幼き日々は忘れて、どうかわたくしを殺してください
左手に絡まるのは、幼いながらに骨ばった、しかし柔らかな少年の指。何年も前からこうして手を絡めてはいるけれど、ここ最近はより男らしくなってきたように思う。
だがどんなに姿形が変わっても、そこから伝わってくる優しさはずっと変わることはない。
「僕さ、大人になるのが楽しみで仕方ないんだ」
少し上の場所からひたと見つめてくるのは、まるで夜明けの陽の光。『破邪』の魔力を持つ者特有の橙色の瞳は、勇気と希望の象徴。白い歯を輝かせたその眩い笑顔からは、この少年の清廉な内面が零れる。
少女は、繋いでいないほうの手をそっと少年の手の甲に添えた。彼の笑顔につられるように、自らの口角も自然と綻ぶ。
人目がある時、少年は立場上、少女に対しては敬語で話す。しかし二人きりの時だけは違う。普段は堅苦しい距離感が、一気に幼馴染のそれへと変わる。
「……どんなことが、楽しみなの?」
「決まっているだろう? 君と一緒になれることが、だよ」
その隠す気がない好意の言葉に、胸の奥があたたかなもので満たされていく。少女は僅かに熱くなった頬を意識しつつ、隣の少年の顔を上目遣いで見上げた。
「……まぁ。どこでそんな気障な台詞を覚えてきたの?」
「えぇ、気障かなぁ? ……だとしても、これは僕の本心だよ。……毎日を同じ家で過ごして、話して、食事してさ。きっと、幸せで堪らない日々が待っていると思う」
「でも、わたくしたちの結婚まであと五年もあるのよ。まだまだ先過ぎて、今から楽しみにしていたら楽しみが減ってしまうわ」
少女たちは、今年で十三になる。そしてその刻んだ年月は、この少年と幼馴染として――生まれながらの婚約者として、共に過ごした日々と重なる。
すると少年は、まるで声で擽るような小さな笑みを零した。
「そんなことはないさ。……毎日、君を想う度に増えていくばかりだよ」
「……っもう、またそんな台詞を――」
すると、言い終わらないうちに。
瞬きをするほどの僅かな間に、頬に、柔らかな熱が触れた。それは甘やかな名残だけすぐに残して消滅したが、少女の記憶にはしっかりと刻み込まれる。
けれど、今少女たちがいるのは、屋外。人払いをされた庭園の、小さなガゼボの中だ。目に見える範囲には誰もいないものの、近くには護衛が控えている。
屋外でこんな破廉恥なことをするなんて、と言い募ろうと思った。
思ったの、だが。
「大好きだよ、アシェリー」
降り注ぐ陽光のような瞳が、その言葉を口の中に籠らせる。
あまりにも真っ直ぐな、その眼差し。重く熱いそれを少女は避けることも受け止めきることもできず、ただ漆黒の瞳を揺らめかせて見返す。
「ハリス。……でも、わたくしは……」
そうして代わりに出てきたのは、自己卑下を内包した言葉の欠片。
漆黒の瞳は、魔力が発現していない者特有のもの。この世界の者は皆漆黒の瞳で生まれ落ち、魔力を発現すると同時にその特有の色に染まる。
大抵三歳までには発現する魔力だが、少女は未だ発現できていない。そして魔力がなければ――。
――魔力なしの、役立たず。
そう謗れても、仕方がない。
「……魔力のこと、気にしてる?」
「……」
「何回だって言うけど、魔力の有無なんかでアシェリーの魅力は変わらないよ。君は君だ。純粋で真っ直ぐで可愛い、僕の……僕だけの、大切な婚約者だ」
魔力というものは、その人間が持つ固有の特技であり性質のようなもの。『破邪』の魔力を持つこの少年は、そこに居るだけで邪悪なる者を寄せ付けず、さらには打ち滅ぼす性質がある。
彼と共に居るだけで、空気が、心が、清らかになっていく。
「一生、君を愛すると誓うよ。……僕の王女様」
魔力が発現しない少女に対して、周囲の目は――家族でさえも――常に冷ややかだった。大国の第一王女として生まれ落ち、恵まれた育ちにもかかわらず、情けなくも視線を俯かせて日々を生きていた。
