side18.棘
トビアス・フォン・ブレンナイスには魔力がない。
幼い頃、その事実は彼にとって秘匿すべきことだった。しかし、その事実こそが必要だとアーベントロート国第一王子のロイに求められ、重臣候補として仕えることとなった。
貴族でいながら魔力がないことを補うために独学で魔具研究をしていたことが功を奏し、トビアスは代々魔術研究をしているレッケブッシュ侯爵家の庇護下に入り、数年後には研究員見習いとして魔術省に勤めることになる。急激な変化に戸惑うところではあるのだが、そうも言っていられなかった。
「だから、何でそんな複雑な術式を足すんだ!」
「製鋼の炎術なんだから、金属に合わせて火力を調整できた方が便利だろう」
「こんな魔力調整が難しい式なんか組んだら、汎用性が低くなるんだよ! 魔石でも火属性持ちでも火力固定できる方がいいに決まってるだろっ」
大きい羊皮紙を机に広げ、そこに魔法陣を描いている少年二人が互いに意見を主張し合う。うち一人は、トビアスだ。
「せっかく見つけた術式なのに……」
「その見つけた端から試そうとするのやめろ!」
分厚い魔術書を抱えて残念そうにする赤髪の少年に、トビアスは怒鳴る。彼、ベルンハルトは世話になっているレッケブッシュ侯爵家の令息だ。ベルンハルトは魔力量が多く、魔力操作の精度も高いため、難易度の高い魔術も容易にこなせる。そのため、魔術行使の労力を度外視しやすい。
だから、トビアスが止めないと、彼は際限なく複雑な術式を組んだ魔法陣を生み出すのだ。しかも、普通なら無理に高度な式を組み込んでは発動条件が破綻するはずなのに、ベルンハルトが組むと術式として成立するから性質が悪い。魔法陣への造詣が深い彼だからなせる業だ。世話になっている家の息子だとか、一つ歳上だからだとか、と遠慮していられない。
「仲良くやっているようで何よりだな」
「俺には喧嘩してるようにしか見えん」
「あれは、互いの意見を交わして切磋琢磨しているんだ」
自身の書斎机で書類に目を通しながら、ロイが微笑ましく二人を眺めている。その傍らで護衛として控えるイェレミアスが不可解さを露にした。感覚で魔法を使うイェレミアスはトビアスたちの話の内容についていけない。ただベルンハルトがトビアスに叱られているのが判るのみだ。
「仲良くしてません! だいたい殿下が興味本位で、難解な術式を組み込んだ魔具を造るから、こいつまで興味持つんじゃないですか!」
「それはすまない」
ロイに煌々しく苦笑で謝罪され、トビアスは舌打ちをする。これだから魔力の強い人間は嫌いだ。平均以上のことを軽々とやってのけるその感覚に、トビアスは頭痛を覚える。ベルンハルトと違って、ロイは開発した魔具を個人用で持つにとどめているだけマシだが、なら彼に魔具を見せないでほしかった。
ベルンハルトなら、触発されるに決まっている。現に、トビアスの研究課題に口を出してきているのがいい証拠だ。
魔力のないトビアスは、王立魔導学園への入学資格がない。その代わり、同じ歳の貴族の令息令嬢が入学する数年後、魔術省の魔具開発研究所への早期入所が決まっている。入所条件を満たすため、トビアスは定期的に開発中の魔具の初期案をもらい、その改善案を提出している。場合によっては、自分の案が実用化される可能性もあるらしい。
考えた魔法陣が正常に発動するかの確認に、ベルンハルトたちのような魔力量の多い人間が身近にいるのは助かる。魔石を浪費しなくていいからだ。ただ協力的すぎるのが困るのだ。
魔力所持者が都合よく集まっているため、ロイの執務室兼書斎に意見を聞きにいくが、今のように自分が怒鳴る羽目になるのがほとんどだ。
「いいか!? 足すことばっかじゃなく、削ることも考えろ!」
「単純化しつつ効率化を図るか……、それはそれで難しそうで面白いな」
