side26.解答
新しい季節、住み慣れた場所を離れれば、少なからず期待と不安が胸中を占める。
ジーモンも、例にもれず緊張した面持ちで、ドアの前にいた。ジーモン・フォン・アンプロス、男爵家の四男で、この春王立魔導学園に入学する。目の前のドアは、これから自分が住むことになる男子寮の部屋のものだ。
父親の商いの手腕で爵位を得ている家だが、いかんせん家族が多い。平民からすれば裕福な部類だが、爵位を継がなくていい四男のジーモンにかける金は最低限だ。むしろ、魔力量が認められて魔導学園に入学できたのは、彼にとって幸運なことだった。成人後の就職先を得やすい。家を出なければならないジーモンは、その事実があるだけでも不安要素が減る。
しかし、金銭的な問題から寮の部屋は相部屋だ。学園にいるうちに、可能な限りの人脈を作っておく必要があるので、好都合である。そのはずだった。
部屋の場所を寮監から聞いたあとの道すがら、生徒たちが口々に噂するのだ。
狂犬と同室とは気の毒に、と。
なんだそれは、と心中穏やかでなくなったジーモンに、親切か面白がってか二年生の生徒の一人が教えてくれた。なんでも、同室予定の男は、入学当初に貴族令息を何人ものしたのだという。そのうえ、平民だった彼が今年からは侯爵家の人間となったため、いろんな憶測が飛び交っている。唯一彼を御せるとされた公爵令嬢と婚約したから、余計にだ。
ジーモンが入学する前の一年で、かなりの紆余曲折のあった人物が同室と判り、これからやっていけるのだろうかと心配になった。
ノックを躊躇っている間は、どんな恐ろしい人物なのかと想像が膨らむばかりで、これではいけないとジーモンは自身を奮い立たせる。噂も情報源ではあるが、そればかりを鵜呑みにしてはいけない。
噂だけで人柄を決めるのはよくない、と自身に言い聞かせて、ジーモンは自室予定のドアをノックした。
中から返事がしたと思ったら、ほどなくしてドアが開けられる。出てきたのは見上げないといけない背丈の青年で、ジーモンはビクつく。ただ身長があるだけなく、筋肉もついていて体格もよい。しかも、どう見ても自分と一年離れているだけの年齢に見えない。
齢十五に過ぎない少年には、見下ろされる位置に頭があるだけで威圧感を感じた。
「お前、同じ部屋になるヤツか?」
「は……、はじめまして……」
「これから自分の部屋になるのにノックしたのか」
ジーモンが怯えながら挨拶をすると、可笑しそうに大きな手を差し出された。
「俺はイザーク・バ……、いや、フォン・ヴィートだ」
もうノックしなくていいと自己紹介する彼の笑顔は、温厚そうに感じる。その意外さに、張っていた気が緩んだジーモンは、その手を握り返した。
「ジーモン・フォン・アンプロスです」
握る力は強いことはなく、すぐに離される。少し触れただけだが、その手は貴族の手ではなかった。
ドアの正面から脇に避けられ、中に入るよう促される。ドアの前で立ち話を続ける訳にもいかないので、ジーモンはこれから住む部屋へと入る。
部屋の一番奥が寝室となっており、窓を挟んで壁の両脇にベッドがあった。一方にはいくらかの私物があり、部屋の半分は明らかに生活感があった。もう一方がジーモンのベッドだろう。部屋半分には最低限の家具以外、何もない。ただ綺麗に掃除はされていた。
どうやら、イザークは相手の私的空間を侵害しない人物のようだ。部屋の使い方で、それは判った。
「ジーモン」
慣らすために彼は口に自分の名を乗せる。
「呼びやすくて、いい名前だな」
窓から入る陽光が春めいてあたたかだったのもあるだろう。自分の名前を呼びやすいと褒める彼は、陽溜まりのような笑みを浮かべた。
悪い人ではないのかもしれない。ジーモンはそう感じた。
が、その瞬間、ごとりと何かが落ちる音がした。
「先輩、何か落としました、よ……」
彼のズボンから落ちたものを拾って、ジーモンは眼を剝く。それは、金属の輪が四連になっているものだった。
「お。さんきゅ」
拾ってもらった礼をいって、受け取る彼は朗らかだ。しかし、ジーモンの記憶が確かならば、彼が受け取ったものは拳で攻撃するときにその手を保護し攻撃力をあげるものだ。