しかし、この少年だけは違った。
幼い頃から一緒だった彼だけは、魔力のことを抜きにして少女を見てくれた。それが、刺々しい世界の中でどれほど心の支えになっていたことか。
「わたくしも……わたくしも、貴方のことを愛してるわ。貴方だけが、わたくしの味方だった」
「……うん」
「……永遠に、貴方と共にいたい」
視線が絡み合い、引き寄せられるようにして顔が近づく。そっと唇に触れるのは、先ほど頬に触れた熱。
少女の手を握る手に、軽く力が籠る。それはまるで、逃がさないと主張しているかのよう。
こうして、大人と子供の狭間の時分。少女――アシェリーは、婚約者であるハリスと初めての口付けを交わした。
その胸の内は、確かな愛で満ち溢れていた。
***
――時が流れること、はや五年。
イルザガン王国第一王女、アシェリー・セルフィア・セヴィスティは今日、十八の誕生日を迎えていた。
だが今、建前だけであってもそれを祝う者は誰もいない。
アシェリーは今、冷えた空気の侘しい地下牢の中で、床に膝をついて俯いていた。質素ではあるが質の良い若草色のドレスは泥と埃に塗れ、その価値を落としてしまっている。
そして、何より。アシェリーの両手首は体の前で枷で戒められていた。まるで、罪人のように。
いや、はっきりとそう明言されていないだけで、実際には罪人のようなものだ。
「ようやく発現したかと思えば、『狂気』の魔力とは。……本当にお前は、私の期待を悉く裏切ってくれるな」
一人の男が、虫けらを見るような目でアシェリーを睥睨する。体格に優れ口髭を生やしたこの男は、この国の君主。国王、オルゲア・アスラ・セヴィスティ。アシェリーの実父だった。
そして今、アシェリーの周りは大勢の役人たちが取り囲んでいる。
まるで、何かを外へと漏らさないようにするかのように。
「……申し開きのしようも、ございません」
この異様な雰囲気に威圧されるようにして俯くアシェリーの瞳は、今や漆黒ではない。流れ出てから時が経った血液のような、黒ずんだ深紅に変化している。
――それは、『狂気』の魔力を持つ者の特有の色。
オルゲアが、苦々しく顔を歪める。
「何と醜悪な色か。王家の恥晒しめが」
「……誠に、申し訳ございません。お父さ――」
「父と呼ぶな。穢れる」
「……はい。陛下」
長年発現しなかったアシェリーの魔力は、昨夜、寝る間際に突然発現した。
しかしそれは、普通の魔力ではなかった。
――『邪悪』、『淫蕩』、『狂気』。
この国で三大大悪と呼ばれる、それらの魔力。このいずれかを発現した者は、直ちに処刑しなければならない、と国法で定められている。
それを怠れば、国全体がその魔力によって侵されてしまうからだ。
人を悪行に導き世を乱れさせる『邪悪』。人を淫猥な思考に堕とし堕落させる『淫蕩』。
そして、人の心を狂わせ世を破壊する『狂気』。
これらを発現する者は、非常に稀だ。国内での前回の発現は約二年前、南方にある小さな農村で生まれた一歳の女児が、『邪悪』の魔力を発現させてしまった。
国の魔力管理局がその事実に気づいた時には、魔力の発現から既に数日が経過してしまっていた。その村を中心に治安が荒れ、村民たちはお互いに罵倒し合い諍いが絶えず、まさに村が崩壊する寸前の状態だった。
これ以上被害が出ないように、とその女児はその場で粛々と処刑された。
当時『邪悪』によって精神を侵されていた両親は、自分の娘の処刑について涙を流すことはなかった。しかし処刑後数日経って正気に戻った時に、洪水の如く涙を流しその死を長く悼み続けた。
罪はその魔力にあり、魔力を発現した者には罪はない。しかし、たった一人のせいで国全体を歪にさせてはいけない。大勢の国民を不幸にさせてはいけない。そういった思いから、この国法は制定された。
――そして今は。よりにもよって国の中心である王家の者に、『狂気』が発現してしまった。
