side35.ニゲラ
※三章40./コミカライズ23話以前
朝になり、目覚めたダニエルは自身の支度を整え妻の部屋へと向かった。
夫婦の寝室でともに眠りにつかなくなってどれだけ経っただろうか。妻のアニカが心を病んでからは、彼女が一人寝できないときでもない限りは寝室は別にしている。
息子のエリアスが生きていた頃は、夫婦の寝室で休む方が通常だった。エリアスの調子がよいときは、親子三人で眠ることもあった。そんな幸せな時間が詰まった部屋だからこそ、自分も、そして妻も避けてしまうのだろう。
心ここに在らずの妻を眼にして横になるとダニエルの胸は軋む。それだけ、彼女には息子を亡くした事実が深く傷付くものであったのだと。夜だけでも妻が快方に向かわない現実から逃れたくて、一人で眠る。そうしないと、ダニエルの精神は疲弊する一途だ。
いないはずの息子を映す瞳と今日も向き合わなければならない。その覚悟をして、妻の部屋のドアをノックする。
「アニカ、おはよう」
返事はなかったが、彼女が起床しているかの確認のため、ダニエルはドアを開け入室する。自分は妻を安心させる微笑みを浮かべられているだろうか。毎朝、それが心配になる。
アニカは起きていた。ベッドから半身を起こし、ぽうっと呆けていた。まだ夢か現か意識が定まっていないようだ。といっても、彼女の意識が起ききったとしてもダニエルの現実とは違うのだが。
「……ダニエル」
「どうしたんだい?」
ダニエルが近付くと、こちらに視線が向いたので、様子を問いかけた。
「夢を、視たの」
「どんな夢を?」
「エリアスに羽が生えて、空に飛び立ってしまうの……」
夢をなぞるようにアニカは語る。その表情に悲愴の色はない。
「とても高く、遠くにいってしまうの。私は、それを見送る……、見送るしかできないと知っているの」
追いかけることも、名前を呼んで引き留めることもせず、ただ晴れ渡った空に吸い込まれるように飛ぶ息子の背中をみていた。自分には羽が生えないと夢のなかのアニカは解っていた。すべて解っていたから、抗わなかった。
静かに夢の内容を語る妻に、ダニエルの方が不安を覚える。
「それで、アニカは一緒に飛びたいとは思わなかったのかい……?」
息子だけでなく、妻まで失わないか。それがダニエルには恐ろしく、常に妻の一挙一動に怯えていた。
きょとりとアニカは夫の揺れる瞳を見返す。
「思わなかったわ」
そんな考えなんて浮かばなかった。
「ダニエルがね、隣にいなかったの」
それよりも、夫とともに見送っていないことの方が不思議だった。見送るなら夫とともに。それを当然とするアニカに、ダニエルは瞠目する。
「……そうだね。いつも一緒に見送っていたからね」
息を引き取ったときも、葬式でも、墓へ納棺するときも、妻はずっと息子の名を呼び嘆いていた。肩を支え、泣き崩れるときに胸を貸していたダニエルは、もう息子しか意識になく、自分など何の支えにもならないのだと思っていた。しかし、違った。妻は隣立つ自分をちゃんと認識していたのだ。
哀しみを拭いきれなかったけれど、一人ではないと妻に伝わっていたのだ。
くしゃり、とダニエルは笑う。
「次に同じ夢を視るときは、かならず私もいるよ」
「夢の中なのに?」
「ああ、見送るときは一緒だ」
確か、同じ夢を視るおまじないがあったはずだ。病身のエリアスが一人寝の淋しいときは、そのおまじないを枕の下に忍ばせて、夢のなかで会おうと約束を交わした。あれは何の花だったか。
彼に訊いたら判るだろうか。ダニエルは、妻を見舞ってくれる庭師見習いの少年を思い出す。贈った植物図鑑を熟読しているが、どうしても花言葉だけは覚えられないといっていた彼。花言葉に因んだおまじないだった気はするが、彼なら花の特徴や開花時期で特定してくれそうだ。
「ふふ、じゃあ、また同じ夢を視ないと」
そうおどける妻に、ダニエルは希望を捨てずにいてよかったと思った。哀しみで曇った瞳を前に、途方もない砂一粒のほどの希望をずっと握りしめていた。彼女が生きている以上、自分からは希望を捨てないと決めていた。
夢のなかだけとはいえ、向き合えるようになったアニカの時間は動いている。それが実感できた。
妻の手を握る。その手はあたたかく、命の熱をもっていた。
ゆるやかでも確かな変化を噛みしめていたら、頬が掌で包まれた。
「ダニエル、辛いの……?」
気遣わしげな銅色の瞳に、泣きそうになっていると誤解されたことに気付く。安心させるよう微笑みを作る。
「アニカの辛さに比べたら、ずっと軽いさ」
何年も現実から眼を背けられるほど、ダニエルは自暴自棄になれなかった。どちらかというと早く哀しみから立ち直ろうと努めた。生に対して、妻より強い人間なのだろう。
だから、問題ないと伝えると、アニカは首を横に振った。
「軽いからって辛いのには変わりないわ。辛いことは誰かと比べるものじゃないって、あの子も言っていたじゃない」
アニカが口にしたのは最近の話だ。
普段の調子とは異なる気がして指摘したが平気だと笑った彼は、後日疲労が祟って風邪をひいたそうだ。次に会ったときには、アニカに謝罪をしてきた。ちょっとのしんどいを気付いてくれたのに無かったことにして申し訳なかったと。そして、心配してくれたことの感謝も伝えられた。他の人に比べたら問題ないと、ほんの少しでもあるものを無視しないようにすると約束して安心させてくれた。そう叱られたのだともいっていた。
ふと、小首を傾げる。
「あの子、は……?」
エリアスは、身体が弱い分気丈に振る舞う子だった。今の彼の父親に似て、相手を安心させるために笑おうとする。弱音を吐かない強く明るい子だ。辛さを抱えていても力強く笑う様子に、こちらの方が励まされていたぐらいだ。
では、弱さと向き合うと誓ったのは?