「いつも、持ち歩いているんですか……?」
「ああ。お守りみたいなモン」
どうしてそんな物騒なものをお守りとして常備しているのか。まさか、必要になることがあるというのか。平然と笑って肯定する彼に、ジーモンは恐怖を覚えた。普段は穏やかでもキレると恐いタイプも存在する。部屋が綺麗に分断されているのも、神経質の表れかもしれない。彼の気に障らないように注意しなければいけないと感じた。
同室の先輩は、ジーモンにとって警戒対象となった。
領域侵害をしてはいけないと決意したジーモンは、部屋の半分、イザークの生活領域には足を踏み入れないよう細心の注意を払って学園生活をはじめた。
入寮後、数日して入学式を終え、ジーモンは本格的に勉学に励む。その間、同室の先輩とは挨拶など最低限の会話のみで、極力関わらないようにしている。彼は早起きらしく、いつも自分より先に起きて、彼から朝の挨拶をされる。相手の気分を損ねてはいけないと思っているジーモンは、きちんと挨拶を返す。
ビクビクとして過ごすのも精神的健康によくないので、相手のことをもう少し知ってみようと思った。しかし、自分から直接本人に話しかける勇気はないので、噂をたどって知っていそうな人物に。
物々しい噂が多いなか、彼と話している一年生を見たという話を聞いた。見かけた同級生に訊くと、それはジーモンと同じクラスの女子生徒だった。
話しかけると、ジーモンはその女子生徒に睨まれた。
「あなたが思っているような人じゃない」
噂で耳にした人物像を伝えると、彼女にそう断言された。
彼女にとっては知人の悪口を聞いたようなものだったのだろう。気分を害してしまったことを、ジーモンは詫びるしかなかった。
自分の眼で確認しろ、と彼女に指摘された。それが恐くてできなかったのだが、彼女の言い分にも一理ある。噂は充分に収集したので、これからは噂通りの人物かちゃんと観察しようと決める。
入学して一週間した日、ほどよく緊張が解け学園生活に馴染みはじめた頃合いだったためか、寝坊をしかけたが、彼が声をかけて起こしてくれた。
朝はどたばたしてしまいちゃんとお礼をいえていなかったので、その日の帰寮後、起こしてくれた感謝を伝える。すると、彼は初めは誰にでもあることだと朗らかに笑う。やっぱり笑うと恐くないな、と感じ、ジーモンはついでに気になっていたことを訊いた。
「先輩はなんでそんなに早起きできるんですか?」
「ああ、コレ」
早起きが得意な理由を訊くと、彼は窓辺においていた黄色い石を持ち上げた。それは黄水晶の塊で研磨されていない原石の状態ながら、充分に値打ちのあるものだ。養子縁組とはいえ侯爵家に入ったはずの彼の持ち物は、ジーモンより質素だ。そんななかで、窓辺に置いてあるそれだけは異色を放っていた。
「コレがいい感じで太陽反射して、いい目覚ましになるんだよ」
朝日の差し込む位置に置き、枕元に反射するようにしているのだという。同室や隣の部屋の人間に迷惑をかけなくて便利だと彼は宣うが、黄水晶をそんな用途に使うなんて聞いたことがない。仮にも宝石である。
「どうしてそんな使い方を……」
「ダチがくれたモンは、ちゃんと使わないと勿体ねぇだろ」
きっと渡した友人もそんな用途にされているとは露とも思わないだろうな、とジーモンは内心ごちた。自分から話しかけた結果、彼の交友関係に謎が深まっただけだった。
友人がいると聞いたが、寮の食堂では一人で食べている姿しかジーモンは見たことがない。校内で見かけるときも、一人か、婚約者の公爵令嬢といる姿がほとんどだった。公爵令嬢といるときの彼の笑みをみると、本当に好きなのだなと判る。噂では経緯について憶測が飛び交っているが、彼が好きな相手と結ばれたことは確かだ。
過去に第一王子との婚約を経験している令嬢だというが、今年入学したジーモンは第一王子と婚約しているときの彼女を知らない。ジーモンの眼には、双方が想い合っている恋人同士にみえる。少なくとも、彼女の今している笑みは彼にしかみせないものだろう。
そんな感想を抱いて、ジーモンは二年の教室を通り過ぎた。
