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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

幼き日々は忘れて、どうかわたくしを殺してください

作者: 飛鳥ひびき

 左手に絡まるのは、幼いながらに骨ばった、しかし柔らかな少年の指。何年も前からこうして手を絡めてはいるけれど、ここ最近はより男らしくなってきたように思う。


 だがどんなに姿形が変わっても、そこから伝わってくる優しさはずっと変わることはない。


「僕さ、大人になるのが楽しみで仕方ないんだ」


 少し上の場所からひたと見つめてくるのは、まるで夜明けの陽の光。『破邪』の魔力を持つ者特有の橙色の瞳は、勇気と希望の象徴。白い歯を輝かせたその眩い笑顔からは、この少年の清廉な内面が零れる。


 少女は、繋いでいないほうの手をそっと少年の手の甲に添えた。彼の笑顔につられるように、自らの口角も自然と綻ぶ。


 人目がある時、少年は立場上、少女に対しては敬語で話す。しかし二人きりの時だけは違う。普段は堅苦しい距離感が、一気に幼馴染のそれへと変わる。


「……どんなことが、楽しみなの?」

「決まっているだろう? 君と一緒になれることが、だよ」


 その隠す気がない好意の言葉に、胸の奥があたたかなもので満たされていく。少女は僅かに熱くなった頬を意識しつつ、隣の少年の顔を上目遣いで見上げた。

 

「……まぁ。どこでそんな気障(きざ)な台詞を覚えてきたの?」

「えぇ、気障かなぁ? ……だとしても、これは僕の本心だよ。……毎日を同じ家で過ごして、話して、食事してさ。きっと、幸せで堪らない日々が待っていると思う」

「でも、わたくしたちの結婚まであと五年もあるのよ。まだまだ先過ぎて、今から楽しみにしていたら楽しみが減ってしまうわ」


 少女たちは、今年で十三になる。そしてその刻んだ年月は、この少年と幼馴染として――生まれながらの婚約者として、共に過ごした日々と重なる。


 すると少年は、まるで声で(くすぐ)るような小さな笑みを零した。


「そんなことはないさ。……毎日、君を想う度に増えていくばかりだよ」

「……っもう、またそんな台詞を――」


 すると、言い終わらないうちに。


 瞬きをするほどの僅かな間に、頬に、柔らかな熱が触れた。それは甘やかな名残だけすぐに残して消滅したが、少女の記憶にはしっかりと刻み込まれる。


 けれど、今少女たちがいるのは、屋外。人払いをされた庭園の、小さなガゼボの中だ。目に見える範囲には誰もいないものの、近くには護衛が控えている。


 屋外でこんな破廉恥なことをするなんて、と言い募ろうと思った。


 思ったの、だが。

 

「大好きだよ、アシェリー」


 降り注ぐ陽光のような瞳が、その言葉を口の中に籠らせる。


 あまりにも真っ直ぐな、その眼差し。重く熱いそれを少女は避けることも受け止めきることもできず、ただ漆黒の瞳を揺らめかせて見返す。


「ハリス。……でも、わたくしは……」


 そうして代わりに出てきたのは、自己卑下を内包した言葉の欠片。


 漆黒の瞳は、魔力が発現していない者特有のもの。この世界の者は皆漆黒の瞳で生まれ落ち、魔力を発現すると同時にその特有の色に染まる。


 大抵三歳までには発現する魔力だが、少女は未だ発現できていない。そして魔力がなければ――。


 ――魔力なしの、役立たず。


 そう(そしら)れても、仕方がない。


「……魔力のこと、気にしてる?」

「……」

「何回だって言うけど、魔力の有無なんかでアシェリーの魅力は変わらないよ。君は君だ。純粋で真っ直ぐで可愛い、僕の……僕だけの、大切な婚約者だ」


 魔力というものは、その人間が持つ固有の特技であり性質のようなもの。『破邪』の魔力を持つこの少年は、そこに居るだけで邪悪なる者を寄せ付けず、さらには打ち滅ぼす性質がある。


 彼と共に居るだけで、空気が、心が、清らかになっていく。

 

「一生、君を愛すると誓うよ。……僕の王女様」

 

 魔力が発現しない少女に対して、周囲の目は――家族でさえも――常に冷ややかだった。大国の第一王女として生まれ落ち、恵まれた育ちにもかかわらず、情けなくも視線を俯かせて日々を生きていた。


