side36.日向 ※
※二章21./コミカライズ14話前後
木漏れ日のなか、歩き慣れた道のりをゆく。
といっても、舗装された道ではなく、若干人の通った跡があるどうかという程度をリュディアは辿る。公爵令嬢の彼女が慣れている方が奇怪しいといえるだろう。だが、何度となく訪れた場所のため、確かにリュディアは通い慣れていた。
住む邸の庭のなかに、専属庭師が秘密裡に設けた小さな広場がある。道のない森のような木々に囲まれたなかにあるため、本来なら専属庭師の家系の者しか知り得ない場所だ。
リュディアは、庭師見習いの少年から直接教えられて知っている。彼らが代々、見習いの時分に練習するためのものだ。
垣根同士の間に辛うじて人が通れるだけの隙間がある。よくみないと気付けないその隙間が、広場の入り口だ。
フード付きの外套を被り、リュディアはその入り口を迷いなく潜る。それでも、潜っている間は眼を閉じる。葉が眼に入らないか心配になるからだ。
外套越しに葉が当たる感触がなくなったのを確認して、リュディアはそっと瞼をあげると、陽溜まりのなかに梟の石像が鎮座する小さな噴水が映った。それとともに、予想していなかった光景が映り、瞠目する。
「ザク……!?」
庭師見習いの少年が倒れていた。リュディアは慌てて、駆け寄る。普段健康そのものの彼が倒れるなんて、相当具合が悪いのではと慌てたが、ずいぶんと気の抜けた声が返る。
「……んあ? お嬢?」
リュディアが屈んで、彼の顔色を確認すると悪いどころか快い様子だった。
「まさか……、寝ていましたの……?」
「天気いいからさ。日向ぼっこしてた」
休憩がてら芝生の感触がよいからとそのまま大の字で横になっていたらしい。
「紛らわしいことをしないでくださいな」
心配して損をしたと剥れるリュディアに、庭師見習いの少年は悪い、と詫びた。彼には当たり前の感覚も、彼女には予想もしないものだったらしい。汚れることが想定された作業着を着ている自分と、そんなことは想定されていないドレスを身に着ける彼女とでは、感覚に違いがあって当然だった。
「草のうえって気持ちいぞ。お嬢もどうだ?」
そよ風で草が擦れる音が耳をくすぐり、草の香りと陽のあたたかさが心地よい。よいものと認識している彼から、思いがけない誘いを受け、リュディアは戸惑う。
「わ、わたくしはドレスですし……っ」
彼の表情をみれば悪いものではないのだろうと判る。だが、草があるとはいえ直に地面に寝そべるというのは、抵抗があった。
「あ。そっか。んじゃ、俺のうえで寝れば?」
「……っはぁ!?」
ドレスを汚すことを危惧しているのであれば、自分を下敷きに使うといいと庭師見習いの少年は気軽に提案する。とんでもないことと仰天するリュディアと、また感覚に大きく差があった。
「そ、そそそんなはしたないことできる訳ないでしょう!?」
「大丈夫だって。お嬢がのったぐらいじゃ俺潰れないし」
「そういう問題ではありませんわっ」
リュディアの問題視している点を、彼はまったく解っていない。自ら彼に密着にいくなどとんでもない。想像するだけで顔から火が出そうだ。
狼狽する彼女の様子を、行儀悪さに遠慮していると取り違えた庭師見習いの少年は、一度半身を起こして手を差し出した。
「お嬢」
呼ばれたこともあり、反射的にリュディアは差し出された手に、自身の手を重ねる。すると、くん、と手を引かれた。強くはないものだったが、想定していなかった引力に、リュディアはいとも簡単に前方に倒れる。
思わず衝撃に備えるも、あたたかい厚みあるものが下にあったおかげで痛みはなかった。
「ココなら誰もこないから平気だって」
彼の声が頭のすぐ上からした。声が近い。
誰もいないからこそ問題なのだと、リュディアは抗議したかったが、体勢に気付いて硬直してそれもままならない。位置的に彼からはみえないのは幸いだが、自身の頬の熱さから、どれだけ赤くなっているか想像は容易かった。
二人きりであることや、囁きでも声が届く距離、触れる体温に、リュディアは意識せずにはいられないというのに、彼はもっと力を抜いて体重を預けるようにいってくる。無茶な要求にもほどがある。彼の方は、また草のうえに両腕を放り出し、気楽なものだ。
下敷きに徹しているためか、密着具合に動揺の欠片もみせない彼に、リュディアは悔しくなる。自分ばかりに心的負担が大きいのは不公平だ。だから、負けじと平静を装うことを試みる。他に意識を逸らすものがないか探す。そして、ふと、ある違和感に気付いた。
ふわりと甘く重たい香りがした。
どこからか気になって、リュディアが匂いのもとを辿ると、意外なところからだった。
「……ザク、香水をつけていますの?」
「へ? ああ。移ったのか」