警戒しながらもイザークと同室の生活を続けていると、気を張るに張れなくなっていった。ジーモンが寝坊しそうになったら起こしてくれるし、焼きたてを一人で食べるのもなんだからと手作りのクッキーをくれたりする。ちなみに粗熱をとっただけのクッキーはあたたかく素朴な味がした。曜日によっては作業着のような恰好で遅くに帰ってくるから、理由を訊けば校庭の造園の手伝いをしているという。
寮で彼が勉強している姿をみることがないが、成績は入学から三十位以上を保っているそうだ。いつ勉強しているのかと疑問に思っていたが、図書館などで勉強している姿をみかけ、日中授業のない時間帯にしているのだと知った。勉強しているときは、よく燃えるような赤髪の三年生といた。秀才だと有名な大臣の息子から勉強を教えてもらうとは、彼の交友関係はどうなっているのだろう。
侯爵家に籍をおくだけあり成績は優れて真面目なようだが、普段の言動は他の平民の生徒よりも掴みどころがない。
なんというか、知れば知るほど謎も増えるが、警戒心が削がれる。ジーモンにとって、同室の先輩はそういう存在だった。おそらく、平素から笑っているのが原因だろう。彼が怒っているのを見たことがない。
半年以上が経過し、ジーモンはさすがに噂との乖離具合を認めた。
「先輩、ルードルシュタット先生と噂されてますよ」
「ん? ジーモンって今期風属性とってんのか?」
受けている授業科目を確認され、ジーモンは肯定する。現在、風属性の実技担当の教師が、腰を痛め、現在臨時で昨年の卒業生が講師としてきていた。
その臨時講師が、休憩時間などを合間を縫ってイザークに会いにくるともっぱらの噂だ。実際、この部屋にも何度かすでに訪れている。
「いいんですか?」
「別に。去年もそうだったし、ディアが分かってりゃそれでいい」
恋人以外に誰かと親しい様子がこれまでなかったゆえに、急に親しく接する人物が現れて、一年の間では怪しい関係などではないかと噂されている。嫌ではないかと訊いても、イザークは平然と返した。恋人に誤解されていなければ充分とは、基準がおおらかだ。
「先輩が怒ってるとこ見たことないです」
「そりゃ、怒ることなんて滅多にないからな」
理由がないと彼は笑うが、ジーモンからすれば噂とはいえ彼は悪評を受けることが多い。人によっては、悪評通りに振る舞おうと自棄になっても奇怪しくない状況だ。ジーモンは、怒ってもいいと思う。
「それに、先に怒るヤツがいるからタイミングなくすんだよな」
くすぐったそうに、彼は笑う。それは、彼の恋人だったり、臨時講師だったりだろう。どちらも群を抜いた美人なので、怒らせるとかなり恐い相手だ。
最初にこの部屋で遭遇した臨時講師は、恐かった。同室のイザークの後ろに隠れるほどに。
その咄嗟の行動で、イザークに害意のある人間ではないと証明できたらしく、以降は圧をかけるような眼差しで見下ろされることはなくなった。
イザークは腰掛けていたベッドから腰をあげると、窓辺にある自身の机へ向かう。そこにあったクッキーの載った皿を持ってくる。皿とクッキーの間にはナプキンが敷かれており、粗熱をとるために窓を開けて近くに置いていたのだ。窓を開けていても、部屋にはいくらか甘い香りが漂っていた。
「ん」
「ありがとうございます」
そろそろいい頃合いだろうと、皿を差し出される。ジーモンは礼をいって、皿からクッキーを一つもらった。作成者の彼自身もひとつ取り、それを口にしようとする。しかし、その前に部屋のドアが開いた。
「ザク、きたぞ」
「おー、ニコも食うか」
「食う」
部屋に漂う甘い香りにも勝りそうな色香を纏う青年に、イザークは動揺することなく、平然とクッキーを勧めた。青年は躊躇なく、クッキーに手を伸ばす。甘いものは苦手らしいのだが、イザークの作るものはそこまで甘くないため平気らしい。青年は、彼と噂になっている臨時講師のニコラウスだった。
「コイツにもやったのか」
ニコラウスが、ジーモンの手にあるものを見咎めると、イザークはへらりと笑った。
「ニコが卒業してから、焼きたて一人で食べんの味気なかったから、助かってる」