昨夜、アシェリーが体の異変を察知し自室の鏡でこの瞳の色を見た時。アシェリーの心は、魔力の発現への喜びから瞬時に絶望に塗り潰された。そして唯ならぬ魔力を察して部屋にやってきた実母――王妃シルヴェスカも、この瞳を見た瞬間に狂ったように金切り声で叫び、泣いた。
それは果たして、『狂気』の影響なのか。それとも、あまりにも衝撃を受けてしまったゆえなのか。それは定かではない。
「お前の処刑は、直ちに『破邪』が行う。……だが、良かったじゃないか」
自分の魔力を受け入れた瞬間から、アシェリーは処刑を覚悟していた。
何年も発現しなかった魔力。それについては、発現させるためにあらゆる方面から誰よりも調べてきていた。
それはもちろん、三大大悪についてや、その処刑方法に関しても。魔力についてを、全て。
魔力というものは、心の臓を核としている。人がその命を散らす時、魔力は心臓から残滓を広範囲に撒き散らす。そのため、三大大悪の処刑にはとある魔力を持つ者たちが欠かせなかった。
それは、害悪なるものを打ち滅ぼす『破邪』。もしくは、あらゆる性質の干渉を阻害する『守護』。
心の臓を『破邪』の手が止めれば、害悪なる魔力は瞬時に消滅する。仮に『破邪』がいなくとも、大勢の『守護』で周りを固めれば残滓をその場のみに留まらせることができる。
『破邪』の魔力を持つ者は珍しく、現在では国内に五人しかいない。対して『守護』は数が多い。実のところ、国王であるこのオルゲアや今アシェリーを取り囲んでいる役人たちも、皆『守護』の魔力を持っている。だからこそ、『狂気』の近くにこうして平然と立っていられる。
そして、その『破邪』の魔力を持つ者は、その魔力の恩恵を与えるために国内の各地に散らばっている。
唯一、王都に居るのが――。
「せめて、愛しい者の手で逝けるからな」
アシェリーの幼馴染であり婚約者でもある、コルクスタ侯爵嫡男、ハリス・ランフレッドだった。
愛しい彼に殺されることに、恐怖はない。ただ。
(……ハリス。ごめんなさい。ごめんなさい……)
アシェリーは静かに目を瞑る。ただただ、愛しい人に謝罪の言葉を贈る。
幼い頃から唯一の味方でいてくれた彼をアシェリーが愛しているように、ハリスからの愛もしっかりと感じている。
彼となら、幸せになれると信じていた。どんなに辛い境遇でも、希望に向かって進んでいけると思えていた。
しかし今は、絶望という怪物が足音を立てて、一歩一歩、こちらに向かってきている。
魔力の影響は、物理的な距離が大きく影響する。
そのため、三大大悪を処刑するまでに隔離するための場が、国内に数カ所存在する。王都の場合は、王城の地下深くに。
アシェリーは今、『守護』の魔力を持つ国の役人たちによって、夜中の間にひっそりとこの地下牢へと連れて来られていた。
ふと、前方からゴゥン、と重い扉が開く音がして、アシェリーはひくりと体を動かした。
「遅くなりまして申し訳ございません、陛下。……して、三大大悪の者とは一体――」
唐突に言葉が切れ、代わりにひゅう、と息を呑む音が地下牢に響く。それだけで、アシェリーは悟ってしまった。
彼は、『狂気』を発現した者が誰だったのか、今の今まで知らされていなかったのだ、ということに。
アシェリーはゆっくりと顔を上げ、視線を前に投げた。眼前に立つ国王オルゲアの後方に、錆びた鉄の扉を開いたまま一人の人影が立ち竦んでいる。
すらりとした長身。世の貴族令嬢たちを虜にする凛々しい顔。そして中でも一番の特徴が、稀有な『破邪』の橙色の瞳。
アシェリーの婚約者であるハリス・ランフレッドが、そこに立っている。目を、これでもかというほどに見開いて。
『狂気』を発現した者を――アシェリーを、処刑するために。
余程急いできたのだろう。その髪は乱れ酷く汗もかいている。しかし、まるで内から発光しているかのような煌びやかさは、このような時でも全く変わらない。