 しかし、この少年だけは違った。


 幼い頃から一緒だった彼だけは、魔力のことを抜きにして少女を見てくれた。それが、刺々しい世界の中でどれほど心の支えになっていたことか。


「わたくしも……わたくしも、貴方のことを愛してるわ。貴方だけが、わたくしの味方だった」

「……うん」

「……永遠に、貴方と共にいたい」


 視線が絡み合い、引き寄せられるようにして顔が近づく。そっと唇に触れるのは、先ほど頬に触れた熱。


 少女の手を握る手に、軽く力が籠る。それはまるで、逃がさないと主張しているかのよう。


 こうして、大人と子供の狭間の時分。少女――アシェリーは、婚約者であるハリスと初めての口付けを交わした。


 その胸の内は、確かな愛で満ち溢れていた。



 

 ***


 


 ――時が流れること、はや五年。


 イルザガン王国第一王女、アシェリー・セルフィア・セヴィスティは今日、十八の誕生日を迎えていた。


 だが今、建前だけであってもそれを祝う者は誰もいない。


 アシェリーは今、冷えた空気の侘しい地下牢の中で、床に膝をついて俯いていた。質素ではあるが質の良い若草色のドレスは泥と埃に塗れ、その価値を落としてしまっている。


 そして、何より。アシェリーの両手首は体の前で枷で戒められていた。まるで、罪人のように。


 いや、はっきりとそう明言されていないだけで、実際には罪人のようなものだ。


「ようやく発現したかと思えば、『狂気』の魔力とは。……本当にお前は、私の期待を(ことごと)く裏切ってくれるな」


 一人の男が、虫けらを見るような目でアシェリーを睥睨(へいげい)する。体格に優れ口髭を生やしたこの男は、この国の君主。国王、オルゲア・アスラ・セヴィスティ。アシェリーの実父だった。


 そして今、アシェリーの周りは大勢の役人たちが取り囲んでいる。


 まるで、何か(・・)を外へと漏らさないようにするかのように。

 

「……申し開きのしようも、ございません」


 この異様な雰囲気に威圧されるようにして俯くアシェリーの瞳は、今や漆黒ではない。流れ出てから時が経った血液のような、黒ずんだ深紅に変化している。


 ――それは、『狂気』の魔力を持つ者の特有の色。


 オルゲアが、苦々しく顔を歪める。


「何と醜悪な色か。王家の恥晒しめが」

「……誠に、申し訳ございません。お父さ――」

「父と呼ぶな。穢れる」

「……はい。陛下」


 長年発現しなかったアシェリーの魔力は、昨夜、寝る間際に突然発現した。


 しかしそれは、普通の魔力ではなかった。


 ――『邪悪』、『淫蕩(いんとう)』、『狂気』。


 この国で三大大悪(さんだいたいあく)と呼ばれる、それらの魔力。このいずれかを発現した者は、直ちに処刑しなければならない、と国法で定められている。


 それを怠れば、国全体がその魔力によって侵されてしまうからだ。


 人を悪行に導き世を乱れさせる『邪悪』。人を淫猥な思考に堕とし堕落させる『淫蕩』。


 そして、人の心を狂わせ世を破壊する『狂気』。


 これらを発現する者は、非常に稀だ。国内での前回の発現は約二年前、南方にある小さな農村で生まれた一歳の女児が、『邪悪』の魔力を発現させてしまった。


 国の魔力管理局がその事実に気づいた時には、魔力の発現から既に数日が経過してしまっていた。その村を中心に治安が荒れ、村民たちはお互いに罵倒し合い(いさか)いが絶えず、まさに村が崩壊する寸前の状態だった。


 これ以上被害が出ないように、とその女児はその場で粛々と処刑された。


 当時『邪悪』によって精神を侵されていた両親は、自分の娘の処刑について涙を流すことはなかった。しかし処刑後数日経って正気に戻った時に、洪水の如く涙を流しその死を長く悼み続けた。


 罪はその魔力にあり、魔力を発現した者には罪はない。しかし、たった一人のせいで国全体を歪にさせてはいけない。大勢の国民を不幸にさせてはいけない。そういった思いから、この国法は制定された。