同室の者がきてよかったと嬉しそうにする友人に、ニコラウスは肩を竦める。本人はそこまで意図していないだろうが、餌付けで懐柔できているなら何よりだ。
「あ、えと、クッキーだけじゃ喉乾くし、お茶淹れますね」
「さんきゅ」
「後輩、オレのも」
「わかってますって」
ニコラウスの来訪には慣れたものの、まだ二人の会話に交じってよいものか測りかねるジーモンは、紅茶の用意を申し出る。それに、イザークは礼をいい、ニコラウスは自分の分も忘れず用意するように指示する。指示されずとも、ジーモンは人数分用意するつもりだった。ただ、食器がちぐはぐになることだけは容赦してもらいたい。ジーモンは二人分のティーカップしか持っていないし、イザークは自身の分のマグカップしかこの部屋にはない。量だけは公平にしようと、ジーモンは気を付けて、紅茶を煎れるのだった。
カチャカチャとした音が、紅茶の香りとともに届く。そんな生活音を耳にし、嘆息がひとつ零される。
「……アイツがいなかったら、オレがこの部屋使ったのに」
「一応先生のニコがいたら、他の生徒がびっくりするぞ」
「卒業したばっかの奴が、教員寮にいる方が変だろ」
「でも、リース先生は卒業してすぐ先生になったって」
「あのクソ真面目は別」
ニコラウスに臨時講師を依頼した人物の名前があがり、彼は眉を寄せる。どうやら異腹兄と同じ生活空間にいることに慣れず、この部屋に逃げてきているようだ。彼の家庭事情を聞いているイザークは、察したものの、苦笑ひとつで済ました。
「後輩、まだか」
「はいはい、今持っていきますっ」
話している間に、クッキーひとつを食べ終わり喉が渇いたニコラウスは紅茶の用意を急かす。ティーセットを盆に載せたところだったジーモンは、零さないように細心の注意を払いつつ、可能な限り最速で紅茶をもってきた。
「でも、実際、リース先生が教職を希望されて、学園側は助かったようですよ。それまで闇属性の教員は、研究職の方を臨時雇用していたので」
「へぇー」
聴こえた話題で思い出したことを、ジーモンは情報として補足する。イザークは、感心しながら、ずぞーと紅茶を飲んだ。
闇属性が適性の人間が教職を希望することはごく稀で、ほとんどが適性を活かせる冒険者や騎士となり、一部が研究職に就き、残りは使うことを避け関係のない職に就くという。第三者からの印象は変わったものの、闇属性の魔力性質は使用者の関心が極端に分かれやすい。精神干渉も可能とする点において、興味を抱く者と、厭う者の二極となり、後人に適切な教育をしようと志す人間はまずいない。
そのため、イザークのクラスの担任を務めるハーゲン・リースは、貴重な人材であった。本人の魔力量が多いため闇属性魔法の使用範囲が国一番広いのではないかと噂されている。学生時分から研究職への勧誘があり、現在も魔術省の研究員からは惜しまれているという。
どこからそんな情報を得たのか、ニコラウスが問うと、ジーモンは現在腰痛で療養中の教師が情報源だと明かした。ニコラウスが臨時講師となった原因である。風属性の実技を担当する彼は、学生の頃からハーゲンを気にかけていたらしい。腰を痛める前、嬉しそうに生徒自慢していたのをジーモンは聞いていた。
「あのじいさんの長話をよく覚えてんな」
彼から実技授業を受けた経験のあるニコラウスの感心には、呆れも含んでいた。実技の授業だというのに、彼は生徒が実技する様子を監督しながらも、卒業した生徒の功績を自慢することで有名だ。ほとんどの生徒がその部分を聞き流して授業を受けている。聞き流したい気持ちも共感できるので、ジーモンは苦笑を返した。
「ジーモンは記憶力がいいんだな。あ、じゃあさ」
イザークは思いつきを口にした。
「俺と話すヤツって、学園でどんぐらいいるか分かるか?」
「婚約者のリュディア先輩とルードルシュタット先生以外でですか? 三年生だと、生徒会長のロイ殿下の頼まれごとをたまにしてますよね。入学式にいたのもその関係だと、ベッカーから聞きました。図書館でベルンハルト先輩から勉強を教わっているところを見かけたのは何度か。二年のコンスタンティン殿下と話していることもありましたけど、あの方は交友関係が広いのでその一環ですかね。あ、このあいだ読んでいた小説は同級生のコルネリア先輩から借りたんでしょう?」
