side20.名前
「ずっとお慕いしておりました……っ」
頬を染め、恥じらい、可憐な令嬢の小さな口から愛情を告げられる。
「そう」
愛らしい令嬢を、藤色の瞳は声音の通り静かに見下ろしていた。
そして、耳にかかる髪を払う仕草に合わせて、告げた。
「だったら、アタシより美しくなってから出直してきなさい」
宣告された内容に、令嬢は悲壮を浮かべる。
長い睫毛、柔らかな髪、きめ細やかな肌、彫像のように整った美貌の相手にそのようなことを言われては、お呼びではないと同意だ。彼は、化粧を施し可能な限り髪や制服を着飾った令嬢よりも美しかった。歴然とした差を前に令嬢は涙を滲ませる。
溢れるかという前に、令嬢は礼を執り、去っていった。
令嬢の姿が見えなくなった廊下で、嘆息がひとつ零れる。
「どいつもこいつも根性ねぇな」
「……ニコ、喧嘩じゃねぇんだから」
ずいぶんと雄々しい感想に、隣で一連のやり取りが終わるのを待っていたイザークは、勝手が違うと一言添える。
美貌の令息、ニコラウスの友人のイザークは、令嬢が声をかけてきた時点で場を譲ろうとした。だが、当のニコラウスにわざわざ去る必要はないと引き留められた。彼には、知らぬ令嬢より友人の方が優先順位が高い。
実際、身長以外は十人並みの容姿のイザークが隣にいようとニコラウスの美貌で霞み、令嬢は気にした様子はなかった。そもそも告白で緊張していたであろう彼女が、想い人以外のイザークに気付いていたかも怪しい。いずれにせよ、イザークとしては水を差していなければそれでいい。
以前から話に聞いていたが、友人が漫画みたいにモテる事実にイザークは半ば感心していた。迷惑になるほどモテるというのはこういうことをいうのだと、友人を見て学んだ。告白のためにいちいち人気のない場所まで移動するのも、頻度が高くなれば手間だろう。声をかけられたその場で用件を済ませるように言ったニコラウスの心情は解らなくもない。
成長期を迎えたニコラウスは手足も長く、高身長で、いかに中性的な顔立ちだろうと彼の性別を間違えようもなくなった。すると色香のある美貌に見惚れ、親を通して縁談を持ちかけられたり、魔導学園に入学してからは令嬢本人から愛を告げられる機会が増えた。あえて敬遠されるよう女性的に振る舞っていた彼からすれば、掌を返した周囲の反応が煩わしいだけだ。
ニコラウスも貴族である以上、いずれ婚姻が必要なことは理解している。だからこそ、一時の恋情でなく一定の基準をもって相手を選別している。先ほど、令嬢に告げたのは断りの文句ではなく、その基準だ。だが、ほとんどの令嬢にとってその基準が酷なもののため、断られたと受け止められる結果となる。
「どうせ、美人なんて三日で飽きる」
「どうだろ。俺は、ニコにもディアにも飽きたことないなぁ」
ニコラウスが見飽きた頃に問題が発生すると予見すると、真逆の意見が友人から返った。そこには自分と友人の婚約予定の令嬢の名前が並んだ。
「割といつ見ても綺麗だなって思う」
花を慈しむときと変わらぬ眼差しで友人は言う。だから、荒んだ心持ちが和らいだ。ニコラウスは呆れたように半眼になる。
「オレにも言ってるって知れたら、ディア嬢が妬くぞ」
恋人と同列の称賛を送るな、と忠告すると、友人は不思議そうに首を傾げた。
「ディアもそう思ってるのに?」
友人からすれば、自分が美人だというのは、彼の恋人も共感するただの事実でしかない。そして、彼の恋人も同意を求められたら、反論できずに頷くだろうことが容易に想像できた。彼女はそういうところで素直なゆえに、不器用だ。
だからこそ悔しがるのだと、友人に明かすのは容易い。しかし、勝手にバラしては、彼の恋人であるニコラウスのもう一人の友人が怒ることだろう。
「……ザク、名前で呼べて浮かれてんだろ」
とりあえず、別の指摘をしておくことにする。
指摘を受けた友人は、照れたようにはにかみ、肯定として謝罪した。
「わり。ウザかったか?」
「ウザかったら殴ってる」
「そんときは思いっきり頼む」
笑って頼まれてしまったので、ニコラウスは任せろと約束を交わす。しかし、この約束が果たされることはないだろうと、ニコラウスは解っていた。
ニコラウスは知っている。彼がどれだけ愛しい者の名前を呼べずにいたか。そして、惚気云々については自覚前から当てられていたので、今さらだった。
だから、嬉しそうな友人を見て、ただよかったと感じる。自身を度外視することに長けた彼が、何も諦めずに済む未来を掴んだのだ。友人が侯爵令息となり婚約が来年度に公表される。それは決定事項なのだから、今はようやく結ばれた喜びにただ浸っていればいい。
多少の不満があるとすれば、自分に協力する間がなく友人二人が結ばれたことだろうか。
友人のイザークは平民だが、今年中に侯爵家に養子縁組されることが内々で決まっている。そのため、想い人の公爵令嬢のリュディアに見合う立場を手に入れ、婚約できるのだ。本来の身分のままなら、婚約した場合、周囲の反対が起こるはずだった。ニコラウスは必要があれば嫌っている宰相を務める父親に頭を下げてでも協力する覚悟をしていたが、イザーク自身が問題の身分差を解消してしまった。
ニコラウスにとって、イザークは初めてできた友人だ。だから、肝心なときに力になれず多少口惜しくある。
イザークの方はそんなこと気にもしていないことだろう。それもニコラウスは解っている。
「ニコ、さんきゅ」
自身が殴られる約束に、感謝をするのは彼ぐらいだろう。こんなことぐらいで安堵し喜ぶのなら、容易いことだとニコラウスは思う。喜びの閾値が低すぎると感じるが、これが彼なのだから仕方ない、とニコラウスは笑みを零した。
「俺にできるコトあったら、いつでも手伝うからな」
イザークは約束の礼にそんなことを言う。