 ――そして今は。よりにもよって国の中心である王家の者に、『狂気』が発現してしまった。


 昨夜、アシェリーが体の異変を察知し自室の鏡でこの瞳の色を見た時。アシェリーの心は、魔力の発現への喜びから瞬時に絶望に塗り潰された。そして唯ならぬ魔力を察して部屋にやってきた実母――王妃シルヴェスカも、この瞳を見た瞬間に狂ったように金切り声で叫び、泣いた。


 それは果たして、『狂気』の影響なのか。それとも、あまりにも衝撃を受けてしまったゆえなのか。それは定かではない。


「お前の処刑は、直ちに『破邪』が行う。……だが、良かったじゃないか」


 自分の魔力を受け入れた瞬間から、アシェリーは処刑を覚悟していた。


 何年も発現しなかった魔力。それについては、発現させるためにあらゆる方面から誰よりも調べてきていた。


 それはもちろん、三大大悪についてや、その処刑方法に関しても。魔力についてを、全て。

 

 魔力というものは、心の臓を核としている。人がその命を散らす時、魔力は心臓(そこ)から残滓を広範囲に撒き散らす。そのため、三大大悪の処刑にはとある魔力を持つ者たちが欠かせなかった。


 それは、害悪なるものを打ち滅ぼす『破邪』。もしくは、あらゆる性質の干渉を阻害する『守護』。


 心の臓を『破邪』の手が止めれば、害悪なる魔力は瞬時に消滅する。仮に『破邪』がいなくとも、大勢の『守護』で周りを固めれば残滓をその場のみに留まらせることができる。

 

 『破邪』の魔力を持つ者は珍しく、現在では国内に五人しかいない。対して『守護』は数が多い。実のところ、国王であるこのオルゲアや今アシェリーを取り囲んでいる役人たちも、皆『守護』の魔力を持っている。だからこそ、『狂気』の近くにこうして平然と立っていられる。


 そして、その『破邪』の魔力を持つ者は、その魔力の恩恵を与えるために国内の各地に散らばっている。


 唯一、王都に居るのが――。


「せめて、愛しい者の手で逝けるからな」


 アシェリーの幼馴染であり婚約者でもある、コルクスタ侯爵嫡男、ハリス・ランフレッドだった。


 愛しい彼に殺されることに、恐怖はない。ただ。


(……ハリス。ごめんなさい。ごめんなさい……)


 アシェリーは静かに目を瞑る。ただただ、愛しい人に謝罪の言葉を贈る。


 幼い頃から唯一の味方でいてくれた彼をアシェリーが愛しているように、ハリスからの愛もしっかりと感じている。


 彼となら、幸せになれると信じていた。どんなに辛い境遇でも、希望に向かって進んでいけると思えていた。


 しかし今は、絶望という怪物が足音を立てて、一歩一歩、こちらに向かってきている。


 

 

 