なんとなくで訊いたら、思った以上の情報量が返ってきた。そうして聞くと、自分に知り合いが多いように感じるな、とイザークは感想を持つ。あがった全員が友人かはおいておいて、存外いろんな人物と知り合ったのだと実感した。
「もしかして、噂になってる俺がのしたってゆー相手も知ってたりする?」
「伯爵家のドレース先輩、侯爵家のエーデルシュタイン先輩、卒業した伯爵家のヴィットマン先輩ですよね?」
「合ってんのか?」
「分かんないけど、きっと合ってる」
知っているのは名前だけだと言いながら、すらすらと答えるジーモンに拍手を送っているので、ニコラウスが正否を確認すると、答えを知らない旨がイザークから返った。
解答を知らないのにどうして訊いたのかとジーモンが不可解をあらわにすると、試しに訊いてみただけだとイザークは謝罪した。同室の後輩の警戒が解けるまで、自分の噂を調べていたようだから名前も知っているのではないかと思っただけだったが、本当に知っていた。
後輩の記憶力に感心しているイザークに対して、ジーモンは鳴りを潜めはじめている狂犬の噂を振り返って、ある事実に気付く。本人に確認して、暴力沙汰にはなっておらず未然に防いだだけと聞いている。しかし、裏を返せば未然に防げる身体能力をもっているという証明ではないだろうか。きっと彼は、その気になれば噂を本当にできた。ただ、その気がないだけだ。同室の先輩が温和な人間であることに、ジーモンは内心安堵するのだった。
イザークの感心した彼の記憶力は、家業に由来するものだ。彼の家は、飲食業を主力に財力をもっており、その財力が認められ男爵位を得ている。アンプロス男爵家の営むレストランは、内陸に位置する王都では珍しくメニューに海鮮料理が多いことで人気だ。レストランは、メインストリートと市場通りの間に位置し、メインストリート側の半分は貴族向け、市場通り側は平民向けのメニューと接客を分けている。アンプロス家の子供は、席まで案内する係を手伝わされるので、人の顔と名前を覚える能力が鍛えられていた。
貴族側は一見様お断りというのもあるのだが、平民側は年に一度しか来店しない客もいる。そういった客が自分のことを覚えてもらえていると、店の印象がよくなるのだ。平民には少し値の張るメニューのため、特別な日のご馳走に位置している。
年に一度、結婚記念日に白魚のムニエルを食べにくる老夫婦などは、ジーモンが出迎えるととても嬉しそうに微笑んでくれる。プロポーズしたときに使った席を必ず指定するので、ジーモンは席の位置も覚えてしまった。そろそろ予約が入る頃なので、席の確保を忘れないように、ジーモンは家に手紙を書こうと決める。今年自分は案内できないが、それぐらいはしておきたかった。
ジーモンが就寝前の予定を立てていたところ、ふと銅色の瞳とかち合った。視線に首を傾げると、何をいうでもなくにかっと笑みを向けられた。一応、曖昧に笑い返しておく。
同室の先輩がなんだか満足そうで、それが不思議なジーモンだった。
通常より歳の離れた先輩との生活も、一年が経ち、学年があがる頃にはすっかり慣れた。
部屋割りは一度決まると、余程のことがないかぎりそのままだ。入学当初は、いざとなれば部屋替えの希望を寮監に申請しようと、ジーモンは考えていた。だが、今となっては何故怯えていたのか不思議なほどだ。
恐ろしく平和に学園生活を送れていた。
イザークと直接話したことのない生徒は、いまだに彼を警戒して遠巻きにしてはいる。噂が使えそうなら絡まれたときに利用していい、と本人から許可を得ているが、ジーモンは気の弱そうな外見であるものの絡まれたことはなかった。ジーモンが意図的に虎の威を借りずとも、彼の方から話しかける一人である時点で、充分効果があった。
入学後にできた友人も、噂の人物と同室であることを同情ないし心配して声をかけてくれた同級生ばかりで、人間関係も良好だ。ちなみに、友人らには噂に対する誤解は解いてある。