「反省しろって言ってるのに喜ぶな、この魔法バカ!!」
好奇心で瞳を輝かせるベルンハルトに、トビアスはまた怒鳴る。指摘を素直に受け入れるのはいいが、少しは反省の色も見せたらどうなんだ。
怒り心頭だったトビアスは、来訪者に気付くのが遅れた。
気付けば、書斎のドアが開いており、そこには眩いばかりの金糸の髪を腰を過ぎるまで伸ばした少女が、碧玉の瞳をまんまるにして立っていた。
「……ご、ご歓談中に、ごめんなさい」
歓談では決してないが、恐縮する少女を前に否定の言葉も消える。ノックはしたのだと詫びる彼女の言葉を疑うつもりはない。そして、自分が気付かなかったノックに応じて通したのは、この部屋の主である彼女の兄だろう。
「いえっ、お見苦しいところをお見せして、誠に申し訳ありません。王女殿下」
王女である彼女が謝ることではないと、トビアスは即座に居住まいを正して謝罪する。ロイの妹姫であるフィリーネは、気まずげに微笑し、その謝罪を受けた。
「みなさん、仲がよろしいんですね」
「ああ。そうだろう」
可能な限り表現を和らげるフィリーネに、ロイは満面の笑みで肯定した。トビアスは、内心で違う、と叫んでぐっと言葉を飲み込んだ。臣下の自分が、王族同士の会話を邪魔する訳にはいかない。
「それで、どうしたんだ?」
来訪の理由をロイが訊ねると、フィリーネは少しばかり重そうに口を開く。
「あの、これからクラウス兄様が私のピアノに付き合ってくださるので、ロイ兄様もいかがかと……」
「クラウスのヴァイオリンも聴けるのか。それはいいな」
ロイが書斎に籠っているとき休憩していないのでは、とフィリーネはよくこうした誘いをしてくる。程よい息抜きを促す彼女を兄想いの姫君だと、トビアスは思う。
この兄妹を見ていると家族のあるべき姿のひとつだと知る。絵になる、というより、絵から抜き出たような完璧な美貌を持つ兄妹だ。想い合う姿すら美しい。冴えない容姿の自分が、何故ここにいるのかさえ疑問視してしまう。護衛でいる他の二人も派手な外見をしているから、余計にそう感じる。
羨望を抱くことはなく、別世界の光景だった。魔力量の多さが物差しのブレンナイス家で、トビアスは血の繋がりがあることすら疎まれる存在だった。
自分にとっての絵空事が現実で繰り広げられている。そのような心持ちでトビアスが兄妹のやり取りを眺めていると、フィリーネがこの場にいる者たちを見回した。イェレミアス、ベルンハルトときて、最後はトビアスに。視線が彼に止まった瞬間、わずかに碧玉の瞳が戸惑いに揺れた。
「……けど、こんなにたくさんの方に聴かせられる腕ではないので恥ずかしいですね。もう少し練習してからにします」
そうフィリーネは恥じらってみせた。この状況でトビアスたちを除け者にする、という選択肢はないらしい。出直すと言って辞退する妹を引き留めることなく、ロイはそのときを楽しみにしている、と次回に期待を寄せる言葉で見送った。
妹姫の短い滞在が終わり、書斎にはしばしの沈黙が下りる。
「……ボクは、王女殿下に失礼をしたんでしょうか」
ロイの下に就いてから数ヶ月経つが、フィリーネが自分に対してぎこちない態度であることにトビアスは気付いていた。
初めて挨拶したときも一瞬の瞠目があった。家族、ひいてはその使用人からも冷遇されていたトビアスは負の感情に敏い。だからこそ、彼女のわずかな揺れを見逃さなかった。
「それとも、魔力のないボクが慕う兄上に仕えていることに納得できないのでは」
「フィルはそういうところで人を評価しないさ」
傷付いた様子もなく淡々と推論を述べるトビアスに、ロイは苦笑する。
彼は、嫌われることに慣れすぎている。他者から低い評価を受けるのが当然というトビアスの価値観は、これからの経験で塗り替えてゆくしかないものだ。
