side24.レース
はらはらと薄紅の花弁が舞う。
少しばかりの緊張を孕みつつ、桜並木の中を歩いてゆく。紺のリボンタイとおさげの髪が、歩みに合わせて揺れた。
自分が王立魔導学園に入学するとは思っていなかった。そのため、制服を着ている他の紺色が全員貴族かのように見えてしまう。自分のように平民もいるはずだというのに、制服のせいで区別がしづらい。
きっとよく見れば、仕草や言葉遣いなどで見分けがつくのかもしれないが、いくらか緊張している今はそこまで他人を観察する余裕がなかった。
適性属性でクラス分けをする制度は数年前に廃止されたそうなので、入学式の会場にいく前にクラス分けの掲示を確認する必要がある。桜並木を抜け、掲示の場所を探すため周囲を見渡すと、人だかりのできている一角があった。人だかりの向こうに掲示板も見える。あちらで間違いないだろう。
掲示板に向かって足を進めている途中、不意に声がかかる。
「マリヤじゃねぇか」
「ザク!? ……先輩」
「うん」
学園内では一学年上の彼に対してこれまで通りに呼んではいけないことを思い出し、マリヤは敬称を付け足した。そんな彼女によくできました、とイザークは笑う。
見知った顔と出会い、マリヤの緊張はいくらか解けた。元々、イザークに温かかな笑みを向けられるとマリヤは怒りすら萎む。
「久しぶりだな」
「冬以来だからそりゃあね。でも、どうして一年の入学式に?」
入学式の日は、二年生以上はほとんど休みだ。生徒会役員など式に関わる数人だけが出席するだけだが、マリヤには、イザークが生徒会に入っているとは到底思えない。たとえ彼が今は貴族だとしても。
「俺、デカいから掲示板見るの手伝ってんだ。背ぇ低いヤツだと大変だろ」
「そう言って、従者まで手助けして……、ロイ様には平民の手助けをと頼まれただけでしょう」
呆れた様子だが凛と通る声がした、と思ったら、イザークの隣に淡い金の髪をした美女がいた。イザークと同じ赤色のリボンをしているところから二年生だろう。彼は困っているのは一緒だ、と笑って返すものだから、美女は呆れたように嘆息をひとつ零した。
佇まいからして品があるので、彼女が貴族令嬢だとマリヤにも判った。凛々しい目元をした彼女の淡い青の瞳が向いて、マリヤは身を強張らせる。
「彼女は?」
「マリヤだ。昔、面倒見てた歳下たちの一人だよ」
もうとっくにチビじゃないが、とイザークは笑う。
「そうですの。初めまして、わたくしはリュディア・フォン・エルンストと申します。ザクの知人ですし、今後もよろしくしてくださると嬉しいですわ」
「マ、マリヤ・ベッカーです。よろしくお願いします、リュディア先輩」
カーテシーこそなかったがリュディアの丁寧な礼に恐縮しながら、マリヤもおじぎを返した。彼女が貴族の礼を執らなかったのは、身分の格差を気にしないようにとの心遣いだろう。
薄々勘付いてはいるが、確証がないのでマリヤは彼女との関係をイザークに視線で問う。
「あ……、えと、ディアは俺の婚約者、だ」
「どうして照れますの?」
歯切れの悪い様子が珍しくリュディアが問うと、イザークはぎこちなく答える。その頬は赤い。
「いや、だって、庶民には婚約者って紹介すること普通ねぇし……、彼女できたのも初めてだから」
そのうえ、平民のとき親戚のように親しくしていた相手へ紹介したのだ。気恥ずかしいと大の男が明かす。しかも、年齢からいえばすでに卒業しているはずの青年が、だ。
相変わらず羞恥の置きどころが変わっている、とリュディアは不思議に思う。普段こちらの心臓に悪いことを当たり前のように言うくせに、何故そこは照れるのだ。
二人のやり取りを見て、マリヤはただ珍しく感じた。イザークが誰かを想うとこうなるのか。幼い頃は彼に懸想していたというのに、平然と今の光景を受け止められる自分がいた。
ただよかった、と想う。
悔しさも覚えない自分が、なんだか嫌いじゃない。
彼女がイザークが貴族になった理由なのか。マリヤは、リュディアを見て随分綺麗な女性を好きになったのだな、と感想を持った。けれど、彼のことだから容姿だけで好きになったのではないだろう。
「ザ……、先輩にはもったいないぐらいの美人だね」
「そうだろ」
マリヤの感想に、イザークはあっさりと肯定した。あえて揶揄うような言い方をしたのに、平然と返すものだから揶揄い甲斐がない。むしろ、恋人が褒められて嬉しそうだ。そんな彼の恋人は、褒められて頬を染め口ごもっている。
褒められ慣れているだろうに、そのような反応をするとは、何とも可愛らしい。マリヤはついまじまじと彼女を見つめてしまう。
「マリヤさんは、もうクラスを確認されましたの……っ?」
「いえ、まだです」
居たたまれなくなったリュディアが話題を振るので、マリヤは答える。
「見てやろうか?」
「大丈夫。自分で探したいし」
「そっか」
掲示板の前は人だかりこそあるが、市場通りの人混みに比べれば抜けやすい。イザークの手を借りるほどのことではないと断ると、彼は笑って頷いた。リュディアから、またゆっくり話そうと誘われ、マリヤは了承して彼らと別れた。
あっけないほどにあっさりとした再会だった。
大好きな人から、大好きだった人に変わっていたことを再会したことで気付いた。胸が痛まない理由を、マリヤは解っている。
要因の主は、学園にいない。魔力量が入学基準に満たなかったから。
先輩にならなくてよかった。
要因と同じ学び舎に通うことにならずに済み、マリヤは安堵する。彼を上級生と敬うには違和感がある。魔力量測定の結果がでたとき、彼は、イザークと同学年になるのは御免だと言っていた。きっと半分は強がりだろう。
これから三年、長期休暇のとき以外はほとんど会えなくなる。
マリヤはおさげにした三つ編みの先を持ち上げる。そこには柄もレースもない無地のリボンが結ばれていた。誕生日プレゼントにもらったものにしては質素なそれは、選んだ者のセンスのなさからすればマシな方だ。