彼にとっては日頃の感謝も兼ねており、ニコラウスの存在に頼りきりだと感じている。二年遅れて入学したり、いくつかの理由で孤立しても奇怪しくない状況にもかかわらず、ニコラウスは幼い頃からと変わらずに接する。気安い関係の友人の存在に、イザークは感謝しかなかった。
存在に助けられているからいつでも力になりたいと、友人の笑顔は語っていた。
それはこちらの科白だ、とニコラウスは笑い返した。
ニコラウスの学園生活のほとんどは大切な相手を守るために使われた。
入学してからの二年は、姉のヘロイーゼと極力行動を共にした。彼女の婚約者と二人になる時間を減らすためだ。過去にヘロイーゼが婚約者のせいで呪いを受けていたことがあり、解呪後、きちんと交流をするようになったことで婚約者は彼女の魅力に気付き、徐々に想いを寄せるようになった。しかし、ニコラウスは姉の婚約者を完全に認めた訳ではない。
寛容すぎる姉の代わりに、ニコラウスが彼女の婚約者を責めた。二年間、逢瀬を阻んで圧をかけたので、嫁いだ姉は大事にされることだろう。そうでなければ、許さない。
三年目にいたっては、遅れて入学した友人イザークの傍に極力いるようにし、自分の女性的な振る舞いが誤解を呼ぶのを逆手にとり虫除けをした。彼の入学当初は、リュディアが他の者と婚約関係にあったため、彼女が直接牽制することが叶わなかったのだ。
イザークは本人が自覚している通り、ニコラウスと違って十人並の容姿をしている。だが、彼の言葉は率直なゆえに相手の心に響きやすい。彼はよいと感じたものは素直に称賛する。世辞の応酬に慣れた令嬢のなかには、裏表のない称賛に心躍らせる者もいることだろう。彼と話す機会が多くなるにつれて、真剣な想いを抱く者が現れないとも限らない。一人でも本気にさせることは、大多数の人気を得るより性質が悪いとニコラウスは思う。
このことを本人に言ったところで過大評価だと、イザークはきっと信じない。自分が卒業するまで、そして友人二人の婚約が公表されるまで、あと半年弱。ニコラウスはそれまで牽制の役割を果たそうと決めていた。
イザークも自身を度外視しやすいが、ニコラウスも局所的に他人を優先する傾向がある。おそらく、違いはその点を自覚しているかどうかだろう。
……けど、このままだとクソ親父に勝手に相手決められそうだな。
放課後、寮に戻り自室で落ち着いたニコラウスはひとつの危惧に思い当たる。
在学中に婚約相手が決まらなければ、自分の奇抜な振る舞いのせいだと父親は頭を抱えることだろう。父親が困る分にはまったく問題ないが、堅物な父親の見繕う相手が自分とやっていけるのか。
最初の二年は姉のため、最後の一年は友人のため、そう過ごすことにニコラウスは満足している。しかし、卒業後を決めていなかった。父親の伯爵位を継ぐことは将来的に確定している。ただ定められた未来が待っているだけだ。
自分の意思で決められる範囲の狭さはニコラウスも解っている。生涯連れ添う相手ぐらいは、とお互い負担にならないように基準を設けてみたが、その条件を満たす令嬢は現れない。
ふと、一人だけ、令嬢ではないが基準を満たす者がいたことを思い出す。
袖から外したカフスボタンは、それぞれ透き通った黄色と新緑のように爽やかな緑の石が嵌っていた。色違いではあるが、デザインは対になっているそれにニコラウスは自身の魔力を注ぐ。
彼の風属性の魔力を吸ったカフスボタンから魔法陣が浮かび上がり、吸った魔力を消費して部屋に防音の膜が張られた。
『こんばんはっ、ニコちゃん様! 今日は早いですね』
「あら、いけない?」
『いえっ、夕飯を終えて食休み中だったので全然オッケーです!』
カフスボタンの石が仄かに光り、威勢のよい少女の声が響いた。こちらの防音の術にはニコラウスの魔力を使っているが、石を通して会話するための魔力は声の主の魔力に依存している。この遠隔で会話する魔術が成立しているのは、彼女の持つ珍しい二属性の魔力ゆえだ。
ニコラウスの提示する婚姻条件を満たしていると豪語したのは、他でもない声の主。このアーベントロート国の第三王女、フィリーネ・エルナ・フォン・ローゼンハインだ。
「食後に、ベッドでゴロゴロしてないでしょうね」
『いっ、今はニコちゃん様と話すために正座していますっ』
食後すぐに横になってはいないか、とニコラウスが疑うと、慌てた声音で即答が返った。彼女の答えは、裏を返せば自分と話す前までは横になっていたことを認めているようなものだ。軽い指摘も上手く誤魔化せないで王女として大丈夫なのか、とニコラウスはフィリーネが心配になる。
横になるクセが付くと横に成長する恐れがあると注意すると、カフスボタンからうぅ、と返す言葉なく唸る声が洩れた。
父親が宰相とはいえ、一伯爵令息でしかないニコラウスが、自国の王女と会話する特殊な魔具を所有している理由は簡単だ。王女であるフィリーネが望み、それに彼女の兄の王子ロイが応えたからだ。
ある日、気軽に妹からだ、とロイからカフスボタンを手渡されたときは、この兄妹の規格外さに呆れた。いや、当初はぬいぐるみの形状になる予定だったことを考えれば、まだ配慮されている。ロイは弟妹に対して甘いところがある。そこが、非の打ち所がない彼の唯一の欠点かもしれない。
「アンタに合わせてドレス作られてんでしょ。コロコロ体型変わったら、どんだけ金かかると思ってんのよ、維持しなさい」
『テレーゼみたいなこと言わないでくださいぃ……』
王女のドレスが既製品であることはごく稀だ。成長の都度、採寸され彼女のためだけに作られる。王族の衣服に贅を凝らさない訳がなく、王族に誂えたものなら一着だけで、平民にとっては一財産だ。一着にそれだけの価値があるとフィリーネも理解している。
太りすぎても痩せすぎても駄目だ、というのはなかなかに難しい。侍女たちが健康管理に協力してくれているからこそ成立している体型だ。幼い頃から世話をしてくれている侍女からも、今しがたのニコラウスのような文句で口酸っぱく小言を言われている。フィリーネが、侍女を思い出し渋い声をあげるのも仕方のないことだった。