「な、ん……ア、シェリー……⁉︎」
人前では、彼はアシェリーを「殿下」と呼ぶ。しかし今は、それすらも取り繕えないらしい。
全ての負を背負ってしまったかのような表情。そんな顔をさせてしまったことに、ずっしりとした重い罪悪感がアシェリーの心に滲む。
オルゲアがちらりと後ろを振り返り、ハリスのほうに視線を向けた。
「来たか、『破邪』のハリス・ランフレッド。お前が呼ばれた意味は……分かっているな?」
「……陛下、しかし……っ、彼女は……!」
「『破邪』を発現している時点で、お前も覚悟をしているだろう。……王命だ。『狂気』を処刑せよ」
ハリスの息が、瞬く間に荒くなっていく。冷えた地下牢の中、は、は、と溢れる口元からは白い息が漏れる。
――三大大悪の処刑人として急遽呼ばれそして馳せ参じた先では、愛する婚約者がその対象となっていた。
そんな彼の心は今、計り知れないほどに混沌としているに違いない。
しばらくの後、ハリスは静かにオルゲアの前で床に両膝をつき、項垂れた。
それは、降伏の仕草だ。
「……でき、ません……」
「ほぉ。私に……国に逆らうと」
「……しかし、このようなこと、私には……!」
「お前はこれの婚約者である前に、私の臣下だ。立場を弁えろ」
揺らぐ橙色の瞳が、アシェリーを捉える。その瞳を真っ直ぐに見返して、アシェリーは口を動かした。
“ごめんね”
それを見た瞬間、ハリスの瞳が暗く翳る。
「もとより、お前が処刑しなくともここには守護が集っている。お前ができなければ、私がこれを処刑する」
「そん――」
「だが、守護のみでは心許ない。『破邪』で『狂気』を滅することが一番安全なのだ」
「……ですが、陛下……」
一歩、オルゲアがハリスに近づく。
「聡いお前なら理解できるだろう? いずれにしても、これの処刑は免れない。……さぁ、やれ」
そうしてハリスの腕を引っ掴み、無理矢理に立たせた。膝をつくアシェリーの前へと投げ出し、ハリスはたたらを踏みつつもアシェリーの目の前に躍り出る。
「……アシェリー……」
アシェリーの目の前で、すとん、とハリスの膝が崩れ落ちる。その夕陽色の瞳に涙の膜が張りつつあるのを見て、アシェリーは彼ももう本心ではこの結末を理解しているのだと悟る。
(……せめて、最期だけ。最期だけは……わたくしも貴方と同じように、輝いてみたい)
王家の身にもかかわらず魔力を発現できず、恥知らずで役立たずの王女として陰の中過ごして十八年。他国の者にも軽んじられた末にようやく発現した魔力は、人を狂わせる大悪、『狂気』。
本当に、周囲に迷惑をかけてばかりの人生だった。
けれど、ハリスの手で心の臓を止めてもらえれば、最期だけは誰にも迷惑をかけずに逝くことができる。
「……ごめんね、ハリス。わたくしは、どこまでいっても本当に……だめな人間だわ」
「そんなっ! そんなことは――」
「貴方はわたくしには勿体ない人。……きっとこれから、素敵な出逢いに恵まれる」
「……違う、違うよ……」
「何といっても、貴方は『破邪』。貴方がいるだけで、国は美しくなる」
「嫌だ……やめてくれ……」
アシェリーは口元に力を入れた。口角を無理矢理に引き上げ、微笑みを作る。
上手く作れているかは、知らない。
「幼き日々は忘れて……どうかわたくしを、殺して」
目の奥が熱くなってきて、どうしようもない。笑って逝ければよいのに。しかし――。
「……ごめ、んね……っ」
深紅の瞳から溢れ出た、温い雫。それは頬を、顎を伝い落ち、ぽたりぽたりと零れて地下牢の石畳の色を変えていく。
アシェリーは固く目を瞑り、体を小さく震わせた。どんなに我慢しようとしても、しゃくり上げが止まってくれない。涙は止まってくれない。
ハリスに、罪悪感を抱いてほしくないのに。それなのに――。
「……僕には、できない……」
(……あぁ、やってしまった)