リボンをしばらく見つめて、よし、と自身に気合を入れる。
せっかく入学できるのだから、魔法の技術を磨こう。
平民は魔導学園卒業後、習得した技能に応じて、一~三年ほど魔導士として勤務することになる。平民の学費免除の対価として最低一年の勤務が要求されるが、その間、きちんと給与は支払われる。マリヤは、一年は魔導士として勤め、その給料で実家のパン屋の設備などを新調しようと計画していた。最低勤務期間を希望する代わり、少しでも給料のよい勤務先へ配属されるよう学園で頑張らないといけない。
学園での三年間を無駄にしないとマリヤは決意し、おさげをリボンごと後ろへ払うのだった。
入学式を終え、授業初日を迎えたマリヤは、教室の光景に驚く。
適性属性でのクラス分けは二年前に廃止されたとは聞いていた。しかし、実際に適性属性に無関係で振り分けられたクラスの面々を見て、ようやく実感する。教室には、煌々しい金髪を持つ美少女がいた。その長い髪の眩さや顔立ちは、入学式で挨拶をしていた生徒会長と酷似している。現在の生徒会長はこの国の王子だ。その王子と同じ美貌をもつ彼女は、彼の妹であり、王女であることは一目瞭然だった。
王女と同級生になるとは。毎日この美貌が拝めるのか、とそれだけで学園生活が贅沢に感じてしまう。ここまで鑑賞に値すると、流石に羨む気持ちすら湧かない。
教室に王族がいる状況にか、入学して間もないこともあってか、緊張で動きのぎこちない女子生徒の一人が抱えていた教科書を落とした。あわあわと焦る様子はマリヤが共感を覚えるもので、同じ平民だと伺えた。
自然と生徒たちの視線を集めてしまった女子生徒は、その視線から逃れたいがために教科書を拾おうとするが、焦りでうまく拾えない。同じ平民のよしみでマリヤも拾うのを手伝った。
「ご、ごめんなさい……っ」
「気にしないで」
最後の一冊に手を伸ばそうとしたとき、マリヤとは別の白磁のような手がその一冊を拾いあげた。
「どうぞ」
自身の席に近いところにあった本を拾いあげ、金糸の髪を揺らし少女が微笑んだ。ただそれだけの所作が見惚れるほど高貴で、微笑みは可憐さを体現していた。笑みを向けられた女子生徒は、一瞬硬直する。
「あぅ、も、もうし……」
顔を真っ赤にして、女子生徒は彼女から最後の一冊を受け取る。丁寧に言葉を返そうとするが、緊張が極まって詰まってしまう。
そんな女子生徒の口元に、滑らかな白い指先が当てられる。
「そういうときは、ありがとうの方が嬉しいです。ね?」
自分に確認をされ、マリヤは弾かれたように返事する。
「うん。あ、はい」
同意を言い換えたマリヤに、この国の王女は可笑しそうに笑う。そして、同級なのだから言葉遣いに気遣う必要はないと伝えた。
あらためて、女子生徒に視線を戻すと、その視線を受け止め彼女は教科書を大事に抱え、礼を口にした。
「二人とも、ありがとう……」
満足そうに王女は微笑んだ。自分にも謝罪から礼に言い換えた女子生徒に、マリヤも嬉しくなる。申し訳なさそうにされるより、喜んでもらえた方がずっといい。
そのあとは、お互いの名前を知り合って終わった。フィリーネと名乗った王女の微笑みで、教室の場の空気が随分和らいだ。王女の率先した行動により、今後表立って身分をひけらかすような輩はでてこないことだろう。
どこまで意図した行動か、マリヤには判らないが、影響力の大きさに彼女が王族なのだと感心してしまった。このときの一件をきっかけに、教科書を落とした女子生徒ロミルダとマリヤは親しくなった。
入学して数日後、マリヤは同じクラスの男子生徒に声をかけられた。
「ベッカー、聞きたいことがあるんだけど」
彼は、ジーモン・フォン・アンプロスと名乗った。男爵家の令息で、接点など何もないため、一体何が訊きたいのかとマリヤは首を傾げる。まったく見当がつかない。ジーモンの様子はびくびくと怯えていて、余計に不可解だった。
「僕、寮でヴィート先輩と同室で、ベッカーが入学式のときに先輩と話していたって……」
「ヴィート??」
聞いたことのない名前にマリヤは、余計首を捻る。そもそも入学式の日に会話をした男性は教師を除くと一人だけだ。
「えっと……、イザーク先輩のこと」
「ザク?」
貴族になったとはとは聞いていたが、変わった家名までは知らなかった。イザークとは確かに会ったので、マリヤは知り合いだと頷く。
「先輩って、どんな人?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
同室ならば、彼の人となりはジーモンの目で確認すればいい話だ。知人かもしれないというだけの自分に訊ねるなど、マリヤには随分遠回りに感じた。
「だ、だって、入学してすぐ貴族令息を何人ものしたって噂があって、エルンスト家の狂犬って二つ名がある人だし……、いきなり侯爵家に縁組されたのも怪しいしっていうか……」
「ザクが? 狂犬??」
恐ろしくてとても自分からは話しかけられない、とジーモンは怯える。しかし、彼から聞く情報は欠片もマリヤの知っているイザークと結びつかない。彼は一体誰のことを言っているのだ。
「ザ……先輩は、自分から暴力を振るうような人じゃないわ。なんで狂犬なんて言われてるのか分からないけど、噂に尾ひれが付きすぎよ。貴族になったのだって、ちゃんとした理由があるはずだわ」
自分が幼馴染と喧嘩したときに、何度彼に仲裁してもらったことか。マリヤは、八つ当たりの拳を受けるイザークは見たことがあるが、彼が手をあげるところは見たことがない。叱るときは、手をあげるより相手と眼を合わせて言葉で諭す。ふざけているときだって、相手の頬を軽く抓るぐらいなものだ。
「あんなデカい先輩に見下ろされて怖くないのか? 歳だってずっと上だろ」
