side23.スープ
ガラガラと車輪の回る音が通りすぎる。石畳の道は、蹄の音より、木製の車輪の音の方が大きく響いた。
馬車もすれ違えるほどの大通りを、カトリンは歩いていた。補充品の買い付けのためだ。
エルンスト公爵家に仕えるカトリンは、長女リュディア付きのメイドだ。彼女の身の回りの世話をするのが主だが、主人のための日用品や茶葉などを買い付けもする。自ら足を運んで品を見ることで、新しい商品に気付けたり、商品の質や相場の変動を把握できるからだ。その際、ついでに他の使用人に必要なものも買うことがあり、当初の予定より荷物が多くなることが間々ある。
「カイさん、いつもすみません」
「いんや、これも修行のうちだぁ。カトリンさんが謝ることじゃねぇべ」
カトリンは隣を歩く、青年に謝罪をした。彼は荷袋を抱えており、その中身はすでに八割ほど満たされている。買い付けの際、彼はよく同伴して荷物を持つのを手伝ってくれる。
料理には筋力がいるため、荷物持ちを喜んでするとカイは満面の笑みだ。その笑顔に偽りがないと伝わるから、カトリンは可笑しくなってくすりと笑う。
「ありがとうございます」
故郷の訛りの抜けない口調が相変わらずで、気が緩んだせいもあり、カトリンは笑みを滲ませ、感謝へ言い換える。
厨房の料理人見習い、カイ・ディターレ。坊主頭の髪は長い時でも数センチ程度で、調理帽を被るとほとんど髪が見えなくなる短さだ。彼が髪を伸ばしたところを、カトリンは見たことがない。料理に髪が混入しないようにと常に髪の短くする真摯な姿勢は、野菜の皮むきを主に担当していた雑用が多い頃から一貫している。最近は賄いだけなく、一部の料理を任せてもらえるようになっているが、彼はまだ見習いの立場らしい。以前カトリンが疑問をぶつけると、料理人が一人前と認められるには十年かかるのが普通だと、カイは笑っていた。
そんな彼の人柄の滲む髪型を、カトリンは好ましく感じていた。
「それに、カトリンさんと一緒できて嬉しいだ」
照れくさそうにカイは正直な感想を吐露する。
「そ、そうですか……」
つられてカトリンの頬も赤くなる。お互いが言葉に詰まり、視線も合わせていられず俯く。二人の間に、気恥ずかしい沈黙が下りた。
カトリンは、彼に好意を寄せられている。それは知り合った当初からで、カイの態度が判りやすいためカトリンも薄々気付いていた。だが、お互い照れやすく、いざ二人になると言葉がでない。明確なやり取りがないまま、時折こうして同僚たちの応援のもと二人で過ごす関係が続いている。
訛りと料理一筋の感覚ゆえに言葉に齟齬が生じやすいカイの話し方に、数年のうちにカトリンは慣れた。それに、一度彼女に誤解を与えたことがあったので、彼自身、うまく伝わっていないことに気付いたら、すぐに弁解するようになった。少なからず互いを知り、関係は良好である。
ちらり、とカトリンは隣を歩く彼を一瞥する。
人の好さそうな素朴な顔立ちは、よく見ると男らしさを感じる。料理のために鍛えられた腕は、難なく荷袋を抱えていた。それもそうだ、彼はもう十八なのだから。
お互い真面目に仕事に取り組むため、働いていたら日々はあっという間に過ぎた。カトリンは主人のリュディアのために、カイはエルンスト家の人々のために、日々邁進している。まだ見習いであるカイにいたっては、学ぶことはいくらでもあると休日もひたむきに努力を積み重ねていた。
そんな彼を、カトリンも応援している。
いまだに、さん付け……
応援しているからこそ、こんなことも伝えていいものか躊躇ってしまう。