「フィルのあれは、良くも悪くも他人の心に敏すぎるせいだ」
トビアスとは別の意味で、フィリーネは本人の望まない形で人の悪意に晒されてきた。権謀術数渦巻く環境の王族に、心の声を聴く能力を持った妹が生まれたのは不運でしかないと、ロイは感じている。
「トビアスのように心に棘を持つ人間は初めてだから戸惑っているんだろう」
「棘?」
自身の心の形を棘と表現され、トビアスは首を傾げる。形のないものを物理的な形状で表現すること自体、彼には理解の及ばないことだった。
ロイから見たトビアスは、悪意などで満ちているのではなく人の優しさに触れてこなかったために鋭利さのある心の持ち主だ。フィリーネは敵意や憎悪の対応には慣れているが、自身にも他者にも冷徹さだけを抱えた人間の対応は知らないことだろう。
「ずいぶん詩的に言いますね……」
「生意気なだけじゃないか」
「なんだと!?」
ロイの表現が美化しすぎてると、ベルンハルトもイェレミアスも首を縦に振らなかった。そんな二人に、トビアスは食ってかかり、これまで被ってきた迷惑を列挙しだす。
率直な意見をぶつけ合える自身の臣下たちを見て、ロイは微笑ましく感じる。
さて、どちらが先になるかな。
トビアスの棘が丸くなるのと、フィリーネが棘の触れ方に慣れるのと、どちらが早いだろうか、とロイは今後を楽しみを一つ増やした。二人の人柄を知るが故、彼の見据える未来に悲観はなかった。
レッケブッシュ侯爵家にトビアスが預けられたのは適切だった。
彼の家の者たちは、魔法的価値を重視する。魔力至上主義のトビアスの家族と違い、魔力量で差別をするのではなく、ただ魔法の観測に関わることになると関心の度合いが大きくなるだけだ。
魔力を持たないトビアスが、独学で魔具を作成した、という事実はレッケブッシュ家の人間には大変興味深いものだった。きた当初は各々から質問責めに遭い、トビアスは辟易した。しかし皆、彼の意見も存在も否定することはなかった。
嫌なことは嫌だと断れば引き下がる。むしろ、断らねば際限なく興味をぶつけられる知的好奇心の塊が多かった。
レッケブッシュ家の人間の扱いを教えてくれたのは、ベルンハルトの母だった。元騎士団所属の彼女には、いい荒療治だな、とからから笑われた。他人事だと思って、とトビアスは何度悪態を胸中に零したことだろう。
そうトビアスは悪態を吐きながらも、自制することなくのびのびと過ごしていることに気付いていなかった。
自身で価値を確立しろ、というロイの意向も、トビアスにとっては解りやすく心地よいものだった。情けや、愛情などという曖昧なもので居場所を与えられては居心地が悪い。
息のしやすい環境にいると気付くには、トビアスの日々は目まぐるしかった。
「うん。合格だ」
魔術省の省長を務めるレッケブッシュ侯爵の言葉に、トビアスは安堵の息を吐く。
火力調整の機械に組み込むため、部品に収まるよう規定の大きさの範囲で描ける魔法陣を考える必要があった。描く場所が平坦とは限らないので、なるべく簡易に転写しやすくした。
「トビアス君は、本当に誰にでも使えるように考えるのが上手だね」
「……じゃないと、ボクが使えませんから」
「ふふっ、それもそうか」
それは盲点だったと侯爵は悪びれずに、純粋な驚きをもって笑う。けれど、それが活かすべき長所だと彼はトビアスを褒めた。
トビアスは、彼に笑われても腹は立たない。彼の褒め言葉は素直に受け取れた。それは侯爵がレッケブッシュ家のなかでは静かな男だからだ。魔法に対する興味関心は並みならぬものではないと瞳に潜む好奇心の輝きで判る。だが、それをひけらかさず、強要しない。
理性的な対応をする侯爵は、トビアスにとって教師のような存在だった。
「いや、トビアス君がきてくれてよかったよ。息子も視野が広がって嬉しそうだし」