魔力量測定を受け忘れて入学が遅れた彼は、卒業しているはずの年齢だ。身長も百八十と高いし、庭仕事で鍛えられて体格もよい。目の前のジーモンに比べると、彼の意見も理解できる気がする。ジーモンは不自由のほとんどない暮らしをしてきたのだと判る体格をしていた。貴族らしい傷のない綺麗な手だ。彼のような者からすると、イザークの外見は威圧的に感じることもあるのだろう。
マリヤは、彼の父親を知っている。彼より大きな体格で顔も強面の。下町で育ったマリヤは、イザークの父親ですら見慣れてしまっているので、怖い基準がジーモンより高くなっていたらしい。
イザークが侯爵家に迎え入れられた経緯を、マリヤは詳しく知らない。だから、ジーモンに説明できるだけの確たる情報はない。けれど、経緯は知らなくとも、彼の人となりは知っている。
「少なくとも、先輩はあなたが思っているような人じゃない」
それだけは断言できた。すでに噂で誤解して恐怖している相手にあれやこれや言ったところで、聞き入れてはくれないだろう。本人がちゃんと彼を見ないことには意味がない。だから、マリヤは一言だけにした。
その一言に、ジーモンはびくりとする。どうやら瞳に怒りがこもってしまっていたらしい。
「いきなり話しかけて、悪かった」
ジーモンはそう謝罪して、逃げるように去っていった。
立場が変わって自分から気安く声をかけられる相手じゃなくなったが、こうして他人からあらぬ風評を聞けば気分も悪くなる。マリヤにとってイザークはそんな存在だ。
「今日は食堂でデザートも頼んじゃう?」
「いいわね」
甘いもので憂さを晴らすといいとロミルダに提案されて、マリヤは笑顔で頷く。
「マリヤって、先輩のことだとムキになるのね」
「ヨハンだったら、きっと殴りかかっているわ」
ロミルダの揶揄まじりの指摘に、自分だけではないとマリヤは返す。噂を聞いたのが自分だから穏便に済んだのだ。彼と兄弟のように育ったヨハンだったらどうなっていたことか。自分にとっても弟のような存在のパウルも、きっと黙っていなかっただろう。
「ヨハンって?」
首を傾げるロミルダに、ここにいない人間をあげていたことに気付く。マリヤにとって当たり前の存在を、学園の人間は知らないのだ。些細なやりとりで、下町以外のところにきたのだと、マリヤは自覚した。
幼馴染の一人だと答えて、マリヤはロミルダと昼食をとりに食堂へ向かうのだった。
自分だけが話すのは割に合わないので、彼女の故郷の話も聞くとしよう。
梅雨が明け、初夏となる頃、下町の通りを大きな袋を抱えて歩く少年がいた。
道のりを知っているため、迷いなく進んでゆく。肩に抱える袋は重いだろうに、意に介していない様子で足取りは軽い。彼からすれば、梅雨の時期の水溜まりのある道でないなら問題がない。そのときばかりは荷を濡らさないように、慎重に足を運ばねばならないからだ。
ある店の前まできて、足を止めると、少年はそのドアを開けた。来客を報せるためのドアベルがカランと鳴る。
「おっちゃん、いつもの」
「おお、ヨハン。精が出るな」
店の中は、瓶に詰まったパスタが多種多様に並び、黄金の空間だった。製麺所の主人は、定期便を持ってきたヨハンを笑って迎え入れる。
ヨハンの家は粉挽き屋で、この製麺所の仕入れ先だ。他にもパン屋など、近隣の製粉を材料とする店とは持ちつ持たれつの関係が続いている。
製麺用の粉の袋を二袋、ヨハンが主人の前に下ろすと、彼は感慨深げに眼を細めた。
「昔は、一袋ですら引きずってたのになぁ」
「いつの話だよ」
親の仕事を手伝い始めた頃は、確かに顔を真っ赤にして粉袋を引きずっていた。意地になっていた自分を最後まで見届けてくれたのは、この主人だ。何度目かの話題に、ヨハンは呆れる。十六となり、身体もできてきた。いつまでもそのネタでいじれると思わないでもらいたい。
確かに、過去を引き合いに出された当初は、羞恥で怒鳴っていた。そのことを忘れたフリをして、ヨハンは主人の感慨を流す。
「あちこち走り回ってた元気坊主が、真面目になっちまってまぁ。可愛げねぇな」
皮肉のように主人は言うが、その響きは褒めていた。
これぐらいもできねぇと、勝てねぇからな。
ヨハンは胸中で独りごちる。
真面目に働くことすら疎かにするようでは、勝ちたい相手にも勝てない。ヨハンの越えたい相手は、地道にこつこつすることが得意なのだ。本人は当たり前のようにしているが、ヨハンからすれば厭きそうになるのを踏ん張らなければならないことだった。時折、サボりたくなることもあるが、彼ができることもできないのかと思い至り、負けん気で上塗りした。
苦手ながらも続けていれば、習慣づくもので、着実に仕事に向いた筋肉が肩や腕につきはじめている。
「お父さん、ペンネ、詰め終わったよ」
「スーザン、そこの棚に頼む」
奥から、ペンネの瓶詰を抱えた少女が顔を出す。娘のスーザンに、主人は商品を置く場所を指示する。湿気が入らないようになっている密閉型の瓶はそれ自体にも重さがあり、調理前のペンネが詰まっていれば重い。自身の視線の高さの棚に載せようとして、スーザンは両腕に力を込めた。
「っしょ、と」
しかし、急に重量がなくなる。横から伸びた手が、スーザンの持っていた瓶を軽々と持ち上げた。
「ここに置きゃいいのか?」
「……う、ん」
彼女の代わりに、瓶を棚に置きヨハンは位置が合っているか確認した。スーザンは眼を丸くしながらも、頷く。
「頼もしくなってまぁ。昔ならともかく、今ならスーザンをやってもいいぞ」
「お父さんっ」
「スーザンにも選ぶ権利があるっての」
可笑しそうな冗談交じりの父親に、スーザンは何を言い出すのかと焦る。ヨハンは、そもそも彼女が自分を眼中に入れる訳がないと一蹴した。
「いや、そういう意味じゃ……」
自分に失礼だと庇う発言自体はありがたいが、彼に卑下させるつもりがなかったスーザンは、否を唱える。
彼女の否定を聞き終わる前に、ヨハンは次の配達場所へ向かうといって去ろうとする。会話の流れでなった話題にそれほど頓着していないので、彼は何も気にしていなかった。
「次はどこだ」
「パン屋」
