side25.歩調
ぱん、と軽く手を払われた。
「そんな柔じゃねぇよ!」
その事実に眼を丸くしているうちに、差し出した手を払った相手は自身で立ち上がる。
「ぶつかったのは悪かった。じゃあな」
「いえ、私も不注意でしたか、ら……」
こちらの謝罪が言い終わるより先に、彼は去ってしまった。フローラは去っていく背中が消えるまでその場で見送り、そして、払われた自身の掌に眼を落とす。
廊下でぶつかり、自分の方が先に立ち上がったから手を差し出しただけ。ただそれだけのことだったが、予想外の反応を返されフローラはびっくりしてしまった。払われたときの、不機嫌な表情と挑むような眼差しを思い出す。
彼には気に障ることだったのね。
自分にとっては自然な行動でも、相手は侮辱されたと受け取ったようだ。同世代の集まる学び舎には、生まれや育ちが様々な人間がいる。こういうこともあるのだな、とフローラは納得した。
公爵令嬢のフローラは、蝶よ花よと周囲の愛情を受けて育ったため、先ほどの少年のような態度は初めてだった。家族をはじめ周囲の人々を思い出すときは必ず笑顔だ。入学してからも、親しくなった同級生とは笑い合って過ごしている。公爵家という家柄のため、異性が積極的に話しかけてくることはないが、必要最低限の会話の限りでは皆紳士的だった。
父親譲りの煌めく金糸の髪と母親譲りの桃色の瞳をもつフローラは、可憐な容姿をしており、素直な彼女が笑顔を浮かべると周囲にも伝染する。悪感情をもたれにくい少女だった。
そのため、同世代の少年の反応が新鮮に感じた。
彼は、フローラと同じ緑のタイをしていたから同学年だろう。今後まったく会わないということはないはずだ。次会ったときにどんな反応をみせるだろうかと、フローラは少しの期待をした。
その期待はほどなくして叶う。
「げ」
「こんにちは」
水属性の座学のあと、王国史の授業で先の少年と遭遇した。歓迎していない反応に、フローラはにこやかに挨拶で返す。すると、少年は気まずげに視線を逸らした。
フローラは気を悪くした様子なく、彼の席を通りすぎ、少し後方の席に着いて王国史を受けるのだった。
翌日から、フローラはあることに気付く。廊下でぶつかった少年とよく会うのだ。どうやら選択している授業が似通っているようで、一日のうち一~二コマは同じ授業だった。そのため、挨拶をしては短い赤茶の髪を視界の端に入れて授業を受ける日々が続いた。
彼女が顔を合わせる度に挨拶をしてくるものだから、気まずそうだった少年も無視する訳にはゆかず、次第と短くもぶっきらぼうな返事を返すようになる。
「おはよう」
「……はよ」
その日の授業は一限目が同じだった。少年はいつものように挨拶を返しては、視線を逸らす。だが、その日はなぜか彼女の気配がすぐに去らなかった。それどころか、彼女は自分の隣に腰をおろしたものだから、少年はぎょっとする。
「なんっで、隣……!?」
「席は自由ですよ?」
席が指定ではないことを指摘されれば、少年はぐっと黙るしかない。てっきり、これまで通り彼女が視界から消えたところで授業を受けるとばかり思っていた少年は、教科書を広げはじめるフローラを不可解に見た。
彼の視線に気付いてか、桃色の瞳が見返して微笑む。
「フローラです」
いつからかは知らないが、学園内では家名を名乗らず自己紹介する風潮が浸透していた。平民を受け入れる比率が次第に増えてきたことによるものか、歳の近い兄弟がいた場合に紛らわしいからか。理由は判然としないものの、貴賤の区別がない学園らしい空気の一部として取り入れられている。
教師からの出席確認でお互い名前はとうに知っている。あえて名乗るのは、知り合おうという意思表示だ。授業が被りやすいのであれば、気が合う相手かもしれないとフローラは彼に興味をもった。公爵家の彼女から乞われて、伯爵家の彼が断れる訳もない。
「……アントンだ」
アントンは渋々と名乗り返したのだった。
それから、フローラは座学のときは必ずアントンの隣に座るようになった。
ゆったりと移動するフローラと違い、アントンは必ず先に着席していた。授業を受けるときもまっすぐに教師を見つめているので、態度こそぶっきらぼうなだが彼は勤勉なようだ。
ただ隣になるだけで、会話はほとんどない。授業開始前と後に挨拶を交わす程度だ。授業中は二人とも真面目に受けているため、私語もない。廊下ですれ違えば挨拶はする。友人ともいえない関係だった。
ある日のこと、フローラは王国史の授業をする教室にほんの少し早く着いた。いつもより意識して歩調を速めてみたのだ。あくまで、令嬢としてはしたなくない範囲で、だが。
そのほんの少しの違いに彼が気付くだろうか、という興味本位の思いつきだ。フローラはわくわくと心を弾ませ、教室のドアに手をかけた。そうして視界に入ったのは、彼女の定番の席に誰かが座ろうとしているところだった。
予約している訳でもないので、当然他の同級生が座る可能性は充分にあった。それでも、フローラにとっては予想外のことで、思わずあ、と声がでそうになる。
「悪い。あとから来るんだ」
座ろうとした同級生に、アントンはそう断りを入れた。なにげなく座ろうとしただけの生徒は、了承して友人らと別の席に着いた。
その一連をみて、驚く。約束も交わしていないのに、彼は自分がくることを当然としていた。もしかすると、これまでものんびりくるフローラのために先ほどのように席を確保していてくれたのかもしれない。そう思うと、嬉しさが頬に滲んだ。
先ほどのことに言及せず、フローラは教室に入り、アントンに挨拶をする。挨拶を返したアントンは、一瞥をくれるだけのところを、怪訝にフローラを見る。彼女が異様に嬉しそうだった。
「なんだ……?」
「なんでもっ」
彼女の機嫌のよさに、アントンは首を傾げつつもそれ以上は何も言わなかった。彼女がなんでもないというのだから、自分に話すほどのことでもないのだろう。そもそも友人でもないのだから、追及する必要もない。
隣の嬉しげな気配を感じつつ、アントンは嘆息ひとつ零して授業に臨んだ。
王国史の授業が終わったあと、片付けようとするアントンにフローラは声をかける。
「アントン君って、字綺麗ですよね」
フローラは、彼の閉じかけたノートに眼を落とす。そこには流麗な筆致が走っていた。文字もそうだが、内容も整理されていて、見やすい。読み返すことを考えられた控え方だ。
感心しきった様子のフローラから、中身を隠すようにアントンはノートを閉じる。そして、ぼそりと呟いた。
「……ユリアンが」
「ユリアン?」
「孤児院いたときにきていた犬が、字の綺麗な奴に懐いてて、それで……」
隠すほどのことでもないと、字を練習した理由を明かすもアントンは少しばかり気恥ずかしくなる。幼い頃のこととはいえ、犬に好かれたかったという幼稚な理由だ。
しかし、フローラは馬鹿にすることなく、純粋に眼を丸くする。
「字を見比べることができるなんて、とても賢い犬だったんですね」
「ああ! ユリアンはすっげぇ賢いんだっ」
すかさず肯定してしまい、アントンははっとする。フローラは、初めて喜色満面の彼の笑顔をみて、少なからず驚いていた。笑うと彼は少し幼くみえるのか。
アントンは表情を引き締めるため、口元に拳を当てた。話を逸らすための話題を探し、開いたままの彼女のノートに気付く。
「あんたは、何かまるっこいな」
手癖なのか、教本にある基本の書体と比べると全体的に丸みのある文字だ。癖が出ていると自覚があるフローラは、慌ててノートを閉じ、胸元に抱え込んだ。
「アントン君の字と比べないでください」
恥ずかしさから拗ねたような言い方になってしまった。その様子が可笑しかったのか、アントンはくつくつと喉を鳴らす。
「あんたらしい可愛い字でいいじゃねぇか」
笑ったら、フローラの頬の羞恥の度合いが増してしまった。悪気がないことを伝えるため、アントンはそう言葉を補って席を立つ。じゃあな、と別れの挨拶をした彼に、呆然としながらもフローラは挨拶を返した。
思いがけないところで褒められた。彼の口から、可愛いという言葉を聞くとは思っていなかった。
「褒められちゃいました……っ」
今度は嬉しさに頬を染め、フローラはノートをぎゅっと抱き締める。これまでより、自分の字が好きになれそうだ。