自分の方が歳下だというのに、彼はカトリンに敬称をつけて呼ぶ。同僚という立場ゆえか、彼が自分にもつ敬意ゆえか、自分が低いものの貴族であるためか。理由を訊くことは、彼が保留している関係を進めることにならないだろうか。
呼称ひとつに距離を感じるようになったのは、カトリン側の心境の変化ゆえだ。
「? どうしただか?」
「なんでもないです」
ふいにカイの視線がこちらに向き、首を傾げる。眼差しの理由に他意はない、とカトリンは首を横に振った。
この距離を充分に感じなくなっている。
かといって、女性の自分から行動してよいものか、と悩む。相手の行動を待つだけ、というのは意気地がないが、いざ行動してはしたない、と嫌われやしないか臆病風に吹かれる。思考が堂々巡りしては、結局、現状維持に落ち着いてしまうのだ。
なんでもない、という些細な嘘をこうして重ねてゆく。
臆病な根本は変わっていない、とカトリンはこそりと自身へ嘆息を零すのだった。
正午過ぎ、使用人たちの食堂で用意されているものとは別の料理を前にする二人がいた。
「今日の賄いはカイのっすか?」
「んだ」
カイが持ってきたのは、厨房の賄いだ。本来は同僚といえ料理人以外に提供するものではない。しかし、見習いのカイがひとつの皿の料理をすべて担当できるのは、今のところ賄いのときだけだ。そのため、昼食のときに限り、ヤンにも同じものを食べてもらっていた。
アーベントロートの北部出身のカイと、南部出身のヤンは住み込みで働く使用人のなかでは歳若く、年齢も近いことから親しい。自分の方が後輩で歳下だから、とヤンは最初敬称付きで呼んでいたが、お互い愚痴や相談をし合って打ち解けてゆき、対等な関係を築いた。お互い、田舎出身のため、親しみやすかったのもあった。
カイが故郷から王都にきたのは、単なる口減らしだった。
資格などがなくとも就けて、一人で生活できるだけの稼ぎを得れて、食事つきで住み込みの仕事。王都に向かう道中、馬車で相乗りになった人々に相談すると、ほとんどが料理人をあげた。そして、商人などは金のある貴族の方が募集が多いとも教えてくれたのだ。
故郷を出た年は不作の年で、王都に着いたときには手持ちの食料や資金も底をついていた。空腹で極限状態だったカイは、料理人を募集している貴族の家のなかで一番身分が高いところから面接にいくことにした。そうして、エルンスト公爵家を訪れた。
厨房の勝手口を挟んで、屈強な筋肉の料理長と対峙する。それまで日々の食料にも困ることがあったカイは、自身の貧相な体躯と比較して、採用してもらえるのか不安を覚えた。
緊張しつつ挨拶をしようと口を開いたら、口より先に腹から音が鳴った。
素直に空腹を主張する自身の腹部に、タイミングが悪すぎるとカイは顔を真っ赤にした。羞恥で言葉を失くすカイに、料理長は一度踵を返すと、木製の丸椅子と、木製の大皿にパンやマッシュポテト、豆と鶏肉を煮たものをものを入れて戻ってきた。
椅子に座って食べるように指示され、空腹だったカイは目の前の食料に食いついた。
今まで食べたなかで一番美味しかった。
この世にはこんなに美味しいものがあるのか、とカイが驚嘆しながら食べていると、料理長はからからと笑った。どうやら感想がそのまま声にでていたらしい。
食べ終わったあと、自分の手でこんな料理を作りたいか、と問われた。カイは力強く首を縦に振る。
エルンスト邸を訪ねた当初は就けるならどんな仕事でも構わないと思っていた。しかし、分けてもらった賄いを口にして、気持ちが変わった。美味い食事というのは、カイにとって極上の体験だった。その極上の体験を自分が提供できるようになれるなら、是非料理人になりたい。
カイの心は、そのとき決まった。
その気持ちを忘れるな、と頭を大きな手が撫でる。訳もなく涙が溢れた。
