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乙女ゲーのモブですらないんだがー番外編ー  作者: 玉露


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side17.刺繍



雪解けもし、春が近付いてきた。

季節が随分移り変わったのだと、ベルンハルトは庭いじりが好きな友人の話で知った。種から育てた雪割草(ゆきわりそう)が今年咲くらしい。何故、そんなに嬉しそうなのかと訊ねたら、種から育てた場合開花まで数年かかるのだそうだ。


「時間がかかるんだな」


「山野草じゃそう珍しくもねぇぞ」


それに咲けば以降は毎年見れる、と笑う友人を見て、ベルンハルトはあることに気付く。


「咲くのは、エルンスト公爵家の庭だよな?」


「そだけど」


「イザークは、ヴィート侯爵家に帰るんじゃないのか?」


「あ」


失念した事実に友人のイザークは固まった。無理もない。彼は今年ヴィート侯爵家に養子縁組されたばかりだ。


「めっちゃ出勤する気だった……」


それ以前はエルンスト公爵家の庭師見習いだったイザークは、慣れないな、と呟く。彼は学園の書類上、いまだバウムゲルトナーの姓で通っているが、来年度の四月になればヴィート家の令息として通うことになる。平民の彼がいきなり侯爵令息になるだけでも異例だというのに、併せて公爵令嬢との婚約も公表されるのだから、生徒たちは震撼することだろう。

ベルンハルトが事前に知っているのは、単に友人として明かされたからだ。


「まぁ、リュディア様が招待してくれるだろう」


ベルンハルトの言葉に、それもそうか、とイザークは頷く。彼の婚約者である公爵令嬢のリュディアとも親しくしているので、ベルンハルトは彼らの婚約を祝福している。


「あ。先輩、魔法陣のココ分かんねぇ」


「どこだ?」


手元の本に描かれた魔法陣の一部を指し、イザークがベルンハルトに質問する。勉強を教わるときだけ先輩呼びされることにベルンハルトはもう慣れた。

指された箇所は魔力制御に関わる術式だとベルンハルトが説明すると、なら他の属性の魔法陣にもあるのか、とイザークはさらに問う。なまじ頭がよすぎるベルンハルトは、勉強を教えるのが苦手だが、彼のように一時的な知識としてではなく本質の理解に着眼点を置く者とは話しやすい。

彼が自分の教えられる範囲を質問している可能性もある。そういったことを感覚的にできる器用さがある男だと、ベルンハルトはイザークを評価していた。


「一定の魔力量で術を安定させるための式だ。手動発動型なら他の属性でもこの制御式は使われている」


「固定ダメージ技ってことか」


「だが、逆を返せば一定の魔力量がないと発動しない。一応、発動値に満たない場合は七割以上魔力を奪わないようになっているが、まだ不十分だ……魔力量測定の式を応用してもっと早い段階で発動を止めるようにできれば、イザークのような魔力量が少ない者でも安全に」


はた、とベルンハルトは言葉を途切れさせる。自身の推論まで述べてしまっていると気付いたためだ。問題の解答を出すため以上の、しかも推測段階の情報を与えては、相手が混乱してしまう。


「すまない……」


「いや」


ベルンハルトは、魔法に関する話になると熱が入りやすい。幼い頃は相手が制止をかけないと止まらないぐらい夢中で話したものだが、今は私語を慎むべき図書館にいることもあり、自身で制止するに至った。

彼が謝罪すると、イザークは気を悪くした様子もなく笑った。


「俺、魔法陣見て術当てる問題苦手だから、ベルが教えてくれて助かる」


さんきゅ、と感謝されて、ベルンハルトは苦笑をひとつ零した。


「助かってるのは僕の方だ。元々、僕から頼んだし……」


イザークに勉強を教える機会を設けたのはベルンハルトの方だった。ベルンハルトが教えずとも、彼自身の実力で上位三十位に入れると一学期に証明されている。

ベルンハルトが二学期以降、合う時間に勉強を教えているのは、ある人物と会う機会を減らすための口実だ。

彼は、幼馴染の令嬢、コルネリアに恋をしていた。彼女はくされ縁のイェレミアスの婚約者であり、完全にベルンハルトの横恋慕だった。その引導を渡したのが一学期のこと。


「付き合わせて、すまない」


「なんで? 俺の苦手なトコ教えてもらってるだけじゃん」


不都合などどこにもないと笑う友人にベルンハルトは救われる思いがする。だから、今度は謝罪ではなくありがとう、と感謝を返した。

イザークは、自分の春が散ったときに肩を貸してくれた。その後も、詮索されず、変わりなく接してくれる。また、どうにも辛くなったときに吐露する感情を、静かに聞いてくれた。彼なりの気遣いが、ベルンハルトは嬉しかった。

失恋当初は、コルネリアとイェレミアスの前でうまく笑えなかったし、二人がいるのを目にすると胸が(きし)むこともあった。彼女の幸せを祝福しきれないことが申し訳なく、交遊関係が狭いゆえにうまく避ける口実も作れない自身の要領の悪さに落ち込みもした。

最近は二人を見てもよかったと純粋に思えるようになった。時間が解決するものもあるのだと、ベルンハルトは学んだ。


「イザークには頼ってばかりだな」


「今、ベル頼ってんの俺だけど?」


ベルンハルトの零した感想に、逆ではないかとイザークは首を傾げる。その反応にベルンハルトは可笑しさが込み上げた。彼は本気でそう思っている。だからこそ可笑しかった。

こういうとき、友人は歳上なのだと感じる。遅れて入学したために、学年ではベルンハルトより一つ下で後輩にあたるが、年齢では逆にイザークの方が一つ上だ。彼の人柄もあるが、ベルンハルトが頼り甲斐を感じるのは、得た経験を無駄にせず歳を重ねた者だからこそとも思う。

改めて友人の存在に感謝しつつ、ベルンハルトは微笑む。


「もう大丈夫だ」


季節の移り変わりに気付けるぐらいに自分は落ち着いた。


「え。もう勉強教えてくれねぇの?」


安心させるために報告したというのに、悲愴のこもった声が返り、ベルンハルトは口許を押さえ、可笑しさに震えた。図書館で声をあげて笑う訳にはいかなかった。

ひとしきり笑ったあと、ベルンハルトはこれからも解らないところがあれば手伝う約束をしたのだった。



学園の敷地内の図書館から校舎へ戻る途中、とある男女がベルンハルトたちの視界に入った。

校舎の入り口から少し離れた壁に令嬢が背を向けており、壁に片手を突いた令息が彼女に向かいあっていた。


「今夜、俺の部屋に来ないか?」


背後にいるためベルンハルトたちの存在に気付いていないらしい令息は、目の前にいる令嬢しか映していないかのように口説く。場所を(はばか)っていないところからすると、ベルンハルトたちが視界にいようが、彼には令嬢しか眼に入っていないやもしれなかった。

経緯を知らないベルンハルトたちには直接的に聞こえる誘いに、令嬢はぷっくりとした唇で蠱惑(こわく)に笑む。その口元には黒子(ほくろ)があった。


「素敵なお誘いだけど、試験前でしょう?」


「俺の実力なら余裕さ」


「あら、無理よ。私のことしか考えられなくなるわ」


だから、ごめんなさい、と彼の耳元へ(ささや)き、令嬢は断った。(つや)のある囁きに令息は立てなくなったようで、その場に膝を突いた。試験に向けての声援を彼に残し、令嬢はベルンハルトたちの方に向かってくる。

通り過ぎるとき、偶然ベルンハルトと眼が合い、亜麻色(あまいろ)の髪をふわりと揺らして彼女は微笑んだ。


「ベル、知ってる()か?」


「見たことがある気がする……」


令嬢の方が知っている素振りだったのでイザークが訊ねると、ベルンハルトは考えながら確証のない呟きを返した。

その答えに、イザークは彼らしさを感じる。ベルンハルトは興味のあることには熱意をもって臨むが、関心のないことには極端に疎い。彼には、対人関係など些末(さまつ)なことなのだろう。異性にいたっては、コルネリア以外に認識している女性は数えるほどだ。

ベルンハルトの関心のほとんどは魔法にある。


「ベルって、同じクラスのヤツの名前も覚えてなさそうだな」


「……あ。そうか、同じクラスだから見覚えがあるのか」


そういえば教室で見かける顔だ、とやっと心当たりにたどり着いたベルンハルトに、イザークは苦笑する。

イザークも他人事でなく人の名前を覚えるのが苦手だが、ベルンハルトのは苦手とは少し違う。彼には記憶力があり、ただ顔と名前を一致させる作業をしていないだけだ。おそらく、名前だけなら全校生徒全員分も暗記していることだろう。


「卒業までには、同じクラスのヤツぐらい覚えてやれよ」


相手はちゃんと知っているのに、ベルンハルトの記憶に(かす)りもしないのは不憫に感じ、イザークはそう促す。


「検討する」


「しかし、さっきの()、ナンパに遭いやすそうで大変だな」


「ナンパ?」


「断り慣れてても、めんどいもんはめんどいだろ」


イザークの発言に、ベルンハルトは首を傾げた。彼の言い方では、彼女が一方的に言い寄られていただけのように聞こえる。


「あの二人は婚約者同士じゃなかったのか」


ベルンハルトは先ほどの親しそうなやり取りを見て、てっきり婚約者同士ないし婚約直前なのかとばかり思っていた。


「さっきの()が頭いいから」


機転がきくから波風の立たない対処をしただけだ、と聞き、彼女がベルンハルトにはできない配慮に長けた人物だと認識した。

ただ断っては令息の反感を買いかねない。強引な手段をとられれば、非力な女性では抗えないことだろう。彼女にとっての最善の手はあれだったのだ。


「女性は気苦労が多いんだな」


「ちょっと頑張ったら名前ぐらいなら思い出せると思うけど、どうする?」


元々エルンスト公爵家の使用人だったイザークは、入学前に歳の近い令息、令嬢の名前を暗記する訓練を受けている。そのため、意識すれば記憶から学園の生徒の名前を引き出すことが可能だ。だが、不得手の分野ため思い出すのに、少しばかり時間がいる。