「ああ、マリヤちゃんのとこか」
「今、マリヤはいねぇよ」
そうだった、と主人は思い出す。パン屋を営むベッカー家のマリヤは、王立魔導学園に入学しているのだった。彼女は看板娘のため、店を訪ねればいる印象で主人もとっさに浮かぶのは彼女の名前だった。
じゃあ、と去るヨハンの姿がドアの向こうに消えたのを確認して、スーザンは嘆息する。
「お父さん、ヨハンにああいうこと言うの、もう止めてよね」
「悪い話じゃないと思うがなぁ」
悪い相手じゃないことはスーザンも認める。実直に働くことを覚えた彼は父親の言う通り、条件だけ見ればよい。同じ歳だし、気軽に話せる相手だ。
しかし、一番重要な点が駄目なのだ。
「望みのない恋はしない主義なの」
パン屋の看板娘が不在だと答えたときの彼の表情を思い出す。
すでに心に誰かがいる相手なんて、不毛でしかない。スーザンの意見に、娘の幸せを願う主人はそれを聞き入れたのだった。
父親の仕事を手伝い始めたとき、最初に手伝ったのは製粉の配達だった。
といっても、幼い身体で仕入れ用の粉袋は持てる重さではなく、最初は配達先の場所や配達相手の顔を覚えるよう教えられた。荷馬車の扱いも教わり、ヨハンの行動範囲は拡がった。そのため、働き始めると、製麺所のスーザンなど同年代の知り合いも増えた。
否応なく拡がった視野に、変わるものもあれば、変わらないままのものもあった。
変わらないもののなかには、マリヤとの関係もある。彼女が初恋の相手から振られて、傷心につけ入るほど狡くなれなかったヨハンは、彼女の傷が癒えるのを待った。だが、心の傷の具合など、確認する術もない。どれぐらい時間を置けばいいのか、直接癒えたか訊いてよいものか判断がつきかねた。そうしてずるずると腐れ縁だけで繋がったまま。
そもそも口喧嘩ばかりしていた相手をどう口説けというのか。
マリヤが片想いをしている様を傍らで見続けていたものだから、ヨハンは自分に振り向く彼女が想像できないでいた。
かといって、気持ちを隠している訳ではないから、彼女は気付いていることだろう。気付いていて、態度が何も変わらないなら可能性がないのでは、と臆病風に吹かれることもある。そうして悩んでは、明確な行動ができず現状維持に留まってしまうのだ。
そうしているうちに、マリヤは魔導学園へ行ってしまった。
もう数か月、彼女に会っていない。貴族も通う学園には、よい生活をした分見目のいい人間もいるという。幼い頃、レオという整った顔の少年がときどき遊びにきていたが、マリヤはよく頬を染めていた。初恋の相手はそこまででもなかったが、彼女は明らかに美形に弱い。
顔のよい男に少し優しくされただけで、ころっといくのではないか、という危惧はなくはない。
焦りを感じはしたが、ヨハンに止めれるものでもなかった。この数か月、入学していなければ彼女がいたはずの空白にふと気付いては、彼女が自分を気にすることがあるのだろうかと疑問に思う日々を過ごしていた。
気付けば夏になり、夏期休暇でマリヤが一時帰宅する日がやってきた。
下町から一番近い馬車の乗り合い所に、いつもは見かけない上等な馬車が停まる。御者がドアを開け、足場を用意すると、中からおさげの少女が下りてきた。送ってくれた御者は、入学のために迎えにきてくれたときと同じ人物で、彼女は礼を言う。
家に帰るため、乗り合い所を出立しようとした彼女は、見覚えのある人物を眼にして、足を止めた。
「よう」
「待ってたの?」
ヨハンが自分を待ち受けていたことに驚き、マリヤは眼を丸くする。
「配達終わって、ちょうどよさそうだったから」
ついでのようなものだ、とヨハンは言うが、目安はあっても明確な到着時間が判らないのに待っていないはずがない。彼が迎えにきたことが、マリヤには純粋な驚きだった。ヨハンは、早めに配達を済ませる代わりに、少しの間荷馬車を借りる許可を父親からもらっていた。そこまでのことをマリヤは知る由もないが、ヨハンが自分のために今ここにいることだけは解る。
「乗ってけよ」
帰る方向が同じだから、マリヤに断る理由はない。荷物があるので、むしろ助かる。しかし――
白馬の王子様とまでは言わないけど……
じっと、目の前の馬車を見る。荷馬車だ。配達が終わった後で、荷台には雨のときの幌の布や荷を固定するための縄の束ぐらいしかない。とてつもなく日常的だ。
花一輪も演出のない出迎えに、ときめきようもないな、とマリヤは感謝とは別のところで嘆息した。
「何だよ」
「別に」
あからさまな嘆息をヨハンが見咎めるも、マリヤは答えなかった。今、乙女心を解っていないことを指摘してしまえば、自分が彼に期待していたみたいだ。その期待を知られたくないゆえに、マリヤは口を閉ざした。
荷物を荷台に置かせてもらい、御者の座席、ヨハンの隣にマリヤは座る。荷物が少ない状態だと、御者席が一番安定感がよい。荷が少ない分、がたがたと軽くも大きな音をたてながら馬車は走る。
お互い黙って前方を向く。馬車の走る音が二人の間によく響いた。
「大して変わってねぇな」
「そっちこそ」
「こっちはいつも通りだ」
環境が変化した割に見た目に劇的な変化がないことをヨハンが指摘すると、数か月ぶりなのに変わっていないのは彼も同様だとマリヤは言い返す。ヨハンには、彼女がいない以外、こちらには環境に変化がなかったのだから、変わりがないのは当たり前のことだ。
距離ができ、共有する時間も減った。だから、その分、再会すれば何かしら思うところがあるのでは、とお互い少しばかり期待していた。しかし、何のことはない。またしっくりといつも通りに収まるだけのことだった。
「パウルんとこ寄るか?」
「うんっ、久々に会いたい」
幼い頃からの弟分に会うかと問えば、マリヤは素直に頷いた。ヨハンは道すがらにあるパウルの家、鍛冶屋のシュミット家の工房近くで馬車を一時停車させた。
「マリヤちゃん」
「パウルっ」