くすぐったい想いを抱えながら、フローラも次の授業に向かうのだった。
その日を境に、少しだけ会話の量が増えた。
会話する機会が増えた分だけ、二人は相手のことを少しずつ知ってゆく。
疑問を投げかけるのはフローラの方が多かったが、アントンは律儀に答え。彼もたまに気になったことを彼女に訊いた。
「アントン君は、どうして王国史をとったんですか?」
「……なぁ、その君付けやめねぇか」
居心地が悪そうにアントンは提案する。フローラはきょとりと彼を見返す。
「どうしてです?」
「今は伯爵家にいるけど、もともと庶民だし、あんたに丁寧な言葉遣いされるとぞわぞわするってゆうか……」
アントンは魔力量の多さを認められ貴族に養子縁組された子供の一人だ。そういった子供は彼らの世代では特に珍しいことではない。貴族としての教養も受けているとはいえ、アントンは平民のなかでも孤児院出身なので、公爵令嬢のフローラに丁寧な態度をとられるのはなんだか落ち着かない。
言葉を交わす機会が増えたので、アントンは彼女に持ちかけた。
彼の提案に、フローラは少し思案したあと、ぴんと人差し指を立ててみせた。
「じゃあ、私もあんたじゃありません」
交換条件の真っ当さに、アントンはうっと怯む。
令嬢への対応の仕方は知ってはいても、貴族の教養を受けてから家族以外の女性とほとんど話したことがないアントンは実践の経験が少なく、令息としての態度に不慣れであった。フローラとは出会い頭の自身の対応が悪かったため、態度を改める機会をずっと逃し続けていた。しかし、最近は会話の回数も増え、そうもいっていられない。
アントンは、交換条件を飲むことにした。
「……フローラ嬢」
「名前だけでいいよ、アントン」
「エルンスト……」
「どうして遠くなるの」
むぅ、と頬を膨らませ、呼称で距離をとられたことにフローラは不服を申し立てる。
友人ともいえない微妙な間柄だというのに、令嬢の名前を敬称なく呼んでよいものかアントンは悩む。しかし、不満の眼差しを今まさにひしひしと受け続けており、断るのは困難だ。しばらくの逡巡ののち、アントンは観念した。
「フローラ」
これでいいか、と確認すると、フローラは満足そうな笑顔で頷いた。
「それで、どうして王国史?」
お互いの妥協点を得たところで、話題を戻す。王国史は人気のない授業だ。平民の学生は共通科目の基礎歴史のみで満足するし、貴族の生徒は学園に入るまでに社交に必要な分は学んでいる。そのため、王国の歴史を振り返ったり、さらに詳しく学ぼうとする生徒は少ない。フローラが席を自由に選べたのも、席が空きすぎていたためだ。
フローラの疑問に、アントンは答えるのを躊躇う。きっと他の人間からしたらくだらない理由だ。けれど、これまでのやり取りで、彼女が他人の答えを馬鹿にするようなことはないと知っている。彼女になら知られても問題ないと判断した。
「姉貴の……、嫁ぎ先のことちゃんと知っとこうと思って」
「え?」
「俺の養子先、ヴィッティング家」
そういえばちゃんと彼の家名を聞いたことがなかったと、フローラは今さらになって気付く。そして、ヴィッティング伯爵家は、フローラもよく知っている。何せ、姉の友人の家だ。姉の友人の一人であるシュテファーニエは、学園卒業を機に王太子と認められた第一王子のロイと結婚し、王家に嫁いでいる。つまり、未来の王妃だ。
「ファニーさんの言っていた生意気な弟って、アントンのことだったの!?」
「姉貴、そんな風に俺のこと言ってたのか」
驚くフローラの言葉に、アントンは姉が包み隠さず友人に明かしていたことを知る。生意気だったことは否定しない。事実だ。しかし、自分には友人の妹がひたすら可愛いと言い倒していたのに、ずいぶんな扱いの差である。
アントンがあまりにも平然としているので、フローラは彼が姉同士が友人であることを知っていたと気付く。
「気付いていたなら、教えてくれればよかったのに」
「なんで。又聞きでしか知らない奴なんて、知らないのと一緒だろ」
「そうかもしれないけど」
フローラはなんだか狡く感じる。つながりが最初からあったのなら、知りたかった。そうしたら、もっと早く親しくなれたかもしれない。少しだけ損をしたようで、フローラは残念だった。
「んなことで、ごねんな」
仕様がないとでもいうように、アントンはぽん、と彼女の頭に手を置いた。
その自然な動作に、フローラの動作が停まる。
彼女の反応をみて、令嬢に対するものではなかったとアントンは気付く。フローラが口調をくだいていたので、つい孤児院の頃と同じ対応をしてしまった。孤児院にいた頃は、年齢がさまざまな子供たちがいてお互いの面倒を見合っていた。誰かが落ち込んでいたら、気付いた者が慰めるのが常だった。
「わり」
「ううん」
アントンが謝罪をしながらおそるおそる手を離すと、気にしていない旨の返事が返った。そのことに少なからず安堵し、次から気を付けようと彼は自戒をする。
フローラは、小さい頃から頭を撫でて褒められるのが好きで、彼の手がすぐ離れたことが残念に感じる。しかし、家族ではない彼にもっと撫でてほしいともいえない。こんなことなら、手が置かれたときに動揺などしなければよかった。
質問には答えただろうと、アントンは席を立ち、次の教室へと去っていった。
別れの挨拶をしてから、フローラは頭に手をあてる。同じ個所に触れたとしても、感触が残っている訳ではない。けれど、触れたときの感覚を想起させるには充分だった。
家族にはよく撫でられた。母や姉の柔らかく優しい手、父の繊細に扱う撫で方、姉の夫である義兄の大きな手でわしわしと撫でられるのも好きだった。そう、フローラは異性の手がどういうものか知っているのだ。
けれど、自分が思ったより動揺してしまった。
掌が往復もしない、ただ置かれるだけの軽い撫で方だった。アントンの手は、義兄ほど大きくも無骨でもない。それでも……
男の子の手だった。
そんな実感に心が揺れた。
昼食のとき、アントンは友人に訊かれた。
「フローラ嬢と知り合いって、本当か?」
「知り合いってほどじゃねぇよ」
授業が被りやすい分話す機会があるだけだ、とアントンは返す。自分も王国史などをとっていればよかったと悔いる同級の友人をみて、共感できないアントンは口を閉ざした。授業科目は、参加する人間ではなく自分の学びたいものを選択すべきだ。そう思うも、友人らはそんな真面目な返答を今求めていないのだ。
不自然な沈黙にならないよう、アントンは自身の昼食を口に運ぶ。
「けど、彼女の方から声かけてもらえるんだろ?」
「いいよなぁ」
どうやらフローラは、同学年のなかで群を抜いて男子の人気があるらしい。少し話す機会が多くなっただけの自分までやっかみの対象になるとは、相当の人気なのだとアントンは知る。
アントンも、彼女が可愛らしい事実は認めている。隣の席で距離が近くなれば、自然と顔を眺める機会もある。彼女の場合、容姿だけでなく仕草や表情にまで愛らしさが滲むので、愛嬌が具現化したような存在だと認識している。当人は分け隔てなく接することのできる人物だが、公爵家であることと、彼女の父親が娘を溺愛していることが周知の事実のため、男子生徒はおいそれと近づけないでいる。
「姉同士が親しいだけだ」
友人らが納得する理由をアントンは提示して、これ以上やっかみを言われないよう防ぐ。きっと彼女は単に授業が被りやすい相手だから親しくなろうとしただけだが、それすら特別に映るならそれらしい理由を作るしかない。
「お姉さんが王太子妃だもんな」
「アントンが王族の親族って変な感じ」
「そりゃ、当たり前だっつうの」
友人らの物言いに、血がつながっていないからだとアントンも軽く笑い返す。
孤児院出身であることは恥ずべきことではなく、王族と縁があることは驕ることではない。家族と血のつながりがないことも憂慮するものではない。すべてはアントンにとって、事実でしかなかった。
友人らは、魔力量の多さで平民から貴族になったことで自分を卑下したり、家族に王族とのつながりがあることで諂いもせず接してくれる。アントンの事情をただの事実と扱うから、感覚の違うところがあっても友人らといるのは居心地がよかった。