こうして、カイは料理人見習いとして合格した。
採用が決まってすぐ、清潔でないと厨房に入れられない、と先輩らに風呂に入れられ髪を刈られたのも、今となってはいい思い出だ。
あのときと同じメニューの賄いを前に、カイは初心を思い出す。正確には、忘れないようにこのメニューを作った。今日の昼食の賄い当番は自分だ。
賄いを任されるようになって以降、カイは邸にきて最初に食べたメニューを、定期的に作るようにしている。初心を心に刻み直すため。そして、同じ料理を更に美味しく作れるようになるために。
ヤンとともに食べるのは、友人だからというのもあるが、彼が正直だからだ。料理に対して、正直な感想をもらえるので、とても参考になる。覚えていれば、以前同じものを食べたときの記憶とも照会して、違いを教えてくれる。その以前が、自分のものか先輩たちのものかで、違いの意味合いも変わってくるため、ヤンの感想を毎回真剣に聞く。
「今日のポテトは全部潰れてないっすね」
「サイコロに切ったのを、あとから混ぜてみた。どうだ?」
「なんか食べ応えがあって好きっす。でも、フローラ様とか小さい子は喉を詰まらせるかもっす」
「もっと小さくした方がいいべな」
故郷に弟妹のいるヤンは、自分の好みであることとは別に気になったことを告げた。なるほど、とカイは改良の余地があることに頷き、次回の参考にする。先輩にも黒胡椒が利いていて、働く者の賄いにはいいが、刺激に弱い年頃などには向かないと指摘された。黒胡椒は挽きたての方が香りがよいので、食べる直前に、好みに合わせ各人でかけてもらった方がいいかもしれない。
カイが改善案を思案している間に、ヤンは食べ終わる。それに気付いて、カイも冷めないうちに自身で作った賄いを食べきる。働く者の性か、二人とも食べるのが早かった。そのため、休憩時間にゆとりができる。
残りの休憩時間の歓談中、ヤンはそういえば、と話を持ちかける。
「いつになったら、カトリンさんに告るんすか?」
「なっ、んななななにを、そ、そげなこと……っ」
「付き合ってないのが不思議なくらいっす」
恐れ多い、と恐縮しきるカイに対して、ヤンは恋人関係でないことの方が奇怪しいと指摘する。
カトリンのメイド仲間のお姉さん方がこれだけ応援しているのに、とやきもきしているのをヤンは知っていた。料理修行に明け暮れて、自分からデートに誘うこともしないため、カイはメイドたちから陰でヘタレと呼ばれている。ヤンも否定できず、耳にしてもカイを擁護できなかった。
指摘した現在も、カイからは意気地のない言葉しかでない。
「けんど、カトリンさんは貴族のご令嬢だし……」
「でも、お嬢様みたいに婚約者とかいないっすよ」
「オラ、まだ一人前になってないし、せめて肉料理を任せてもらえるようになるまでは……」
「そんなに待たせてたら、さすがにカトリンさんも他所にいっちゃうっすよ」
カイの、甲斐性のない身で安易な告白はできないというのも、ある意味誠実だ。貴族令嬢には愛の告白を受けることは婚姻と同義であるし、カイも結婚を前提とした付き合いを希望している。彼女との関係を真面目に考えているからゆえ、告白すらできないという主張も解りはする。
しかし、ヤンたち他の使用人たちからすれば、カトリンはもう十六で令嬢として結婚適齢期に入っている。魔力量測定で入学基準より少し足りなかったため、王立魔導学園に通っていないが、場合によってはそこで相手が見つかっていた可能性も否定できない。
カトリンの入学可否については、彼女の主人のリュディアも入学されては寂しくなると安堵していたが、カトリン自身とカイの二人の方が安堵していたのをよく覚えている。結果がでるまで不安がっていたカイを宥めたのはヤンだ。