工房の入口からマリヤが中を覗くと、すぐさま彼女に気付いたパウルが喜色満面に出迎える。マリヤも嬉しそうに彼の前まで歩み寄った。
「元気してた?」
「うん。そうだ、マリヤちゃんがいない間に、研磨任せてもらえるようになったよ」
「へぇ、よかったね」
鍛冶屋には武器や道具の作成だけでなく、修理や点検の依頼もある。パウルは。そのうちの点検業務の一部を担当できるようになったらしい。嬉しそうな報告に、マリヤも表情が綻ぶ。身長はもう彼の方が少し高いが、柔和な笑みは変わらない。ヨハンにも、マリヤにも、彼は可愛い弟分だった。
「パウル、刃こぼれしちまったんだけど」
「ラーラさん、いらっしゃい」
研磨依頼の来客があり、パウルはマリヤたちに断ってそちらの対応に向かう。
「パウル、魔物討伐の前に研いでおきたいんだが」
「ゾフィーアさん、お勤めご苦労様です」
にこやかに対応するパウルを、壁際に立って眺める。
「……なんか、女性のお客さん多くない?」
「パウルが受付するようになったら、他の鍛冶屋より増えたらしいぞ」
最初は女剣士、その次は女性騎士と、武器の手入れを依頼してきたのはどちらも女性だった。マリヤがその点を指摘すると、ヨハンが指摘通りだと肯定した。
無骨で頑固な者が多い鍛冶屋で、柔和な笑みで丁寧な対応をするパウルは女性客が要望を伝えやすいらしい。元々、姉がいる彼は、女性の相手に慣れていた。鍛冶屋の主人であるパウルの父親は、見習い始めたばかりの十四の息子にできることが少ないから接客を優先して任せていただけだったが、想定外にプラスとなった。
パウルが刃物の作成ができるようになったら、初めての剣は自分のを造ってほしいと女剣士が要望すると、最初は騎士用の剣の方がよいのではないかと女性騎士が申し出る。そのときになるまで判らないが、それまでうちを贔屓にしてほしいと笑むパウルは、なかなかに商売上手だった。意外な才覚だ。
接客が終わるまで待とうか、と思っていたが、しばらくかかりそうだと気付き、マリヤは手を振って自分たちが去ることを報せる。視線に気付いたパウルは、柔和に微笑んで手を振り返して了承を示した。すると、眇めた眼差しが二対マリヤを刺す。しかし、彼女の隣にヨハンの姿があることを認めて、剣呑さは一瞬で消えた。
ヨハンとともに訪ねてよかったと、マリヤは安堵し、鍛冶屋を後にする。
彼がいてよかったと思ったが、それを口にはしなかった。
こうしたちょっとした感謝を、パウル相手だと言えるのに、ヨハン相手だと言えない。可愛げがない態度をしていると、マリヤは自覚していた。
また馬車に揺られ、二人は沈黙する。会わない間にあった出来事は充分にあり、話題がない訳じゃない。だが、すぐ聞かずとも夏の間にはあらかた語り合えることだ。急がずともよいだろう。
沈黙が気まずいということもないので、ときどき馬の手綱を握るヨハンの横顔を窺う。事故にならないよう、慎重に操縦する横顔は普段より真面目だ。
少しの珍しさを感じながら、いつまで経っても訊けずじまいのことを思い出す。
彼の気持ちは今も自分にあるのだろうか。
初めての恋に終止符をうったとき、傍にはヨハンがいた。彼の手助けで気持ちに踏ん切りをつけることができたが、最後に思わせぶりな一言を残していった。
自分の空耳だったり、自意識過剰な解釈だったらどうしようと、マリヤはいまだ訊けずにいる。
あのときの一言をずっと意識していることがなんだか悔しい。
悔しさゆえに、自分から訊いてやるものかと意地になってしまい、悪循環を招いている。
ごとごとと揺れる馬車の速度はゆっくりで、慣れれば心地よい揺れとなる。恨みがましく横顔を眺めているうちに、マリヤの視界はゆらりと揺らいでいった。
「……おい」
肩に重みを感じて、ヨハンはよく寝れるなと呆れた。一応声をかけるも返事はない。馬車の音で聴こえない代わりに、規則的な呼吸の振動が肩越しに伝わる。
荷台が軽いと跳ねやすいので、確かに速度を落として馬車を走らせていた。しかし、学園からの送迎で使われたような座り心地のよさなど何もない荷馬車だ。こういうところは下町育ちゆえの逞しさだと感じる。
学園から下町まで、長距離の移動をしていたから、疲れていたのだろうとヨハンは彼女を起こすことを諦める。そして、もう一段階、荷馬車の速度を落とした。
マリヤの家はあと少しなので、通り過ぎるのはほとんどが見知った顔だ。彼、彼女らからの微笑ましい眼差しに晒されるも、ヨハンは耐えることにする。耳が熱を持っていることには、気付かないフリをした。
こうして気を許されていることに悪い気はしない。しかしながら、微塵も意識されていない証明にも感じるから、ヨハンの心中は複雑だ。素直に喜んでいいものか判らない。
確定的な何かをしなければ、彼女はいつまで経っても自分を意識しないのではないかと怪訝になる。
幼い頃は、騎士ごっこで勝っていいところを見せようとしたり、冒険者などそのときどきに憧れたものになると豪語しては関心を引こうとしていた。大きな目標を掲げても飽き性な自分は、結局、騎士にも冒険者にもならず、家業を継ぐために日々働いている。
一昨年の終わり、最後にイザークに会ったときのことを思い出す。雪がぱらつくほど寒い日で、温かいものを食べようとイングリットの酒場で昼食をとった。あれが、下町で彼に会える最後だった。
これからどうするのか、という話になり、家業を継ぐとヨハンは言った。そうか、とただ頷いただけの彼は眩いものでも見るかのように羨望で眼を細めたのをよく覚えている。
別れを告げるでもない、一人息子の自分の兄代わりとの変わらないやりとり。貴族の家に入るというイザークの門出だったはずなのに、食事をおごられ羨望を受けたのは自分で、まるでこちらが門出を迎えるようだった。
だから、当たり前のように家業を継ぐことをダサいとは思わなくなった。なんせ、自分が越えたい相手が羨むことなのだ。