イザークの提案を、ベルンハルトは断った。


「いや、次話す機会があれば謝って、聞くよ」


「そっか」


同級であるにもかかわらず名前を覚えていない、という失礼を、ベルンハルトは正直に詫びることにする。学者肌の彼は、誤りを確認すれば認め、次回への改善へ意識を向ける。そんな彼の思考回路が嫌いではないイザークは、笑って頷いた。

きっかけがなんであれ、ベルンハルトが他人と交流する機会を持つのはイザークにとっては喜ばしいことだった。話してみれば彼が意外と話しやすい男だと解る者もいることだろう。

イザークは、先ほどの令嬢が彼の真っ正直な謝罪を微笑んで受け入れてくれることを祈った。



謝罪の機会は程なくして訪れた。

三学期の期末試験が行われ、その結果が張り出された。ベルンハルトは自身の点数を確認するために、掲示へと向かうとクラスの教室で眼がいくようになった亜麻色の髪がふわりと揺れた。


「あ」


名前を知らないために空虚な声だけがあがる。しかし、相手の令嬢は微笑み返して、ベルンハルトの意を()んだ。


「ごきげんよう。ベルンハルト様でも確認されるのですね」


「ああ、欠点がどれほどか確認したくて……、それで失礼だが、君の名は?」


ベルンハルトが成績優秀であることは周知の事実だ。順位に興味がないというのは、聞く人によっては嫌味にも聞こえるが、彼女は微笑んで聞き流した。

代わりに、張り出された属性別順位表を指した。


「お隣ですわ」


彼女の指した先は水属性の順位だった。ベルンハルトは一位である自身の名前の横を見遣った。


「フロレンツィア・フォン・マウラー……、聞いたことがある名前だ」


「ブリュヒャー先生の授業で、あなたの次に呼ばれますから」


ふふ、とフロレンツィアは事もなげに微笑する。

ブリュヒャーという教師は、水属性の座学を担当する教員だ。彼は、試験の答案を成績順に呼んで返すことで有名だった。ということは、彼女はベルンハルトの次席となるほど水属性に秀でていることだ。

通常なら顔と名前を一致して覚えているであろう相手と知り、ベルンハルトは申し訳なくなる。だから、正直に頭を下げた。


「本当に申し訳ない」


「先日はお恥ずかしいところをお見せしました。フロレンツィアと申します。以後、お見知りおきを」


「今、覚えた」


フロレンツィアがゆったりとカーテシーをし、改めて自己紹介をする。すると、二人の会話が聞こえない者たちからは、ベルンハルトが頭を下げたのがただの挨拶に映った。

ベルンハルトに覚えてもらえ光栄だ、とフロレンツィアは微笑む。記憶力のよい彼は、覚えた以上は忘れない。大臣を務める父を持ち、本人も魔力と知能に秀でている侯爵令息だ。そんな彼の覚えがめでたいことは、フロレンツィアの損にはならない。


「在学中に覚えていただけて、よかったですわ。ずっと二番目だった私ばかりが意識していたのは悔しいですもの」


「それは、その、申し訳ない……」


悔しそうな様子は微塵もなく彼女は皮肉を言う。けれど、言葉通りなら競う相手と認識してされていたというのに、ベルンハルトはこれまで知りもしなかった。居たたまれず、ベルンハルトは謝罪の言葉を繰り返す。

すると、フロレンツィアは可笑しそうな笑い声を零した。何が彼女の琴線に触れたのか判らないベルンハルトは首を傾げる。


「ふふっ、少し新鮮で」


「新鮮?」


「私を前にすると、言葉通りに受け取ってくださる男性があまりいませんの」


そう言って、彼女は片手を胸元に添える。ただそれだけの仕草だが、彼女の女性らしい曲線を視覚的に意識させるには充分だった。成績を確認しにきたはずの男子生徒が数人、彼女へと視線が吸い寄せられるのをベルンハルトは確認した。

彼女が、直接的な表現を避けやわらかい表現を選ぶのは令嬢のマナーが染みついているがゆえだ。しかし、彼女のゆったりとした口調と声音の効果もあってか、異性が自身に都合よく解釈することが常なのだろう。


「君は、誤解を甘んじて受けているのか?」


「さぁ? 誤解かどうかは、ベルンハルト様がご判断なさって」


「そうする」


ベルンハルトは噂話の(たぐ)いが嫌いだ。事実に基づいた情報を好む。そのため、フロレンツィアの自身の眼で判断しろという提案は合理的で納得がいった。

彼が間髪入れずに首肯するものだから、フロレンツィアはわずかに瞠目し、そして眼を細めた。

では、またの機会に、とフロレンツィアは去っていった。ベルンハルトは他の属性科目と総合成績を確認するため、掲示へと視線を戻す。

その日、ベルンハルトは同級の名前を一人覚えた。



期末試験が終わった後の図書館は、眼に見えて人気(ひとけ)が減った。そのため図書館へ向かう人通りも少なく、近くにある東屋もひっそりとしたものだった。

そんな東屋に、訪れる者がいた。

彼女は東屋に腰を落ち着けると、下げていた籠から丸い木製の枠に嵌った布を取り出す。その木枠で張った布に一針(ひとはり)、一針鮮やかな色の糸を縫い付けてゆく。

ぷっくりとした唇から、ほぅ、と安堵の吐息が零れる。


「やっぱり、こうしているのが一番落ち着くわ」


刺繍をしながら、フロレンツィアは心の安寧を取り戻した。

フロレンツィアは、幼い頃から睫毛が多く甘やかな目元で身長も高かった。成長するにつれて、身体は女性的な曲線が強調されるようになり、少女というには婀娜(あだ)のある外見へと完成された。

年齢にそぐわない色香を持て余した彼女に対して、男性は夜の誘いを気軽にしてよい相手と見なし、女性は見境なくはしたないと軽蔑する。それらの偏見ゆえに、彼女は一人だった。

趣味の刺繍をすることで一人の時間を潰している。


今日は、ベルンハルト様と話して緊張したから余計ね……


ひと時の相手を、と言い寄られる男性を(かわ)すことも疲れるが、自分より身分が高く優秀なベルンハルトと対峙するのも充分気疲れした。彼は鋭い目つきをしているので、令嬢には近寄りがたい雰囲気がある。その眼光を真っ向から受けたフロレンツィアも、当然彼と対峙して緊張した。

彼女は年相応のごく普通の令嬢であり、噂されているようなふしだらな関係を誰とも持ったことはない。だが、女性経験が豊富であると吹聴したい者が、フロレンツィアの名をあげるものだから彼女の純潔を信じる者はいなかった。

だからこそ、内心萎縮(いしゅく)こそしたが、ベルンハルトが自分に謝ってきたことが意外だった。てっきり、あの場を見て軽蔑されたとばかり思っていた。


「久しぶり、いえ、初めてかも……」


珍しい体験に、フロレンツィアは思わず独りごちる。

成長期を迎えて以降、色眼鏡をかけられることなく同世代の異性と話したのはベルンハルトが初めてだった。幼い頃は身体の凹凸もなかったのだから、そういった眼で見られなくて当然だ。だからこそ、この歳になって真っ直ぐに眼を見て話されたことに驚く。

しかし、その相手がベルンハルトであるため、フロレンツィアも納得する。彼は自他ともに認めるほど魔法にしか関心がない。座学の成績だけなら彼が同学年で一位であるし、適性属性の水魔法にいたっては彼の右にでる者はいないことだろう。それだけの結果を出しているというのに、彼は慢心せず魔法の勉強に明け暮れ、まだ卒業まで一年あるというのに魔術省からすでに声がかかっているという。

ベルンハルトは鋭さはあるのものの、見目もよく婚約者がいない。しかも、侯爵家かつ大臣の息子で好物件だ。だというのに、浮いた話が一つもないのも、彼の日頃の様子を見れば頷ける。


「ベルンハルト様が女性に興味がなくてよかったわ」


「いや、一応女性に懸想(けそう)した経験はあるが……」


「ひゃっ!?」


誰も聞いていないはずの独り言に、背後から返答が返り、フロレンツィアの肩が跳ねた。声のした方に振り返ると、ベルンハルトが手元の刺繍を覗き込んでいた。


「とても繊細だな」


「ベ、ベルンハルト様? いつからいらして……!?」


ベルンハルトは刺繍の出来に感心した様子だが、フロレンツィアはその称賛に礼を返せる心境ではない。誰も来ない、と気を抜いていたところを目撃されてしまった。

そんな動揺するフロレンツィアを気にした様子なく、ベルンハルトは平素のまま答える。


「数分前だ。図書館に向かう途中に、熱中している君を見かけて何をしているのかと思った」


「そ、そうですの」


勉強熱心な彼の存在を考慮していなかったことを、フロレンツィアは後悔した。いつでも勉学に励んでいる彼なら、試験が終わろうが関係なく図書館に訪れる。


「声はかけたんだが、すごい集中力だな。君の成績がいい訳だ」


「お褒めいただき、嬉しいですわ……」


「嬉しそうではないが?」


じりじりと距離を取られ、くっと何かを堪えるかのように(まぶた)(つぶ)るフロレンツィアは、とても言葉通りには見えなかった。

ベルンハルトに真面目な指摘を受け、フロレンツィアは観念して白状する。


「はっ、恥ずかしいんです……っ」


「恥ずかしい?」


「だって、似合わないでしょう。趣味が刺繍だなんて……!」


隠すように胸元に刺繍台を伏せ、フロレンツィアは顔を逸らし、俯く。

フロレンツィアは、家族の薦めもあってこれまで自身に似合う服装、化粧をしてきた。周囲が自分をどう見ているか理解し、その印象が崩れないように振舞ってきた。本当は大人しい趣味の気弱な少女だと知られれば、味方のいない彼女は男性から身を守れない。

言い寄られる男性が、恐かったり、気持ち悪かったりしても、それを顔に出してしまえば付け入る(すき)ができてしまう。だから、フロレンツィアは平然と微笑み続けるより他なかった。

フロレンツィアの事情を知らないベルンハルトは思案げに呟く。


「女性が女性らしい趣味であることの何が悪いんだ?」


「私は普通の令嬢らしくないからです」


「ちなみに、僕から離れようとしているのは?」


「ベルンハルト様のお顔が怖い、ので……」


「寝不足じゃないから、今日はマシな方なんだが」


彼女が、実は目つきの悪い自分に怯えていたと知り、ベルンハルトは弱った。

自分の目つきの悪さは生まれつきだ。くされ縁のイェレミアス曰く、寝起きの顔などは人が殺せそうなほどに人相が悪いらしい。低血圧で、本に夢中になると夜更かしすることも間々あるため、(くま)ができ人相が悪いときは多い。