 魔力の影響は、物理的な距離が大きく影響する。


 そのため、三大大悪を処刑するまでに隔離するための場が、国内に数カ所存在する。王都の場合は、王城の地下深くに。


 アシェリーは今、『守護』の魔力を持つ国の役人たちによって、夜中の間にひっそりとこの地下牢へと連れて来られていた。


 ふと、前方からゴゥン、と重い扉が開く音がして、アシェリーはひくりと体を動かした。


「遅くなりまして申し訳ございません、陛下。……して、三大大悪の者とは一体――」


 唐突に言葉が切れ、代わりにひゅう、と息を呑む音が地下牢に響く。それだけで、アシェリーは悟ってしまった。


 彼は、『狂気』を発現した者が誰だったのか、今の今まで知らされていなかったのだ、ということに。


 アシェリーはゆっくりと顔を上げ、視線を前に投げた。眼前に立つ国王オルゲアの後方に、錆びた鉄の扉を開いたまま一人の人影が立ち竦んでいる。


 すらりとした長身。世の貴族令嬢たちを虜にする凛々しい(かんばせ)。そして中でも一番の特徴が、稀有な『破邪』の橙色の瞳。


 アシェリーの婚約者であるハリス・ランフレッドが、そこに立っている。目を、これでもかというほどに見開いて。


 『狂気』を発現した者を――アシェリーを、処刑するために。


 余程急いできたのだろう。その髪は乱れ酷く汗もかいている。しかし、まるで内から発光しているかのような煌びやかさは、このような時でも全く変わらない。


「な、ん……ア、シェリー……⁉︎」


 人前では、彼はアシェリーを「殿下」と呼ぶ。しかし今は、それすらも取り繕えないらしい。


 全ての負を背負ってしまったかのような表情。そんな顔をさせてしまったことに、ずっしりとした重い罪悪感がアシェリーの心に滲む。


 オルゲアがちらりと後ろを振り返り、ハリスのほうに視線を向けた。


「来たか、『破邪』のハリス・ランフレッド。お前が呼ばれた意味は……分かっているな?」

「……陛下、しかし……っ、彼女は……!」

「『破邪』を発現している時点で、お前も覚悟をしているだろう。……王命だ。『狂気』を処刑せよ」


 ハリスの息が、瞬く間に荒くなっていく。冷えた地下牢の中、は、は、と溢れる口元からは白い息が漏れる。


 ――三大大悪の処刑人として急遽呼ばれそして馳せ参じた先では、愛する婚約者がその対象となっていた。


 そんな彼の心は今、計り知れないほどに混沌としているに違いない。


 しばらくの後、ハリスは静かにオルゲアの前で床に両膝をつき、項垂れた。


 それは、降伏の仕草だ。


「……でき、ません……」

「ほぉ。私に……国に逆らうと」

「……しかし、このようなこと、私には……!」

「お前はこれ(・・)の婚約者である前に、私の臣下だ。立場を弁えろ」


 揺らぐ橙色の瞳が、アシェリーを捉える。その瞳を真っ直ぐに見返して、アシェリーは口を動かした。


 “ごめんね”


 それを見た瞬間、ハリスの瞳が暗く翳る。


「もとより、お前が処刑しなくともここには守護が集っている。お前ができなければ、私がこれを処刑する」

「そん――」

「だが、守護のみでは心許ない。『破邪』で『狂気』を滅することが一番安全なのだ」

「……ですが、陛下……」


 一歩、オルゲアがハリスに近づく。

 

「聡いお前なら理解できるだろう? いずれにしても、これ(・・)の処刑は免れない。……さぁ、やれ」


 そうしてハリスの腕を引っ掴み、無理矢理に立たせた。膝をつくアシェリーの前へと投げ出し、ハリスはたたらを踏みつつもアシェリーの目の前に躍り出る。


「……アシェリー……」


 アシェリーの目の前で、すとん、とハリスの膝が崩れ落ちる。その夕陽色の瞳に涙の膜が張りつつあるのを見て、アシェリーは彼ももう本心ではこの結末を理解しているのだと悟る。


(……せめて、最期だけ。最期だけは……わたくしも貴方と同じように、輝いてみたい)


 王家の身にもかかわらず魔力を発現できず、恥知らずで役立たずの王女として陰の中過ごして十八年。他国の者にも軽んじられた末にようやく発現した魔力は、人を狂わせる大悪、『狂気』。


 本当に、周囲に迷惑をかけてばかりの人生だった。


 けれど、ハリスの手で心の臓を止めてもらえれば、最期だけは誰にも迷惑をかけずに逝くことができる。


「……ごめんね、ハリス。わたくしは、どこまでいっても本当に……だめな人間だわ」

「そんなっ! そんなことは――」

「貴方はわたくしには勿体ない人。……きっとこれから、素敵な出逢いに恵まれる」

「……違う、違うよ……」

「何といっても、貴方は『破邪』。貴方がいるだけで、国は美しくなる」

「嫌だ……やめてくれ……」


 アシェリーは口元に力を入れた。口角を無理矢理に引き上げ、微笑みを作る。


 上手く作れているかは、知らない。


「幼き日々は忘れて……どうかわたくしを、殺して」


 目の奥が熱くなってきて、どうしようもない。笑って逝ければよいのに。しかし――。


「……ごめ、んね……っ」


 深紅の瞳から溢れ出た、温い雫。それは頬を、顎を伝い落ち、ぽたりぽたりと零れて地下牢の石畳の色を変えていく。


 アシェリーは固く目を瞑り、体を小さく震わせた。どんなに我慢しようとしても、しゃくり上げが止まってくれない。涙は止まってくれない。


 ハリスに、罪悪感を抱いてほしくないのに。それなのに――。

  

「……僕には、できない……」


(……あぁ、やってしまった)


 アシェリーは涙を流しながら、儘ならぬ自らの感情に嫌気がさす思いがした。


 遠巻きにされながらも、王女として教育にはしっかり取り組んできたはずだった。自らの感情を制する方法も学んだはずだった。


 けれど、そんなことは役に立ちやしない。

 