アントンのように魔力量で養子縁組された令息だったり、貴族ながら差別意識がなかったり、平民でも能力重視で相手をみたりと、友人らはいずれも気安い人物だ。貴賤を区別しないという学園の校風を、彼らは最大限に活用している。
自分の背景を理由に近づく人間を相手しなかったら、自然とこうなった。
多くの者には口数が少なくとっつきにくいとされるアントンだが、親しい友人の前では普通に笑い喋る年相応の少年となる。食堂での歓談は、彼の心地よい時間の一つだ。
その日、アントンはフローラとの妙な縁が他人に羨まれる状況なのだと学んだ。
火属性の実技授業でも、フローラとアントンは同じだった。
王立魔導学園では、適性属性以外も自由に選択して受けることができる。そのため、フローラは一年の間に学ぶ属性を、適性である水属性ともっとも苦手な火属性にした。アントンは適性属性が真逆で、火属性だ。しかし、水属性の授業でも会うので、彼も苦手だからこそ学ぶ意欲が湧いたのかもしれなかった。
「アントン、一緒に組まない?」
二人一組で実技をするように教師に指示され、フローラは一番に彼に声をかけた。すると、アントンはとても渋い表情になった。
「別の奴にしろよ」
「でも、もう他の人たち組み終わっちゃったもの」
二人が話している間に、他の組は決まってしまっていた。必然となってしまった状況に、アントンは舌打ちする。一緒に組めることを喜んでいたフローラは、彼がなぜそこまでの反応をみせるのか解っていなかった。
実技の内容は魔力制御の訓練で、お互いが向かい合い、同じ大きさの炎を螺旋のように回すというものだ。この場合、火属性に対する魔力量の出力が少なくなるフローラの出す炎の大きさに、アントンが合わせることとなる。炎の大きさを維持して、お互いが息を合わせて炎を操作しなければならないので、魔力制御の精度をあげるには効率的な訓練だ。
フローラが唸りながら、操作する余力を残してだした炎は蝋燭の灯火より一回り大きいかというものだった。アントンは、眉を寄せながら彼女と同等の大きさの炎をぽっとだす。
適性属性で得意科目であるはずのアントンが、眉を寄せるのをフローラは不思議に感じる。魔力量が多いために、かえって小さい炎をだす方が苦手なのだろうか。
「ゆっくりでいいぞ」
「う、うん」
適性と真逆の属性を扱っているフローラには負担が大きいと解っているアントンは、彼女の操作に合わせる旨を伝える。ふるふると震えながら、フローラの炎がくるりと二人の間を回りはじめる。ワルツの拍子を脳内で刻みながら、慎重に炎を操るフローラと違い、アントンの炎はすんなりと彼女の炎と対称になる動きをする。眉根が寄ったままなのが不思議なほどに、彼の炎の動きは滑らかだった。
しばらくして、炎のワルツに慣れてきたフローラは、渋面のままのアントンを気にする。どうしても寄った眉間に視線がいくので、彼の炎より赤い紅玉の瞳が視界に入る。心配とは別に、その紅に見惚れてしまう。
「アントンの瞳って綺麗ね」
炎の操作に余裕がでたきたところだったので、思わず感想がそのまま零れた。
「俺は、こんな色好きじゃない」
「え」
ただでさえ渋面だったアントンの表情が、さらに歪んだ。思いがけない彼の反応に、フローラは動揺する。こんな表情をさせたかった訳じゃない。
その動揺が、彼女の炎に如実に表れた。炎は制御を失い、ぐらついたと思ったら、フローラの方に向かって動きだした。
「あ……、わ……っ」
小さな炎とはいえ、自分に向かってくることに驚いて、動きを止めようにも制御し直しが効かない。自分でだした炎なのに、とフローラは混乱した。
炎が眼前に迫った瞬間、フローラはもう駄目だと思った。しかし、伸びてきた手がその炎を握りつぶした。
「……っち」
素手で炎を消したアントンは、痛みが走ったのか苦悶のような声を洩らした。
「アントン!?」
フローラは慌てて彼に駆け寄る。自分のせいで彼が怪我をしてしまった。狼狽える彼女に対して、アントンは冷静だった。
「早く医務室に……!」
「こんなもん、冷やしとけば大丈夫だ」
言うなり、水魔法を発動させて自身の掌を冷やす。不得意な属性でも、魔力量の多いアントンは火傷を冷やすぐらいの水はだせるのだ。
「ちゃんと治療しないと、痕が残るかもしれないでしょっ」
フローラの叱責に、アントンはびくりとした。フローラは、教師に怪我をした旨を報告し、医務室へ向かう許可をとる。そして、有無をいわさず彼をつれて医務室へと向かった。
アントンが医務室で治療を受け終わるのを見届け、ようやくフローラは安堵する。
「ごめんね。操作下手なのに、私がおしゃべりしたから」
私語をせず真面目に授業に取り組んでいれば、と悔いて、フローラは謝罪する。しかし、彼は首を横に振った。
「いや、俺の対処が悪かっただけだ。俺の炎に取り込むとか他に安全な方法がいくらでもあった」
適性属性の魔法なので、落ち着いて考えればいくらでも対処方法は浮かぶ。あの瞬間、アントンは冷静さを欠いていた。
肩を落とす彼をみて、フローラはなぜそこまで自身を責めるのか疑問が湧く。フローラに非があるはずだというのに、彼は責めない。普段の彼なら、気をつけろと注意ぐらいはしそうなものだ。そういえば、彼は自分が一緒に組もうと誘ったときから様子が変だった。実技の間、ずっと渋面だったことと何か関係があるのだろうか。
気になりはするも、言及してよいものかフローラは悩む。
しかし、言わずとも表情にでていたのか、アントンが小さくだが苦笑した。
「……俺、火使うの苦手なんだよ」
得意不得意とは別に、適性属性の魔力を扱うことがアントンは苦手なのだと、明かす。
「親に捨てられた原因だから」
アントンは先天的に属性発現した子供だった。そのうえ、魔力量が多かったので、赤ん坊の頃は泣くと適性属性の魔力を発動させることも多かったらしい。
小さな子供のだす小さな炎、近くにあるものを多少焦がす程度の威力で火事などの大事になることはなかったが、一番に被害を受けたのは母親だった。一番近くにいたのだ。火傷を負うのは日常茶飯事のこと。
記憶にある生みの母親は、いつもどこかに火傷をしており、怯えた眼差しをしていた。顔には小さくひきつった箇所があり、貧しかったので化粧で常に隠すことなどできなかった。
そんな母親の顔しか覚えていないアントンは、父親がいたかを覚えていない。貧しい家だったので、父親は働きづめだったのかもしれない。魔力の多い子供の扱いなど、平民の親が知るはずもない。親の手に余ったアントンは、三歳になるかならないかで孤児院に預けられた。今思えば、その歳までよく育てたものだ。
最後の日の母親は、顔のどこにもひきつった痕がなかった。アントンに非はないのだと、精一杯の笑みを浮かべていた。
誰に責められずとも、物心がつくにつれて、アントンは自身の魔力が原因だと理解した。だから、親との血のつながりすら塗りつぶす自身の赤みを帯びた髪も、真っ赤な眼も嫌いだった。
孤児院に預けられる頃には魔力暴発も収まっていたので、普通の子供として育てられた。幼い頃は、男らしさや強さにこだわることが多かったが、誰にも迷惑をかけずに一人で生きてゆきたいという気持ちの反動だったのかもしれない。
世話になっている孤児院の食費が少しでも浮けば、と紫陽花の品評会に参加した際、赤い紫陽花が咲いた。丁寧に育てた紫陽花は優勝し、パン一年分の食料を確保したが、おまけで貴族の養子縁組の話まできた。
暴走しないように魔力制御が習得できるというので、アントンは二つ返事で養子縁組の話を受けた。もう誰も傷付けたくなかった。
貴族としての教養に伴って、魔力の扱い方も教わることができた。それでも、火属性の魔法を使うときだけはずっと不安がついてまわった。だから、入学して最初に学ぶ属性は、適性だが苦手な火属性と、その対処がとれる水属性を選んだ。
フローラに組もうと誘われたときも、万が一にでも魔法で彼女を傷付けないか不安で、組むことを渋った。彼女の炎が制御を失ったときも、彼女以上に焦ったのはアントンだ。火傷の痕の指摘をされたときも、自分に痕が残ってしまったら彼女が気負ってしまうのではと心配になった。
母親の怯えた眼差しと肌に残る痕は、ずっと忘れられないだろうと、アントンは思う。