現在進行形で最も自分への質問が多いベルンハルトを話題にあげられ、トビアスは自然と表情を顰めた。ベルンハルトは、既存の魔術への見解や、自身が考えた術式の組み合わせをどう思うか、など逐一魔力を持たない自分の意見を聞いてくるのだ。煩わしいったらない。
「あれは、どうにかならないんでしょうか」
暗にウザいと苦情を伝えると、侯爵は静かに微笑む。
「私も息子ぐらいの歳の頃は疑問や関心が湧けば、ひたすら追究していたからなぁ」
自身の経験上、難しいだろうと侯爵は答えを返す。しばらく耐える必要があるらしいと判明したのとは別に、彼にもそんな時期があったのか、とトビアスは内心驚いた。
「トビアス君みたいな友人ができて、息子が羨ましいくらいだよ」
自分が若いときにも、魔法に対する視点や見解の違う者が近くにいたら、さぞ楽しかっただろうと侯爵は純粋な羨望を息子に抱く。ベルンハルトの魔法への関心の高さは、明らかに自分の血によるものだ。だからこそ、息子が今どれだけ嬉しいか解る。
「……親しくなった覚えはありません」
決して友人などではない、とトビアスは断固として否定する。
「それはすまないね。私の友人の基準が話に付き合えるかどうかなものだから」
侯爵の知能の高さを実感をもって知っているトビアスは、どういう返すべきか答えに困窮した。今より若い頃の彼の話についていける者が、レッケブッシュ一族以外でいた可能性は低い。理解できない内容を延々と聞いていられる猛者もそうはいないだろう。
トビアスが答えあぐねていることに気付いたのか、ただの蛇足で答えが不要だったのか、侯爵は話を本筋に戻した。
「今回の魔法陣は実用性も申し分ないし、本採用されるかもしれないね」
「え……、すでに実用化された魔具の素案だったんじゃ……」
これまでトビアスに出されていた課題は、研究所で実用化にいたった魔具の初期案を元に自分なりに改善策を考える、といったものだった。実際に実用化されたもののその理由と、自分の考えのよい点とどこが及ばなかったのかを侯爵が解説してくれるので、トビアスは解答を聞くのを楽しみにしていた。
「うん。今回は、トビアス君に合ってそうだったから」
だから、ちょうど研究段階の素案を課題にしたのだと侯爵は事もなげに言った。子供の案を他の研究員の案とともに比較検討するなんて無茶が通るのは、彼がそこの長だからできることだ。
「どうして……」
「積めるなら、実績は積んでおくといい」
トビアスの課題は、研究員の見習いとしての試験を兼ねたものだ。だから、トビアスは常に全力で臨んでいる。魔力のない彼は、知識で実力を示さねばならないからだ。
彼の案が研究員らのものとともに実用化の査定を受けたとして、通らなかったら誤って紛れたのだと言えばいいし、通ったらトビアスの案だと明かして実績にすればいい。魔術省の長たる侯爵に預けられたのは、トビアスが実績を積みやすくするためだ。
「私は結果が最良であればいいし、君は運がよければ実績を得る。損はないだろ?」
「それもそうですね」
自分が上手く利用されていると判り、トビアスはあっさりと納得した。利用された分、自分も利用するだけなら何も問題はない。
トビアスには魔力がなくても生きていけると証明する義務がある。それは、ロイに託されたものであると同時に、自身で決意した義務だ。その目的のために利用できるものは利用する。評価を得られる環境ならば活用するだけのこと。
侯爵に結果が判れば報せると言われ、トビアスは頷いて彼の部屋から退室した。
トビアスが自分の部屋に戻ると、控えていた使用人がランプを灯した。それで、侯爵と話している間にずいぶん暗くなっていたと知る。夕食後に課題を提出したのだから、当然といえば当然のことだ。