一度目に眼を合わせたときも、二度目に話しかけたときも、彼女は微笑んでいたから平気なのだとばかり思っていた。せっかく論理的な会話もできそうな知り合いができたと思ったのに、残念だ。


「僕には、普通の令嬢、がなんたるかは分らないが……、君が刺繍をしていても変だとは思わない」


「え……」


「君の怖がる僕が言っても、何にもならないかもしれないが、その刺繍は綺麗だと思う」


フロレンツィアは、ぱちくりと常盤色(ときわいろ)の瞳を見返した。彼はいつも真っ直ぐに自分の眼を見る。一瞬、恐怖を忘れてその常盤色に見入ってしまった。

事実しか口にしない彼の言葉の響きは、フロレンツィアの胸に不思議と木霊する。


「邪魔をしてしまって、申し訳なかった」


今日は君に謝ってばかりだな、とベルンハルトは苦笑する。

そのまま去って、図書館に向かおうとする彼をフロレンツィアは思わず引き留めた。


「あのっ、このことは……!」


刺繍の趣味のことか、普段の笑みが虚勢であることか、具体的に言うのも躊躇(ためら)ってしまう。それでも、フロレンツィアの言わないでほしいという要望をベルンハルトは拾った。


「僕にフロレンツィア嬢のことを聞く者はいないと思うが……、君が心配なら」


ただの口約束で不安だというのなら、とベルンハルトは条件を提示した。


「その花の咲ききったところが見たい」


指されたのは、フロレンツィアが胸に抱く刺繍途中の布だった。


「君は僕が苦手なようだけど、僕はそれが完成したところが見たい」


嫌なことを頼むのだから条件になるだろう、とベルンハルトは踏んだ。意外な条件にフロレンツィアは困惑しながらも、自身に差し出せるものが限られていることに気付く。彼の提示した条件を飲むしかない。


「わかりましたわ」


フロレンツィアが了承をしたのを確認して、ベルンハルトは今度こそ図書館へと向かった。その背に(なび)深紅(しんく)の髪を、フロレンツィアは呆然と見送る。

一体何が起こったのか、と突風のような出来事に整理が追い付かない。ただ少し会話をしただけだが、フロレンツィアの心境としては、それぐらいの出来事だった。

ひとまず刺繍の作業に戻ることにする。手作業をしてる方が、落ち着くし、整理して思考できる。

見られたくないものを見られてしまった動揺と彼の鋭い眼差しで萎縮してしまって、躱すための笑みを装備することができなかった。冷静でいられなかったとはいえ、思い返すと正直に言いすぎて彼に失礼なことばかり言ってしまった気がする。

だというのに、彼は刺繍の趣味を否定しなかった。むしろ、刺繍を褒めてくれた。ベルンハルトが自分を最初に褒めたのは容姿じゃなく、ひた隠していた趣味だった。


悪い人じゃないのかも……


鋭い眼に見られると身が(すく)むが、見た目ほど怖い人物ではないのかもしれない。てっきり、自身より知能の低い者は歯牙にもかけないような人物かと思っていた。この二年近く同級として過ごしてきたが、必要最低限しか話さないのは同級生を見下していた訳ではないらしい。

彼が自分に返した言葉たちを思い返す。どれも真面目に答えたもので、皮肉も偏見もそこにはなかった。

むしろ、自分の方が勝手な印象で彼を物語ってしまった。


「悪いことをしたわ」


自分こそ謝らなければならないと、フロレンツィアは反省した。

この刺繍が完成したら、詫びようと決める。すぐに謝りにいけないのは、彼の鋭い眼と対峙する勇気を貯める必要があるからだ。

フロレンツィアは一針、一針打つごとに勇気が貯まると信じ、刺繍に集中したのだった。



刺繍の花が咲ききったときには、とっくに春期休暇に入っていた。

そもそも約束をしたのが期末試験の結果が出た日だ。あとは来年度に向けて休みに入るしかない。

フロレンツィアは困った。刺繍が完成した達成感の助けをもってベルンハルトに臨もうと思っていたのだ。三年の一学期が始まるまで待っていたら、せっかく貯めた勇気が(しぼ)んでしまう。

そんなとき、従兄弟(いとこ)から王族も出席するというパーティーへの同伴を頼まれた。王族が出席するということは、第一王子のロイもくるということだ。必然的に彼の重臣候補のベルンハルトも追従することだろう。

悩むことなく、数日後にあるというそのパーティーへの参加をフロレンツィアは了承したのだった。

そして、フロレンツィアは自身の考えが甘かったことを知る。

パーティー当日、従兄弟にエスコートされてホールへと入ると、程なくしてベルンハルトは見つかった。何せ輝く金糸の髪と美貌をもった王子殿下に侍られているのだ。当然、目立つ。紺碧(こんぺき)の髪のイェレミアスと対になるかのような深紅の髪も充分に人目を集めた。

刺繍を一目見せるだけで時間がかかるものではない。そう思っていたが、如何せん彼に近付けない。王子のロイに追従する彼が、その傍を離れることはない。フロレンツィアには王子を差し置いて、ベルンハルトに声をかけるなんて無礼はできなかった。

彼がどうにか一人にならないか、とフロレンツィアは様子を窺った。そうしてベルンハルトの横顔を眺めているうちに、改めて気付く。彼の容貌が整っていることに。

眼は(たか)などの猛禽類(もうきんるい)を連想させるほど鋭いが、その瞳の色は知性の籠った常盤色だ。鼻筋も高く、薄い唇は真面目さを表すかのように引き結ばれていた。遠目に鑑賞する分にはよい外見をしている。


「フロレンツィアじゃないか、奇遇だな」


「……あら、あなたも来ていたのね」


かかった声にわずかに反応が遅れる。思わず見惚れてしまっていた。

振り返りながら、フロレンツィアは笑みを刷く。特に名前を呼び捨てることを許した覚えはないが、先日不躾(ぶしつけ)に夜の誘いをしてきた令息が気安く笑っていた。彼のなかでは、自分はすでに彼の物なのだろう。


「ああ、試験も終わったんだし、今夜はいいだろう?」


「王族もいらっしゃる場では野暮じゃないかしら」


周囲に聴かれないよう耳元に口を寄せられる。それに悪寒を覚えながらも、フロレンツィアは笑みを崩さない。

彼が声を潜めたのは、周囲に人がいるからだ。壁際などに立てば追い詰められるし、ダンス鑑賞付近に位置どっては周囲の視線がダンスに向いている間に何をされるか判らない。なので、フロレンツィアはパーティーの際は、歓談エリアと立食エリアの間にいるようにしている。そうすれば、人が行き交うので男性が無理強いをしてこないのだ。

だが、焦らされたと思っている令息は、フロレンツィアの手首を掴んだ。


「いいじゃないか。休憩室に行こう」


「もう少し夜が更けてからの方が、きっとゆっくり休めるわ」


その頃にはお暇する気で、フロレンツィアはにこりと微笑む。しかし、諦めの悪い相手は一向に離れない。

内心焦り始めたフロレンツィアに、思いがけない声がかかる。


「フロレンツィア嬢、来ていたんだな」


「ベルンハルト様!?」


救いとなった声の主はベルンハルトだった。彼の登場に、令息は眼を剝き、慌ててフロレンツィアから手を離した。


「お久しぶりです、ベルンハルト様」


「一週間前に会ったのは、久しぶりなのか?」


「ふふ、正確に覚えていらっしゃるんですね。人それぞれですわ」


「僕はそういう曖昧(あいまい)な定義が苦手だ……っと、君は?」


フロレンツィアに話しかけただけのベルンハルトは、ようやく隣にいる令息の存在に気付いた。


「おっ、俺は彼女に挨拶しただけなんで!」


この場では分が悪いと令息はそそくさと去っていった。去っていく彼の慌てた様子に、ベルンハルトは首を傾げる。


「僕が睨んだと思ったんだろうか……」


「ふふっ、そうかもしれませんわね」


まず最初に自分の人相に要因があるのでは、と疑うベルンハルトが可笑しくて、フロレンツィアは笑った。

否定されなかったので多少気を落とし、ベルンハルトは俯く。そして、フロレンツィアの手が微かに震えているのが眼に入った。

そっと自分の指先の腹に、彼女の指先を載せると、フロレンツィアはぴくりと怯えたような反応を見せた。


「……君は、いつもこうして一人で震えていたのか」


表情では判らないから、指先から伝わる振動でベルンハルトは感じ取ろうとする。そのわずかに触れた箇所から伝わる温もりに、フロレンツィアは戸惑った。

彼女は自分と同じ十七歳の少女だ。その少女が一人で下心を持った男と対峙しなければならない事実を、ベルンハルトは痛ましく感じた。


「殿下、は……?」


戸惑うフロレンツィアは、そもそも何故ここにいるのか、とベルンハルトに問う。


「ああ。殿下はシュテファーニエ様とダンス中だ」


ベルンハルトの向けた視線を追うと、ロイが婚約者の令嬢とワルツを踊っていた。その間、周囲の見回りをしていたところ見知った顔を見つけたのだとベルンハルトは言う。

その偶然に自分は助けられたのだ、とフロレンツィアは感謝した。


「もう大丈夫ですので、ベルンハルト様は見回りに戻ってくださいな」


フロレンツィアは、彼を送り出す言葉を口にのせ微笑んだ。

今日はもう帰ろう。長居してはまた絡まれかねない。従兄弟に断って先に帰ることをフロレンツィアは笑みの下で決める。先ほどの出来事で貯めた勇気も萎んでしまった。今日、彼に刺繍を見せるのは諦めよう。