詳しく語るでもなく端的に述べた理由に、彼女はどう反応するのか。できれば、汚れなど知らないような心優しい彼女が泣いていなければいい。
そう願い、アントンはフローラの方を見遣ると、彼女は泣いていなかった。そのことに、内心安堵する。
「……苦手なことも頑張るなんて、アントンは本当に頑張り屋さんなのね」
憐憫の色もなく、桃色の瞳がまっすぐにアントンを認めた。彼女の発言は、もともと認識していた事実を再認識したものだった。彼女のなかで、自分は努力家と認識されていたらしい。
同情を買いやすい情報だと、アントンは自身の生い立ちをあまり言わないようにしていた。フローラには隠すほどのことではなかったので明かしたが、恵まれた彼女に憐れまれる可能性を充分に覚悟していた。憐憫を受け流そうとしていた覚悟が杞憂に終わり、アントンは拍子抜けする。
「この世の綺麗なもんを凝縮させたら、あんたみたいなのになるんだろうな」
彼女に人間味がないとは思わないが、愛嬌だけで物事を乗り切る柄でもない。彼女の周りには本当によい人間ばかりがいるのだろうと窺えた。フローラは、自分が出会った人間のなかで、一等に清廉潔白な人物だとアントンは理解する。
治療をちゃんと受けてよかった。自分に痕が残っては、彼女に同じ想いをさせるところだった。
アントンにとっては腑に落ちた感想でも、彼の心情を知らないフローラには脈絡のない呟きだった。彼の言葉を理解するのに、フローラは数秒を要した。もしかしなくとも、とんでもない褒められ方をされたのではないか。じわじわと頬が紅潮してゆく。
「あ……、あんたじゃないもんっ」
「そうだったな。フローラ」
フローラがどうにかできたのは、呼称の訂正だけだった。
多くを語ろうとしない彼が自分には少しだけ事情を明かしてくれた。それがフローラには、とても喜ばしかった。一歩分、彼に近付いた気がした。
あと何歩進めば、彼の傍にたどり着くのだろうか。ふと、そんな疑問が湧いた。
ある日の授業中、フローラは困ったことに気付いた。
隣には真面目に授業を受けるアントンがいる。彼の向こうには窓があり、天気のよい快晴だった。陽に透けて、彼の短い髪の赤が抽出されたようにみえ、青空との対比で映えた。紅玉の瞳も、ノートから顔をあげた瞬間にちらと煌めく。
綺麗だ、と思う。
そう感じてから、フローラははっと我に返る。彼は自身の容姿が嫌いらしいのだ。彼が嫌う身体的特徴を綺麗だと感じるのは、なんだか悪い気がした。
しかし、どんなに気を付けても、綺麗に感じる瞬間はこうして頻繁に訪れる。彼の意に反した心の動きに、日ごと、罪悪感が増してゆく。フローラが困っているのは、彼に見惚れる自身にだった。
よほど弱り果てていたのだろう。アントンが彼女の様子に気付き、王国史の授業が終わると、珍しく彼の方から声をかけた。
「どうした?」
心配をかけてしまったことも申し訳なく感じ、フローラは眉を下げる。
「アントン……、ごめんなさい」
一体何を謝られているのか解らないアントンは、首を傾げる。彼女に謝られるようなことをされた記憶はまったくない。彼女は何をこんなに申し訳なく感じているのか。
「私、どうしてもアントンの髪や瞳の色が綺麗だと思っちゃうの……っ」
「はぁ?」
美形の類いでもない自分に、綺麗という表現を使われ、アントンは困惑する。真摯な眼差し見上げてくるから、彼女が冗談を言っている訳ではないと解る。言葉の真意を理解しようと、少しばかり思案し、どうやら彼女が自分の色を気に入っているらしいと気付く。そして、自分が嫌っている色だから申し訳なく感じているようだ。
まさかそんなことで謝罪を受けるとは、予想外だった。
「フローラの眼には、なんでもよく映るんだな」
彼女の眼を通した世界は、さぞ綺麗なのだろう。自分まで美化されアントンは、呆れを通り越して感心してしまう。相手の長所を見出すのが彼女の最大の長所だ。
「なんでもじゃないよ……っ」
本心だと訴えるフローラに、彼女の言葉を疑っている訳ではないとアントンは伝える。ただ二人の感性が違うというだけのことだ。
「俺は他人にどう思われようと気にしない。だから、勝手にしろ」
「嫌じゃないの……?」
「別に、嫌じゃない」
良く思われるのは滅多にないので、慣れないが、嫌悪感はない。自分の好きに感じていいと許可をもらえ、フローラは喜ぶ。彼女は家族に愛でられて育った。特に父親は相手の美点を本人に伝えるのが常の人間で、フローラたち家族に対してそれが一番顕著だった。そんなものだから、フローラ自身もよいと感じたことは、なるべく相手に伝えたがる性分を持っていた。
「じゃあ、私がアントンの髪や瞳の色が好きだって言い続ければ、アントンも好きになるかな?」
彼を綺麗だと感じる瞬間はいくらでもある。それを都度伝えることはフローラには容易い。むしろ、伝えられるなら伝えたい。そして、そうすることで彼の中の印象が好転するなら、なおよい。
妙案だと思ってフローラが提案すると、アントンは一度固まった。
「思うのは勝手だが、わざわざ言うな」
「なんでー!?」
提案を却下され、フローラは残念がる。思わず、不満の声がでた。
「さすがに、それは勘違いしそうになる」
「何を??」
「絶対教えない」
彼女が解っていないのなら、教える必要はない。理由が解らないなら、彼女に他意がないということだ。身体的特徴を褒めているだけだと理解していても、何度も言葉を浴びれば自意識過剰になりそうだ。自分だけが思い違いをする危険を、アントンは避けたかった。
フローラの提案を受け入れたら、と想像するのは容易だ。彼女のような愛らしい少女に、好意の言葉を言われ続けて平気な男子はいない。アントン自身もそうだ。
彼女の惜しみない親愛に侵されて、自惚れてしまいそうになる。
親愛には親愛で返したい。
彼女の望む距離感を保とうと、アントンは決めていた。
入学してから、二人が言葉を交わすようになって数か月が経つと、一学期が終わろうとしていた。
クラスも違うフローラが、アントンが一番よく話す女子生徒になっていた。思えば、初対面の態度が悪かったことでかえって彼女の関心を買ってしまうとは妙な縁があったものだ。異性に好意を向けられやすい彼女には、自分のような態度の人間の方が気が楽なのだろう。
「最近、フローラ嬢とはどうなんだ?」
「どうって?」
「なんか進展とかないの?」
こうして昼食のときに、友人から関係の変化を期待されるほどにフローラという少女は魅力がある。特に変わりない旨を伝えると、友人らはあからさまに残念がった。友人からすれば、女子生徒と話す自分が珍しいので気になるのだろう。それに、思春期の興味が加われば、定期的に邪推されるというものだ。といっても、何もないと返せば引き下がるので、悪意のない邪推である。
アントンの素っ気ない返答に、友人らは呆れる。
「学園にいる間が一番チャンスだから、大概の奴が好みの女子と近付こうとするってのに……」
「アントン、このままじゃ恋人もできないぞ」
「俺は、父さんの家が継げるなら、政略結婚でも」
「お前の両親が政略結婚の話なんて持ってくると思うか?」
学園に入る前から親しくしている友人の指摘に、アントンは沈黙する。
「…………あり得ねぇな」
彼の両親を知っている友人のいう通り、想定しようにも失敗に終わるだけだった。むしろ、アントンが政略結婚をしようとしたら、好きな相手と結婚しろ、と双方から叱られそうだ。
アントンの両親であるヴィッティング夫妻は仲がいい。しかし、それは相思相愛と有名なフローラの両親とは意味合いが異なる。二人の親密さは、意気投合と表すのが適切だ。お互いが亡くした伴侶に操を立てている。二人の二度目の結婚は、周囲を黙らせるためのもの。愛情深いが故に、同志となった両親だ。
今もずっと愛しているので、当たり前のように二人とも亡き伴侶の話をする。自分に会う前に亡くなった人物であるのに、両親の愛する人たちを、知っている人のように感じる。考えてみると不思議な話だが、アントンにはそれが普通のことだった。
「まぁ、養子とってもいいしな」
「独身宣言早すぎねぇ?」
「お袋に殴られるより、マシ」