訊ねておきながらあり得ないとリュディアは思い、訊かれた庭師見習いの少年も心外とばかりの表情を浮かべた。しかし、しばらくして要因に思い至ったようだ。
「麝香薔薇の手入れしてたから」
休憩前の作業が咲き始めた薔薇の剪定だった。そのなかに香りの強いものがあったのだ。
「気になるか?」
「いえ、ただ、ザクらしくは……」
彼には日向の香りの方がよほど似合う。リュディアはそう感じた。合わないという点において、庭師見習いの少年は同意した。
「なー、なんか大人っぽいよな。俺、噎せそうだったもん」
剪定中は香りの強さに参りそうになったと彼は苦笑する。日向ぼっこと称して、芝生に寝っ転がっているのも、匂いにあてられて気分転換を兼ねているのかもしれない。
「香水といえば、オク様とかも付けてそうだけど、あんましないよな」
数は少ないがリュディアの母親からお茶会の誘いを受ける彼は、そのときのことを思いだし、意外そうにした。庭師見習いの少年は、てっきり貴族は香りも含めて着飾るものだと思っていたのだ。といっても、あくまでそのような印象をもっていた、というだけである。実際に会ったことのある貴族は、この邸内でエルンスト公爵家の人間だけのため、香害と思えるような強い香りにあてられたことはない。おそらく、麝香薔薇の香りが移った今の自分の方が、よほど強い。
「フローラがまだ小さいですから、お母様は、控えるようにしてるのですわ」
苦手な匂いがあって気分を悪くしてはいけないと、自身で好き嫌いが主張できるようになるまで、母親のオクタヴィアは現在極力香水を控えていた。香りの強い花も飾らないようにしている。リュディアが幼い頃もそうしていたと教えられ、くすぐったい想いをしたものだ。
「じゃあ、そのうち付けるようになんの?」
「フローラの好きな香りが分かるようになれば」
「お嬢の好きなのと付けるようになんのか」
母親からきいてもいないのに、言葉の続きを当てられリュディアは小さく息をのむ。それは、自身で口にするには面映ゆいため、いうつもりのなかったことだ。自分とのお茶会のある日などは、こちらの好きな香りを纏うと宣言されている。そうすれば妹ばかりを構っていると拗ねないだろうと、母親には揶揄までされた。
一時期、両親に構ってもらえないと拗ねた行動をしていた時期があるだけに、リュディアに対して母親は向ける愛情を明確に伝えるようになった。その手段が揶揄い形式であることが多いのが、最近のリュディアの悩みの種だ。
それでも、数度しか会っていない彼ですら容易に想定できるほど、確かな愛情はリュディアの心を満たす。
「お嬢は? お嬢も香水付けたりすんの?」
「ゆくゆくは……」
社交の機会が増えてゆけば、徐々に必要になってくるだろう。母親のオクタヴィアからも、コロンをハンカチに振ったりして、慣らして好みの香りをみつけてゆくよう提案されている。
自分が身に着ける香りなのだから、好ましいものを、というのはよく解る。その前提を踏まえて、リュディアは、彼に訊ねた。
「ザクは、どんな香りが好きですの?」
邸内、正確には敷地内の庭で彼と会う頻度もあるため、今後付けるなら彼にも好ましい香りの方がよいと思った。今のように苦手な香りにあてられて気分転換が必要な状態をみているから、余計に。自分と会ったあとにこんなことがあっては嫌だ。
香水に縁がないため、香りの基準を持ち合わせてなかった庭師見習いの少年は、訊かれてはじめて考える。
「えー……好きな匂い? なんだろ。苦手なのは、ぱっと浮かぶんだけど」
「どういうものが苦手ですの?」
「強いヤツ。沈丁花とか、百合とかもいっぱいあると甘いの濃くて……、梔子とかもあんまり」
香水として香ったことがないので、庭師見習いの少年は自身が作業していたときに咲いていた花を基準にあげてゆく。一般的には華やかといわれる重厚な香りがどうやら不得意らしい。
「薔薇はどうですの?」
「赤いのはあんまり……白いのは普通、あ。黄色いのは好きなの多いかも」
薔薇の品種が多いため、庭師見習いの少年もすべてを把握していないらしい。彼の感覚としては、色で香りが多少異なるように思える。香りに色での区別はないが、リュディアも薔薇の香水の香りを嗅いだときに、まず一番に赤い薔薇が浮かぶので、彼には華やかすぎて好ましくないようだと察した。
とりあえず、彼が苦手とあげたものたちは候補から除外する。
「金木犀とか、蝋梅とか、ふわっとしたの好きだから、黄色い花のが割と好きかも」
いくつか花の候補をあげていくうちに、好ましい香りを思い出したらしい。庭師見習いの少年の表情がぱっと明るくなる。
黄色の薔薇といい、彼のあげるものは既存の香水にあるか定かでないものばかりだ。調香師に依頼すれば、近い香りが再現できるだろうかと、リュディアは思案する。