「ベル、こんなところで何立ち止まってるんだ?」


ベルンハルトが言葉を返すより前に、別の声が割って入る。二人が振り向くと、真っ直ぐな紺碧の髪のイェレミアスが従騎士の服装でこちらにきた。


「レミアス、ちょうどよかった。今日、コニーは来てるか?」


「今日は来てないぞ」


「そうか。なら、少し(はず)す。彼女が人に酔ったようで、夜風に当たりたいそうだ。彼女の同伴者が戻るまで付き添う」


「わかった」


気心が知れた間柄なためか、フロレンツィアが口を挟む隙なく話が決まってしまう。

行こう、と彼に促され、フロレンツィアは深紅の髪が揺れるのを追う。繋ぐでもなく、ただ触れただけの指先に導かれるようだった。触れられた瞬間は離しかけたが、今は指先の温もりを自分から離す気にならなかった。

バルコニーに着くと、(いざな)っていた指先が離された。


「落ち着くまでいるといい」


「あの……ベルンハルト様は……」


「僕が怖いんだろう?」


だから、バルコニーの入口で立っているとベルンハルトは言う。

震えの残る彼女の傍に男、それも顔が怖いらしい自分がいては落ち着くものも落ち着かないだろう、とベルンハルトは判断した。ロイの挨拶回りは終わっているので、自分の補助は必要なく、この後は護衛が主要となる。それはイェレミアスがいれば事足りる。ならば、フロレンツィアが一人になれるよう、この目つきの悪さで近寄る男を阻む方が役に立つというものだ。

何を言っているんだと首を傾げる彼を見て、フロレンツィアは良心の呵責を覚える。自分が近くにいては落ち着かないだろう、という彼の心遣いが胸に刺さる。


「一人で、というのも心許ないので、話し相手になってくださると……」


フロレンツィアがそう頼むと、ベルンハルトは彼女から数歩離れた欄干の前に立った。彼に倣って、フロレンツィアも欄干に手を置き、目下の庭園を眺める。バルコニーの下には大きな噴水があり、パーティーが行われているフロアの灯りを反射してゆらゆらと輝いていた。


「僕が話し相手では間が持たないだろう」


女性相手に気の利いた話題を持ち合わせていないベルンハルトは、自覚があった。


「あら、女性の話を聞いてくれる男性の方がモテますのよ」


ただ話を聞くだけで構わない旨をフロレンツィアが伝えると、そういうものか、とベルンハルトは神妙に頷いた。本当に彼は、自分の言葉を真面目に聞いてくれる。

声の届く範囲で距離をとり、顔を見なくていいように隣に立つ彼は不器用に優しい。先ほども指先以上に触れることはなかった。自分が男性に触れられることに怯えたのを、指先から拾ったからだ。

誰かに助けてもらえると思っていなかったところを助けられて、フロレンツィアの心は弱っていた。だから、その優しさで触れられ、怖かったことを自覚してしまう。


「じゃあ、君の話を聞こう」


こうして自身の震えが(おさ)まるまでの戯言(たわごと)に付き合ってくれる。


「そうね……、私が子供の頃は女と思われていなかったって言ったら、信じられます?」


「にわかに信じられないな」


「でしょう? けど、本当なの。周りの男の子よりも背が高くて、今日エスコートしてくれた従兄弟には睨まれたりもしたわ」


自分より背が高い奴なんて女じゃない、と面と向かって言われた。きっと彼は同じ歳なのに、女の自分の方が大きいのが相当悔しかったのだろう。


「姉さんや妹は背も小さくて可愛らしいのに、私だけ背が高くて、ちっとも可愛くないから悲しかった。だから、子供のときは少しでも小さく見せようと背中を丸めていたわ」


今では従兄弟や女兄弟と笑い話にできるが、当時はすごく悩んでいた。自分は一生女の子らしくなれないのだと落ち込んだ。


「けれど、ある人が言ってくれたの、今に私が女の子にしか見えなくなるって」


同じぐらいの身長の男の子が、自分を女の子として扱ってくれた。そして、それは彼だけではなくなると言ってくれたのだ。背なんてすぐ抜かされるから、背中を丸める必要はないと教えてくれた。


「一人でもそう言ってくれる男の子がいるって分かって、すごく嬉しかったの」


それからは背筋(せすじ)を伸ばしていられるようになった。自分が女の子でいていいと解ったら、女兄弟たちに相談して自分に似合う服装を探すようになった。

それからの日々は楽しかった。彼の言った通り、数年後には周りの男の子たちは自分より目線が高くなって、成長するにつれて周囲が女らしく扱ってくれた。


「……身体が女らしくなり始めた頃は、女性扱いしてもらえて喜んでいたわ。だけど、気付いたら、女として見られて、だんだん嫌になった」


フロレンツィアは知らず、手すりを握る手に力を込めていた。


「私は結局、可愛い女の子にはなれなかった……っ」


フリルやリボンや淡い花柄、そういった好きなものは全部自分には似合わなかった。

今も着ているドレスは、フレアスカートではなく身体のラインに沿った無地のドレスだ。スカートは広がらず、むしろ足元にゆくほど萎んで見え裾の部分だけが花弁のように波打っている。

脚を晒さず隠しているというのに、身体の線が判りやすくなることで色香の漂うデザインになっている。自分に似合うのは、こういうものなのだ。

隣のベルンハルトは静かだった。面白くもない話を聞かされて、興味なく聞き流しているのやもしれない。

彼なら笑わずに聞いてくれるかもしれない、と胸の内を吐露(とろ)したフロレンツィアは自嘲した。一方的なそれは、はた迷惑もいいところだ。


「ごめんなさい。面白い話ではなかったわね」


風景に眼を向けていたフロレンツィアが、隣に振り向くと、ベルンハルトは思案げに(あご)に手を当てていた。

これは考え事をしていてまったく話を聞いていないのでは、とフロレンツィアは疑念が湧く。しかし、そうならば好都合だ。先ほどの自白はあまりに自分の弱いところを晒しすぎた。

不意に夜風が肌を撫で、フロレンツィアは小さくくしゃみをした。その小さな音に、ベルンハルトははっとする。


「すまない。気が回らなかった」


春とはいえ夜は肌寒いのを失念していた、とベルンハルトとは自分の上着をフロレンツィアの肩にかける。今さらではあるが、ないよりはマシだろう。

上着をかけたときに、彼女の震えが治まっていることに気付いた。自分を見返す瞳にも男性への恐怖の色はない。ベルンハルトは安堵に目元を和らげる。


「要は、君も猩々木(しょうじょうぼく)なのか」


「しょう……?」


「小さく可愛らしい本当の君の花を知ろうとする者もいる、ということだ」


唐突に季節外れの冬の花をあげられ、フロレンツィアは彼の意図するところが解らなかった。彼女に判るのは、どうやらちゃんと話を聞いていたらしいことと、笑うと彼の人相があまり怖くなくなるということだった。


「あ。刺繍」


「完成したのか?」


気持ちが持ち直したことと、ベルンハルトを前にしていることで、今なら刺繍を見せることができるとフロレンツィアは気付く。小さなパーティーバッグを開け、中身を探る。しかし、目的の布の感触はそこにない。


「嘘、ちゃんと朝チェストの上に……」


忘れないようにパーティーバッグと一緒にチェストの上に置いていたというのに、どうやら入れ忘れてしまったようだ。自身の迂闊(うかつ)さに、フロレンツィアは頬を紅潮させる。一体、何のためにこのパーティーにきたのか。


「家に忘れましたわ……」


ごめんなさい、と謝罪するフロレンツィアに、ベルンハルトはならばと提案する。


「僕が訪ねても迷惑じゃないだろうか」


「え」


「君の家に」


「迷惑では……」


「じゃあ、都合のいい日を教えてくれ」


フロレンツィアは訊かれるままに、先触れの猶予も逆算して彼が訪ねても問題のない日を答える。そのため、あっさりとまたベルンハルトと会う日取りが決まってしまった。


「なんだ、フロフロ。こんなところにいたのか」


「エック」


「そろそろ帰るぞ」


従兄弟のエッカルトがフロレンツィアを見つけ、声をかける。フロレンツィアが男性から言い寄られるのを見慣れているので、彼はベルンハルトもその類いと思い、助け船を出したつもりだった。ベルンハルトの身元を追及せず、彼女を呼び寄せる。


「では、失礼いたしますわ」


「ああ、また」


「ええ、また今度」


だから、フロレンツィアが次回を期待させる挨拶をしていることに少し驚いた。いつもなら言い寄る男にあやふやな返答しかしない彼女だ。

帰り際、彼はフロレンツィアにそっと耳打ちする。


「フロフロ、男の趣味変わった?」


「だから、エックはモテないのよ」


従兄弟からの無遠慮な問いに、フロレンツィアは眼を据わらせる。ベルンハルトをその辺の言い寄ってくる男たちと同じ様に扱わないでもらいたい。絶賛可愛い婚約者募集中の従兄弟は、フロレンツィアの刺さる言葉に心配してやったのになんだ、と憤慨(ふんがい)する。

帰りの馬車ではよい相手が見つからなかった従兄弟から八つ当たりをされ、バルコニーでの出来事に浸ることもできなかった。

それでもフロレンツィアは馬車の中で、彼に触れられた指先を守るように一方の(てのひら)で包んでいた。



本当にきた。それが、フロレンツィアの感想だった。

マウラー伯爵家に私用とはいえ上位である侯爵家の令息が来訪する、ということで、使用人たちは気合いを入れて準備をした。フロレンツィアは、陽射しが暖かく春の花も見頃のためベルンハルトを庭の東屋へ案内し、茶でもてなすことにする。

礼儀正しくもてなされたベルンハルトは、紅茶を一口飲んだあと、本題を切り出した。


「じゃあ、完成した刺繍を見せてくれ」


何故彼がそこまで期待した様子なのか解らないまま、フロレンツィアは出来上がった刺繍を渡す。

受け取ったベルンハルトがそれを広げると、正方形の布はハンカチだと判る。黄色い銀葉金合歓(ぎんようあかしあ)が自然に、だが左右対称に咲き、白い小手毬(こでまり)が土台部分に咲き、二種類の葉の緑がそれぞれの花を引き立てていた。散った白い花びらが春風を連想させる。ハンカチの(ふち)も銀葉金合歓と同じ色で縁取りされて、額縁にはまった絵画のようでもあった。