想定していたより、平穏に学園生活を過ごしているので、残す心配は将来のみである。
「ジーモンって、卒業したらどうすんの?」
「そういう先輩は、就職先決まっているんですか?」
自分に訊くからには、決まっているのかと問えば、イザークは頷いた。今日のお茶は、彼の煎れたハーブティーだ。茶葉は母親のブレンドらしい。すっきりした味なので、ジーモンは勉強のときなどにも飲ませてもらっている。
「公爵様のとこで使いっぱしりしないかって」
「えっ、総括部ですか!?」
三省長を務めるエルンスト公爵から、彼の下に就かないかと誘われているらしい。人手が足りないらしい、と呑気にイザークは構えているが、三省長の眼鏡に適った人間しか就けない少数精鋭の部署だ。通常は各省の者から引き抜かれる。最初から総括部で勤めている者はこれまでいなかったはずだ。エルンスト公爵から、破格の扱いを受けていると彼は気付いていない。
サラリーマンするのは初めてだ、と零して多少は緊張した様子だが、ジーモンにはサラリーマンが何か解らなかった。平民時代に覚えた俗語か何かだろうか。趣味で学園の庭師の作業を手伝っているのも、バイトと謎の呼称をしている。彼は、時々使う言葉が独特だ。
「んで、ジーモンは?」
「うぅーん、まだこれといって決まってませんね。どこかの省の伝手を得て、推薦してもらえれば就きやすいんですが……」
知り合いもそれなりに増えたし、勉学の成績もよい方だ。どこに就いてもそれなりにやっていけるだろう。しかし、すべてにおいて無難すぎて特筆したところがないため、ジーモンは、自身に適した職の方向性を掴みかねていた。
「じゃあ、卒業したら俺の執事にならねぇ?」
「はい?」
「公爵様に、在学中に自分の執事を選んでこいって言われててさ。ジーモンなら、俺が苦手なこと得意だしフォローしてくれそう」
人の名前を覚えるのが苦手なイザークには、人の名前と顔を一致させる能力の高いジーモンが羨ましい。なるべく自身で努力するつもりではあるが、いざというときに手助けしてくれる人物がいれば、社交界でも安心だ。
イザークとしては、以前から彼を気に入ってのことだったが、ジーモンからすれば寝耳に水の話だった。
「え。先輩のって……、僕がエルンスト家に!?」
「うん。そう」
同室の先輩は、卒業後エルンスト公爵家に婿入りすることが確定している。最高位の貴族家に勤められるなんて、男爵家の四男坊には願ってもないことだ。逆に、そんなに良い就職先に内定を決めていいのか、恐れ多くなってくる。
あわあわと挙動不審になるジーモンに、無理をいったかと、イザークは苦笑する。
「ま。もし、他に就職先が見つからなかったときに考えてくれるだけでもいいからさ」
そんなことにはならないだろうと解っていながら、イザークはそう補足する。
ジーモンは、保険にするには好条件すぎると震撼した。自分なぞに公爵家の人間の執事が務まるのか。身の程知らずではないか。そんな不安や緊張も湧いてくる。
「ジーモンには厄介な先輩かもだけど、俺はあんま知らないヤツよりジーモンが執事になってくれたら嬉しいな」
へらりと笑って、そんなことをいう。
イザークという先輩は、こういうところが狡いとジーモンは思う。そんな気の抜けた笑みを素直な感想とともに向けられれば、仕方ないと簡単に決意が固まってしまう。
本当に仕方ない人だと、ジーモンは嘆息をひとつ零した。彼という人物を知って、厄介だなんて感じる訳がない。
「考えておきます」
ジーモンも彼に微笑み返す。
即答こそしなかったが、ジーモンは卒業後、自分はエルンスト家の門を潜っているのだろうと予想がつくのだった。
読者様のおかげで、コミカライズ5巻が発売し、奇跡的に続刊も決まりました。
すべて、皆様の応援があってのことです。モブすらを好いてくださり、誠にありがとうございます。
なろうの読者様は本編既読のため、今回はあえてその後のお話にさせていただきました。
(単行本5巻にちなんだSSは、活動報告などに記載している発売感謝企画側にてご確認ください)
楽しんでいただけたなら、幸いです。