いまだに決断しかねる態度のカイを眺めて、ヤンはある案が浮かぶ。
「じゃあ、自分がカトリンさんに告るっす」
「へ?」
まさか友人が好きな人の結婚相手に立候補するとは思っていなかったカイは、頭が真っ白になった。
「けんど、身分とか歳とか……」
「カトリンさんは身分とかで判断する人じゃないっす。それに、二つ上のカイが大丈夫なら、一つ下の自分でも大して変わらなくないっすか?」
「ヤンは好きって訳じゃ……」
「カトリンさん、優しいんで好きっすよ」
知り合いのなかで誰と結婚したいかと仮定であれば、ヤンはカトリンをあげる。歳が近く女性の使用人のなかで一番親しい相手だ。性格も優しく、イザークがリュディアと温室でお茶をするときのお茶請けをいつも分けてくれる。カイと彼女の関係がなければ、結婚相手として望ましい相手なのだ。
一般論としての友人の回答に、カイは蒼白になる。こんな身近に恋敵になる可能性のある相手がいたとは思ってもみなかった。それに、考えてみると、自分よりヤンの方が接点は多い。なにせ、彼女の主人のリュディアが庭師見習いのイザークに会いにいくときには、カトリンが追従することが多い。イザークと同じく庭師見習いであるヤンもその場にいることはある。同僚や先輩の御膳立てがあってどうにか一緒の時間を持ってる自分の方が、条件的に不利だと気付いた。
「……っだ、だめだだめだ!」
それだけは駄目だ、とカイは思わず主張していた。
「じゃあ、告るんっすね?」
「そっ、それは……」
挑発に食いついたので、ヤンが行動に移すのか確認すると、カイはまた口ごもる。
ならば、とヤンはさっぱりと今後の算段を彼に告げた。
「今度、カトリンさんに年下も大丈夫か聞いてみるっす」
カイは、二の句が継げず、はくはくと空気を食む。そんな彼に構わず、ヤンは食器を片付けに席を立った。カトリンの恋人でもないカイには、友人の行動を止める権利などない。こういうときに何もできないと思い知り、彼は肩を落とすのだった。
昼下がりに、ヤンが正面玄関に続く石畳の掃き掃除をしていると、カトリンが休憩を促しにきた。
ということは、兄弟子のイザークは今頃温室で彼女の主人のリュディアとお茶をしているのだろう。お茶の用意を終えたカトリンは、お茶請けのお菓子をお裾分けにきたのだ。
「わざわざ申し訳ないっす」
「いえ、私がしたくてしてることなので」
邸の裏にある温室から正面玄関までは距離がある。その手間をかけたことをヤンが詫びると、カトリンはにこりと微笑んだ。
元々、お菓子のお裾分けはイザークがしていた。しかし、彼と主人の過ごす時間を少しでも延ばしたいカトリンが、自ら届け人に名乗りでたのだ。それからは、イザークと作業場所が違ってもカトリンがヤンの分の菓子を届けている。
菓子を受け取るついでに、ヤンは訊ねた。
「カトリンさんは年下はアリっすか?」
「はい?」
脈絡のない問いにカトリンは首を傾げる。
「邸の人のなかで結婚するなら誰がいいかって話になって、自分はカトリンさんだって言ったっす」
「それは、光栄です……」
誰との会話かを追求するよりも、驚きが克ち、カトリンは眼を丸くしながらも礼を返した。ヤンは良くも悪くも庭仕事を覚えるのに夢中で、恋愛の話題に頓着していないようにみえた。そのため、彼がそういった類いの質問にきちんと回答をもっているのは意外だった。
「で、どうっすか?」
「えぇと……」
同僚としか思っていなかった相手にどうかと訊かれても、カトリンには答えようがない。悩んだ末、カトリンは正直に答えることにする。