まじまじと刺繍を見られて、フロレンツィアはいささか恥ずかしい。家族などの身内しか知らない趣味なので、家族以外の人間に披露するのはこれが初めてだ。


「精緻な図案をここまで自然に仕上げられるとは、凄いな」


「そこまでのものでは」


「いや、君の刺繍はフライハイトの柄に匹敵する」


女性に人気の花柄を扱う店を例にあげられ、フロレンツィアは目を丸くする。


「ベルンハルト様は、こういったものがお好きなんですか?」


「芸術全般好きだな。特に精緻で巧妙でありながらその意図を感じさせず、鑑賞できる美に昇華されているものには感激する。まるで魔法陣みたいだ」


だから、君の図案が完成したところが見たかったとベルンハルトは瞳を輝かせる。称賛の例えが魔法陣であるところが彼だ、とフロレンツィアは感じた。魔法陣は一般的には読み解く式であり、魔術を行使する手段の一つでしかない。

変わった褒め方をする彼に、フロレンツィアは吹き出す。


「ふふっ、ベルンハルト様には数式ですら芸術となりそうですわね」


「完成された数式や魔法陣は芸術的じゃないか。それに芸術家も兼ねた学者は歴史上、多くいる」


何も可笑しくないと主張するベルンハルトはいたって真面目で、フロレンツィアはなお可笑しくなる。なんだか今日の彼は怖くない。春の陽射しが彼の鋭い眼を和らげてくれているのだろうか。


「それに、この淡い色使いが僕は好きだ」


勉強で文字や複雑な式を追うことが多いため、その反動でベルンハルトは優しい色味のものを眺めるのが好きだった。絵画なども印象派の画風を好む。


「君が似合うものと好むものが異なる、と言ったのは、よく分かる。僕もこの髪で宛がわれる服ははっきりした色味のものが多い」


ベルンハルトは自分で服を選ぶことが少ない。動きやすさだけ要望して、家族や使用人が選ぶのに任せているが、彼らが選ぶのは濃い色だったり、無地に原色などの強い色のアクセントがあるものが多い。

つまり、自分に淡い色合いが似合わないということだ。


「これぐらいのものなら、持ち歩いていつでも眺められるな」


「……差し上げましょうか?」


「本当か!?」


いたく気に入ってくれたようなので、フロレンツィアが言ってみると、即座に反応が返る。常磐色の瞳の輝きに偽りはない。本当に欲しかったらしい。


「ええ。気に入っていただけ、嬉しかったので」


だから、フロレンツィアも嬉しさのままに微笑みを返した。


「いくら支払えばいいだろうか。宝石などの方が女性にはいいか……」


真剣に市場価値を算出し、対価に悩みだすベルンハルトに、フロレンツィアは困惑する。


「あの、差し上げると言ったのですけど?」


「君の技術と労力と時間をかけたものを、ただで貰う訳にはいかない」


ベルンハルトはそう断言する。

彼自身は魔法陣は描けるが、絵が描ける訳ではない。鑑賞するしかできない身だからこそ、よい美術品を見定める眼を持っている自負がある。フロレンツィアは、既存の図案をなぞるではなく、自身で考えた図案を完成させる技術とセンスがある。

そんな彼女の作品を、同級生でしかない自分が無償で受け取るわけにはいかない。


「金銭の支払いが不都合なら、君が対価を決めてくれ」


「そう言われましても……」


ベルンハルトの譲らない様子に、フロレンツィアは困る。彼女からすれば、また縫えばいいだけのものだ。だが、懇意にしていない相手に手作りの品を贈ったと知れた場合、ベルンハルトにあらぬ疑いがかかるやもしれない。

助けてもらった恩人に迷惑をかけてはいけないと、フロレンツィアは手頃な対価がないかと悩む。しかし、これまでちゃんと知り合っていなかった相手に一体何を要求すれば妥当なのだろう。

思案するフロレンツィアを見ていたベルンハルトが、ふと思いつく。


「そういえば、君は毎度断るのに労力がかかるんじゃないか?」


「え? ええ……、まぁ」


「なら、僕が近くにいれば、君が労力を割かずとも、そもそも近寄らないようにできる。先日のパーティーがいい例だ。それに女性に興味がないと思われている僕なら、あらぬ噂の種にもならないだろう」


「その節は失礼なことを……」


以前自分がした発言を引用されて、フロレンツィアは申し訳なさげに肩を落とす。そういえば、その件について謝罪をしなければならなかったのに、それすらできていなかった。

だが、フロレンツィアが謝罪の言葉を続けようとするより先に、ベルンハルトが考えを述べる。


「問題は君が僕の近くにいて耐えられるかだが、顔を見なければいい話だから隣にいるようにすれば、あまり気にならないかと。そこさえクリアできれば、フロレンツィア嬢は真面目で勤勉だし、行動範囲は似通っているからお互いの生活に支障はないと思う」


「あの、ベルンハルト様? 一体何の話を……」


「僕が君の魔除けになるのが対価にできないか、という交渉だが?」


結論から言っただろう、とベルンハルトは至極真面目に返す。


「魔除け……」


「レミアスと違って、僕は暴力沙汰には対処できないから、効果としては魔除けがせいぜいだろう」


それでもないよりはマシだろうと彼は言う。フロレンツィアからすれば助かりはするが、そこまで彼にしてもらう(いわ)れのないことだ。


「どうしてそこまでしてくださるんですか?」


「刺繍の対価にはやはり足りないだろうか?」


フロレンツィアの問いに、答えではなく心配そうな疑問が投げかけられる。足りないだなんて、とんでもない。これまで身一つだった彼女には、とても頼もしい魔除けだ。

ただ正当な対価を払おうとしているだけのベルンハルトが、フロレンツィアにはとても不思議だった。


「もちろん君に正式な婚約者ができたら、その彼に守ってもらうといい。けれど、噂でしかないとはいえ、これ以上君を(そこ)なわせる訳にいかないだろう」


彼にとっては価値のあるものが正当な評価を受けるべきだ、という考えに基づいての行動だ。そして、自身の能力の範囲でできることしかあげていない。

彼は、自分を守るとは約束していない。

ただ近くにいると言っただけだ。

それなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

フロレンツィアは、感極まって熱くなった頬を見られないように俯く。その様子に、条件が不当だったかとベルンハルトは危惧した。しかし、数拍おいて顔をあげた彼女は(たお)やかに微笑んでいた。


「ありがたく、その対価をお受けいたしますわ」


よかった、とベルンハルトは安堵に笑む。こうして、二人の交渉は成立した。

今後の段取りを決めたあとは、ベルンハルトは長居することなくあっさりと帰っていった。彼がほとんど要件しか話題にしなかったので、一時間いたかも怪しい。それでも、もてなしへの礼をするなどの礼儀正しさがあった。

貰ったハンカチを大事に胸ポケットへ収めて帰る彼を、制作者のフロレンツィアは滲む笑みをもって見送った。

新学期になると、レッケブッシュ侯爵家の令息がある令嬢を自身の実験に付き合わせているという噂が立つようになった。



噂が更新されて以降、フロレンツィアは思った以上に快適に学園生活を送れた。

最初は萎縮していた。春期休暇中にパーティーがあれば同伴するとも言われていたが、ベルンハルトとの交渉後、パーティーに参加しなかった。彼は殿下の護衛も兼ねている身だ。おいそれと、自身の都合で呼び出すことは躊躇われた。

学園へ戻ってからも、ベルンハルトの眼の鋭さに完全に慣れた訳ではなかったので、昼食時など空いた時間に彼が隣にいることで、多少の息苦しさを感じた。彼は本当に宣言通り隣にいるだけで、ほとんど喋らないのだ。フロレンツィアにも好きにするといい、と言って、彼は本を読んだり、何らかの研究資料に眼を通す。

会話なくただ隣にいる状況は、周囲から見ても親しいとは言い難いものに映る。ベルンハルトが魔法の研究に熱心であることは周知の事実のため、次第に厄介な相手に眼を付けられた令嬢、とフロレンツィアには同情の眼差しが飛ぶようになった。


「あの……ベルンハルト様」


「なんだ?」


図書館で分厚い本の(ページ)に視線を落としながら、ベルンハルトは返事をする。


「私が傍にいて、お邪魔では……?」


「僕は集中しだすと周囲の音も気にならなくなる。問題ない」


そう返されれば、フロレンツィアもそれ以上は何も言えない。それは実体験済だ。行動を共にすることで解ったが、彼は一人でも、彼女がいても、いつも通りに過ごせるということだ。


「それは君もだろう」


「いえ、ベルンハルト様ほどでは……」


「そうか? 刺繍をしていたときなんかは、僕が背後にいても気付か」


「きゃあ!?」


趣味の話題を出されるのが恥ずかしいフロレンツィアは、思わず小さな悲鳴とともにベルンハルトの口を手で塞いだ。

もご、と強制的に黙らされて、ベルンハルトは彼女を見返す。しかし、彼女とは眼が合わなかった。恥じ入った様子で視線を逸らして俯いていたからだ。


図書館(ここ)では、他の方にも聞こえてしまいますわ」


ベルンハルトの声は大きいものではなかったが、静寂が常の図書館内ではその声量でも離れた生徒らにも聞こえる恐れがある。フロレンツィアの抗議に、ベルンハルトが頷くことで了承を伝えると塞いでいた手がようやく離される。


「ともかく、君も好きに過ごすといいと言っただろう。僕は壁か何かだと思えばいい」


「すぐ傍に迫れば壁も気になりますわ」


「だが、君は僕の目に慣れた訳ではないだろう」


今まさに視線が合わない状況を指摘され、フロレンツィアの眉は下がる。自分が直視しづらいほどの眼光の鋭さゆえに、他の男性が近付いてこない状況を手に入れられていることは彼女も理解している。少しの我慢で手に入る平穏と、からまれていた過去を天秤にかけたら、もちろん前者をとる。