『というか、ニコちゃん様その話し方』
「っと、悪ぃ。ついクセで」
反省しているフィリーネをこれ以上追い詰めるつもりもないので、ニコラウスは彼女の不満の声に応じて、素の口調に切り替える。女性的な口調は習慣付いてしまっているため、友人のイザーク以外にはほとんど口調を戻したことがない。家族も慣れてしまっているし、当初の目的が異性に対する防御策だったため、異性相手に素で喋るということに馴染んでいない。
しかし、数ヶ月前フィリーネに対峙したときは、寝起きだったためにそれを隠さなかった。誤魔化そうかとも思ったが、自分の態度に怯まず、むしろ彼女が素で接してきたのでニコラウスも素を晒した。
そのときは、偶然言葉を交わしただけで、一時的なものだとばかり思っていた。
それが今となっては、すでに何度目かの対話だ。あのとき話さなければ、数度のパーティーで挨拶だけを交わす関係のままだっただろうから、不思議なものである。
フィリーネは二人で会話するときは素の方がいいと要求した。
「口悪い方がいいなんて、変わった姫さんだな」
『ニコちゃん様は気付いていないかもですが、素の喋り方のときの方が少し声が低いんですよ。私、ニコちゃん様の低い声、好きなんです』
どうやら女性的な口調のときは無意識に声のトーンがあがっているらしい。フィリーネから嬉しげに声質の好みを語られる。ニコラウスは、そんなところに着目されているとは思わず、意外だった。
「お前、オレのすることなすこと全部いいって言いそうだよな……、悪い奴に騙されんなよ」
『大丈夫です。ニコちゃん様も私の能力を知ってるでしょうっ』
全肯定しそうな勢いのフィリーネが他人に騙されないか危惧すると、彼女から胸を張ったように否が返った。彼女は光と風の二属性ゆえに他人の思考を声として聴く能力を持つらしい。むしろ、その能力がなければあっさり騙されるのではないか、とニコラウスは彼女の素直さに不安になる。
『それに、私だって誰彼構わずこんなに褒めたりしませんよ!? ニコちゃん様はギャップ萌え要素が多いというか、色々狡いんです! なので、ニコちゃん様のせいですっ』
要因を挙げましょうか、と提案され、話が長くなる気配を察したニコラウスは丁重に断った。
「すぐ飽きるかと思った」
『飽きませんよ!? むしろ、どんどん好きになっていますっ』
一時の戯れだろう、とニコラウスはこの会話の機会を受け入れた理由を明かすと、心外だとフィリーネの驚愕の声が返る。
「ほんと、ぽんぽん好きって言うな」
『会うこともままならないんですから、好きなトコに気付いたら伝えないと! それに』
「なんだ?」
『……お姉様みたいに、女性らしい魅力が足りない、のでっ』
フィリーネの指すお姉様、とは実の姉の方ではなく、公爵令嬢リュディアのことだ。彼女は数ヶ月前まではフィリーネの兄、ロイの婚約者だったので、フィリーネは彼女を姉のように慕っている。
彼女が実の姉同様に慕うリュディアは、豊満な胸を持ち、女性的な魅力溢れる体型をしている。
そこだけは成長が望めない、と口惜しそうにするフィリーネに、ニコラウスは吹き出した。真剣に何を言い出すのかと思えば、可笑しすぎる。
『平らなワケじゃないんですが、充分かと言われると……』
フィリーネにとって、宣伝要素が不足していることは大問題だった。
「おま……、ぶっちゃけすぎっ」
もう言わなくていい、とニコラウスはフィリーネに制止を要求する。これ以上聞いたら、可笑しすぎて腹が捩れる。
「大体、そんなのいくらでも……」
『いくらでも?』
やりようはある、と言いかけてニコラウスは言葉を途切れさせた。少女に聞かせる話題ではない。フィリーネが首を傾げたが、何でもない、と言及しないように釘を刺した。
言葉の先を聞けないフィリーネは剥れる。
『もうっ、どうしたら私を好きになってもらえるんですか!?』
「可愛いとは思ってんぞ」
『それ、絶対妹扱い的なヤツですよね! けど、嬉しいです。ありがとうございますっ』
異性として意識しての言葉ではないだろうと不満を零しつつも、褒められたことには素直に喜ぶ。そんなフィリーネを可愛いと思わないはずがなかった。ニコラウスは頬杖をつきつつ、笑みを刷く。声だけでも伝わる表情の豊かさ、彼女と話しているとニコラウスは自然と笑んでいた。
『はっ! 私は済みましたが、ニコちゃん様はご飯まだでは!?』
「あー、そうだな。まだ食堂やってるし……」
『晩ご飯遅く食べたら、身体によくないですよ! また今度話しましょうっ』
食事の時間が遅くなるだけだというのに、フィリーネは深刻な様子で会話を切り上げる。おそらく侍女に厳しく忠告されているひとつなのだろう。
次回はニコラウスの話も聞かせてほしい、と乞うて、その日の会話は終了した。同時に、部屋に張られた防音の結界も解ける。
部屋の向こうから他の学生の生活音がかすかに届く、廊下を歩く音だったり、談笑する声だったり、生活の拠点ならではの気の弛んだ音だ。ただ先ほどまで表情豊かな少女と話していたニコラウスには、途端に静かになった心地がした。
どうしたら、ねぇ……
答えられなかった問いを考える。フィリーネは十五、自分より三歳下になる。婚姻に関してなら世間一般では許容範囲内の歳の差だ。だが、自分が卒業したあとに、彼女は学園に入学し三年間を過ごす。感覚に、世代差が浮き彫りになることは確実だ。
婚姻するだけなら容易いが、想いが返せなかった場合、その溝で更に彼女が無為な半生を送る恐れがある。政略結婚をした両親を持つニコラウスは、愛情抜きにしても伴侶は大事にしたいと思っていた。
自分の両親がうまくいっているのは、母親がおおらかな性格だからだ。一方に頼りきりになる婚姻関係はニコラウスの嫌うところである。
しかし、ニコラウスには異性に恋情を抱く自分が想像できないでいた。いや、幼少期は異性も同性もすべからく警戒すべき対象だった。だから、すでに親しい者以外に心を許せる人間が増える気がしない、というのが正しい。