考えてみるも、アントンには目の前の勉学に努める以外の余裕はなかった。誰かに恋焦がれる自分は、想像もできない。嘆息とともに諦めを零す彼に、友人らは諦めるのが早すぎると忠告する。しかし、愛のない結婚をしようものなら、父親のヘルマンは悲しむだろうし、母親のナディヤは怒るのが眼に見えている。拳で語るなら普通は男親だろうが、アントンの家では女性の方が気が強い。
アントンは、当初別の家で養子縁組をされていた。しかし、その頃のアントンは独り立ちをすることに拘りすぎていて、養子先と折り合いが悪かった。面倒をかけないように、なんでも自分一人でしようと躍起になり、かえって手を焼かせてしまっていたらしい。手に余るアントンを代わりに引き受けてくれたのが、今のヴィッティング伯爵家だ。
初めの養子先の人たちも悪い人ではなかった。むしろ、優しすぎるくらいだった。だから、次のヴィッティング伯爵家も、他家で手に余った子供を仕方なしに受け入れるぐらいに人がよいのだと思っていた。面倒を押し付けられ不憫な家だと感じたし、行動が空回ってその面倒になってしまった自身が情けなくて不貞腐れていた。可愛げなど微塵もなかったことだろう。
誰にも頼らず一人で頑張る、それ以外の方法を知らなかったアントンは、二度目の家でも同じ轍を踏んだ。ただヴィッティング家では反応が違った。家庭教師が付いて、魔力操作の基礎を学んだアントンは与えられた課題以上に修練を積んだ。邸の外の人目につかない場所で、天候にかかわらずひたすら練習をしていたものだから、ある日、熱をだして倒れた。次に目覚めたときはベッドのうえで、養父と義姉が心配そうに自分を覗き込んでいた。そして、養母の眼差しだけが怒りに燃えていた。
いい気になるな、と平手を食らった。
まだ熱があるからと、養父が慌てて妻を取り押さえた。義姉も熱が引いてからにしようと、自分の母親を説得する。熱に浮かされながらも、アントンはびっくりした。
なぜあんなに怒っているのか不思議に思いながら、一晩発熱に魘された。翌日、養母からこんこんと説教され、独り善がりな行動がどれだけ心配をかけていたか思い知らされた。自分に怯えたり遠慮する母親しか知らなかったアントンは、愛情でもって挑んでくる母親もいるのだと衝撃を受けた。
アントンは、ヴィッティング家の人々に家族の在り方を学んだ。
両親が自分に愛情を注いでくれたように、自分も血のつながりに関係なく家族には愛情をもって接したい。話の流れではあったが、結婚に拘らず家族を持つことは、妙案に思えた。
友人らは、諦観の早すぎるアントンが心配になった。いい奴なのに、と残念に思う。あと、普通に一緒に女子の好みなどで盛り上がりたい。なので、これからも彼が唯一交流をもつフローラを話題にあげようと決意を固める。
アントンは、そんな友人らのお節介が発動しているとは知らずにいるのだった。
一学期の終わり、期末試験の期間に入った。
勤勉なアントンも、真面目に授業を受けているフローラも、慌てることなく粛々と試験をこなしてゆく。むしろ、アントンは単位を落としそうで怖いと友人の一人に泣きつかれ、彼の試験勉強を手伝っていた。
選択している科目が似通っていたため、二人の最後の試験は王国史だった。日頃から手を抜いていないとはいえ、試験を受けている間は少なからず空気が張り詰める。終了の合図がした直後、二人ともそれぞれに脱力した。アントンは両腕をあげ伸びをし、フローラは張っていた肩の力を抜いて溜め息を吐いた。
「お疲れさまぁー」
「やっと終わったな」
生徒たちが解放感から席を立ってゆくなか、二人は互いを労った。成績を競い合っている訳でもないので、解答で悩んだ箇所をお互い相談しあう。正確な解答は、採点結果が返却されるまで判らないが、歴史はほとんどが暗記となるのでお互いの記憶を持ち寄れば正答にたどり着く。
あとは帰るだけで、移動教室などで時間制限がされることはない。そのため、お互いが納得のゆくまで答え合わせをすることができた。
二人が答え合わせをしている最中、アントンの友人らが試験明けの打ち上げに誘おうと教室を覗いた。だが、真面目に話し合っている二人は気付かず、その様子を確認した友人らは声をかけることなく去ることにする。せっかくのんびり話せる機会なのだ。たまにはアントンにもこんな時間があってもいい。打ち上げは、アントンが男子寮に戻ってからでもできる。
友人らに生温かい眼差しで応援の念を送られていたが、アントンは知る由もない。
あらかた解答のすり合わせに満足した二人は、学期が終わることを話題にあげた。フローラが期末試験後にある競技大会に参加するのか訊くと、アントンは不参加だと答える。
手に職をつける、という意味で、アントンは騎士を目指すことも一時期考えた。しかし、魔力の多いアントンは魔剣格闘など魔法を使うことも必要となる。自身の魔力で他人を傷付けることを好まないアントンには、不向きの職業だったため、諦めたのだ。騎士訓練校と合同でする競技大会に参加しないのも、同様の理由だった。
彼が参加しないのなら応援する人がいないな、とフローラは観戦するかどうか悩む。実技のときの反応からして、彼は戦闘で魔法を使うのをみるのも好まないかもしれない。親しい令嬢から誘われてはいるが、彼が観戦もしないようなら断るつもりだ。
案の定、アントンは競技大会を観戦せず、試験の復習をすると訊けば答えた。
「休みの間はどうするの?」
「父さんの領地にいく前に、孤児院にも顔出そうかと思ってる」
「ユリアンに会いにいくの?」
以前、彼が自慢していた犬に会えるのか、とフローラが期待に満ちた眼差しを向けるが、アントンの答えは否だった。
「いや、ユリアンは飼い主と一緒に領地に行っちまったから、孤児院に行っても会えない」
「なんだぁ」
なぜ彼女の方が残念がるのか、アントンは首を傾げる。
「フローラはどうするんだ?」
「私も、家の領地に遊びに行くの。おじい様が馬の乗り方を教えてくれるって」
それが今から楽しみだと、フローラは期待に瞳を輝かせていた。貴族としての嗜みに関しては社交パーティーに要するものを優先的に習得していたアントンだが、本来は身体を動かす方が好きな少年だ。なので、フローラの発言で乗馬にも興味がでてきた。自分もヴィッティング伯爵領にいった際に、養父に頼んで乗馬を教えてもらおう。
それぞれの夏の計画を教え合い、フローラはちらりとアントンの顔色を窺う。それなりに親しくなったように思うので、夏期休暇中にも会わないかと誘ってもよいだろうか。先ほどは、犬のユリアンに会いたいという口実で、彼が孤児院に行くのに同伴できないかと打診しようと思っていたが、出鼻をくじかれた。お互いの領地のことも話したが、彼が誘ってくれる様子はない。これは自分が誘わなければ、次の学期まで彼の顔を見れないことだろう。
今日は、試験明けのせいか、勉強以外の話題にも付き合ってくれる。このままの流れというか、勢いで誘えば、頷いてくれやしないだろうか。
そんなことを考え、フローラが内心そわそわしているとは、アントンは思わない。ただ、何かを言いたげであることだけは、落ち着きのない様子からなんとなく気付いた。
「なんだ?」
言いたいことがあるなら言え、とアントンが促すも、何に誘うかを決めていなかったフローラは言葉を泳がせる。
「えぇっと……、あ、あの、犬!」
「犬?」
「アントン、犬好きなのねっ」
当初の口実以外の案がなく、フローラは結局誘うことを断念する。慌てて取り繕われた話題ではあったが、アントンが一番嬉々として話していたのがユリアンのことだったので、誤りではないと思えた。
実際、アントンは肯定した。
「……そうだな。いつか、ユリアンみたいなでっかい犬を飼いたいな」
動物の飼育には役所の査定を受けて許可をもらう必要がある。飼育能力があることが第一なので、邸の番犬として雇い入れるにしても、アントン自身が成人し安定した収入を得るようになってからの話だ。
結婚相手はともかく、そういった未来の展望なら、アントンにもあった。
「素敵ね! 私も子供が生まれたら、大きい犬に乗せてあげたいな」