要り用なら呼び鈴で呼ぶ旨を伝え、使用人を下がらせた。そうしてようやく、トビアスは人心地を付く。トビアスは貴族だが、他人に世話されることに慣れていない。
ブレンナイス家では、食事を持ってくるのと家庭教師がきたことを知らせるだけの存在だった。物心ついてしばらくのち、トビアスは身の回りのことは自分でするようになった。侯爵家として必要な教養は受け、貴族として最低限の衣食住は与えられた。それ以外は、自分が家族の小間使いのように扱われた。
教養を受けたからこそ、トビアスはそれが不当な扱いであり、怒りを覚えていいものだと認識した。その判断ができるだけの頭脳を彼は持っていた。味方もいないあの世界で、誰もが敵に見えた。
今、絶えず燻っていた憤りの火はない。燃え滓がある程度だ。
隣接した研究室に入り、机に置かれたランプを点けると、分厚いレンズがランプの炎をゆらゆらと鈍く反射した。レッケブッシュ邸の私室のほとんどに、研究室にできる小部屋が併設されている。部屋を宛がわれた当初、何故空の小部屋が併設しているのかトビアスが訊ねると、要るだろう?、と当たり前のように侯爵に回答された。実際使うことになっているので、今となってはトビアス自身もレッケブッシュ一族のことを言えない立場だ。
机のうえのレンズが分厚い眼鏡を持ち上げる。思い出すのは、自分以外にこの眼鏡をかけた少年だ。
「あいつ、似合わないからな」
せめて、眼鏡の似合わない人間にも合うデザインに改良できるだけの権限ある立場にまで登りつめなければ。
悪環境からトビアスを救ったのは、第一王子のロイだ。だが、彼に魔力がないことを知られる原因になったのは別の少年のせいだ。平民の、何故か王子と知り合いの、眼鏡ひとつで瞳を輝かせるような自分より歳上とは思えない少年だった。
断片的にトビアスの事情を知って、こちらに憐憫の言葉をかけるでもなく、ただ自分の無力を悔やむような少年だった。
それが、憐れまれるよりも苛立った。
どうして自分が無関係の者にそんな顔をされなければならないのか。同情など必要ないとあの少年に示す必要がある。精霊感知の性能を持つこの眼鏡の改良版を渡すことで、同情など不要だと証明するのだ。
時折、不格好な眼鏡を見ては、トビアスは決意を固め直すのだった。
ドアを開けてから、ノックをする。
「一杯付き合え」
「ああ。いいね」
断られるはずがないかのような不遜な誘いに、レッケブッシュ侯爵、ホラーツは目元を和らげて頷いた。
酒瓶を掲げた人物がノックより先にドアを開けて入室したことを、ホラーツが咎めることはない。集中しやすい自身がノックをされても気付かないことが往々にしてあるためだ。彼女に隠すことは何もないので、いつ訪れても問題なかった。
深紅の髪を結い上げる妻、ベッティーナにグラスを用意して渡す。夜半となり、すでに寝間着姿の彼女は軽装にもかかわらず、動作に隙がなかった。二つのグラスに酒を満たすと、ホラーツの向かう机にひとつ置き、自身の分は手にしたままその机へ腰かけた。
ホラーツが手にするより先に、カツンとグラスを軽く合わせ、ベッティーナは先にグラスの中身を呷った。
「何を見ていたんだ?」
ホラーツは手にしていた羊皮紙を、彼女に見えるよう机に置き、自分のグラスを取った。
「トビアス君の考えた魔法陣だよ」
「随分と単純だな」
量産しやすそうだ、とベッティーナは魔法陣に眼を落とし、感想を述べる。その意見に、ホラーツは嬉しそうに微笑む。
「効果を残して単純化するのが上手だよね」
トビアスは、制限された条件の範囲内で最大限の効果を出す、という思考に慣れている。それが彼の才能のひとつだと、彼自身はどこまで気付いているのだろうか。ほとんどの者は、性能をあげることを複雑化することだと思いやすい。高度な術を安定して実行できるのも成功例のひとつだが、ときには簡易で汎用性が高いことの方が重宝される場合もある。