新たに大事なものを作れるかなど――
「そんなのオレが知りてぇよ」
ぽつり、と呟いて、ニコラウスは夕食をとるために自室を後にした。
幾日かあと、ニコラウスは偶然生徒会室にいた。
廊下で通りすがりに急いた様子のベルンハルトに遭遇し、報告書類を生徒会室に届けるだけ届けてほしいと頼まれた。余程急いでいたらしく、ニコラウスの返事を聞く前にベルンハルトが去ってしまったため、致し方なくだ。
「一目惚れって、要は皮しか見てないってことでしょ。それって一体どこまで中身を容認できるのかしらね」
「それを僕に聞くのか」
書類を手渡しされたついでに投げかけられた問いに、アーベントロート国の第一王子であり王立魔導学園の生徒会長であるロイは苦笑した。
ロイの現在の婚約者は、彼の一目惚れの相手である。前婚約者のリュディアとは、お互い想い人とすぐに婚約できる状態になかったため、利害関係での婚約だった。そんな紆余曲折を経てまで想い人を手に入れた男には酷な問いだ。
それでもロイは微笑みつつ考える。
「……僕は、彼女が自分の配偶者に相応しくなれる環境へと誘導し、彼女はその道を選び、最後に僕の手をとってくれた」
裏を返せば、とロイは言葉を続ける。
「僕に不都合な成長を遂げていたら一目惚れした相手だろうと、想いを募らせることはなかっただろうな」
「なら、一目惚れなんて、勝手に自分の理想を押しつけるだけじゃない」
「どうだろうな。直感もあなどれないと僕は思うぞ」
現実的な思考をしているロイから、思いがけない意見がでて、ニコラウスはわずかに瞠目する。
「同じ条件が揃った者が二人以上いた場合、その中から一人の手を取れと言われたら、あとはなんとなくの好みや直感を頼りに選ぶしかないだろう?」
それで結果に繋がるなら充分な判断基準になり得る、とロイは自身の考えを述べる。直感とは情報が少ない状態で相手の本質を見抜く能力とも、同質の者たちから一人に限定するための精査能力でもあるというのが、ロイの見解だった。
ロイの護衛の一人にイェレミアスという従騎士がいるが、彼は知識より勘で判断するタイプだ。しかし、敵味方をかぎ分ける精度は高い。
場面によっては、直感を信じる方が最良の選択に繋がることもある。
「アンタの、軟らかすぎる頭と人を言いくるめる話し方、苦手だわ」
ロイが言うとそれが正しいと意見を受け入れそうになる。それは、彼が他人の意見を柔軟に受け止め、相手に伝わる話術と態度を身に付けているからだ。生来のカリスマ性ともいえる。
だが、ニコラウスが零したのは称賛ではなかった。ニコラウスの皮肉めいた感想にもロイは微笑む。
「だから、ニコを選んだフィルの直感も信じていいと思うぞ」
「……ほんと、えぐいわね」
こちらの事情がある程度筒抜けであるとはいえ、名前どころか示唆すらしていない問いの核を突いてきた。恐ろしく頭の回る目の前の相手に、ニコラウスは若干の気味悪さを覚える。
ニコラウスは、ロイに背を向け、彼の机に軽く腰かける。長身の彼には、机の高さが寄りかかるのにちょうどよかった。書類などには影響しないので、ロイはそれを咎めない。
これより先を、何でも見透かすかのような瞳と対峙して話すとなると、ニコラウスには居心地が悪かった。
「よくアタシと取り持つ気になったわね」
「兄離れが寂しくない、と言ったら嘘になるが、フィルが自分のために望んだことだ」
だから協力するのだと、ロイは静かに微笑む。何事も、自分と弟のクラウスを優先する妹だ。自身を優先することが少ない彼女が、珍しく兄弟以外のことを楽しそうに話すようになった。それがどれだけ大きな変化かは、家族にしか解らないだろう。
「で? アンタの目的は?」
咎めるでもない静かな問いだが、他の目的があることを断定した声音だった。貴族の世界は善意だけでは物事が運ばない。ニコラウスはそれをよく知っていた。
「ニコは、フィルを恐がらないだろう」
「あの娘よりアンタのがよっぽど恐いわ」
ニコラウスには、他人の表層心理を読む少女など脅威でもなんでもない。どちらかというと、人心掌握の術に長け、よく頭の回る彼女の兄の方が脅威だ。
「それだ」
「は?」
「僕を異質だと認識し、他人を疑ってかかるニコが付いていてくれると、即位したときに安心だ」
ロイは、自身が常人より優れたところが多いことを認識している。王族として生まれていなかったら、脅威として排除対象にもなりえるだろう。だが、現実は為政者として相応しいと周囲は彼を肯定し、称賛する。
このままではいつかその状況に慣れ、強硬な政策をとるようになるやもしれない。そうなりかけたときに、常人に理解できない、と指摘する存在が自分には必要だと、ロイは常々思っていた。
王を諫める立場になれ、とロイは要求していた。それができる立場など限られている。
「アタシを宰相に引き入れるために、妹を宛がうっての?」
ニコラウスの父親は現宰相を務めている。しかし、適任の者に与えられる役職であり、息子のニコラウスが継ぐ必要性はない。彼自身、伯爵位を継ぐことは了承しているが、父親と同じ職に就きたいと思ったことなど一度もなかった。
ロイの思惑は、そんなニコラウスを役職に縛りつけるため、王女であるフィリーネを降嫁させるということだ。
はぁー、と長い溜め息がニコラウスの口から洩れる。
「やりたくないわぁ……」
「だから、理由になる」
ニコラウスが嫌がっているからこそ、フィリーネの降嫁が交渉材料になりえるのだと、ロイはにこやかに告げた。おそらく、フィリーネのことがなかったら、ロイから長期にわたり政治的に口説かれていたことだろう。想像しただけで、ニコラウスはぞっとした。そのような事態は御免蒙りたい。
「口実にしてくれていいぞ」
「しないわよ」
フィリーネの想いを受け入れる口実にして構わない、とロイが提案するも、ニコラウスは即座に拒否を返す。