しかし、長期的になるなら息苦しさを緩和できないかと思ってしまう。やはり、それは自分の我儘だろうか。


「ふむ、僕の行動と近いといっても。君の行動形式とのすり合わせをしていなかったのは確かだ。僕だけが楽をするというのは、君の割に合わないな」


存外こちらに譲歩してくれるベルンハルトに、フロレンツィアは面を食らう。

問題を提示されれば、その解を求めるのがベルンハルトの基本思考だ。だから、フロレンツィアに問題点を指摘されれば検討するのは、彼にとって当たり前のことだった。


「そういえば、君の家に訪ねたときは目が合う頻度が高かったな……、恐怖が緩和される要因があったのかもしれない。何か心当たりは?」


「ええと、春の陽射しで和らいだんじゃ、と……」


「なるほど。視覚効果か」


早速検証しよう、とベルンハルトは立ち上がる。いくつかの本を借りて持ち出した彼は、フロレンツィアをつれて図書館を出てすぐの東屋へ足を運ぶ。フロレンツィアを図書館への通路から背になる位置に座るよう指定して、自分は一メートルほど距離をとって腰かけた。


「その位置なら刺繍をしていても気付かれないだろう」


そう言ったきり、ベルンハルトは図書館から持ち出した本を読み始めてしまう。

彼のぶれない(さま)にフロレンツィアは呆気にとられる。しかし、室内と違って閉塞感(へいそくかん)のない場所のためか、息苦しさは和らいだ気がする。ベルンハルトの方を窺い見る。眼の鋭さは変わらないが、陽光の下だと幾分顔色もよく見えて、フロレンツィアの怯えがちな心もそこまで騒がない。

自分はどうするかフロレンツィアは思案する。一応、彼と一緒に本は一冊借りた。借りたのは恋愛小説のため、男性の前で読むには恥ずかしい。他の人には見えないと彼に保証されたし、刺繍をしてもいいだろうか。ベルンハルトに付き合っていたため、新学期が始まったばかりだというのに勉強ばかりしていて、随分ご無沙汰だ。

悩んだ結果、フロレンツィアは新しい刺繍の図案を考えることにした。幸い、刺繍用具一式が入った籠は持ってきている。チャコを使って図案を印し始めると、次第に集中していった。

ふわりと風がそよいで、頁の上の文字から意識が離れる。ベルンハルトが顔をあげると、亜麻色の髪が風に撫でられるままに揺れていた。いかほど時間が経ったか判らないが、彼女が刺繍に没頭するぐらいの時間は経過したようだ。彼女が今手にしているのは針ではなく、淡い色の固形物だ。あれで図案を描いていたのだと、ベルンハルトは知る。

描いているときは楽しげで、手を止め図案に悩んでいると眉を(ひそ)める。表情が素直にでる少女だとベルンハルトは感じる。

自分の目つきの悪さには怯えるし、男のベルンハルトには解らないところで恥じらいもする。人によっては気が弱いと言うかもしれないが、ベルンハルトにとってフロレンツィアは人並みに臆病で優しい少女だった。

そんな彼女が外見のみで判断されている。そして、これまで彼女もそれに甘んじていた。

理由は解る。抗うことの方が大変だ。彼女のような断るにも相手の立場を配慮する優しい人間には、逐一否定する方が困難だろう。

事情を訊いたことはないが、同性の友人がおらず作ろうともしない様子からして、謂れのない男性関係で過去に揉めたのだろうと推察できる。彼女がこれまで、噂を逆手に一人で立ち回っていたのは、誰も信用できなくなる何かがあったからだ。

ベルンハルトは、推察の域をでないそれを詮索して立証しようとは、思わなかった。彼女はただの同級生だ。利害関係で同伴しているだけの自分が立ち入る必要はないし、彼女を不用意に傷付ける可能性のあることは避けたい。


だから、僕は人付き合いが下手なんだな。


ベルンハルトは自身の欠点を指摘する。

たった一人に対してすら、考えすぎて大した行動ができない。フロレンツィアの件に関しても、事情を知ったのが自分以外だったらもっといい対策がとれただろう。

どうして彼女の震えに気付いたのが自分だったのか。

こんな目つきの悪い男ではなく、彼女が心を許してどこでも素直に表情をだせる相手に見つかればよかったのに。自分では萎縮させてしまってばかりだ。

そんな相手が早く見つかればいいのに、と思う。

自分は運よく、この外見でも気軽に話してくれる人がいるが、彼女には身内以外にそれがいない。つまり、学園では気が休まらないということだ。それはなんとも不便だろう。

今ここで刺繍に夢中になっている少女は充分年相応だというのに。

ただ自分の存在を忘れているだけとはいえ、楽しげな彼女の様子に、ベルンハルトは微笑んだ。


彼女がこの一面を恥じらう理由が解らないな。


隠す必要性がベルンハルトには感じられない。しかし、女性の機微が判らない自分には知りようのない重要なことなのだろう。

ベルンハルトが知る女性は、物怖じせず自身の意見を述べることができる強い女性がほとんどだ。幼馴染のコルネリアは本の虫で周囲のことなど気にしないし、イザークの婚約者のリュディアは公爵家の地位に見合った気高さを持っている。仕える王子であるロイの婚約者のシュテファーニエも平民から貴族になっただけあり、周囲に流されることなく自身で考えて意見できる。

そもそも彼女らは、自分の外見に臆さない面々なのだから、フロレンツィアの心境を慮るには参考にならない。逆に、一般的な令嬢であるフロレンツィアが自分と一緒にいることの方が奇怪(おか)しいのだ。

気を遣わなくていいと口で言っても無理なようだから、見慣れてもらうのを気長に待つしかない。時間が解決することもあると実体験済のベルンハルトは、なるようにしかならないと本の頁に視線を戻したのだった。

しばらくして、フロレンツィアが図案を描きあげた。

木枠に張った布地のキャンパスを掲げて全体像を確認する。まだ図案の段階だが、すでにどこにどの色を使うか決めているので、フロレンツィアの頭の中には色づいた完成像が透けて()えた。

視えた完成図に自分の手で近付けてゆくのだ、とやる気になっていたところ、視界の端に深紅があることに気付く。刺繍糸の赤よりも見事なその赤は、ベルンハルトの髪だった。

今になって、彼が傍にいながら、趣味に没頭してしまっていたことに気付く。

しかし、彼は咎めることなく、静かに読書をしていた。彼は彼で本の内容に没頭していたらしい。自分だけではないと判り、フロレンツィアはほっと安堵する。

先ほどとは違い、沈黙が辛くない。春の陽だまりに包まれているせいだろうか。

フロレンツィアは、じっと彼を観察してみた。

深紅の髪は乱雑な長さで長く獅子のよう、知性の潜む常盤色の瞳も鷹のような鋭さをもっている。もっているのだが、話してみると声音は落ち着いていて何事にも真面目なだけと解る。見た目のような荒々しさなど、彼にはない。

落ち着いて考えてみると、彼は本当に言葉通りのことしか思っていない気がする。彼も好きにするから自分も好きにするように、と言った。


彼なりの気にしないで、という意味だったのね。


実例をもって説こうとするあたり、理屈っぽい。真っ直ぐすぎてかえって判りづらい人なのだと、半月ほど隣にいたフロレンツィアはようやく気付く。

彼の言葉に従って、自分も気にしないようにしよう。そのためにも、彼の眼に怯えないよう慣れないといけないな、とフロレンツィアは今後の課題を立てた。こうして視線が合わなければ、彼が整った顔立ちをしていることを思い出し見ていられるというのに。自分の心の弱さが、彼に失礼な態度をとってしまい申し訳なくなる。


一応、年頃の男女二人きり、のはずよね……?


婚約者のいない者同士が二人でいるというのに、漂うのは穏やかな空気だ。

そういえば、彼に褒められたのは刺繍だけであって自分には何も言及されていなかった。彼にとっては、自分は好みの刺繍を縫う作成者でしかないのだろうか。

むしろ、口説くために自身の容姿を褒められてばかりだったフロレンツィアには、ベルンハルトが不思議でならない。

彼の隣は安心ではあるのだが、冷静に考えると年頃の男性といて安心するのはどうかとも思う。それに、彼が女性に興味がないというのは噂でしかなく、以前本人が恋愛経験があるようなことを言っていた。


私、ベルンハルト様の好みから外れているのかしら?


同じ歳の従兄弟が自分だけはないと言っていたのを思い出す。従兄弟は、小柄で清楚な女性が好みでフロレンツィアとは真逆のタイプがいい、と常日頃主張している。彼の方が背を抜いたとはいえ、自分のように目線の高さが近いのは嫌らしい。見上げられるのがいいのだと言っていたが、彼は女性に夢見すぎているせいで婚約者ができないのだと、フロレンツィアは思っている。

勉強ないし魔法の研究ばかりしているベルンハルトも同様の好みの可能性は高い。少なくとも、自分のような派手な外見よりは物静かで控えめな女性がいいだろう。

自分は隣の彼の好みではない、という答えに行きつき、フロレンツィアは内心首を傾げる。何故、そこで安堵できないのだろう。

胸に手を当ててみる。

なんだか、しこりのような感覚が少しあった。

釈然としない心地を残したまま、そろそろ教室に戻った方がいいとベルンハルトに呼びかける。

顔をあげた彼は、刺繍の図案を描ききったことに気付き、見たそうに瞳を輝かせた。言外の訴えに負け、フロレンツィアが布の張った木枠を渡すと、しげしげと薄く描かれた図案を眺めたあと、完成が楽しみだと笑って返された。やはり彼は自分の刺繍にしか興味がないらしい。

二人が東屋を出て、図書館に繋がる通路に戻ると、ちょうど図書館に向かうらしい小柄な令嬢が前方に見えた。


「コニー」


「ベル君」


通り過ぎるかと思った彼女を、ベルンハルトは呼び止める。令嬢も呼応して彼の名前を呼んだ。


「借りた本を返しにきたのか?」


「うん。そして、また借りる」


「相変らずだな」


持てる範囲で我慢しろよ、と忠告する彼は笑顔だ。彼女を見つけてから、微笑んだままのベルンハルトが珍しくフロレンツィアは凝視(ぎょうし)してしまう。その視線に気付いたのか、ベルンハルトは令嬢を紹介した。