「……ハリ、ス……」

「無理だ……子供の頃から、ずっと、君だけを見てきたんだ」

「お願い、ハリス……」

「君が好きだ。愛してるんだ。僕には……君を殺すなんて、絶対に……できない……ッ!」


 ――突然。


 ザン、と音がして、ハリスが勢いよく立ち上がる。同時に剣を鞘から抜く音もして、アシェリーはびくりと肩を跳ねさせた。


 冷える地下牢の中、アシェリーは腕を掴まれ力強く上に引き起こされた。全身を、逞しく温かな熱が包み込む。


 目の前に広がるのは、愛しい彼の広い胸。


「彼女を殺すのなら、僕も死にます。……『破邪』が死ぬのは、貴方にとって痛手でしょう?」


 ちらりと後ろを――オルゲアのほうを振り返る。鈍く光る銀色の切先が、彼のほうを真っ直ぐに向いている。


 しかし、ハリスのその言葉に、行動に、最も恐怖したのは、アシェリーだ。


 娘であるアシェリーは、よく知っている。オルゲアは有言実行の男だ。彼はアシェリーを処刑すると言ったのだから、必ず殺す。そのようにして、この大国の君主として長年君臨してきたのだから。


 そして彼は同時に、裏切りを許さぬ男でもある。彼に刃を向けて今でも生きている者は――。


 一人たりとも、いない。


「……恐ろしいな。『狂気』は『破邪』の精神すら侵すか」


 不快そうに顔を口元を歪めたオルゲアは、ゆっくりと右手を顔の横まで挙げた。


「囲え。決して、残滓を漏らすな。……この無礼者は、最早使い物にならん」


 周囲の役人たちが、アシェリーたちを隙間なく取り囲む。まるで人間の壁が迫ってくるかのようなその光景に、アシェリーの心が恐怖で波打つ。


「だめ、ハリス、だめよ……!」

「……アシェリー」


 ぎゅう、と強く抱き締められて。


 しゃらり、と剣が鞘から解き放たれる音が聞こえて。

 

「愛してる」


 突如、背中から胸の中心に――鋭い痛みが。


「……っが、は……っ」


 ごぷりと口から溢れ出す、赤く、あたたかな液体。そしてそれは、目の前の彼の口元からも。


 ちらりと視線を下に向ける。自らの胸元から飛び出すのは、血濡れた銀色の刃。その先は――。


 ハリスの、胸の中心へ。


「……っ、ハ……ス……」


 アシェリーの体からは深紅の何かが、ハリスの体からは橙色の何かがぶわりと周囲に放たれ、混じり合って捏ね合って、そして、粉雪のように溶けて霧散していく。


 途方もない痛みが息を止めさせる。音をなくさせる。感覚をなくさせる。


 ぐらぐらと視界がぶれる中、アシェリーは目の前の男の服を固く握り締める。縋り付くようにその胸にもたれかかると、きつく背を抱いてくれる彼の力もさらに強くなった。


「ア……シェ、リー……」


 白く霞み始める視界。そして、ふと理解する。


 ――これが、死。そしてこれが、ハリスの望み。


 彼はアシェリーと共に二人で死ぬために、あえてオルゲアに刃を向けたのだ、と。


「……来世、は……共、に……」


 瞳から光を失い、吐血しながらもゆっくりと落ちてくる愛しい人の顔。その顔を見ながら、十八年に及ぶ彼との思い出が脳裏を駆け巡る。

 

 だが、もう――全てが遅い。


 アシェリーは全てを諦め、精一杯、彼の来世での多幸を祈って微笑みかける。


 人生で最期の口付けは、二人の血液が混ざった、錆びついた味がした。


 