そよ風が通り抜け、さわさわと草擦れの音とともに青々しい爽やかな香りがする。その清涼感に彼の表情は和らぐ。少しずつ麝香薔薇の香りが薄まっているようで、他の香りも拾えるようになっていた。
彼にはこのような香りが似合うと、リュディアは感じる。日向や緑を想起させる香りは、いつも緑の傍らにいる彼らしい。
麝香薔薇の香りが薄まるほどに、いつもの日向の香りがして、リュディアは安心する。
「あ。でも」
安堵を覚えはじめたところで、庭師見習いの少年が日向の香りに相当する笑みを浮かべた。
「香水とか付けなくても、お嬢からは嫌な匂いしないな」
むしろ、いい匂いがするといわれ、リュディアは互いの香りが判る距離であったことを思いだし、ぼっと羞恥に頬を染めた。
ぶり返した緊張が安堵に上塗りされ、慌てて飛び退く。ありのままの自身の香りを彼に覚えられるなど、恥ずかしくて仕方がない。
「は、はし……っ!?」
香水もつけていない相手の香りに言及するなどはしたない、とリュディアは叱ろうとした。しかし、自分も少なからず彼の香りを覚えてしまったゆえに、その指摘は自身に返り、羞恥を煽っただけだった。どうしても言葉が続かない。
はくはく、と空気を食むようにしながら、握った両手を胸元で構えてこちらを凝視する。そんな彼女の様子をきょとりと眺めてから、庭師見習いの少年は堪らず可笑しくなった。
「っはは、お嬢猫みたいだな」
上にのせたときも身体に力が入って手や肘など特定の箇所だけに加重するものだから、わずかばかりの苦しさがあった。そして、体重を預けてくれるようになってこちらも楽になったと思ったら、警戒を思い出し離れる。前世で友人の飼っていた猫が人見知りで、ちょうどこのような反応をみせていた。懐ききっていない猫と酷似した点に気付き、微笑ましさしかなかった。
「猫……!?」
動物に例えられて揶揄われていると彼女の警戒が増す。誤解を解くために、庭師見習いの少年は身を起こして、まっすぐに淡い青の瞳を見据える。
「いや、可愛いなって」
決して貶していったのではないと伝える。生真面目で律儀な彼女の一挙一動がいちいち可愛らしいと感じただけだ。ただ芝生に横になるだけで、大層な悪事を働いたかのような真面目ぶりだ。いつもぴんと伸びた姿勢は綺麗だとは思うが、ずっとそれでは疲れないかと心配にもなる。だから、誰もいないこの秘密の庭のなかでぐらいは、肩の力を抜いて過ごしてもいいのでないかと思った。
彼が日向ぼっこに誘ったのはそういう理由からだ。
思ったよりも緊張され、ただこちらが彼女を愛でるに終わったのは予想外だった。庭師見習いの少年には、リュディアの緊張の理由が思い当たらなかった。
立ち上がって彼女を見遣ると、堪えるように口を噤んで、のぼせ上ったかのように真っ赤だった。濃い色の外套のまま陽光に当たっていたので、自分よりあたたまってしまったのかもしれない。これは水分補給が必要そうだ。
「そろそろ戻るか」
小休憩の時間も終わる頃だと、手を差し出すと彼女は逡巡した。さきほど、不意打ちをしたことで警戒されてしまっている。
「もうしないって」
苦笑して反省を示すと、ようやくおず、と自分より小さく白い手が重ねられる。
庭師見習いの少年に手を引かれて、リュディアは垣根を潜り、邸への帰路に就く。その間ずっと、自身の香りを忘れるように仕向けるにはどうすればいいのか、自分も彼の香りを覚えてしまった事実を謝罪すべきかなど、葛藤だけが巡り、結局彼に何もいえないままだった。彼からいわれた可愛いが脳内で反響して考えがうまく纏まらなかったせいもある。
動揺と葛藤の渦中にいたため、彼に手を引かれたままだったことに気付くのは、邸に着いてからのことだった。
出迎えたメイドのカトリンの視線に耐えられず、リュディアが即座に離したのはいうまでもない。
彼には休憩になったかもしれないが、リュディアはほとんど心が休まらなかった。
垣根を潜るために外套を纏っていたので、彼を敷いて横にならずともドレスはそんなに汚れなかったのでは。その事実にリュディアが気付いたのは、自室に戻って一息ついてからのことだった。
しばらくは香水のことは考えたくないリュディアであったが、纏う香りを選ぶ頃になったらこの日の出来事を思い出すのだろうという予感がした。
2020.04.21のコミカライズ連載開始から5周年を迎えました。
今もコミカライズ継続しているのは、モブすらを応援くださる読者様のおかげです。誠にありがとうございます。
素敵にコミカライズくださる日芽野先生とモブすらを愛してくださる読者様へ最大級の感謝を。
SNS側でも公開くださっていますが、日芽野先生より素敵なイラストをいただきました。
このような素晴らしい先生にコミカライズいただけている奇跡に感謝いたします。