小さい頃、大型犬の背中に乗ることに憧れたとフローラは、彼の意見に賛同する。読んだ絵本のなかに動物たちと旅をする子供の話があり、その子供が犬に乗って移動していたのだ。当時はその絵本がお気に入りで、とても憧れていた。今は姉の伴侶である義兄が代わりに四つん這いになって背中に乗せてくれたほどだ。
自分のときは叶わなかったが、自分の子供にはそんな素敵な体験をさせてあげたい。
そんな夢想をして微笑むフローラに、紅玉の眼差しが向けられる。
視線に気付いてフローラが、桃色の瞳で見返すも、彼は沈黙していた。
こてり、と首を傾げてみせるも、反応は芳しくない。
「それは、どういう……」
「どう……?」
ようやく唇が動いたと思ったら、疑問らしき言葉すら途切れる。フローラが続きを促そうとしても、それ以上は問われなかった。
「どういうつもりも何もないよな」
自己完結されて、勝手に頷かれた。
アントンが一人で納得するものだから、フローラの顔は疑問がいっぱいだった。彼女の反応からも他意がないことは明白だ。自分も犬が好きだといっただけのこと。
一瞬、自分の未来と彼女の未来の先が同じかのように錯覚した。
その場の流れでしかない言葉を、都合よく解釈したのは自分だ。そう錯覚を払拭して、かえって、何が都合がよかったのかと余計な疑念が芽吹く。
アントンは、その芽を見なかったことにした。追及しても栓無いことだ。己の領分を越えるものではない。
隣にある高嶺の花は、どんなに近く見えても手が届くことはない。
結局、フローラは夏期休暇中にアントンと会う約束を取り付けられなかった。
その代わり、別れ際に手紙を書くと伝えた。エルンスト公爵領に着いて、祖父から乗馬を教えてもらった日、フローラはさっそくペンを走らせる。乗った馬が自分と同じ歳だったこと、乗馬によりどれだけ視点が高くなったか、まだ走らせるまではいかないが風が気持ちいいらしく走れるようになるのが楽しみなことも、すべて綴った。親しい令嬢たちにも手紙を書いたが、乗馬の興奮はアントン宛のものだけに留めておく。
送ってからの数日はずっとそわそわしていた。家族から理由を問われるほどだ。友人からの返事が待ち遠しいと答えると、送ってすぐには返ってこないと母が可笑しそうに微笑んだ。貴族の令息令嬢はこの時期、それぞれの領地へ避暑に赴いていることが多いため、距離によっては返信がくるまで一週間以上かかる。それはフローラも理解していたが、それでも今か今かと待ち侘びてしまうのだった。
一週間ほどして、返信が届いた。紙質はよいが無地の封筒で、その飾り気のなさが彼らしいと感じた。封を開けると、よく知る流麗な文字が便箋に綴られていた。彼の字を眺めるには、装飾がない方がよいとフローラは読むより先に文字に見惚れる。
手紙を書くとは伝えたが、返事がほしいとは言わなかった。それでも、返事をくれた彼の律儀さが嬉しかった。
フローラは、アントンの字が好きなので、自分のために書かれた文字に心が躍る。
満足のゆくまで文字を眺めてから、内容を読む。彼は孤児院を訪問したあとに書いたらしく、子供たちが元気すぎてもみくちゃにされたことや、これから領地へ向かうことが記されていた。自分が孤児院にいた頃を思い出すとも書いてあり、彼も元気な子供だったのだろうと想像できて、フローラは笑った。
「あら、フローラも必要になったみたいね」
「え?」
昼下がり、庭に面したソファで手紙を読み返していたフローラは、母のオクタヴィアに声をかけられ首を傾げる。
娘の疑問に答えるように、オクタヴィアはメイドに木箱を持ってこさせた。丁寧な木彫り装飾のその箱は、ちょうど便箋が入るであろう長方形をしていた。
オクタヴィアが木箱を開けてみせると、年期の入った封筒や押し花の栞がいくつも入っていた。
「私も何度も読み返すから大事にしているのよ」
父親のジェラルドが学生時代にオクタヴィアに宛てた手紙の一部だという。栞の花は、当時、贈られた花だそうだ。父は捨てても構わないと母に贈ったそうだが、彼女はずっと大事に残している。
母と違って恋文という訳ではないが、大切に扱う眼差しに共感できた。きっと自分にだけ特別なものであることは変わらない。
「明日、入れ物を買いにいきましょうか」
「うんっ」
宝物でしょう、という母の言葉に、フローラは頷いた。母のように何通ももらえはしないだろうが、フローラにとってはこの一通だけでも大事な宝物だ。だから、大事にするための容器を用意しようという、母の誘いはとても嬉しいものだった。
翌日、骨董店などいくつかの店を見回ったフローラは、悩みに悩んでフライハイトの柄が散る陶器の長方形の箱を購入した。容器と蓋は金具でしっかり繋がれ、安定して開け閉めができ、内側は布地となっていて入れた物が痛まないようになっていた。
アントンからもらった一通を入れると、まだ充分に余裕があった。けれど、フローラは満足だった。
寝る前にもう一度だけ、陶器の箱を開けてみる。その夜は、中身を出さずに、入っている様をしばらく眺めた。
箱いっぱいに、とまではいわないが、もう少し嵩が増すように欲張ってみてもいいだろうか。
手紙を書いている間は、彼は自分のことだけを考えてくれる。その時間を切り取ったのがこの手紙だ。自分のためだけの時間をこの箱に閉じ込めておきたい。
アントンは自分の方がよほど綺麗だというが、彼だって綺麗なものをたくさん持っている。入れ物を探しているとき、紅玉の填め込まれた箱と迷った。填め込まれた紅玉が吸い込まれるほど綺麗で、彼の瞳を連想させた。そちらにしなかったのは、彼の手紙専用の箱だとあからさますぎて恥ずかしかったからだ。
箱のことは手紙に書けないなと思いつつ、フローラは蓋を閉じるのだった。
次の手紙は、返信が届いてから、さらに一週間をおいた。
すぐに返信しては、彼に負担になるだろうし、手紙に書く内容を充分に経験しておきたかった。乗馬には慣れてきたこと、駆ける際は自分と同じ歳の馬ではなく、元気な彼女の子供の馬に乗ったことを、便箋に綴る。姉夫婦は子供が生まれたばかりなので、今年は王都の邸に残っている。この季節に姉と一緒に領地にいないのが不思議な感じだ。それだけで、いつもと違った夏に感じることも書いてみた。
追伸に、アントンの綺麗な字を見習いたいからこれを機会に字が綺麗になるよう頑張る旨を添えた。
返事は、彼が領地に帰っている関係で、以前より数日かかって届いた。
フローラの内容に合わせて、彼は律儀に自身の状況も教えてくれた。どうやら彼も養父から乗馬を教わっているらしい。アントンはそこまで姉にべったりではないため、フローラの感覚には共感しかねるとも書いてあった。そういいながら、義姉から手紙が届いて元気にしているらしいと記しているので、彼の家も姉弟仲はよさそうだ。
追伸には、そのままの丸っこい字が可愛いから自分は好きだと添えられていた。
最後に添えられた一文に、フローラは頬が熱くなるのを感じた。素っ気ない言い方ではあるが、文の中に可愛いという単語と、好きという単語がある。字の練習を応援する旨はどこにも書いていないので、もしかしたら癖付いた文字は変えようがないという皮肉かもしれない。遠回しに字が上手くならなくとも気を落とすなとの、励ましともとれる。彼はなにげなく書いた一言だろうが、必要以上にその二つの単語に意識が集中した。
たったの二単語で、自分が胸を高鳴らせているなど、きっと彼は知らないのだろう。
「好き……」
その箇所だけを唇にのせる。
読み上げてみても、自身の声で彼の声になりはしない。反芻したくなり、思わず呟いていた。字のことだと解っていても、じわりと頬に熱が滲んだ。
余韻に浸るように、フローラはしばらく便箋の最後を見つめるのだった。
夏が終わり、二学期となった。
久しぶりに制服に袖を通すと、勉学に臨むのだと学園という空間へ意識を引き戻された気になった。自然と引き締まった気持ちに、親しい人ばかりと過ごしていた夏期休暇の間は気が緩んでいたのだと知る。
アントンは青葉の繁る桜並木を通り、よく虫がいないものだと感心した。桜で挟まれた道は校舎に向かって、ある程度の距離がある。それだけ木の本数があるというのに、道には目立った虫が見当たらない。孤児院にも桜の木があったが、対策をしていてもいくらかは虫がいて、虫が苦手な子供は葉が落ちるまで近付かなかった。学園が夏期に長期休暇を設けているのは、シーズンオフだからだけではなく、桜並木の防虫対策が追い付かない時期だからかもしれない。
