第22話 冒険者と司祭様は空を旅する
ベイルン宮殿で一泊し、朝食も摂り終えるとセリーヌはアレクサンデルと合流した。
合流した二人はベイルン市郊外にある“港”へと向かった。
港、といっても二人が乗ろうとしているのは海や川を進む船ではない。
空を飛ぶ船、飛行船である。
荷物の検査を済ませ、前日のうちに取っておいたチケットを使って船に乗り込む。
「しかし……俺がいつも使うよりも荷物検査が雑というか、簡易的というか、とにかく早かったんだが……」
指定席に座ったアレクサンデルが疑問を口にした。
アレクサンデルが一人で利用するときはポケットの中から隅々まで確認されるにも関わらず、今回は適当にバッグを開けて終わりだった。
「聖職者の特権よ」
アレクサンデルの疑問に対してセリーヌはあっさりと答えた。
イブラヒム神聖同盟内での長距離移動には教会が発行する移動許可証が必要となる。
それを見ればその人物の職業や身分、年齢が分かる。
聖職者階級の人間の社会的地位は非常に高く、信用されているため、荷物の検査が緩いのだ。
「そういうところは便利だよな、聖職者って。ちなみにほかにどんな特権がある?」
「そうね……飛行船関係だと、あくまで仕事で使う時だけど、かなり良い席を使用できるわ。私たちが今使ってるような狭い席じゃなくて、広い、金持ち用の席ね」
飛行船の席にはいくつかランクがあり、そしてそれぞれ値段が異なる。
アレクサンデルたちが座っている席はあまり値段が高くない、庶民向けの席だ。
実は聖職者であり、養子とはいえブライフェスブルク家の娘であるセリーヌがこのような庶民向けの席に座るのはあまりよくないのだが……
セリーヌは貧乏性なので、安い席を選んだ。
雑談をしていると、離陸の時間になったことが船員によって告げられた。
「そういえばさ、セリーヌ」
「どうしたの?」
「飛行船ってどういう仕組みで浮いているんだ?」
アレクサンデルが生まれた時にはすでに飛行船は開発されていたため、アレクサンデルは飛行船の存在に疑問を抱いたことはない。
が、こうして考えてみると少し不思議だ。
「別に難しい仕組みじゃないわよ。空気より軽い気体を気嚢に入れて浮かせているのよ。あとは飛竜に引っ張らせるだけ。簡単でしょう?」
「そうなんだ……気嚢ってさ、鳥がぶつかって割れたりしないよな?」
「割れないようにできているから安心して。……そうよ、割れたりしないもの。構造上、浮くように設計されているんだから、浮くはずよ。落ちたりしない。ええ、大丈夫。落ちたりしないわ……」
まるで自分に言い聞かせるように言うセリーヌ。
顔色は真っ青で、少し震えている。
「……手を握っててやろうか?」
もしかしたら飛行船が苦手なのかもしれないと思い立ったアレクサンデルはセリーヌにそう提案した。
「し、仕方がないわね……あ、アレクが、握っててほしいって言うなら、握っててあげるわ。言っておくけど、私は別に怖くなんてないからね? もう、何度も飛行船は乗ってきてるし!」
「そ、そうか……」(そんなことで見栄なんて張るなよ……)
アレクサンデルは内心で呆れながら、セリーヌの手を握ってやる。
それからしばらくして、ついに飛行船が離陸を始めた。
独特の浮遊感がアレクサンデルを襲う。
実はアレクサンデルはこの浮遊感が割と好きだ。少し浮ついた気持になる。
……が、隣に座っている司祭様は違うらしい。
ギュッとアレクサンデルの手を握り、プルプルと震えながら目を瞑り、必死に聖句を唱えて神に祈っている。
ちょっと可愛いなと、アレクサンデルは思ってしまった。
さてそれからしばらくして、ようやく飛行船は安定飛行に入った。
「はぁ……はぁ……よ、ようやく終わったわね」
「大丈夫か、セリーヌ」
「だ、大丈夫よ! い、言っておくけど、私は別に怖くなんて、これっぽっちもなかったからね? そもそも、ちゃんと浮くようにできているものに恐怖するなんておかしいわ!」
そう言ってからセリーヌは飛行船がいかに安全に作られているか、墜落する可能性が低いことをアレクサンデルに語り、そして飛行船に恐怖することがいかに愚かなことかを演説した。
……自分で自分の首を絞めていないか?