「年齢などに関係なく、ヤンさんは素敵な方だと思います。けれど、そういったお相手として見たことがなくて……」
日に焼けた肌は、故郷にいた頃より薄くなったというがカトリンより濃い。その健康的な肌に、真夏の太陽のような笑顔はよく似合っており、何事も前向きに捉えるヤンは自分にはないものを持っている人間だ。対極にある性格の持ち主だからこそ、眩く、そして魅力的に映る。
しかしながら、それは人間的な憧憬であり、異性としての魅力を感じるかといえば、自分には眩しすぎるというのがカトリンの感想だ。
「じゃあ、そういう相手として見てる人がいるんっすね」
にかっと笑顔で断定され、カトリンは閉口する。そういう相手、といわれて瞬時に浮かんだ人物がいたからだ。
カトリンの反応に、ヤンは満足そうだ。
「どうして結婚しないんすか?」
「それはまだ早いかと……、それに」
「それに?」
「相手の方からは何も言われていませんから」
心細げにカトリンは微笑む。彼からの好意は態度からは伝わる。しかし、それだけだ。好きだと言われた訳でもない。時々、自分の思い違いなのではないかと自問自答してしまう。それでも、相手に確認する勇気はない。自分は臆病だ。
ふむ、とヤンはひとつ頷いた。
「カトリンさんもご令嬢だから、はしたない、とかが理由かと思っていたっす」
「ただ、臆病なだけですよ」
平民でも女性から告白することは珍しい。だが、なくはない。ヤンには、お互いが足踏みしている状態なら一方が踏み出せばいいだけのことのように思う。彼女から踏み出さないのは、カトリンの性格上、令嬢としての品格なども意識してのことだと予想していた。けれど、恋する乙女ゆえの起因だったらしい。
「なら、さっきのことをカイに話したらいいっす」
「さっき……?」
「さっき自分がカトリンさんを驚かせたことです」
先ほど浮かんだ相手を指定され、カトリンはそれにどういった意図があるのか解りかねた。不思議そうにするカトリンに、ヤンはいたずらっ子のような笑みをみせる。
「腹いせに、ちょっと慌てさせるぐらいはいいじゃないっすか?」
ヤンからすれば、兄弟子のイザークと違ってカイは恵まれている。想い人に婚約者がいないだけでなく、彼女の後見人はこの邸の主である公爵ジェラルドだ。彼が後見人になった経緯は知らないが、恋愛結婚をした彼が家族のように大事にしている使用人の恋を支援しない訳がない。手を伸ばせば届くところに、彼女がきてくれているのに、カイは及び腰なのだ。
兄弟子のイザークは、自覚してるかどうかは判りかねるが、仕える邸の令嬢リュディアを大切に想っている。彼が笑っているので、ヤンは彼が不幸だとは思わない。けれど、友人のカイの煮え切らない態度をみていると、兄弟子の状況と比較してしまい時折やりきれなさを感じる。
だから、これぐらい煽ってもいいだろう。
ヤンの提案に、カトリンは小さく吹き出した。そして、口元を押さえながら、可笑しそうに笑う。そんなに上手くいかないだろう、という彼女の言葉に、ヤンは絶対の自信をもって大丈夫だと返した。成功することはすでに実証済なのだから。
秋が更け木の葉舞う季節に、ヤンの笑顔は似合わないほど眩しかった。
冬の気配が濃くなり始めた頃、カトリンが厨房の勝手口に立ち寄ると、カイは野菜の皮むきをしていた。
彼が料理人見習いになって以降、一人年配の料理人が退職したため人員募集がされ後輩が一人いる。しかし、使用人に定期的な休日を設けさせるエルンスト家では当番制である程度雑用が回ってくる。いくらかソースやスープ作りを任されるようになったカイでも、彼の先輩でもそれは変わりない。