アシェリーは涙を流しながら、儘ならぬ自らの感情に嫌気がさす思いがした。
遠巻きにされながらも、王女として教育にはしっかり取り組んできたはずだった。自らの感情を制する方法も学んだはずだった。
けれど、そんなことは役に立ちやしない。
「……ハリ、ス……」
「無理だ……子供の頃から、ずっと、君だけを見てきたんだ」
「お願い、ハリス……」
「君が好きだ。愛してるんだ。僕には……君を殺すなんて、絶対に……できない……ッ!」
――突然。
ザン、と音がして、ハリスが勢いよく立ち上がる。同時に剣を鞘から抜く音もして、アシェリーはびくりと肩を跳ねさせた。
冷える地下牢の中、アシェリーは腕を掴まれ力強く上に引き起こされた。全身を、逞しく温かな熱が包み込む。
目の前に広がるのは、愛しい彼の広い胸。
「彼女を殺すのなら、僕も死にます。……『破邪』が死ぬのは、貴方にとって痛手でしょう?」
ちらりと後ろを――オルゲアのほうを振り返る。鈍く光る銀色の切先が、彼のほうを真っ直ぐに向いている。
しかし、ハリスのその言葉に、行動に、最も恐怖したのは、アシェリーだ。
娘であるアシェリーは、よく知っている。オルゲアは有言実行の男だ。彼はアシェリーを処刑すると言ったのだから、必ず殺す。そのようにして、この大国の君主として長年君臨してきたのだから。
そして彼は同時に、裏切りを許さぬ男でもある。彼に刃を向けて今でも生きている者は――。
一人たりとも、いない。
「……恐ろしいな。『狂気』は『破邪』の精神すら侵すか」
不快そうに顔を口元を歪めたオルゲアは、ゆっくりと右手を顔の横まで挙げた。
「囲え。決して、残滓を漏らすな。……この無礼者は、最早使い物にならん」
周囲の役人たちが、アシェリーたちを隙間なく取り囲む。まるで人間の壁が迫ってくるかのようなその光景に、アシェリーの心が恐怖で波打つ。
「だめ、ハリス、だめよ……!」
「……アシェリー」
ぎゅう、と強く抱き締められて。
しゃらり、と剣が鞘から解き放たれる音が聞こえて。
「愛してる」
突如、背中から胸の中心に――鋭い痛みが。
「……っが、は……っ」
ごぷりと口から溢れ出す、赤く、あたたかな液体。そしてそれは、目の前の彼の口元からも。
ちらりと視線を下に向ける。自らの胸元から飛び出すのは、血濡れた銀色の刃。その先は――。
ハリスの、胸の中心へ。
「……っ、ハ……ス……」
アシェリーの体からは深紅の何かが、ハリスの体からは橙色の何かがぶわりと周囲に放たれ、混じり合って捏ね合って、そして、粉雪のように溶けて霧散していく。
途方もない痛みが息を止めさせる。音をなくさせる。感覚をなくさせる。
ぐらぐらと視界がぶれる中、アシェリーは目の前の男の服を固く握り締める。縋り付くようにその胸にもたれかかると、きつく背を抱いてくれる彼の力もさらに強くなった。
「ア……シェ、リー……」
白く霞み始める視界。そして、ふと理解する。
――これが、死。そしてこれが、ハリスの望み。
彼はアシェリーと共に二人で死ぬために、あえてオルゲアに刃を向けたのだ、と。
「……来世、は……共、に……」
瞳から光を失い、吐血しながらもゆっくりと落ちてくる愛しい人の顔。その顔を見ながら、十八年に及ぶ彼との思い出が脳裏を駆け巡る。
だが、もう――全てが遅い。
アシェリーは全てを諦め、精一杯、彼の来世での多幸を祈って微笑みかける。
人生で最期の口付けは、二人の血液が混ざった、錆びついた味がした。
◆◆◆
青い草の香りが、鼻腔を擽る。そよぐ爽やかな春の風が、頬を撫でる。
「……リル……」
馴染みのある声に、ふわりと意識が浮き上がる。けれど、もう少し寝ていたかった。
先ほどの『過去』は、何回も視たことがある。通常、『過去』を視る時は一回きりなのだが、なぜかあの『過去』だけは違かった。
何かが、心の奥のほうに引っ掛かる。いつも、そんな気がしていた。