アレクサンデルは内心で苦笑いを浮かべた。
その日の午後までには飛行船はガリア王国ルテティス市郊外の港――空港――に到着した。
それからアレクサンデルたちは市内を走る馬車鉄道に乗って、郊外の住宅地へと向かった。
立ち並ぶアパートのうちの一つ、その中の二階の奥の部屋をアレクサンデルはノックした。
「アレクサンデルです、帰ってきました。開けてくれませんか?」
するとゆっくりとドアが開く。
ドアの向こうにいたのは車椅子に乗った女性だった。
年齢は三十代後半ほどに見える。
少し老けてはいるが、しかし若い頃は相当な美人だったことが窺い知れる、そんな女性だ。
「お帰りなさい、アレクサンデル。会いたかったわ」
「はい、お久しぶりです。アンナさん」
アレクサンデルがそういうと車椅子の女性――アンナ――は柔らかい笑みを浮かべた。
「さあ、入りなさい。……後ろの女性は、噂に聞くセリーヌさん?」
「はい。アレクサンデルさんにはいつもお世話になっております」
そう言ってセリーヌは丁寧にアンナへと頭を下げた。
アレクサンデルは内心で「むしろお世話されているのは俺だけどな」と呟いた。
「セリーヌさんも入って。まあ、大したものは出せないけれど」
そう言ってアンナは器用に車椅子を操作して部屋の中へと入っていく。
二人はそのあとに続いた。
「ナタリアは学校ですか?」
「ええ。一時間後には帰ってくると思うわ」
アンナは小さなリビングにあるテーブルとイスを指さした。
「そこの椅子に座っていて。お茶を用意するわ」
「いや、それくらいは俺が……」
「私にやらせて」
アレクサンデルの申し出を断り、アンナは台所へと消えていた。
「……強い人なのね」
「ああ。昔から、ああなんだよ」
しばらくしてからアンナは三人分の珈琲を持ってきて、テーブルに並べた。
それから身を乗り出して、セリーヌに詰め寄った。
「さて……セリーヌさんはアレクサンデルの恋人なのよね?」
「え、いや、それは……」
「式はいつ上げるの? 子供は何人作るつもり? 私、アレクサンデルの子供が早くみたいのよ。だから。頑張って! あ、そうだ。私のことはお義母さんと呼んでくれて良いわよ!」
恋人ではない、とセリーヌが否定する隙もなくアンナは捲し立てた。
「本当に良かったわ……死ぬ前にアレクサンデルの恋人が見れて」
「お義母さん、死ぬだなんて言わないでください」
セリーヌはアンナに言い聞かせるように言った。
「必ず治ります……いえ、治しますから。ご安心ください。……まずは症状を診察しても良いですか?」
「診察……そういえば、セリーヌさんは聖職者だったわね」
「はい。医学は、治療術は専門分野です」
セリーヌは大きく頷いた。
するとアンナは遠い目をして呟いた。
「……そう、聖職者なのね。やっぱり、血は争えないというべきか、運命のいたずらというべきか」
「……どうかしましたか?」
「いえ、何でもないわ。ええ、診察して頂戴」
「では、失礼します」
そう言ってセリーヌはしゃがみ込み、ゆっくりとアンナのスカートを持ち上げた。
そこに石のように硬質化した二本の足があった。
石化は膝下にまで達している。
膝はまだ石化していないが、しかし固まりかけているようで、動く気配はない。
それからセリーヌは慎重に、隅々までアンナの体を調べた。
「どうだ? セリーヌ。治りそうか?」
アレクサンデルは緊張した表情で言った。
するとセリーヌは大きく頷いた。
「ステージ三、ね。新薬がギリギリ効力を発揮する範囲だわ。……大丈夫です、お義母さん。命は助かります」
「……本当に助かるのかしら? だって、これは罰なのでしょう?」
アンナの言葉にセリーヌは眉を潜める。
「罰?」
「ええ。石化病は、主の教えを守ることができなかったことへの天罰だと、みんな言うじゃない」