重みのかかる肩を一瞥する。健やかな寝顔がそこにあった。彼女はこうして帰ってくる。彼のように、簡単に会えなくなる訳じゃない。
そのことに甘んじるつもりはないが、彼女の琴線に触れるにはどうしたらいいのやら。
「着いたぞ」
「んう……、ありがと」
マリヤの家であるパン屋に着いたので、ヨハンはいい加減起きろ、と彼女を起こした。寝ぼけていたせいか、割と素直に礼が返った。
荷台から彼女の荷物をとり、御者席から降りようとする彼女に手を貸す。ヨハンは、あることに気付き、マリヤをじっと凝視した。
「何?」
不躾な眼差しに、彼の手をとりながら、マリヤは怪訝に問うた。
「いや、よく飽きねぇなと思って」
自分にも飽きないものがあったと、ヨハンは自身に驚く。飽き性な自分には本当に珍しい。
彼の感想が何に対してのものか判らないマリヤは、首を傾げた。彼女に判るのは、借りた手が思ったより力強く頼もしかったことぐらいだ。
じゃあ、と簡単な挨拶でマリヤと別れる。ヨハンは、なんとなく彼女の姿がパン屋のドアに消えるまで眺める。ドアが閉まる瞬間、最後に見えたのはおさげに結ばれたリボンだった。
よく見る光景でまた見るだろうに、妙に印象に残る。
これからも飽きることがないと確信がある。ヨハンはそんな自分に呆れた。
夏期休暇で家に帰ったマリヤには、馴染んだ生活が戻ってきた。
朝早く起きて家のパン屋の準備を手伝う。日中は、店番が主で接客し、近所の人たちと話すのだ。粉の仕入れ先なので、その配達にくるヨハンとも定期的に顔を合わせた。両親は勉学優先の期間だから働かなくていいと言ってくれたが、家にいる以上、何もしないでいる方が調子が狂うとマリヤは働いた。
その日は、母親に頼まれて夕飯の材料を買いにでた。昼下がりの市場通りは賑やかだった。スパゲッティを買うため、マリヤは量り売りをしている製麺所へ向かうと、見知った顔が入口から出てきた。
「いやぁ、また手伝ってもらっちゃって悪いね」
「おっちゃんが出てるときもあるんだ。男手雇ったらどうだ」
「そろそろ、いい男見つけないとね」
ぴたりと足が止まる。ヨハンが店から出てきた。製麺所の側に停車していたのは、彼の家の荷馬車だったらしい。目的地にもかかわらず、それ以上踏み出せなくなったマリヤに、ヨハンと一緒に顔を見せた少女が気付く。
「あっ、いらっしゃいませ」
「マリヤ」
何も悪いことはしていないのに、ヨハンと眼が合って、マリヤはびくりと肩を揺らした。足を後ろに引きそうになるのを堪えて、最後の買い出しをする。
「スパゲッティをお願いします」
「スパゲッティね。何人分?」
訊かれた必要量を答えながら、マリヤは店内へ誘われる。出てきたところだというのに、ついでのようにヨハンも中に入って、ドアの近くで待つ。スパゲッティを量り、包装しながら製麺所の少女は、ヨハンと軽口を交わす。
「この娘が、あのマリヤちゃんかぁ」
「何だよ」
「マリヤちゃんがいない間、ヨハンがどんな顔してたか教えたげようと思って」
「何言う気だ。スーザン」
可笑しそうに揶揄うスーザンと呼ばれた少女を、ヨハンは口止めしようとする。なんだか彼女の口からヨハンの話を聞きたくなかったマリヤは、彼が止めてよかったと感じた。
いつもの店主以外に対応されるのは、初めてだった。これまで、偶然彼女が店番をしているときに、マリヤは遭遇していなかったらしい。
マリヤが会計を済ませると、ちょうど配達が終わったからとヨハンが荷馬車に乗せてくれた。どうせ同じ方向だから、とマリヤが買い終わるのを待っていたらしい。スーザンとの会話はなおざりに、自分を優先されたことに、マリヤはそっと安堵した。
荷馬車がゆっくりと走り出す。沈黙を作ったのはマリヤの方だった。
「何、ぶーたれてんだよ」
しばらくしても理由を言い出さないマリヤに、ヨハンは焦れて訊いた。隣で理由も判らないまま、不貞腐れて無言でいられたら、どうしたって気になる。
「……配達先に女の子いるって聞いてない」
黙っていても解消されないので、マリヤは不満を零した。
「同じ歳のヤツがいるって、前話しただろ」
言われて、そんな話を聞いたことを思い出す。しかし、そのときマリヤは相手の性別は聞いていない。話したというヨハンの主張も、マリヤの聞いていないという主張もどちらも合っていた。
うちの粉を使っているだけあって製麺所のパスタはいいぞと聞いて、マリヤの家で使うパスタは先ほどの製麺所のものだ。実際に美味しい。美味しいから買っているだけだというのに、スーザンの存在を知らずに買っていたことに不服を覚える。
パン屋を営むマリヤのベッカー家と、粉挽き屋のヨハンのダイスラー家はお互いの仕事柄切っても切れない縁だ。だから、何も変わらないと思っていた。
マリヤは、荷馬車を操るヨハンを見る。粉袋二袋を軽々と担げるようになった腕は太い。首も太くなったように見えるし、肩幅もしっかりしてきた。女性によっては、彼が頼もしく映るのではないか。
ヨハンの態度から、ただの配達先の顔見知りなだけだとマリヤも解っている。それでも、不満がもたげるのは何故なのか。
自分以外の女の子と話しているヨハンを初めて見た。それで、他の配達先にも歳の近い女の子がいる可能性に気付く。スーザンは彼と同じ歳だという。配達先の娘なのは同じだが、歳の分だけ彼女の方が有利なのではないか。いや、自分は幼い頃からヨハンと一緒だった。それが優位かと思いかけ、反って長く一緒だった分だけ短所も知られていて不利なのではと考えを改めた。
そこまで考え、どうしてこんな葛藤をしなければならないのかと、マリヤははっとする。一体何に対しての優劣なのか。
マリヤがまたむっつりと黙り込んでしまったので、ヨハンは嘆息する。
「オマエ、妙なこと気にしてねぇか? 接客するオマエの方が、ずっと歳近いヤツと顔合わせんだろ」