伯爵家の彼が王族を受け入れることを重荷と感じているのなら、思惑があることを明かした方が気が楽になるかと思ったが、ロイの予想は外れていたようだ。彼は存外、妹の想いに対して葛藤してくれているらしい。
「悩んでいる時点で、充分別格だと思うが」
告白してきた相手にニコラウスが提示する条件を、ロイも聞き及んでいる。ロイ自身、彼と種類は違えど常人以上の容姿をもっているため、心情は解らなくもない。だから、条件を満たした妹への返事を保留しているのは、身分差が原因かと思ったのだ。
しかし、実際は、体面で回答するのを厭うほど、目の前の男は妹の想いを重く受け止めていた。
「……だって、あの娘、真剣なんだもの」
真剣な想いには真剣に返してやりたい。
これまで告白してきた令嬢の想いが真剣でなかったとは言わない。けれど、彼女らはどうしたってニコラウスの容姿ありきで、熱に浮かされたような眼差しで想いを告げてきた。そんな令嬢たちと違い、フィリーネは何故か少し会話しただけで婚姻交渉を持ちかけたのだ。
淡く黄色を帯びた木香茨を背に、必死だった眼差しを思い出す。
これまで挨拶しか交わしたことがない少女は、兄らを慕っているということしか知らなかった。パーティー会場で、兄らを前にしたときだけ社交的な微笑が解け、あどけない笑顔に変わる。遠目にも判るその表情に、あれだけ兄に入れ込んでいるなら自分の害になることはないだろうと、安全圏認識していた。
実際に言葉を交わしてみると、なんてことはない。ただの少女だった。自身の能力で気味悪がられないか、と怯える年相応な少女。それなのに、不用意に知ってしまった他人のお家事情を憂慮するお人よし。
そんな彼女が必死な眼差しで自分に挑んできたのだ。答えがどちらであっても生半可な理由であってはいけない。
ふっと、堪えきれないといったように、ロイが笑い声を洩らした。藤色の瞳を眇めてニコラウスが振り返ると、すまないと謝罪しながらもロイはまだ喉を鳴らしていた。
「いや、ファニーも似たことを言っていたものだから」
可笑しくて、とロイは口元を押さえる。ファニーとは、彼の想い人であり、婚約者であるシュテファーニエの愛称だ。
「……きっと、同じだけを返してもらおうなんて思っていないさ」
愛しさの籠った眼差しを伏せて、ロイは代弁する。
俗にいう一目惚れで、ロイはシュテファーニエを長年想ってきた。だが、彼女からすれば、ロイは学園に入学して知り合った相手だ。なのに、彼女はロイに対して誠実であろうとし、同じだけの想いを返せなければ応えてはならないのではないか、と悩んでいた。
そして今、妹のフィリーネに直感で気に入られたニコラウスが類似の状態に陥っている。とても似ているからこそ、ロイには妹のことが解った。
「変なところだけ似たのね、アンタたち」
ニコラウスは呆れる。顔の造り以外は似ていない兄妹だと思っていたが、そうでもないらしい。王族である彼らは想い人を手に入れる機会を逃さない代わりに、想いを手に入れることを半ば諦めている。婚姻という形と、同情だったとしても、相手から僅かばかりの情さえ得られれば満足だと。
独占欲を持つような想いまで望んではとんでもない贅沢だとでも言わんばかりのそれは、謙虚というより、貧乏性といってもいいぐらいだ。恋愛とは際限なく我儘になる傾向があるように認識していたが、恋愛貧乏性になる者もいるのか。
確実に褒めていない指摘に、ロイは苦笑するしかない。
「そういうニコは律儀すぎるな」
実際に取り出して天秤で重さを測れないものだから、そこまで気負わなくていいとロイは助言する。そう助言されても、ニコラウスは気楽に考えることはできなかった。
腰かけていた机から離れ、ニコラウスは身体ごとロイの方に向く。藤色の瞳にはかすかに怒りの色が見えた。
「あの娘が笑っていた方がいいと思っているんでしょう?」
「ああ。もちろんだ」
藤色の瞳と蜂蜜色の瞳が真っ向からぶつかり、そのまま数拍の時が流れる。
折れたのは、ニコラウスの方だった。笑みを崩さないロイから、嘆息一つ零して、視線を外した。
ニコラウスは踵を返し、退出するためにドアノブへと手をかける。
「……アタシは、ただの男よ」
評価を見直すべきだと小さく文句を残して、ニコラウスは生徒会室から去っていった。
生徒会室にはロイだけが処理中の書類とともに残される。浮かべる笑みは嬉しげだ。
「さすがフィルだな」
見る目がある、と書類に落とす眼差しを和らげた。
妹の笑顔を願う男ならばいくらでもいるだろうが、その笑顔のために怒り、自分を責める男はそうそういない。ロイの評価を下げるどころか上げてしまったことを、ニコラウスは知る由もなかった。
「あ。今日は外で食わねぇ?」
昼休憩の時間となり、ニコラウスがいつものように一年の教室へ向かうと、友人のイザークがそんな提案をした。一学期は諸事情により昼食を共にすることが叶わなかったが、二学期に入って以降は心置きなく相伴することができる。
来年度公表されるまで、イザークは平民であり、エルンスト公爵家の使用人だ。そんな彼が、いくら貴賤の区別をしないと謳った学園内であっても、現時点で婚約者のいない公爵令嬢のリュディアと食事の席をともにするのは、外聞が悪い。彼女は、友人の令嬢らと昼食をとる。そして、彼はニコラウスと。
ニコラウスが提案を了承すると、イザークは食堂でサンドイッチを二人分頼み、持ち運べるよう包み紙に包んでもらう。
サンドイッチを手に、どこで食べようかと校庭を散策する友人の横顔を見遣った。
楽しげで、鼻歌を口ずさんでいる。そこに不満など窺えない。
「ディア嬢と、でなくていいのか?」
しかし、彼は想い人と心を通わせたばかりのはずだ。それなのにいいのか、とニコラウスは問う。
「このサンドイッチ、ディアが食うにはぶ厚いぞ?」