木の桶は水が貯められたものと、そうでないものがあり、水がある方には皮の剝き終わったじゃがいもが放り込まれてゆく。カイは、空の桶にするすると剥いたじゃがいもの皮を落としては、包丁の角を使って器用に根と芽をえぐり取る。十になるかならないかの頃からしている作業のため、量があってもカイには単純作業で楽なものだった。
手慣れた様子に、カトリンは思わず見入る。
「あんれ? カトリンさんでねぇか」
手元に集中していたカイが、不意に視線をあげ、ようやくカトリンの存在に気付いた。厨房に用かと訊ねると、彼女は仕事の合間に通りかかっただけだと答えた。彼女の答えに嘘はなかったが、主人の部屋に戻るのに、あえて厨房を通るルートを選んだことはカイには明かさなかった。
「少し見ていてもいいですか?」
「そげな面白いもんでもねぇぞ」
長居はしないから、と乞われ、なぜ見学したがるのか不思議に思いながらも、カイは了承した。あと少しで終わる作業なので、そこまで彼女の身体を冷やすことはないだろう。
カイはそう言ったが、カトリンには充分楽しめるものだった。めくるように皮が剥かれ、次々と水の桶にまっさらなじゃがいもが浸かってゆくのだ。カイにとっては日常茶飯事のことでも、包丁をあまり持ったことのない自分ではこうも魔法のようにはできないことだろう。
じゃがいもの変貌に注目していたカトリンは、ふと彼の手が赤くなっていることに気付いて、驚く。
「カイさん、手が冷たいんじゃ……!?」
「感覚はまだあるから大丈夫だぁ」
冬場にはよくあることだと、カイは笑う。北部出身の彼からすれば、感覚がなくなるほど手がかじかむ故郷の冬に比べれば、王都の冬は優しい。
彼が平気な理由を聞いても、カトリンは指の赤さが心配だった。今度、手袋を編んで渡そうと決める。せめて、調理作業をしていないときぐらいは、手を保護してほしい。
「カトリンさんの綺麗な手に比べたら、不格好だべな」
令嬢の彼女には見るに堪えないものではないか、とカイは苦笑する。水仕事で手荒れはよくあるし、鉄の鍋やフライパンを持つこともあるので熱さにも強い指の皮は厚い。手だけでなく、自分は見目のよい容姿ではない。
「そんなことありません」
しかし、そんなカイの発言をカトリンは真っ向から否定した。彼女には珍しく、少し怒った様子で言葉を続ける。
「とても立派な手です。いつも頑張っているカイさんは素敵です」
だから、二度とそんなことを言わないでほしい、とカトリンは懇願した。
凍てた空気に触れたせいではなく、カイの頬は紅潮する。嬉しくて堪らない。
「あ……あんがと」
礼をどうにか言って、カイは口ごもってしまう。皮を剥く速度だけは落ちず、あと一つというところだ。
カトリンは、主人のリュディアが自分が卑下するたびに怒る気持ちがようやく解った。自分が素敵だと思っている相手が自身を卑下するようなことを言うと、とても悲しい。相手が信じてくれるまで本心からの言葉を贈りたくなる。主人が怒ってくれた分だけ、自身を誇らねばならないとカトリンは胸の内に刻む。
言葉をもらった分だけ、自分も彼に言葉を贈りたい。そう思った。
不意に、今の季節と真逆の笑顔の持ち主とのやり取りを思い出す。友人を奮起させようとしていた彼も、こんな気持ちだったのかもしれない。
「そういえば、以前ヤンさんに年下はどうかと尋ねられたことがありまして……」
友人の想いを伝えようと、カトリンがそのときのことを話し始めると、カイはあからさまに動揺した。
「え゛!? いだぁっ!」
「カイさん!?」
最後のじゃがいもの皮を剥き終わったときに、手を滑らせて刃が包丁を持つ手と反対の指の腹に刺さった。傷は浅くすぐ刃を離しはしたが、刺さってから血がでるまでが視界に入っていたので、すぐさま痛みを自覚してしまう。手が冷えているから、余計に痛みには鋭敏だった。