秋が深まれば、この葉も落ちてゆくのだろう。
早めに男子寮をでたので、アントンの前方を歩く生徒はまばらだ。
なんとなく、見知った頭や眩い金糸の髪を探してみたが、確認できなかった。友人らも彼女も、きっと後からくるのだろう。夏期休暇の間、フローラは宣言通り手紙を寄越した。学園で会ったときに話せばいいのに、と思いもしたが、授業の間の休憩時間にしか言葉を交わさないので、手紙にある内容をすべては語りきれないだろうと思い直した。
会ってもおらず、直接言葉を交わしてもいない。けれど、夏の間の方が彼女とたくさん話したように感じる。
手紙を送る様子をみた養父のヘルマンに、大事な相手なんだね、と微笑まれた。養父は、手紙の相手の性別も知らない。けれど、そう指摘されるだけのことを自分はしていたらしい。
養父の指摘を思い出し、何が原因だったか考えてみた。
ただ、きた手紙に返信をしていただけだ。届けにきた配達人を茶でもてなして、返信を書くのを待ってもらった。それだけだ。だが、友人らからの手紙に対してもすぐに返信したかといえば、否だ。友人らには書けるときに返事を書き、他の手紙とまとめて送ることもあったので、数日後に発送することもあった。
フローラに対してだけ、即座に返信していたために、養父にそのような印象を与えたのだと気付く。
すぐ書けるから、と思ってしていたことだったが、友人らとなぜそんな違いが発生したのか。理由を考えてみて、割とすぐに思い至った。彼女が返事を楽しみにしているような気がしたからだ。
彼女はちょっとしたことでも表情を輝かせる。自分との短い会話でもそうであるなら、手紙の返事ひとつにも反応しそうだと思った。
「アントンっ」
背後から声がかかり、振り返ると、煌めく金糸の髪とそれ以上に眩い表情をみせるフローラが小走りで追いつく。
「急いでどうした」
「アントンを見つけたから……っ」
こうして知り合いを見つけただけで、嬉しそうに笑顔を輝かせるのだ。
仕様のない奴だ、とアントンは小さく笑みを刷く。ひさしぶりに会ったのに、出会い頭から彼女らしすぎる。今駆けてこなくとも、また授業で会うのだ。
フローラは話したいことがたくさんあったはずだった。手紙に返事をくれた礼だけでなく、嬉しかったことも伝えたかった。手紙に書ききれなかったことだってある。それなのに、可笑しさを滲ませるアントンを前に、一つの感情が占めた。
そうか、と腑に落ちる。
「私ね。アントンに会いたかったの」
彼が目の前にいることが嬉しい。陽に透けて赤みの増した髪を見つけて駆けた理由も、彼の笑みをみてこれが見たかったのだと確信したのも、すべては彼に向かう想いのためだ。
真理にたどり着きすっきりした表情のフローラに対して、アントンはどう反応すればいいか判らず固まった。
伝えたかっただけの言葉を、どう受け取ってよいものか。答えを求めていないそれに、アントンは困惑する。彼女の気持ちを自分は受け取っていいのだろうか。たくさん浮かんだ疑問のなかで、最後にそこへ行き着き、迷いが生じた。
「そう、か」
「うんっ」
答えがでず、ぎこちなく頷くだけのアントンに対して、フローラは笑顔だった。
言葉より雄弁というのは、彼女のためにあるような言葉だとアントンは思った。だからこそ、自分はこれから悩むのだ。
アントンは悩みに悩んだ。
表面上はフローラにはいつも通り接したが、勉強の合間や寮に帰ったあとのほとんどは眠るまで、悩みが付きまとった。彼が真面目で流せない性格ゆえに、真剣に考えてしまっていた。
日常は過ぎてゆくのに、その悩みだけが解決の糸口を見つけられずにいた。
「そろそろ、俺たちの出番だと思わないか?」
ある日の夕食後、アントンの部屋に集まり歓談していた友人の一人が、彼に問うた。平民の生徒は相部屋だが、基本的に貴族の生徒は一人部屋である。そのため、夕食のあとから就寝時間が迫るまで一人部屋の誰かの部屋に屯すことがよくあった。世話をされずとも生活能力のあるアントンに、生活を補助する従者は必要ない。だから、他の貴族の友人の部屋より集まりやすく、利用頻度が高かった。
「何が?」
そんないつもと変わらないやり取りの最中で、唐突に訊かれてもアントンには、友人が一体何を思いついたのかと勘繰るだけだった。
アントンの反応が読み通りだったのか、怯むことなく、友人らは次々と不満げな声をあげた。
「何か悩んでるだろ。たまに上の空じゃん」
「僕らに相談してこないなんて、友達甲斐のない奴だな」
「自分だけで答えでないなら、話してみるってものアリだぞ」
三者三様に水臭いといわれた。どうやら、友人らはアントンが相談するのを今か今かと待ち構えていたらしい。そもそも悩んでいること自体に気付かれていると思わなかったアントンは、意表を突かれる。
しびれを切らせて、相談するよう催促された。養母に叱られてから独り善がりな行動はしないように気を付けていたつもりだが、友人に相談するという選択肢を失念していた。他人に頼るのを避けたがる自分の悪癖が、まだ治りきっていないと自覚した。
未熟な自身に、苦笑が零れる。さて、なんと相談するべきか。
「つってもな……」
「どうせフローラ嬢絡みだろ」
悩む対象を言い当てられて、アントンは紅玉の瞳を丸くする。なぜ判るのかという視線に、友人らは呆れる。
「お前、勉強で悩む柄じゃないだろ」
「僕らのなかで一番勉強できるしな」
「顔は俺の方がいいと思う!」
それは聞いていない、とツッコミを入れ、逸れかけた話題を即座に戻す。
何があったのか友人らは訊いてこない。彼女から確定的なことをいわれた訳ではないので、説明が難しい。だから、アントンが話せることだけでいいと待ってくれるのが、ありがたかった。
悩む原因となった彼女の言動は、まだどちらともとれる。しかし、アントンは動揺した。親愛が友情の域をでないものであっても、自身の許容範囲以上の親しさを受け止めることができなかった。きっと彼女の想いが友情でもそうでなくてもいいのだ。
「俺が問題っていうか……」
ぽつり、と思案のままにアントンは呟く。思考がまとまらないまま、口に乗せることを普段はしないので、たどたどしさがあった。
「どう思ってんのか、分かんねぇ」
アントンは、自身の想いこそが解らなかった。フローラの言動に動揺する頻度は、徐々に増えているが、それを好意とみなしてよいのか。彼女の愛らしさに揺れない男はあまりいないだろう。だから、自分が年相応なだけにも思える。
考えれば考えるほど、判然とせず形が定まらない。
うまく言葉にできずこれで相談できているのか、とアントンは疑問に感じる。そして、友人らから反応がない。沈黙が長いな、と落としていた視線をあげると、こみ上げる何かを堪えるような姿勢で各自固まっていた。
何をそんなに感極まっているのか。
「やっと……、やっとこういう話ができるように……!」
「クソ真面目だったアントンが!」
「おい」
友人らは喜んでいるが、発言の内容はアントンに失礼なものだった。
異性の話題に食いつくことのなかったアントンが、自ら恋愛絡みの相談をしてきたのだ。盛り上がれる話題が多いに越したことはない友人らには、大歓迎の事態だ。友人らがあまりにも喜ぶので、アントンはこれまで相談もせずにすまなかった気持ちより、やはり相談しない方がよかったのではないかという疑念が強くなる。
アントンから呆れた気配を察知した友人の一人が、こほんと咳払いをし、居住まいを正した。
「なら、俺らをフローラ嬢に会わせてくれよ」
「なんか嫌だ」
どういう意図の提案か確認するより前に、アントンは即答していた。
「フローラ嬢の友達なら、きっといい娘ばかりだろ。紹介してもらうように頼んでくれよ」
対象がフローラではないと聞くも、アントンは渋面になり、頷くことはできなかった。頼むことはできなくないが、彼女は他人に友好的なので応じそうだ。そうなったら、この友人らを彼女に会わせることになる。
「やっぱ、嫌だ」
本当になんとなく嫌だった。
感情で断る時点で答えが出ているようなものだったが、友人らはそれを指摘しなかった。今の状態の彼には、言っても納得しないだろう。