きょとんと眼を丸くして、イザークは首を傾げた。食堂で頼んだサンドイッチは、食欲旺盛な男子生徒向けの肉が挟まったサンドイッチだ。食べ応えがある分、厚みもある。リュディアのような令嬢の小さな口では頬張ることすら困難だ。
自分と食べるための食事だと不思議がる友人の反応に、ニコラウスの方が怪訝になる。彼が自覚するよりも前から、彼の想いに気付いていたニコラウスからすれば、両想いになったというのに少しでも多く二人でいようとしないことが不思議でならない。
彼が望むなら、ニコラウスはいくらでも二人になれる口実を作るというのに。
「我慢してんのか?」
ニコラウスの心配に気付き、イザークは少しばかり考える。
「んー……、ディアとはさ。二年になってからでも大丈夫だけど、ニコと一緒に飯食えんの今年だけじゃん」
同じ歳の友人と学園生活のなかで食事をともにする。二年遅れて入学したイザークにとって、それはニコラウスがいなければ叶わない楽しみだ。それが第一優先事項だと、イザークは当たり前のように口にした。
「それに、初めてできた彼女だから実感するの、ゆっくりでいい……」
そう面映ゆい笑顔を見せるイザーク。彼にとっては、現在は夢のような奇跡なのだろう。けれど、ニコラウスからすれば最初から判っていた現実だ。何も不思議なことはない。
「オレが一発殴れば、てっとり早いぞ」
「もうディアに一発もらってる」
ニコラウスが、現実だと認識させてやろうかと提案すると、すでに済んでいるとイザークは可笑しそうに笑った。
彼はこれからがあるのが本当に嬉しいのだと、ニコラウスは気付く。だからこそ、リュディアを大事にしたいのだろう。そして、二人の時間を増やしたら、イザークは大丈夫でも彼女の方が耐えられない可能性を思い出す。ニコラウスにとっても友人なので、彼女がどれだけ彼に対して恥ずかしがり屋か知っている。
すべてを彼女に合わせては遅々として進まないだろうが、当分は手加減してやった方がいいだろう。
花壇の間が遊歩道になっている区域の適当なベンチに二人は腰かける。サンドイッチを手渡され、ニコラウスはそのまま食べ始めようかと思ったが、イザークがきちんと食前の祈りをしたものだから、それに倣った。彼独自の食事開始の挨拶まではさすがに復唱しなかったが。
食べ始めると、程なくしてサンドイッチは消えた。彼らも味わって食べてはいたが、食欲旺盛な年頃のため一口口にしたあとは、食べ終わるまで食事に専念していた。会話もなければ、食べ終わるのが早いのも道理だ。
食事が早い分、休憩時間が充分に余る。
「やるか?」
拳を持ち上げて、イザークはニコラウスが得意とする食後の運動を提案する。自分が頷けば、彼は革袋を持って拳を受けてくれるとニコラウスは解っていた。
「……今日は気分じゃない」
「そっか」
ニコラウスが断ると、イザークはただ頷いた。彼の運動の提案も、自分のためにされたものだと解っていたが、ニコラウスは今抱えているものが発散しただけで光明が見えるとは思えなかった。
代わりに別の方法をとることにする。
さわり、と風が通り、紫丁香花色の髪が、花壇から零れる花弁が舞うのに合わせて揺れる。
「告られた」
ニコラウスの呟きに耳を傾けながら、イザークは花壇の花が揺れる様を眺める。
「割と本気めに」
「そうか」
「なんでオレなんか好きになったのか分かんねぇ」
「ニコはいい男だからな」
本心に本心を返す。意見はまったくの逆だった。
「オレ、あんな本気になれんのかな」
それは弱音だった。フィリーネの想いから逃げる気はないが、感じただけの熱量が自分のなかにあるのか、といえば、同じ状態になるには途方もなく感じる。
「歳は?」
「歳下」
「妹みたい?」
「いや」
妹がいたことがないから正確には解らないが、ニコラウスには大らかすぎて手のかかる姉がいる。姉の婚約者はいけ好かなかったが、姉の笑顔のため、が嫌悪より克って嫁ぐのを見送った。フィリーネにも多少心配な面はあるが、あそこまで過保護になろうとは思わない。
「笑っててほしい?」
「まぁ」
妹を大事に想いながらも、政治の道具として利用することを厭わない彼女の兄に苛立つぐらいには。
「自分の知ってる表情がさ、他のヤツも知ってたら嫌か?」
花壇に咲く大待宵草の黄色は、あのときの木香茨より明るい。そんな感想を持つ自分がいる。あの碧玉が、不安に揺れたり、必死さで強く輝くことまで知っている者が自分以外にいるのだろうか。
少女らしい弱さも、愛情深いがゆえの意思の強さも、王女としては晒さなくていいものだ。
少し想像してみる。彼女が彼女のままで他の男の前にいる様を。
イザークはようやく花壇から眼を離し、隣の友人に振り向いた。そして、ふっと笑う。
「ちょっと嫌なら、そうかも」
友人の反応で、きっと面白くなさそうな表情をしていると知る。
「ちょっとで?」
「だって、笑ってくれるならそれに越したことないじゃん」
相手の幸せと自身の独占欲を天秤にかけたとき、前者に傾いても奇怪しいことではない。ただ傾いたあとに、幸せな相手の傍らにいられないことを、少しでも残念に感じるならば、それも恋のひとつだと自身の体験をもとに友人は語る。
明確な独占欲を抱くことだけが想いの大きさではない。人によって心の形が違うのだから、恋の形も違っていい。
量でなく形での定義は、ニコラウスの腑に落ちた。結ばれた友人二人は、明確な嫉妬をするかであれば大きく差があるが、愛情深さでいえばどちらも引けを取らない。形の差異を、友人らが証明していた。
イザークにつられるように、ニコラウスも笑みを零した。
腑に落ちてしまうと、なんだか可笑しくなる。最初から、彼に話せばよかった。
ベンチの背もたれに両腕を回し、ニコラウスはのけ反る。
そうして視界に入った秋空より、彼の知る碧玉の方が青かった。
「けど、レオの思い通りになんの癪だー」
ニコラウスは伸びをしながら、残った不満だけを空に向けて吐き出す。
「なんで、レオ??」