 ◆◆◆




 青い草の香りが、鼻腔を擽る。そよぐ爽やかな春の風が、頬を撫でる。


「……リル……」


 馴染みのある声に、ふわりと意識が浮き上がる。けれど、もう少し寝ていたかった。


 先ほどの『過去』は、何回も視たことがある。通常、『過去』を視る時は一回きりなのだが、なぜかあの『過去』だけは違かった。


 何かが、心の奥のほうに引っ掛かる。いつも、そんな気がしていた。


「……なぁ……シェ……ル……」


 けれど今は、そんな穏やかな眠りを許してくれない人物が一人。誰なのかは大体分かっている。それは、少女の幼馴染であり親友でもある、とある一人の少年。


「おいシェリル、いい加減起きろって」


 彼の名前はクリス。少女が暮らす村の、将来は冒険者を夢見る、実直で幼き少年。


 少女は――シェリルは、ぱちりと瞼を開いて上半身を起き上がらせた。柔らかな葡萄色の、勝気そうな光を宿した瞳が姿を表す。


 シェリルの頭の上では、大木の若々しい緑が大きく風に靡いていた。その向こう側に透けて見えるのは、澄んだ青から橙色に色が変わりゆく空。


 何とも気持ちの良い、春の夕暮れだ。


 シェリルは女にもかかわらず短い髪の毛を、がしがしと大雑把に手で掻いた。


「うるさいなぁ、もう。いいじゃん。今日は時間はあるんだから」


 目の前では、心配そうな表情をしたクリスが(はしばみ)色の瞳をシェリルへと向けている。


 榛色の魔力は、『慈愛』。周囲に愛をもたらす慈悲深い魔力。人から愛されることが約束されている、誰もが羨むような魔力だ。


「つっても、まだ春先だし。日が暮れ始めてちょっと肌寒くなってきたぞ。風邪引くって」

「大丈夫大丈夫。あたし、体強いからさ」


 シェリルは再びぽすんと敷布の上へと横たわる。まだ、あの『過去』の名残を追っていたかった。


 目を瞑っていると、隣にクリスが座る気配がする。


「……また、『過去』を見てたのかよ?」

「……うん」


 葡萄色の瞳の魔力は、『過去』。今は死した者たちの記憶を垣間見ることができる、非常に稀有な魔力。だが同時に、気味悪がられる魔力でもある。


 しかし、シェリルの村の者たちは皆優しい。少なくとも、この村で魔力のことでシェリルを貶す者は一人もいなかった。


「いつもの、あれ?」

「……うん」

 

 シェリルが視る『過去』は、今まで生きてきた者たちの魂そのもの。人生そのもの。だからその詳細な内容は、自分の胸の内に秘めておく。そう決めている。


 ただ、この親友であるクリスにだけは、同じ『過去』を何度も視る、とだけ話してはいる。


「気になるよなぁ。何回も同じ『過去』を視るなんてさ」

「そうだよねぇ……」


 あの過去に出てくる「イルザガン王国」は、今から二百年以上前の大昔に東の大陸にあったとされる国の名だ。


 シェリルも、以前気になって調べてみたことがある。しかし遠く離れた場所の、しかも大昔の書物など長い年月のうちにほとんど消滅しており、ほんの僅かしか調べられなかった。


 しかし、一つだけ分かったことがある。


 アシェリー王女。


 それは、イルザガン王国最後の王女の名。彼女が亡くなってしばらくしてから、王国は他国の侵略により消滅したとされている。


(アシェリーと、ハリス。あなたたちは……過去に生きていた二人、なんだよね? ……来世で、幸せになれたのかな?)


 愛し合う二人が、どうしようもなく引き裂かれその命を落としてしまった。


 それは、何という悲劇なのだろう。


 あの『過去』を視ると、胸がきつく締め付けられる気がする。そして不思議と、一人の少年の顔が思い浮かぶ。


 シェリルは、横に座るその少年の顔をちらりと横目で見た。柔和な顔立ちに優しい心を持つ、この幼馴染の少年の顔を。


 するとふと、彼もちらりとこちらを見てきて、視線が絡み合う。どうしてか気まずい気がして、シェリルは視線をふいと横に逸らした。


「なぁシェリル、もう行こうって。……今日母さんがさ、シェリルの好きな肉巻きパン作ってるんだ。一緒に食べようよ」

「えっ、本当っ!? 行く行く! すぐ行く!」

「……ははっ! 本当現金だなぁ」


 すっくと立ち上がったクリスが、微笑みながら手を差し出してくれる。シェリルはその微笑みに満面の笑みを返して、勢いよく手を重ね合わせた。


(なれてると、いいな)

 

 そうして、二つの手はしっかりと絡み合う。二人肩を並べ、夕陽の中家に向かって駆け出していった。

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[一言] 読了いたしました 何度もかみしめて 辛いよー。゜(゜´Д`゜)゜。 好きでそんな魔力に覚醒したわけではないのに 処刑される運命 赤子でも両親惑わすみたいな魔力だから とはいえ なんとかならな…
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