食材に血がついていないことを安堵するカイに、カトリンはそれよりも先に自身の心配をするべきだと指摘した。そして、ハンカチで患部を押さえさせて、カイを使用人控室へとつれてゆく。ちょうど控室には同僚のメイドがいたので、戻るのが少し遅れると伝言を頼んだ。
使用人控室には、軽度のものなら対応できる医療品が常備されている。使用人が勤務中に軽度の怪我をしても対応できるように、だ。実際、今回のように役に立つ。
「めんぼくねぇ……」
そう謝罪するカイの顔色は青い。負傷したせいでも、血が苦手な訳でもない。
気にしないように返しながら、カトリンは言いどきを見誤ったことに罪悪感を覚えた。よもや彼がこんなにも動揺をみせるとは思っていなかったのだ。だから、世間話として流そうとした。彼の友人のお墨付きは確かだった。
手当を受けている間、視線は何度もカトリンを見ては、下げられる。先ほどの件が気になるが、確認するのも怖いのだろう。あまりにも顔が青いものだから、カトリンは不憫になった。
手当を終え、カトリンはふぅ、と一息吐く。
「ヤンさんは仕事仲間として尊敬できる方ですが、それだけです。彼にもそう答えました」
「そ、そっかぁ」
ほっと安堵をみせるカイに、ヤンのように更に言及はしてこないのだな、とカトリンは苦笑した。自分は存外、想い人に対しては我儘かもしれない。自覚したそれを、彼に知られたくないような知ってほしいような心地になる。
「私はカイさんの思うような人間じゃないかもしれません」
ぽつり、と思わず呟く。失望されたくない保険なのか、相手の気持ちを試したいのか、口にした時点で自分が狡く感じた。
カイはというと、きょとりと眼を丸くする。
「んだども、オラ、言うほどカトリンさんのこと知らねぇぞ」
付き合い自体は長いが、同じ邸に数年いても二人で会って話す機会は少ない。そのなかで、お互いのすべてを打ち明け合うには時間が足りない。
「オラは、カトリンさんがきたときも話で聞いただけだ。それから、遠くで働いてんの見て、十かそこらのお嬢さんが綺麗な姿勢で歩いててすげぇなぁと思っただ」
貴族の令嬢が教養を受けているからといっても、カイには自分が邸にきたときと変わらない少女がそのときの自分よりも小さいのに、落ち着いた所作をしているのは驚愕だった。失敗を繰り返して少しずつ仕事を覚えていった自分とは雲泥の差に思えた。けれど、遠目にも彼女の表情はどこか必死で、まるで生きるために仕事にありつこうとしていたときの自分を思い出せた。
故郷と違って衣食住が満たされている環境で、どうしてあんなに小さい女の子が笑っていないのか。カイは、いつかあの女の子が笑えるようになればいいなと願った。
「けんど、こうして話すようになるまでオラ、カトリンさんが笑った顔も知らなかっただ」
人伝に、お嬢様とひと悶着あっただ、関係が緩和し更に紅茶の腕前があがっただと、彼女の話は聞きはした。しかし、話で聞くだけでは彼女の表情は見えない。自分が見ることができるのは、懸命に働く姿の彼女だけだ。
勇気を出して初めて声かけたときは、言葉を誤って泣かせてしまった。それでも、自分の知る彼女の表情が増えたのは確かだ。その後、周囲の協力を得て、同僚として話せるようになるまで彼女も自分の名前を知らなかった。話すようになって彼女の笑顔を見れるようになったことも、自分の名を呼んでもらえることも、とても嬉しかった。
彼女の人柄を正確に把握できるほど、彼女を知らない。
「だから、これから知っていけばいいだ」
カイはそれが楽しみだ。知っていける未来があったらいいと思う。