脈絡なく出てきた名前に、イザークは首を傾げる。
「告ってきたの、アイツの妹」
「え゛」
告白の相手を聞き、イザークは固まった。
昼休憩の残り時間は、悩みが晴れたニコラウスに対して、逆にイザークが唸りながら葛藤することとなった。
夕闇が迫る頃になると、眼を楽しませていた紅葉も暗い影となる。空との境界に滲む橙がその分映えて見えた。
辛うじて残った橙は、最後に眩い光を窓に差し込む。完全に夜闇に覆われる前に、ニコラウスは自室のランプを灯す。すると、同じチェストの上にあるカフスボタンがちらりと灯火を反射した。
色違いのカフスボタンに魔力を注ぐと、窓の向こうでしていた木擦れの音が消えた。
『ニコちゃん様、こんばんはっ』
「こんな時間に元気だな」
代わりに飛び込んできた活気を失わない声に、ニコラウスは呆れながらも笑う。
『ニコちゃん様の声が聞けましたから!』
「じゃあ、もう終いか」
『嫌です! ニコちゃん様の声はいくらでも聞いていたいので、もっとお話ししてくださいーっ』
フィリーネの食い気味の反応に、ニコラウスは喉を鳴らす。彼女は、笑ってしまうぐらい好意を隠さない。
『それに、ニコちゃん様のことを教えてくれる約束ですよっ』
「約束した覚えはねぇけど」
『そんなぁー』
前回の終話間際にフィリーネが要望を残しただけであり、それに対してニコラウスは是とは答えていない。約束が成立していないと指摘すると、残念さいっぱいの声が返った。
「んで? 何が聞きてぇんだ?」
だが否とも言っていないと補足すると、落ちていた声音が途端に跳ねた。
『えっと、えっと、なんでもっていうのは困りますよね……ごっ、ご趣味は!?』
拳に力が入ったような力強い問いかけだった。しかし、内容は会話のとっかかりに使うようなものだった。それでもフィリーネが知りたいことには変わりないのだろう。
「あー、殴ること?」
『え。不良少年!?』
そんな属性があったんですか、とフィリーネは驚愕の声をあげたあと、これまでよく無事に学園生活を送られたものだと危惧する。
彼女の言った属性という単語の意図は解らなかったが、追及する気も起きなかったので、ニコラウスは誤解を訂正するだけに止める。
「ダチが打ち込みに付き合ってくれんだよ。マジで殴ることなんて滅多にねぇよ」
『殴ったことはあるんですね……』
零ではないことを拾いつつも、フィリーネに怯んだ様子はない。彼女は意外そうだが、ニコラウスも彼女の反応を少しばかり意外に感じていた。
「読む本もそんな類いのだ」
『どんな本ですか?』
「メーアの海。海賊もん」
『なるほど。ニコちゃん様の話し方はそういうトコロから仕入れたんですね』
フィリーネは納得したあと、読んでみます、と意気込むが、ずいぶん血生臭い内容だ。希望しても、王女の読み物として不適切と検閲で差し止められるのではないか。
フィリーネは本当に打てば響くように会話を返してくる。興味津々でニコラウスの話を聞き、失望した様子を見せず評価を最新の情報に更新しては好意を示す。ニコラウスには疑問でしかなかった。
「わっかんねぇなぁ」
『何がですか?』
「オレが素見せてんのに、お前愛想尽かさねぇじゃん」
『私も素ですけど? はっ、ニコちゃん様こそ愛想尽かしたのでは!?』
「お前のは可愛いもんだろ」
ニコラウスが失望しないのか、と問うと、フィリーネは逆に自身に対してそう思われていないかを危惧しだした。彼女の、そんな嫌う前提がない反応が、ニコラウスには不思議だ。
それに、彼女の危惧は、ニコラウスには些末なことだった。清楚で儚げな容姿で、その実、異様に元気で喜怒哀楽が激しいなど、見た目より血が通っていて可愛げがあると感じる程度のものだ。
「つか、お前の好みと違うだろ」
『あぁ、それはそうですね。私の理想の男性像はロイ兄様ですし』
異性の好みから外れていることを指摘すると、フィリーネは素直に肯定した。兄のロイを家族として慕っているのとは別に、異性の好みの集大成としての価値を見出していることをフィリーネは隠す気はない。
それなのに、何故ニコラウスを選んだのかといえば、直感に従っただけのフィリーネはうまく言葉にできない。思案して、言葉を探す。
『うぅーん……、ロイ兄様が一番好みなのは揺るぎないんですけど、なんてゆーか、ニコちゃん様と話してるときの私が一番私になれてるって、感じるんです。だから』
ふと彼女が微笑んだような気がした。一瞬の間が空いただけで、音がした訳でもないのに。
『これからの人生をずっと一緒にいれたら嬉しいなぁ、て』
木香茨と雨宿りの木に挟まれて、そう確信したのだ、とフィリーネは告げる。
真っ直ぐな想いはニコラウスの胸に確かな重みをもって届く。容姿や爵位、そういったものが尺度でないと判り、湧いたのは憂慮だった。
そんな想いを自分は向けられていいのか。
「俺は外見をとったら、ただの男だぞ。他の奴らと変わらず、家を継ぐために育てられて、それを受け入れてる貴族でしかない」
いかに容姿が周囲と逸脱していようと、優れた魔力量を持っていても、ニコラウスにはそれらを活かして成果を得ようという欲はない。父親を嫌っていても、伯爵位を継ぐ以外の将来を望むほどの反発はない。イザークのように夢を抱いて仕事を選んだり、ロイのように大きな意義を感じて役職に臨んでもいない。
他の道がないからだけで爵位を継ぐ予定の自分は、とてもつまらない存在に思える。
『私もそうですよ?』
だが、フィリーネは同じだと返した。
『私も王女として育てられて、たまに嫌になったりしながらお稽古しています。ロイ兄様みたいに会ってもいないたくさんの人のコトを想って、これから先の遠い未来を予測して、そこから達成感を得ることはできません。生まれたときから決められた役割にただ従っているだけの生き方ですが、それはそれでいいじゃないですか』