売春はイブラヒム教の教義で禁じられている。
実際のところは黙認されているのだが……
しかし宗教上、望ましいこととは言えない。
そのため不特定多数との性交渉によって感染する石化病を、“天罰”であると捉えるものもいる。
「主のご意思だとすれば、どんな治療を施しても治らないんじゃない?」
「……お義母さん。天罰云々と言ったのは、どこの聖職者ですか?」
セリーヌは厳しい表情を浮かべて言った。
するとアンナは首を横に振った。
「……いえ、聖職者の方から直接言われたことはないわ。でも、みんなそう言うじゃない?」
「お義母さん、それは違います」
セリーヌはアンナの言葉を遮り、そしてきっぱりとした声で否定した。
「病気は目に見えない小さな生物や日々の生活習慣によって引き起こされる体の不調・異常であって、それはすべて科学的に証明することが可能です。発病のプロセスそのものは確かに主によって定められた絶対唯一普遍の法則によって引き起こされるものではありますが、そこに特定の人個人への主の意思は働いていません。病気は咎人も聖人も、すべて等しく襲われる可能性があります」
それからセリーヌは一呼吸を入れて続ける。
「病気が天罰である、というのは誤った迷信であり、異端の考えです。少なくとも、聖教会の公式解釈ではありません。もし病気が天罰であると、または悪魔や魔女によって引き起こされたものであるなどと言う坊主がいれば、それは異端者か詐欺師でしょう」
セリーヌはそう言い切ってから、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ですから、ご安心を。あなたの病気は、けして天罰などというものではありません。必ず治ります……いえ、治してみせます」
「それは……本当?」
不安そうな表情で尋ねるアンナに対し、セリーヌは力強く頷いた。
「はい。主に誓って」
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補足
イブラヒム教の教義
来世信仰
イブラヒム教は完全なる来世信仰であるため、原則的に現世的な利益や天罰を否定している。
神の“奇跡”や“天罰”が存在しないというわけではないが、それを認定するのは聖教会であり、その基準は非常に厳しい。
ただの怪我や病気程度では、天罰扱いされることはない。
科学主義
世界のすべてを偉大なる唯一の神が創造したという立場であるため、絶対普遍の法則を信仰する。
イブラヒム教の聖職者たちにとって、“法則”の発見は神の存在証明と再確認に他ならない。
“法則”には神の偉大なる神意が込められているため、“法則”を解き明かし、神の意志を知ろうと心掛けることはすべてのイブラヒム教徒の義務である。
普遍主義
絶対唯一の“法則”を信じる彼らは、自然のみならず政治や法律、倫理、道徳、信仰などの人の世界にも絶対の“法則”が存在すると信じている。そんな思想によって造られたものがイブラヒム法であり、イブラヒム教を信じる者たちにとって絶対に守らなければならないルールである。
なお、イブラヒム教徒にとっての「普遍」に当てはまらない存在(異教徒、主に多神教)は、イブラヒム教徒にとっては存在してはならない存在であり、絶対的な悪である。
世俗主義
普遍主義を信望するイブラヒム教であるが、実は布教の段階で様々な多神教的な行事を受け入れ、教義に組み込んできた。イブラヒム教徒にとって、『啓典』は絶対であり、決して間違いのないものであるが、その“解釈”に関しては誤りが生じることを認めている。
世俗的な事情(異教徒・異端)や新たな科学的な発見によって、啓典の解釈は常に変化する。
実態としてイブラヒム教の世界には多くの異端者や異教徒が教会の庇護のもと生活しており、また天地創造の解釈も天文学の発展によって更新され続けている。