「フロレンツィア嬢、彼女はレミアスの婚約者のコルネリア。僕とは幼馴染なんだ。コニー、同級生のフロレンツィア嬢だ」


「コルネリア・フォン・キューンです。はじめまして、フロレンツィア先輩」


「ええ、はじめまして。フロレンツィア・フォン・マウラーと申します。よろしく、コルネリアさん」


数冊の本を抱えたまま礼を執るコルネリアに、フロレンツィアも一冊の本と刺繍用具の籠で片手が塞がっている状態ながら空いている手でスカートを摘まみ挨拶を返した。

礼で頭を下げたコルネリアは、フロレンツィアの持つ小説の表紙を見て、眼鏡の奥の小さな眼を光らせた。


「それは、ブルンスマイアー先生の新作ですね」


「え、ええ。まだ持っていなかったから……」


「では、既作品もお読みに? 作家買いですね、分かります」


淡々とした口調ながら、しかと頷かれた。しかし、彼女の発言に首を傾げる。今回、フロレンツィアは小説を借りただけであり、買ってはいない。


「恋愛小説お好きなんですか?」


「……ええ。物語のなかなら私でも可愛い女の子になれるもの」


肯定のあとは、ぽつりと小さく呟いただけだったが、コルネリアには拾われてしまっていたらしい。


「純情乙女。なんというギャップ萌え」


「え……?」


「思わず心の声が漏れただけなので、どうぞお気になさらず。自己投影型なのですね。ブルンスマイアー先生のような王道溺愛系がお好みなら、他にもおすすめな作家先生が……」


「えっと??」


「コニーは、物語に関してなら僕より精通している。分析力も高いから、彼女の薦めは参考になるぞ」


「そうなんですの」


平坦な声音で表情も変わった様子はないが、急に饒舌になったコルネリアにフロレンツィアは戸惑う。しかし、これが彼女の通常営業らしくベルンハルトは微笑みながら、補足説明をした。フロレンツィアは頷くしかない。

初対面ながら、コルネリアが本について話し出すと止まらないことをフロレンツィアは学習した。数名の恋愛小説家といくつかのタイトルを推薦されたが、一人は知っている作家だったので、それ以外を今後の参考にすると言って彼女と別れた。

コルネリアの勢いに少しばかり圧倒されたフロレンツィアは、解放されて教室に向かう道すがら安堵の吐息を零す。あんな淡々とした話し方で圧倒されてしまったというのが、不思議でならない。奇妙な体験をしたが、彼女の紹介は要点が絞られていて解りやすく、かつフロレンツィアの関心を引くものだった。


「控えていなかったから、探すときに思い出せるか心配だわ」


「覚えているから、探すときは手伝おう」


「覚えて……? 作家名だけでなく、題名もですか?」


さらりと言われたことに、フロレンツィアは目を丸くする。口頭で言われただけで、作家とは別に紹介された推薦作品に関しては、フロレンツィアはもう単語ぐらいしか思い出せない。


「『泉の乙女は漆黒の騎士の愛に溺れる』だったり、恋愛小説の名前は詩的表現が多いな」


本当に覚えている。フロレンツィアは、彼の記憶力に脱帽する。そして、彼の口から恋愛小説のタイトルを聞くのは違和感がかなりあることを知る。


「……どうしても、見つからなかったときは、お願いします」


ベルンハルトに口にさせるにも、書き出しさせるにも、居た堪れないことが解ったので、フロレンツィアはそう返した。了承する彼の顔を見て、フロレンツィアは気付く。


いつも通り……


フロレンツィアの見慣れた静かな真顔。ベルンハルトは平素の表情に戻っていた。

たまに琴線に触れたときだけ笑う。それが、彼女の彼への印象だった。けれど、幼馴染だというコルネリアの前では、逆に笑みを刷いている状態が通常であるかのような様子だった。

不意に、以前のベルンハルトの言葉を思い出す。フロレンツィアが異性への関心がないのではという独り言に対して、彼は異性を想ったことはあると言ったが、関係をもったとは言っていない。そして、過去形だった。

もしかして、とフロレンツィアはある可能性を導き出す。ベルンハルトの想っていた相手はコルネリアではないか、と。過去形であることも、彼女がイェレミアスの婚約者であることが理由と考えられた。

勘でしかない推論は、妙にフロレンツィアの腑に落ちる。ベルンハルトが好意的な態度を見せる女性がいたことに驚いたせいだろうか。あんな彼は初めて見た。

コルネリアの容姿を思い出す。小柄で素朴な顔立ちの少女だった。少し表情は読み取りづらいが、気性が激しい訳ではなそうなので、ベルンハルトも彼女の傍はさぞ落ち着くことだろう。


ベルンハルト様は、ああいう女性が好みなのね。


そう納得したフロレンツィアの足が止まる。彼の隣を歩いてはいけない気がした。彼の好みとは真逆の派手な外見をした自分では。


「どうかしたか?」


足を止めたフロレンツィアに気付き、ベルンハルトが振り返る。そんな彼に、フロレンツィアは何でもないかのように微笑んでみせる。


「いえ。ベルンハルト様には控えめで可愛い女性(かた)が似合うだろうな、と思っただけです」


フロレンツィアは事実を述べた。コルネリアのような、とは口にできなかった。


「つまり、君のような?」


「え」


彼には脈絡がなかっただろうに、それでもベルンハルトは真面目に返す。しかし、その返答に、フロレンツィアは耳を疑った。驚いて見返すも、彼はいたって真面目な様子だ。


「どう、して私に、なるんですか……!?」


「控えめで可愛い、だろう? 争い事が嫌いな君は、周囲を気遣うあまり自分の意見を主張しない。そのせいで助けを求める声さえも囁き程度だから、改善した方がいいと思うほどに優しすぎる」


ベルンハルトからすれば、フロレンツィアほど控えめな女性はいない。男性に言い寄られるのが場合によっては怖いほど苦手だなんて、指先の震えを見るまで判らなかった。和をもって尊しとなす姿勢はいいが、流石に困っているときはきちんと主張してもらいたい。


「刺繍の趣味や恋愛小説を好む、女性らしいところはもちろん可愛らしいし、恥じらって頬を染める様子も可憐だ。フロフロという愛称も、音の響きで可愛い。むしろ、君以外にそんな人物を僕は知らない」


はくはく、とフロレンツィアは空気を()むしかなくなる。愛称で呼ばれるところを彼に聴かれたのは失敗だったことだけは解った。

真顔で彼は何を言い出すのだ。いや、彼にとっては事実を述べているに過ぎないのだろう。それでも、そんな解釈をされていると知らなかったフロレンツィアには充分な驚きだった。

しかも、彼の解釈違いのせいで、自分が彼に似合うと薦めている流れになってしまった。そんなつもりのなかったフロレンツィアは、羞恥で頬を染める。


「それで、一体何のはな……」


「いっ、今の発言は忘れてください!」


「? わかった」


これ以上追及されては堪らないと、なかったことにしてほしいとフロレンツィアは懇願する。彼の顔を見ることもできず、ぎゅっと眼を瞑って返答を待った。すると、存外あっさりとベルンハルトは首肯した。

彼の頷きを得て安堵したフロレンツィアが瞼を開けると、ふっと微笑むベルンハルトがいた。


「珍しくちゃんと主張したな」


いい傾向だ、と喜ぶ彼に、フロレンツィアの頬の赤は別の意味へと変わる。


「僕は、本が読めればどこでもいい。次からは、君が落ち着く場所を選んでくれ」


その調子で自分の意見を言うよう推奨された。はい、と小さく頷く。

自分が隣にくるのを待つベルンハルトに、赤くなった顔を見られたくなくて、フロレンツィアは彼の方へと向かった。それでも、隣に並ぶための一歩には少しばかりの勇気がいった。

彼の笑顔を見る頻度は低いままでいいと、実感した。

教室に着くまでに、頬の赤みが引いていることを願うフロレンツィアだった。



「あれは、婚約対象になっては困るということだったのか」


一連のやり取りがフロレンツィアにある誤解をもたらした可能性があると、ベルンハルトが気付いたのは数日後だった。

彼から勉強を教わっていたイザークは、唐突な呟きに首を傾げる。


「何が?」


「先日、フロレンツィア嬢に誤解をさせ困らせてしまったんだ」


ベルンハルトは、自分に合う女性の系統が彼女に当て嵌まるのではないか、と言ったために、忘れてほしいと乞われるほどにフロレンツィアを困らせてしまった経緯を説明した。彼としては、自分が知るなかで該当する者を挙げたにすぎないが、合う異性ということは婚約者に適した相手ということだ。自身の知人の範囲が狭いばかりに、軽率な発言をしてしまったとベルンハルトは反省する。

相手に迷惑な話だったと反省する友人を見て、イザークは微妙な表情を浮かべた。


「……それ、嫌だったワケじゃない気がする」


イザークが彼女をよく知っている訳ではないから一概には言えないが、友人のベルンハルトの人柄は知っている。彼女が真面目な彼と半月以上行動を共にしていたのなら、嫌うことはないだろう。


「そうだろうか」


悲観的な解釈をしない方がいいと友人に言われても、ベルンハルトは心配になる。

フロレンツィアは、眼の鋭い自分が視界にいない隣の方が円滑に会話ができる令嬢だ。自分に怯える彼女なら容易に想像がつく。そんな彼女が、話題だけとはいえ自分の婚約対象にあがっては迷惑でしかない。


「その()って、実験の噂流してほしいって言ってた()だろ?」


「ああ。その節は助かった」


「いや、俺はポメに頼んだだけだし。それにポメ、狂犬()の噂を広めなくてよくなったところだから、なんか喜んでた」


現在、フロレンツィアに対する学園内の噂は、ベルンハルトの実験台になっているというものが大半を占めている。それまで異性をたぶらかす令嬢だと揶揄(やゆ)されていたのは、随分鳴りを潜めていた。

噂の発端自体はベルンハルト自身が、訊ねられたときにした回答が元だが、それだけでは学園中に広まるには弱い。彼に話しかける勇気のある者が少ないからだ。そのため、ベルンハルトは積極的に噂を流布できないかをイザークに相談し、イザークはポメという渾名(あだな)で呼んでいる元同僚のペトラに頼んでみた。

公爵家の使用人であるペトラは情報操作に長けており、頼んでみたところ、嬉々として了承した。学年があがり、イザークは公的にも侯爵令息となり公爵令嬢の婚約者の立場を得た。今の立場で彼に手を出そうという者は、そうはいない。つまり、彼の身を守るために流布していた不良(狂犬)の噂はもう必要がない。それで(いささ)か退屈していた彼女には、イザークの依頼は願ってもないものだった。


