人草と呼ぶようになった。
了