「いい子がきてくれたものだね」
「まだ獣に近いが、私からすれば可愛いものだな」
鼻で笑う妻の言葉に、ホラーツは首を傾げる。
「あれだけの知能の高さは人間だからだと思うけど……」
「あれは、自分を守りはするが、大事にしないからな」
騎士団に所属していたベッティーナは、トビアスに似たものを見たことがある。数が希少となった魔物の保護任務などでよく出会った。生存本能ゆえに、周囲がすべて警戒すべき対象だという眼。
「知能を思考に回す余裕がないんだ」
「家に慣れてきてると思ったんだけどなぁ」
残念そうにホラーツが呟く。まだトビアスがこの家を居場所と認識して、安らぐには時間がかかりそうだ。
これからも経過観察が必要だと断ずる夫に、ベッティーナはくつくつと可笑しげに喉を鳴らす。
「私らでは無理だ」
「どうして?」
彼を人にすることは自分たちではできないと言うベッティーナに、ホラーツは理由を問うた。
「愛情を与えてやれん」
家族の愛情を受けずに育ったトビアスが知る必要のあるものを、自分たちでは与えられないとベッティーナは言う。自分たちで与えられるのはせいぜい同情程度のものだ。妻の答えに、ホラーツも納得する。貴族である以上、無条件で子供を迎え入れることはない。トビアスに利益となる才があるからこそ、ホラーツも彼を買っているのだ。
「今はその方があれも楽だろう」
「難しい年頃だね」
静かに苦笑するホラーツに対し、ベッティーナはなるようにしかならん、とからから笑う。憂いを吹き飛ばすような豪快な笑い方が妻の美点だと、ホラーツは思う。何事も理屈で考えやすい自分には愛情が解らず、家族が持てるのか疑問だったが、感覚で感じるものを信じることを教えてくれたのが彼女だ。
何かした方がいいのかとする思案する夫に、放っておけ、と一蹴するベッティーナ。これまで通り接すればいい、と断ずる妻の根拠は、直感だ。けれど、理論立てられていないそれも彼女の言葉だと、ホラーツは信じられた。
「あの子が知るのはいつになるかな」
ホラーツは婚約するまで、愛情を理解していなかった。妻となるベッティーナと対話を重ねるうちに、やっと芽生えたのだ。ともすれば、トビアスも気付くのは随分先になるかもしれない。
「それこそ余計な世話だ」
「ベティが言うなら、そうか」
口角をあげる妻につられるように、ホラーツは微笑む。
そうして、空になるまえに酒を注がれ、一杯の時間が延びていった。
親の心子知らずならぬ、保護者の心知らずなトビアスは、その日も彼らの息子を叱っていた。
「増やすなって言っただろ!」
「いや、これは身体に直接描くタイプだから、外套を増やした訳じゃ……」
「だから、使いやすくしてどうするんだ!」
インクの壺を庇うように持つベルンハルトを、トビアスはその小さな眼で睨む。目つきの鋭さならベルンハルトの方が鋭利だが、彼は明らかにトビアスの気迫に負けていた。
「殿下の隠密魔具は、音の遮断効果も高いから複製すら禁止してただろっ」
ロイが数年前に造った魔具の存在を、トビアスは直臣候補ゆえに知らされていた。闇の魔力を貯めることで身に着けると気配を限りなく薄めることができる外套。通常の隠密魔法では相当の魔力がないと音の認識まで薄めることは困難だ。そのため、闇属性の冒険者は音を消して動く技術を別途磨く。そんな訓練をしなくてもいい魔具の存在が公になっては事だ。
だというのに、ロイの考案した、隠密魔法が常時発動できる魔力定着の魔法陣にベルンハルトは興味を持ち、それを参考に魔法陣の簡易化および闇属性の魔力の強いインクを造ったのだ。彼の手の中のインクは、反射することなく光を吸い込むかのような黒色をしていた。トビアスが魔草のナハトグラスを用いて魔力の籠ったインクを自作していたのにも触発されたらしい。