ヨハンからすれば、マリヤの方が余程多くの人と関わる。パン屋の店番もそうだし、学園では歳の近い者ばかりだ。彼女が接客で男相手に笑うのにまでいちいち目くじらを立てていたら、ヨハンの身は持たない。ごく普通に見目がよいに越したことはない価値観の彼女が学園に通うのは、少し気がかりではあるが、自分にはどうしようもないことだ。
マリヤもそれを解っている。卸先がなければ、製粉業は成り立たない。取引相手のとの関係は良好な方がいい。ヨハンが、スーザンや他にいるかもしれない配達先の女性に態度を悪くしては、今後の仕事に差し障る。
今更、当たり前のことを気にするなんて。
家の前に着き、マリヤは荷馬車から降りる。自分が勝手に気分を害しているだけなので、ヨハンを責めることもできない。送ってもらった礼を言って、マリヤは踵を返す。
不意に、くん、と後方に軽く引かれた。マリヤが振り返ると、おさげの毛先を抓むヨハンと眼が合った。先ほどの引力は、髪が引かれたことによるものだったと知る。
「無駄な心配なんだよ。バーカ」
くだらないと一蹴して笑うヨハンに、マリヤは一瞬言葉を失った。その間に、彼はおさげから手を離して、荷馬車で去っていった。
自分の心配が、あり得ないことだと彼は断言したのだ。断言できる理由は考えなくても解る。
彼の手が触れていたおさげの先を、マリヤはぎゅっと握った。
「こういうときだけ、狡いのよ。バカ」
肝心なときばかり、くすぐる言葉を寄越さないでほしい。明確さなどなく、悪態付きだったというのに、不満は払拭されてしまっていた。だからこそ、マリヤも悪態を吐いた。
夏の終わりが近付き、マリヤが学園へ戻る日が迫っていた。
家で過ごす日々もあと幾日かというときに、マリヤは誕生日を迎えた。十六になり、約一か月後に誕生日を迎えるヨハンと少しの間だけ同じ歳になる。幼い頃は、その期間だけ対等になったと強気な態度をとっていた。そして、その分だけ口論が増えていた気がする。
食材の買い物に行けば、たくさんおまけをしてもらえる日だ。満足げに買い物から帰ったマリヤを、両親は笑って迎えた。きっと今夜の食事は豪勢になるだろう。
店番をしていると、パウルが麻袋にくるんだ何かを抱えてやってきた。飾り気のないそれが何かと訊くと、自分への誕生日プレゼントだという。
「開けていい?」
「うん」
頂点を縛った紐を解くと、一本の鉄の軸に上向きに曲がった枝が何本も生えた形状の置物がでてきた。土台はある程度重みがあり、倒れにくくなっている。観賞用の置物にしては不格好で、パウルがそんなものを贈るはずがないと、マリヤは正体に首を傾げる。
「コレ、何?」
「リボン掛け。そろそろ溜まってきたでしょ」
父親に手伝ってもらって造ったのだと、パウルは笑う。金属の枝の先は怪我をしないよう丸く研磨され、表面は錆防止の塗装がされている。使う人のことを考えて作られた道具だった。
リボンが溜まっている理由を知っているパウルだからこそ贈れるプレゼントだった。
「今年もそうでしょ」
「たぶんね」
マリヤには、毎年同じプレゼントをもらう相手がいる。今、彼女が結んでいるリボンもそのプレゼントのひとつだ。いつ頃からか、ヨハンからもらう誕生日プレゼントはリボンになった。包装されるでもなく、ズボンのポケットから取り出されるそれ。それでいて、丁寧に畳まれた状態で渡される。
パウルのいう通り、今年も彼からのプレゼントはリボンだろう。贈り物が判っていると、いつ渡してくれるのかとそわそわしてしまう。
「いつものマリヤちゃんもいいけど、誕生日だしいつもと違う髪型にしてみたら?」
常連客の一人、女性騎士に動きやすい髪のまとめ方を聞いた、とパウルが提案する。他の客がいないので、一人でそわそわするよりはいいと思い、マリヤはその髪型を教えてもらった。そう難しいものではなく、もともとしている三つ編みを団子状に丸めるだけだった。
団子が二つでき、その下で蝶々結びのリボンが可愛らしく揺れた。見た目も可愛く、三つ編みが揺れないので、おさげのときより動きやすかった。この髪型だと、リボンを自分で見ることは叶わないが、おさげが揺れて気になることはない。
ちょうど髪型を変えたところで、ドアベルがカランと鳴った。ドアの方を見遣ると、二人の見知った顔だった。
「お客じゃないのに、そっちから入らないでよ」
「パウルもだろ」
「パウルはいいのよ」
「何だそれ」
「ヨハンも、マリヤちゃんにプレゼント持ってきたんでしょ」
弟分を贔屓にした発言に、ヨハンが不平を訴えようとするも、パウルに優先事項を指摘された。自分の扱いが雑なことはいつものことなので、ヨハンも諦める。
「ん」
素っ気なく差し出されたのは、白いレースのリボンだった。
「わ……」
ちゃんとした言祝がないことより、小花が散った模様のレース柄に意識がゆき、マリヤは感嘆を零す。これまで無地の色違いだったので、今年もてっきりそうだとばかり思っていた。
「ヨハン付けてあげたら?」
「何でオレが」
「今日の髪型だと、マリヤちゃんじゃ結びづらいし」
パウルの言った通り、マリヤには結んであるリボンは解けても、自分の後ろが見えないのでうまくお団子にリボンを巻けない。うまくできる自信がないヨハンは渋々、パウルの提案を飲む。
マリヤが解いたリボンをリボン掛けにかけると、かかったリボンの赤が映えた。リボンがかかった後を想定して、単体だと不格好に見えるほどシンプルな造りだったのだと、マリヤは納得する。早速贈り物が役立った、とパウルは表情を綻ばせる。
ヨハンは、渡したばかりのレースのリボンを受け取って、彼女の背後に回る。ただ結ぶだけだというのに、結び目がちょうどよい位置にならずパウルからやり直しするよう、横やりが入る。背後で二人が揉めるものだから、本当に任せて大丈夫か、マリヤは不安になった。
四苦八苦しながらも、どうにか両方バランスよく蝶々結びできたヨハンは、完成したことで安堵の吐息を漏らす。
「マリヤちゃん、可愛い」
「そ、そう?」
パウルに褒められ、マリヤは照れる。彼女の赤みの強い茶髪に、リボンの白はよく生えた。深紅や紺など濃い色でないと似合わないと自身では思っていたので、繊細な白いレースが似合うと言われて嬉しかった。