「……なぁ……シェ……ル……」
けれど今は、そんな穏やかな眠りを許してくれない人物が一人。誰なのかは大体分かっている。それは、少女の幼馴染であり親友でもある、とある一人の少年。
「おいシェリル、いい加減起きろって」
彼の名前はクリス。少女が暮らす村の、将来は冒険者を夢見る、実直で幼き少年。
少女は――シェリルは、ぱちりと瞼を開いて上半身を起き上がらせた。柔らかな葡萄色の、勝気そうな光を宿した瞳が姿を表す。
シェリルの頭の上では、大木の若々しい緑が大きく風に靡いていた。その向こう側に透けて見えるのは、澄んだ青から橙色に色が変わりゆく空。
何とも気持ちの良い、春の夕暮れだ。
シェリルは女にもかかわらず短い髪の毛を、がしがしと大雑把に手で掻いた。
「うるさいなぁ、もう。いいじゃん。今日は時間はあるんだから」
目の前では、心配そうな表情をしたクリスが榛色の瞳をシェリルへと向けている。
榛色の魔力は、『慈愛』。周囲に愛をもたらす慈悲深い魔力。人から愛されることが約束されている、誰もが羨むような魔力だ。
「つっても、まだ春先だし。日が暮れ始めてちょっと肌寒くなってきたぞ。風邪引くって」
「大丈夫大丈夫。あたし、体強いからさ」
シェリルは再びぽすんと敷布の上へと横たわる。まだ、あの『過去』の名残を追っていたかった。
目を瞑っていると、隣にクリスが座る気配がする。
「……また、『過去』を見てたのかよ?」
「……うん」
葡萄色の瞳の魔力は、『過去』。今は死した者たちの記憶を垣間見ることができる、非常に稀有な魔力。だが同時に、気味悪がられる魔力でもある。
しかし、シェリルの村の者たちは皆優しい。少なくとも、この村で魔力のことでシェリルを貶す者は一人もいなかった。
「いつもの、あれ?」
「……うん」
シェリルが視る『過去』は、今まで生きてきた者たちの魂そのもの。人生そのもの。だからその詳細な内容は、自分の胸の内に秘めておく。そう決めている。
ただ、この親友であるクリスにだけは、同じ『過去』を何度も視る、とだけ話してはいる。
「気になるよなぁ。何回も同じ『過去』を視るなんてさ」
「そうだよねぇ……」
あの過去に出てくる「イルザガン王国」は、今から二百年以上前の大昔に東の大陸にあったとされる国の名だ。
シェリルも、以前気になって調べてみたことがある。しかし遠く離れた場所の、しかも大昔の書物など長い年月のうちにほとんど消滅しており、ほんの僅かしか調べられなかった。
しかし、一つだけ分かったことがある。
アシェリー王女。
それは、イルザガン王国最後の王女の名。彼女が亡くなってしばらくしてから、王国は他国の侵略により消滅したとされている。
(アシェリーと、ハリス。あなたたちは……過去に生きていた二人、なんだよね? ……来世で、幸せになれたのかな?)
愛し合う二人が、どうしようもなく引き裂かれその命を落としてしまった。
それは、何という悲劇なのだろう。
あの『過去』を視ると、胸がきつく締め付けられる気がする。そして不思議と、一人の少年の顔が思い浮かぶ。
シェリルは、横に座るその少年の顔をちらりと横目で見た。柔和な顔立ちに優しい心を持つ、この幼馴染の少年の顔を。
するとふと、彼もちらりとこちらを見てきて、視線が絡み合う。どうしてか気まずい気がして、シェリルは視線をふいと横に逸らした。
「なぁシェリル、もう行こうって。……今日母さんがさ、シェリルの好きな肉巻きパン作ってるんだ。一緒に食べようよ」
「えっ、本当っ!? 行く行く! すぐ行く!」
「……ははっ! 本当現金だなぁ」
すっくと立ち上がったクリスが、微笑みながら手を差し出してくれる。シェリルはその微笑みに満面の笑みを返して、勢いよく手を重ね合わせた。
(なれてると、いいな)
そうして、二つの手はしっかりと絡み合う。二人肩を並べ、夕陽の中家に向かって駆け出していった。