「トビアスの魔法陣の簡略化を参考にしたら、殿下の魔法陣も効果を絞ることで簡易にできるんじゃないかと思って……、大丈夫だ効果時間は短い」
「なんで、そこで殿下の魔法陣を選ぶ!?」
効果時間が短いことなどで安心できる訳がない。術発動の安定化を得意とするベルンハルトが考えた魔法陣なら、実用性が高すぎる。
「だって、式が複雑だったから、簡略化できれば面白そうだ、と……」
「こんの魔法バカがー!」
ぎぎぎ、とベルンハルトの頭を両手で挟み、トビアスは圧をかける。痛い、とベルンハルトが声をあげるが無視する。痛みを与えることで、少しでも彼の知能指数が下がればいいのに、とトビアスは念を込める。
「ベルンハルトにそこまで言ってもらえるとは光栄だな」
「あんたも大概だからなっ、殿下!」
ベルンハルトの評価に照れるロイを、怒り心頭のトビアスは叱る。光と闇の二属性持ちかつ魔力の強いロイは、闇属性も扱えると判明した当初好奇心で試行錯誤していた。ただの子供がすることならよかったのだが、幼い頃から神童と謳われた才能の塊がした試行錯誤だ。魔具作成が成功したうえに、効果が尋常ではなかった。
「他にも隠していたら許しませんからね!」
「そうそう誰にでも使えるような魔法は考えられないさ」
にこり、と微笑むロイの謙遜を、トビアスは嘘臭く感じた。すでに一度成功している人間が何を言っているのか。
「そのベルの魔法陣をトビアスに描けば、こいつが怒っても静かになるってことか?」
「なるほどっ、試すにはちょうどいいかもしれない!」
「ちょうどよくない!」
騒ぐトビアスを眺めていたイェレミアスが、何気なく思いついたことを口にする。妙案かのように瞳を輝かせるベルンハルトに対して、怒らせているのはお前らだ、とトビアスは肩を怒らせる。
「インク、服の上に描くのか?」
「落としやすいように、肌に描けるように作った」
「おっし、ちょっと脱げ」
「ボクはいいって言ってない! おい、剝くな!」
思い立ったが吉日と、イェレミアスがトビアスの背後に回り、シャツを脱がせる。トビアスの抗議は声だけでなく行動にも表れるが、如何せん騎士を目指して鍛えているイェレミアスの筋力の前では暖簾に腕押しだった。ベルンハルトは興味津々で黒いインクを吸った筆を構える。
二人に挟まれて、窮地に陥ったトビアスはどうにか逃れられないかと視線を走らせる。そして、固まることになった。
書斎のドアが開いており、大きく眼を見開いて硬直する王女フィリーネの姿を見つけたからだ。
他の面々も彼女に気付き、沈黙が落ちる。
誰もが言葉を失った。
何だこの状況は、とトビアスが思うのだ、経緯も知らない彼女が思考停止するのも当然だ。一体、誰が王族の書斎で服を剝かれた貴族がいると思うだろうか。
突飛すぎる光景に瞠目しているとばかり思っていたが、フィリーネの視線がある一点に注がれていることに気付いてトビアスは視線を落とす。自分の貧相な身体には、肌が引きつった痕などが点在していた。
彼女の驚愕の理由を知り、イェレミアスの拘束を振り払いトビアスは慌ててシャツを掴んで、肌を隠す。
「……お、お見苦しいものをお見せしました」
ブレンナイス家で冷遇されていた名残りのことを、トビアスはすっかり忘れていた。主たるロイは事情を知っているし、ベルンハルトもイェレミアスも傷があろうがなかろうが態度が変わらない人物だ。
どれも古傷で痛みはしない。貧相な体躯に傷が残っていようとトビアスにはなんら支障のないことだ。火属性の父の鬱憤の捌け口になったときなどの火傷だったり、母の逆鱗に触れたときに物を投げつけられてできた裂傷だったり、大小さまざまな傷が散らばっている。すべての傷が、打撲痕のように時間の経過で消えてくれる訳じゃない。