幻滅する以前の問題だという彼の笑顔は朗らかだ。カトリンは眼をぱちくりさせる。確かに、自分も彼のことをほとんど知らないことに気付いた。彼女も、彼のことをちゃんと知りたいと感じた。
「けんども、話すようになってからも、じゃがいもみたいにすげぇ人だと思ってるのは、変わんねぇ」
カイにとっては、食糧難のときに芋ひとつを蒸かせば腹が満たされた経験があるため、命そのもので、じゃがいもは偉大な食材だ。彼にとっては最上級の称賛だったのだが、初対面のときにカトリンに言って大きな誤解を与えたことがある。誤解が解けて以降、カトリンも彼にとっての称賛と理解はしている。それでも、一般的な褒め言葉ではないと知ったカイは、これまでその表現を使うのを控えていた。
「ただ火を通すだけでも美味ぇし、裏ごしして丁寧にスープにしたら冷たくても美味ぇ上品な料理にもなる。カトリンさんも、そのままでも充分だけども、手を加えた分だけ素敵になる人なんだろうと思うだ」
過大評価ではないかと思うほどの称賛に、カトリンは胸を熱くする。彼の眼に、それだけ素敵なものに映っているなら、それだけで自分を肯定できそうだ。
第一印象は変わらないからこそ、カイはこれまで自身の想いを口にしてよいものか迷っていた。貴族の世界のことは解らないが、彼女はきっとそちらの世界でも輝こうと思えば輝ける人なんだろうと思う。そんな彼女に、同じ目線の高さで隣に並びたいと願ってよいものか。願いを受け入れてもらえたとしても、彼女に我慢させる結果にならないか。
自分を選ぶのが最良の選択だと、カイは断言できない。
けれど、どんなに悩んでも、彼女が他の誰かの隣で笑う未来は見たくないという結論に至る。
「ありがとうございます」
嬉しさに頬を染める彼女を、こうして間近に眼にする機会が今後もほしい。
カイが拳を握ると、手当された指先が隠れた。
「……カトリンさん、オラの夢を聞いてくれっか?」
「どんな夢ですか?」
「オラ、ひもじい思いをすることがあったから、自分の子供には美味ぇもん腹いっぱい食わせて、めいっぱい笑わせてやりてぇんだ」
「素敵な夢ですね」
彼の料理人になりたい最終目標を聞き、カトリンは心が温かくなる。胸に感じた熱のように、彼は温かな家庭を作ることだろう。それが容易に想像できた。
「そんときにな、カトリンさんもいてほしいだ」
緊張で力の入りすぎた拳のなかで、指先が痛みを訴える。しかし、カイはどんな回答がくるか判らない恐怖で、力を緩めることができずにいた。
相手の眼を見つめていられず、カイはぎゅっと眼を瞑る。すると、どきどきと脈打つ心臓の音が耳の裏でしているように大きく聴こえた。
「はい」
そんな心音のなかで、ぽつりと優しい声音が聴こえた。
返事の意味を反芻して、ようやく理解したカイはそろりと瞼を持ち上げる。そこには、やわらかに微笑むカトリンがいた。
「……いいんだか?」
夢でもみてやしないか、とカイが確認すると、カトリンは首肯する。
「はい。私も子供たちと一緒にカイさんの美味しいごはんを食べたいです」
それはとても幸せな未来だと、カトリンは感じる。
「ぃやったぁあぁぁぁっ!!」
彼女の肯定を得て、現実と実感したカイの大声は使用人控室の外にまで聴こえた。彼の雄叫びに驚いた同僚の使用人たちが集まると、カイは嬉しさの余り、くる人くる人にプロポーズを受けてもらったことを報告して回るので、カトリンは同僚たちからおめでとうの嵐を受けることとなる。カイのはしゃぎ様に、同僚たちだけでなくカトリンまで可笑しくなり、皆で笑い合う。
カトリンには、とても恥ずかしく、とてつもなく幸せな瞬間だった。