友人らは、ケチだなんだと文句をいうことで、その場を茶化して終わった。助言も何もないこの相談に意味があったのか、アントンは首を傾げたが、その夜は寝入りがよかった。
二学期に入っても、アントンとフローラの会話頻度は変わらなかった。授業の開始前に挨拶をし、授業終わりに少し言葉を交わす。だから、気付かれるとは思わなかった。
「アントン、何かあった?」
ほんの少しだけ変だと、フローラに指摘され、アントンは瞠目する。態度を変えていないつもりだったが、普段通りに、と意識している時点で違和感が生じていたのかもしれない。
気遣いげな眼差しに、心配をさせたのだと申し訳なくなる。気付かれているものを否定する気はない。何というべきか考えているうちに、他の生徒は帰っていった。最後の授業なので、二人もあとは寮へ帰るだけだ。
馬車で帰るのかと訊くと、まだ明るいので徒歩で寮に帰るとフローラは答えた。ならば、帰りながら話そうと、アントンは彼女を女子寮の前まで送ることにする。
校舎を出るとしばらくして、桜並木に差し掛かる。そのうち紅葉を始めるだろうか、と呟いて繁る葉を見上げるフローラの表情に曇りはない。虫を避けるために馬車を利用する貴族も少なくないというのに、彼女は平気そうだ。もともとは平民だったアントンは、そんな感想をもつ。
「虫、平気なのか」
「なんでもじゃないけど、お姉様よりは平気よ。でんでん虫や芋虫さんも触れるし……、あ、毛虫は毒があるから触っちゃ駄目だってイザーク兄様に教えてもらったわ」
姉が苦手な虫も触れるのだ、と豪語するフローラ。彼女の姉は、花を愛でるのは好きだが、ものによっては視界に入るのが苦手な虫もいるとのことだ。対して、フローラは物怖じせず触りにいけるようだ。むしろ、物怖じしなさすぎて義兄に注意喚起までされている。触れはするが、姉が難色を示すので、今は触らないようにしているらしい。
義姉と遊ぶために家にも何度かきているので、アントンも彼女の姉の顔は知っている。挨拶程度しかしたことがないが、幼い頃から可愛いより美人という表現が似合う女性だった。義姉が友人のなかで自慢する最たる人物であるので、直接会話らしいことをしたことがない相手だが人柄も知っている。だから、フローラの語る幼少期の様子が、いとも容易く想像できてしまった。
思わず、くっと喉が鳴ってしまうほどには可笑しかった。
「……っ元気すぎ」
思いきり笑っては失礼だろうと、アントンは拳で笑い声ごと口元を押さえた。
可笑しそうに笑う彼に、フローラは笑みを滲ませる。こうして、たまにみせる彼の笑顔をみるたびに、彼の笑ったところが好きなのだと再確認する。自分が、その笑顔をみせる相手の一人である事実が嬉しい。
笑みが収まった頃、その場の流れでふった話題で、本題から逸れたことにアントンは気付く。空気に深刻さなどなく、むしろその方が相手に気負わせることなく聞いてもらえていいかもしれないと思った。
二人の靴と葉擦れの音が、ささやかに響く。
アントンは、おもむろに口を開いた。
「俺は、フローラを好きになりたいんだと思う」
一瞬、フローラの足音が止まったが、そのあとは同じように歩調を合わせた。アントンは続ける。
「でも、大事な人をもっていいか、自信がない。俺を生んでくれた母親は、ずっと俺の魔力に耐えて何度も火傷してた。魔力をちゃんと扱えるようになるまで、大事な人ができても傷付けるだけだって……」
幼い頃から魔力操作を修練し、学園に入ってからは魔力制御も学んでいる。けれど、どんなに魔力を扱う技術を磨いても、すでに無意識での魔力暴走経験のあるアントンは安心ができなかった。魔力暴走も、小さかったから軽度で済んだだけで、今起こした場合、さらに酷いことになるのではないかと恐れてしまう。
また大事な人を傷付けるのなら、そんな相手は作ってはいけない。少なくとも、魔力暴走しないと安心できるようになるまでは。
「アントン、私よりずっと魔法上手なのに?」
「絶対大丈夫なんてこと、ないだろ」
そうだ。だから、この不安はずっとついて回る。
いつになったら、自分は安心できるのだろう。いっそ魔力なんてなくなればいいのにとすら思ったことが、何度もある。
アントンから彼の事情を明かされ、フローラは顎に指をあてて、んー、と思案する。眉間が寄っているアントンとは対照的に、天気を確認しているかのように空を見上げている。
「私ね、すっごく元気なのっ」
「は?」
彼女の答えが、自分の告白とどう関わっているのか判らず、アントンは首を傾げた。
「ほら、アントンもさっき私が元気すぎるって言ったでしょ」
「言った、けど」
だからなんだ、とアントンは思う。
「お姉様が心配するから普段は気を付けているんだけど、はしゃいでつい走っちゃうことがあって、たまに転ぶの」
転んで自分で起き上がると、助け起こそうとしていた義兄が偉いと褒めてくれた。膝などを擦りむいていたら、姉が痛くないかと心配してくれた。そんな似たようなやり取りが、これまで何度かあった。フローラは記憶にないが、珍しく雪が積もった日に、雪の山だと勘違いして雪に覆われた垣根へ突進して、自分の型をとったこともあるらしい。
令嬢らしくお淑やかに振る舞う技術こそ習得しているフローラだが、完全に大人しくなれないのが彼女だった。
「だからね、アントンが放っておいても、私、怪我してると思うのっ」
彼が関わることで自分の負傷確率が増えることを心配しているが、もともとそれなりの負傷確率を抱えているとフローラは主張した。勝手に怪我をすると聞き、アントンは紅玉の瞳を丸くする。そんなフォローは初めて聞いた。
「それに、アントンは意図的に怪我をさせる人じゃないでしょ。誰かに怪我をさせるぐらいなら、自分が傷付く方を選ぶもの」
火属性の実技のときのように、とフローラは微笑む。すでに、実証済のためアントンも否定できなかった。
「私はね、こうして自分の足で歩きたいときに一緒に歩いてくれるアントンだから大好きなの」
危ないからとなんでも止めるのではなく、フローラがしたいことを尊重してくれる。乗馬の話をしたときだって、返事は令嬢らしくないと嗤うでもなく、自分もやってみるといったものだった。ひとつひとつはささいなことでも、彼の寄り添いがフローラはいつも嬉しかった。
感極まったアントンは、溢れそうになるそれを塞ぐように、口元を手で覆った。こみ上げる感情を歓喜で片付けてよいものか。笑いだしたいような、泣きだしたいような、そんな感情だった。
そんなことでいいのか。
自分も含め周囲の考える彼女に見合う人間と、彼女のなかの隣にいてほしい人間の基準は大きく違った。自分の問題についても、関係なく怪我をする宣言をされ、逆に不安要素を増やす始末。
そんなことでいいのか、と思ったが、自分が彼女を好きになる理由もそんなことでいいのかもしれない。
「ま。隣にいりゃ、転けそうになっても助けてやれるか」
仕方なさそうに呟かれたが、その口角は上がっていた。フローラは嬉しそうに微笑む。
転ばないようにと、手を差し出される。フローラは素直にその手を握った。
「フローラ、あんたの隣を歩きたい」
「私も、アントンがいいっ」
即答すぎて、アントンは笑った。これでも、一応真剣に伝えたのだ。食い気味の返答に可笑しくなる。迷っていた自分と違って、彼女はもう心を決めていたのだ。
彼女が悩まないことに自分は悩むし、自分が気にしないことにも彼女は感動する。心の動きですら足並みが揃わない。けれど、こうしてお互いを確かめ合えば、隣に並んで歩ける。
これからも、こうして彼女と歩いてゆくのだろうな、とアントンは思うのだった。
モブすらの連載を始めてから、4年が経ちました。
今もこうしてモブすらを書いています。それは、読者様がモブすらを好いてくださったおかげです。
誠にありがとうございます。
おかげで、こうして長くこの作品と付き合っています。
コロナ禍で3巻で終わってもおかしくなかったコミカライズが、5巻でる予定なのもすべて読者様のお力です。
筆をとることでしか、感謝を伝えることができず、不甲斐ない限りです。
最大限の感謝を込めて、この番外編を贈ります。
どうか楽しんでいただけますように……