ヨハンからも何か感想がないか、とマリヤが視線を送ると、彼は首の後ろに手を当て視線を逸らせた。
「まぁ……、似合うんじゃねぇの」
思っていることと反対のことを言われていた頃に比べれば、マシな褒め言葉だった。しかし、それに満足できず、マリヤは不満を零す。
「ザクなら、ちゃんと可愛いって言ってくれるのに」
今日ばかりは彼なりの譲歩では足りなかった。誕生日で、特別な髪型にしているのだ。特別な日ぐらい、素直な称賛がほしい。
マリヤの呟きに、ヨハンは敏感に反応する。
「っオマエ、そうやっていちいちザクと比べやがって、いい加減オレのこと見ろよ!」
振られてから何年経っているんだ、とヨハンの胸中には悔しさが滲む。幼い頃から兄のように慕っている相手だが、ずっとマリヤの男性の理想像として居座っていることだけはいただけなかった。自分は彼のようにまったく意地を張らずにはいれない。照れと真心のうち、どうしたって気恥ずかしさが勝ってしまうことがある。器用ではない自分に、彼女の理想を押し付けられるのは居心地が悪い。
ヨハンの苛立ちに対して、黙っているマリヤではない。彼女も苛立ちで反発する。
「何よっ、ちゃんと見てるから、あんたに言ってほしいんじゃない!」
ヨハンが眼を丸くするのを見て、マリヤは自身の失言に気付いた。本心ではあるが、知られたくなかった本心だ。
他でもない彼の口から聴きたいから、ただ会うだけだというのに三つ編みを丁寧に編んだし、学園にいるときもヨハンが贈ってくれたリボンを常用している。とっくに想う相手は変わっていた。
けれど、ヨハンに対して負けず嫌いが発動するマリヤは、彼から明確な言葉をもらうまでは自分から明かしてやるものか、と決めていた。
明かしてしまった悔しさか、本心を知られてしまったことへの羞恥か、マリヤの頬は赤く染まる。
思いがけず知った彼女の本心に、ヨハンは驚き、そして可笑しさがこみ上げた。喧嘩腰でないと、お互いロクに気持ちを伝えられないとは。自分も意地っ張りだが、彼女も相当負けず嫌いだ。
「泣きべそかいてブサイクでも、オレにはオマエが可愛いんだよ。バァカ」
ぶに、と頬を軽く抓まれる。
見せる笑みは、くしゃりとした格好よくないヨハンらしいもので。けれど、きっとこれは自分にしか向かない笑顔だとマリヤは気付いた。
「バカっ、いつも一言余計なのよ」
気付いた途端、心臓が騒がしくなり、頬に熱が集中する。悪態を添えないと褒めることもできない相手に、悔しい。
「いっ、いつもだったとしても、言ってくれないと……っ」
解らない、とマリヤは今後の改善を求める。
「男が簡単に……」
そういった男らしさに拘っているのは自分であり、マリヤの好感を得られる態度ではない、とヨハンも解っている。今、それを言い訳にするのは卑怯だと感じ、ヨハンは出かかった言葉を自身で差し止めた。
口ごもり、頭を掻き、視線を外す。それでも、正直に明かすことにした。
「……どういうときに言ったらいいか分かんねぇし、恥ずいんだよっ」
「でも、言ってほしいもん」
期待できない相手に期待していると、マリヤも解っているので拗ねる。言えない理由を明かしてくれるだけでも、ヨハンにしては上等だ。けれど、想う相手にこそ褒められたいと願うのも自然なことだった。
「私が感想聞いたときぐらい……」
その不満はほとんど独り言だった。思考が零れただけのそれに、答えがあった。
「努力、する」
驚いてマリヤが視線をあげると、視線を逸らしたままのヨハンが気恥ずかしそうにしていた。今、口に出す努力をしてくれると彼は言った。彼の性格上、無理だと断られるとばかり思っていたので、マリヤは心底驚いた。今回も自分が我儘を言っただけで、終わると諦めていたのに。
「よかったね。マリヤちゃん」
「パ、パウル!?」
そういえば、彼がいたのだった。感激に浸りかけていたマリヤは、我に返る。一部始終を晒してしまったマリヤは、頬を羞恥に染め、言葉を泳がせる。パウルは、二人の痴話喧嘩を見慣れているので、気にならない。むしろ、ようやく収まるところに収まってくれてよかったと安堵した。
恥ずかしがるマリヤに配慮して、パウルはライ麦パンを一つ買って店を出ていった。店内には、ヨハンとマリヤの二人が残される。
しばらくの間、気恥ずかしさゆえの沈黙が降りた。
ぽつり、とヨハンが訊いた。
「学園戻る前に、もう一回ぐらい休みあるか?」
「ある、けど」
マリヤは、問いに反射で答える。休日が一日残されていると聞き、ヨハンはよし、と頷いた。
「じゃあ、出かけんぞ。二人で」
同じ日に休みをとる、とヨハンに休日の予定を決められた。
初めて二人で、と誘われた。マリヤは眼を見開く。これまで、二人になることはあっても、成り行きだった。意図が明確になったことで、マリヤは意識してしまう。
ヨハンはといえば、パウルを始めとして周囲にマリヤへの気持ちが元々バレている。気恥ずかしさがない訳ではないが、今更だと開き直っていた。
「返事は」
「わっ、わかったわよ」
確認され、マリヤは反発するかのような態度で、誘いを受けた。可愛くない態度をとったと気付くも、ヨハンは気にした様子なく、嬉しそうに口角をあげる。
変わらないと思っていた。
けれど、気持ちを確認し合っただけで、こんなにも変わるものなのか。曖昧な関係に慣れていたマリヤは、予想外の自身に動揺する。
約束を取り付けたヨハンは、すぐに去った。大して長居していなかったはずなのに、驚くことが多かった。その後は、来店した客に髪型とリボンを褒められるたびに鼓動が騒いだ。
その年の誕生日は、想定外に心臓に悪いものとなったのだった。
二人で会う当日、行き先を何も決めていなかったヨハンに、マリヤが計画性のなさに怒るも、その理由に胸を騒がせることになる。
二人でいれれば、それでいいのだと――