フィリーネも夢や大志がある訳ではないと、ニコラウスに同調した。与えられた役割に伴う責任を放棄するほどに成し得たい何か。それを他に見つけることができる人間は、世の中に一体どれだけいるのだろう。
他の生き方を知らないだけだとしても、今の生き方を否定する要素がないのなら、それはある意味天職なのかもしれない。
『偉人伝とか読んで思ったんですけど、偉い人が偉いって証明するためにも普通の人の需要はあると思うんです!』
誰もが皆、突出した出来事ばかりの人生を送る必要はない、とフィリーネは持論を掲げた。カフスボタン越しでも、胸を張っているのではないかと思える豪語の仕方だった。
「……ただの男と女でいいって?」
『はいっ、ちょっと顔がいいだけの夫婦もアリです!』
勢いのいい断言に、ニコラウスは、沸々とわいた可笑しさが堪えきれなくなった。吹き出して、思わず大笑いしてしまう。
「おま……っ、最高……!」
『褒め、られてます……??』
盛大に笑われたフィリーネは、この状況を喜ぶべきかと首を傾げた。笑いすぎて返答する余裕のないニコラウスからは、その回答を得られそうにない。
ニコラウスの笑いが治まり始めた頃になり、フィリーネはそっと呟く。
『……あの、嫌になったら言ってくださいね?』
「あ?」
一体何の話だと、ニコラウスは首を傾げる。しかし、フィリーネにとっては前々から言おうと思っていたことだった。ただ、これまで恐くて言えなかっただけで。
『ニコちゃん様からしたら、私なんて歳下の子供でしょう? 実際、子供っぽいし……、だから、お子様の相手が面倒になったら遠慮なくカフスボタン返してくださいね。その、さっきも言ったとおり王女してるだけのただの女の子なので……、す、好きな人に同情で付き合わせすぎるのも申し訳、なくて……』
フィリーネは最初の通話のときに告げるつもりだった。しかし、すぐに返却されたらどうしよう、と恐くて言えずにいた。そうだったはずだが、会話を重ねてゆくうちに、異性として好かれる気配のないまま彼と話すことの方が辛くなったのだ。
いつも通りの明るい調子を保とうとしているが、徐々に震えてゆく声音。その声を耳にして、ニコラウスの胸中はざわりと騒いだ。
一体、どんな面して言ってんだ。
あまりにも気弱で情けない声音。虚勢を張り切れていない。
頬に触れて、その表情を確認したい衝動に駆られる。思わずカフスボタンに伸びた手を、ニコラウスは口惜しさを感じつつ、ぐっと握り込んだ。
彼女の不安の原因は、回答を保留し続けた自分だ。いつも明るかったから気付いてやれなかった。けれど、少し考えれば判ることだ。自分はフィリーネがただの少女だと知っていたのだから。
ニコラウスは自身の不甲斐なさを認識して、乱暴に頭を掻いた。高く結い上げた髪が乱れる。
「迷惑なら最初から受け取ってねぇよ」
『けど』
「たぶん好きだ、お前のこと」
『ふぇ?』
いつか断られるなら早く断ってくれと、懇願すると、逆の答えが返った。フィリーネには予想外だった。時折、会話のなかで零される可愛いという感想は、女として意識されていないゆえのものだと思っていたし、自分の感性を面白がっている反応はよくて友人扱いだとばかり思っていた。
「お前みたいにぽんぽん言えねぇから、あんま期待すんなよ」
『え。え。でも、だって、そんな感じ今まで……』
「今抱く気になっても、お前困んだろ。あんま考えねぇようにしてた」
『なんですと……!?』
自分のためにセーブされていた事実を知り、フィリーネは驚愕する。想像以上に大事に扱われていたうえ、意識もしてもらえていたらしい。頬が熱い。きっと顔は真っ赤だろう。声しか届いていないと解っていながらも、思わず両手で頬を覆ってしまう。
『……ニコちゃん様、意地悪です』
「気付いてたろ?」
問いを、フィリーネは沈黙で肯定した。初めてお互い素で話したとき、すでに自分の反応を面白がられていた。彼は優しくはない。それが彼の優しさで、フィリーネが好きなところだ。自分のために叱ってくれる人に褒められるのは、とても嬉しい。
誤解のないようなるべく正直に伝えてみたら、少し加減を間違えたらしい。ニコラウスは直接的に伝えすぎた点を反省し、彼女が喜ぶご褒美を与えることにする。
「冬休み入ったら、会いに行く。ディア嬢とかつれてきゃ、いけるだろ」
『ほんとですか!?』
姉のように慕うリュディアも同伴で会いにきてくれると聞き、フィリーネは声に喜色を滲ませる。
「声だけじゃ、足りねぇからな」
顔が見たいと要望されて、自分もだと答える余裕がフィリーネにはなかった。急に動悸が激しくなったからだ。
返答に詰まった理由を見透かされているのか、くつくつと小さく笑い声が漏れ聞こえる。なんだか、それが悔しい。
『いっ、今に見ててくださいっ、いつかニコちゃん様をどきどきさせて、めいっぱい困らせてやります……!』
「おー、楽しみにしてる」
ニコラウスは言葉通り、想いが深まる日がくるのが楽しみだった。彼女と過ごして、そんな日が訪れるなら僥倖だろう。
意趣返しが叶わず、フィリーネは悔しさに拳を握る。そんななか、ニコラウスに終話を宣告された。
「じゃあな、フィル」
口にしてみて気付く。愛しい者の名前を呼ぶ権利を確認するというのは、存外心地よい響きを伴う。イザークやロイが浮かれていた理由が何となく解った。
『!? ニコちゃん様のバカー! 大好きですー!!』
通話の終了間際、不意打ちで初めて名前を呼ばれ、フィリーネは非難の叫びを残していった。
どんなに動揺しているのか想像すると可笑しくて、ニコラウスは防音の結界が解けた自室で喉を鳴らした。そこにノックの音がする。自室を訪ねる者は限られているので、返事をして入室を許可すると、友人が顔を覗かせた。
「ニコ、晩飯に……どうかした?」
可笑しげな様子のニコラウスに、友人のイザークは何かいいことがあったのかと訊ねる。そんな友人にニコラウスは、結婚するわ、と将来の予定が追加されたことを、笑顔で報告したのだった。