どれも死ぬようなものではない。しばらく痛みが続く程度のものばかりだ。
それでも見て楽しいものではないことは、トビアスも理解している。
謝罪をしても反応がないので、トビアスはおそるおそるフィリーネの様子を窺う。
見開かれた瞳から、つう、と雫が伝うのをトビアスは見る。
碧玉から一滴零れると、そこからはぼろぼろと溢れ始めた。その光景をトビアスはただ見つめる。
「ごめんなさい……!」
両手を掴まれ、涙を溢れさせたフィリーネから謝られる。何の謝罪か、トビアスは解らない。今、何が起こっているのかすら解らなかった。判るのは、彼女は零す涙すら輝きを放つということだ。
「フィル!」
静観していたロイが、珍しく焦ったような声をあげる。
その無垢な美しさゆえに眩く感じていた涙は、現実に光を点していた。ぽつぽつと光の粒子が彼女の全身から溢れる。
光の粒子は、握られた手を伝って、トビアスの身体を包む。光は、握られた手や、落ちる涙のように温かかった。
「ごめんなさい。私、知らなくて……、知ろうともしてなくて……っ」
何度もフィリーネは謝罪を繰り返す。その光景が不思議で、トビアスはぼうっとただ見返す。
トビアスが反応できずにいる間に、ロイが妹を彼から引き剥がす。
「その力は使ったら駄目だと言っていただろうっ」
「でもっ、ロイ兄様、私が知ろうとしていなかったから……」
「フィルのせいじゃない」
「だって、私、酷い人間、です……」
「すべてを知る責任など誰にもない。フィルは優しい子だ」
兄に叱られても、フィリーネは涙ながらに自身の非を訴える。そんな妹に確かな声音で、否を返すロイ。否定を繰り返されて、降る優しさにフィリーネはまた涙した。
兄妹のやり取りを呆然とトビアスは眺める。ふと気付くと、身体に散っていた古傷が消え去っていた。治癒魔法を使われたのだと、トビアスは気付く。彼女の魔力の強さゆえに、古傷までも治癒できたのだと判る。
光と闇の属性を持つロイ、そして、光と風の属性を持つフィリーネ。どちらも魔力量が多いのだから、お互いの使える魔法の威力を知っていたのだろう。これだけの治癒能力なら、本来国の許可なく行使してはいけないものだ。
何故、そこまでの施しをボクに……
トビアスには理解が及ばない。
けれど、兄の胸を借りて、わんわんと泣く彼女は現実だ。その涙が自分のために流されているものだというのが信じられない。
誰かのために泣くことができる人間を、トビアスは初めて目撃した。
その涙が尊く、美しいものだと知る。彼女が、造形の美麗な人間であることは知っていたが、その心まで美しいとは知らなかった。
天使が実在するなら、彼女のようではないか。
トビアスの心に温もりが生まれる。
「ロイ兄様、助けてくれてありがとうございます……っ」
気付けば彼女は、自分を助けたことを兄に感謝していた。自分のことでロイが感謝されるところを見るのは二度目だ。前のときは腹が立ったが、今回はじんわりと胸が温かくなる。この世に綺麗なものがあるとするなら、彼女だ。
「ただでさえ魔力を使いすぎていたからな」
しばらくして、泣き疲れて眠ってしまった妹を、ロイは抱きかかえる。彼女を寝室まで運ぶために書斎を出る。だが、ドアを潜ったところで、彼は一度振り返った。
「せっかくフィルが綺麗にしたんだ。傷を付けてくれるなよ」
「もちろんです」
この身を大事にしなければならない、とトビアスは承知していた。彼の瞳に強い意思を読み取り、ロイはいい返事だ、と微笑んだ。
去る兄妹の背中を、トビアスは見送る。彼に立場を救われ、そして彼の妹に心を救われた。
その日、彼らに仕えることができる幸福をトビアスは感謝した。
棘はもう丸くなっていることだろう。