「アニカ……」
自身への負荷へ鈍感なところがあるのは、一体誰のことか。
エリアスは医者からささいな変化も申告するようにいわれていたから、常に体調を意識して、不調に気付ける子だった。気付いたうえでその辛さや痛みを抱えて耐える忍耐強さがあったのだ。
妻が違和感を覚えていることに気付きながら、ダニエルは指摘しなかった。彼女自身がすべてに向き合えるようになるまで、待つのが自分の役割だ。
「そうだね。比べても消えるものではないが、私は失くしてもないのに口にしたくないんだ。だから……、取り戻したときに聞いてくれるかい? アニカ」
そのときがきたら、自分を映す瞳に会えず淋しかった、と彼女に甘えたい。責めたいのではなく、ずっと君と会いたくて堪らなかったのだと伝えたい。
「もちろんよ」
アニカは微笑んで頷く。彼女がこの日の約束を覚えていてくれるかは判らないが、それでもいい。自分が覚えているのだから。
ドアがノックされ、メイドが朝食の支度が整ったことを知らせた。妻が身支度を済ますのを待って、ダニエルは彼女の手を引いて、食卓へ向かう。最近は、朝食も食卓でとるようになった。ベッドから離れる時間がずいぶんと増えた。
食卓への道すがら、ダニエルは食後の予定を提案する。
「あの子と次会うときのために、咲きそうな花を見つけておこうと思うんだけど、アニカも朝食のあとにどうだい? 今度は私が教えてあげたいんだ」
報酬に、と庭の散策を希望する彼は、いつもダニエルに咲いている花を教えてくれる。常緑樹が多く、花が少ない庭だと思っていたのに。垣根の犬黄楊に咲く小さな白い花すら彼はみつける。自身の家の庭だというのに、ときどきしか訪れない彼の方が詳しくなっている気がする。
たまにはこちらから教えてあげたい。
「それはいいわね。きっとあの子が喜ぶわ」
夫の誘いに、アニカも楽しそうだと同調する。彼女の浮かべた喜ぶ顔が、エリアスのものであったかは定かではないが、未来の予定のために行動するようになってくれたのがダニエルには喜ばしい。ひたすらに思い出を振り返り続けていた日々を思えば、ずいぶんな変化だ。
ダニエルはただ蕾が綻ぶときを待つばかりだ。それは、そう遠くないと感じる。
その日の朝食後、ダニエルたちは繊維状の葉に白や青の蕾がついているのをみつけた。庭師に確認すると、ちょうど彼が訪れる頃に開花するだろうとのことだった。
花の名前は開花を知らせたときに、彼へ訊こう。きっと嬉々として教えてくれるはずだ。そうして、アニカと数日後の楽しみを共有する。
庭師の推定通り、彼が訪れた日にその花は咲いた。咲いてから、もともと彼に訊ねる予定だったおまじないの花だと気付く。
ダニエルの予想通り、彼は好きな娘の瞳と同じ色で咲く花だと、すぐさま花の名をあげるのだった。
2025.04.15 23-1話がマンガUP!にて通常更新されました。
単行本5巻の書き下ろしSSから23話の間のどこか。
書き下ろしSSの扉絵にはside04.陽光に因んだ花を描いてくださったり、日芽野先生にはヴィート侯爵家へとても思い入れいただき、ありがたい限りです。
日芽野先生の愛ゆえの解像度の高さがわかる23話を読者様にも楽しんでいただけたら幸いです。