「アレは、前の噂の元を根絶する勢いだったな……」


そう呟いてイザークは若干遠い目をする。

女性の純潔を(けが)したことを吹聴するような輩とはいえ、ペトラがどういう手段を講じるかが解らない以上、どんな目に遭うか。お手柔らかに、と彼女へ一声かけたのは効果があったのか怪しい。


「結果として、フロレンツィア嬢が平穏を得られれば、僕はそれでいい」


噂の上塗りを頼んだのはその目的のためだ。ベルンハルトは、彼女の今後のために謂れのない(けが)れは(はら)っておきたかった。彼女にいざ婚約したい相手ができたときに、噂のせいで純潔を疑われては、進む話も進まない。

ベルンハルトの見解を聞き、イザークはふと訊ねた。


「ベルは、その()のコト、どう思ってんの?」


「どう……?」


友人の問いに、ベルンハルトはうまく返せない。同級生で、利害の一致により一時的に行動を共にしている。それだけの関係の相手に、何かを思っていいものなのか。

刺繍で表現される彼女の作品は高く評価している。金銭や物品で報酬を支払えないのが口惜しいほどだ。その点において、ベルンハルトは彼女に敬意を抱いているが、一方の彼女は自分の顔を見れば怯えてしまう。そんな彼女とは友人関係すら困難に思えた。

彼女に婚約の目処が立つ、という期限がくれば離れるのが適当だろう。

難しく考え込んでいるベルンハルトに、イザークは苦笑した。頭のよい友人は難しく考えてしまう嫌いがある。


「別に、綺麗だとかだけでもいいぞ」


感覚的な感想だけで構わないと答えを促すと、ベルンハルトは逆に問うた。


「それは異性として魅力を感じるか、か?」


「うーん、そんな意味もある、かな?」


イザークは曖昧に肯定した。自分はすれ違っただけなので美人だということしか知らないが、彼女と知り合ったベルンハルトならそういった意味合いがあっても奇怪しくないとは思う。彼は随分前に失恋しているのだから、他の女性に眼を向けるのは喜ばしいことだろう。

かといって、友人の恋愛基準を知っている訳ではないので、親愛でも愛情でも、どちらでもいいと伝える。


「恋愛対象となった場合、イザークはどういう基準で特別と判断する?」


「えー……、普通、笑ったカオが可愛く感じたり、とかじゃねぇ?」


「元々、見目麗しく、人格的にも可愛らしい場合、どう区別をしたらいんだ?」


「それな」


容姿が整っていれば綺麗だと感じるのは当然で、性格がよいということは笑顔が似合う愛嬌を持っているということになる。そんな人物は皆可愛いと思うだろう。それでは一般論でしかなく、恋愛感情(特別)かの判断材料にはならない。

ベルンハルトの意見に、イザークは同意した。彼の婚約者も人の視線を集めるほどに容姿端麗だ。


「相手美人だと、逆に分かんねぇよな。ディア、最初から可愛かったから、俺気付くの遅かったもん」


「どうやって気付いたんだ?」


「心臓がびっくりした」


「心臓?」


「ディアが笑うと心臓がびっくりすることがある。俺はそれがディアだけだ」


だから恋愛感情だと解った、とイザークは言う。嫉妬も一つの判断基準だろうが、友情であっても独占欲が働く場合があるので、ベルンハルトの参考にはならないだろう。だから、彼は唯一と感じた瞬間を友人に教えた。

ベルンハルトにも覚えのある経験だ。コルネリアを想っていた頃は、彼女を前にすると胸が高鳴ったし、笑ってくれると内心有頂天になることも多かった。当時の自分にとって、世界一可愛い存在は彼女だった。

コルネリアは突出した容姿ではないため、周囲との見解の違いで想いに気付けた。しかし、コルネリアの場合と異なり、フロレンツィアは自分以外にも彼女を魅力的だという男が大勢いる。自分が見出さずともすでに異性としての魅力が保証されている場合、抱く感情は恋と呼べるものなのだろうか。

フロレンツィアの笑顔を思い出そうとしてみる。けれど、ベルンハルトの知る彼女の微笑みは盾に使っている普段の笑みがほとんどだ。怯えの対象の自分では、彼女の本当の笑顔を見れることはないと思う。代わりに浮かぶのは、恥じらい頬を染める彼女だった。


「……びっくりはしないな。微笑ましくは感じるが」


「まぁ、びっくりするのが正解でもないしな」


「感情は定義できないから難解だな。けど、友人になれないかとは思った」


彼女の優秀さを知り、そんな期待を持ちはした。しかし、彼女が自分の眼を怖がっていると判明しすぐに(つい)えた期待だ。

恋愛かどうかは抜きにしても、ベルンハルトが対等に話したいと思うのは珍しい。外見で遠ざけられるのを甘んじる友人が、自分から交流を望む相手が増えたことがイザークは嬉しかった。


「それぐらい、いいんじゃね?」


「そうか?」


「ああ」


「そうだったら、嬉しいな」


いつか自分に見慣れて普通に話せる日が来たらいい、と期待するベルンハルトに、まずそこからか、とイザークは内心つっこんだ。どうやら、前途は多難らしい。

友人が不憫すぎるので、フロレンツィアが早く彼に見慣れてくれる日がくることを、イザークも願った。



あれから自分は奇怪しい。

フロレンツィアは自身の変化に戸惑っていた。あれから、というのは、忘れてください事件のことだ。ベルンハルトに忘れてほしいと懇願しておきながら、フロレンツィアはあのときの彼の言葉と笑顔が忘れられず困っていた。

彼にどう思われているかを知ってしまい、恥ずかしい。彼に他意がないと解っていても恥ずかしい。

彼と眼が合うと逸らしてしまうのはこれまでと変わらないが、理由が怯えよりも恥ずかしさが克つようになった。

図書館で目的の本が高い位置にあるとき、ベルンハルトがとってくれるのだが、本の受け渡しの際に指先が少し触れただけで思い切り手を引いてしまう。すぐさま過剰反応してしまったことを詫びるのだが、許してくれる彼と眼が合わせられない。

そんな彼女に眼を逸らされ、慌てて距離をとられる度、ベルンハルトの眉が少し下がっていたことをフロレンツィアは知らなかった。そもそも見ていないのだから気付きようのない話ではあるが。友人に、と思い歩み寄りを試みようとしていたベルンハルトだったが、彼女の反応からやはりおこがましかったかと落ち込んだ。

フロレンツィアの恥じらいにより、ぎこちなさが増して一週間ほど経過した。その日は天気もよかったので、図書館の東屋でベルンハルトは読書、フロレンツィアは刺繍をしていた。

ずっと照れ通しだったフロレンツィアは、ふとあることに気付く。何とも思われていない相手に、自分ばかりが恥ずかしがっているのは不毛ではないか、と。

そもそも、この関係は自分の刺繍ありきで成り立っているものだ。

綺麗だ、美人だ、と言われることは多かったが、可愛いと言われることが少なかったから、フロレンツィアは動揺した。可愛い耐性がなかった。けれど、ベルンハルトはただ刺繍のときのように、彼なりに自分への正当な評価をしたにすぎない。

それを思い出して、フロレンツィアは少し冷静を取り戻した。

刺繍の手を止め、ベルンハルトの方を見遣る。

彼の長い前髪がそよ風で揺れる。その合間に陽光を映し込んで、常盤色の瞳がちら、ちら、と小さく光る。もう静寂は苦ではなかった。

こうして時折彼に見惚れることがある。けれど、彼が自分に見入ることなどないのだろうと思ったら、一抹の寂しさが胸に落ちた。

いつかこの関係が終わるときがくる。自分が婚約者を見つけられなくても、きっと卒業までに両親が見合った家の令息と婚約させるだろう。そのとき、自分は平気でいられるだろうか。

一ヶ月足らずで構成された急ごしらえの関係。それが、フロレンツィアにはもう当たり前のものになっていた。

別れのときを想像してみると、ベルンハルトがあっさりと了承するのが目に見えて、ひどく悲しくなる。

その程度の存在なのだ。自分は刺繍にも劣る。


「フロレンツィア嬢!?」


不意に顔をあげたベルンハルトと視線が合うと、ぎょっとされた。

おろおろと狼狽(うろた)えた様子のベルンハルトは、上着やズボンのポケットを確認し始め、最終、仕方ないと制服のポケットに入れた刺繍のハンカチを手にした。そして、一度躊躇(ためら)ったものの、近付いて彼女の前に膝を突き、ハンカチ越しに彼女の頬へ触れた。


「どうしたんだ?」


心配そうに、どうしたと問われフロレンツィアは首を傾げる。その動きで、ハンカチが当たっていない方の頬から伝った雫が落ち、彼女の手の甲で弾けた。

ようやく、自分が泣いているとフロレンツィアは解った。

自覚すると余計に涙が溢れてしまう。


「具合でも悪いのか? どこか痛むのだろうか」


「違うんです……っ」


恐る恐るとハンカチで涙を拭ってくれるベルンハルト。その彼の問いに、フロレンツィアは首を横に振った。


「思い違いを、していたんです……」


「思い違い?」


「私には、王子様が迎えにもこないし、騎士様が守ってもくれない。それを、思い出しただけです」


物語のなかでは自分は憧れの可愛らしい女の子になれる。そして、王子様に見初められたり、騎士様に大事に守ってもらえる。清純で可憐な少女であれば、それも叶う。けれど、自分の実際の容姿は、物語の当て馬になるような艶美な女性のそれだ。

本命の相手には異性として意識されない運命が決まっている。

恋を自覚した途端に終わりを理解した。自分は彼の好みでないのだから、ベルンハルトに意識されなくて当たり前だ。


「すまない。詩的表現すぎてよく分からないんだが……、その問題は魔法使いが補助するとか、他の解決方法はないのか?」


困惑しながらも相談に乗ってくれようとする彼は、本当に不器用に優しい。その優しさが今のフロレンツィアには刺さる。


「無理です。私はコルネリアさんにはなれませんから……」


「どうして、コニーの話が??」


「だって、ベルンハルト様の懸想されたことのある女性って、コルネリアさんでしょう?」


「よく知っているな」


「女の勘です」


「そうか。女性の勘というのはすごい性能だな」


「ふふっ、ベルンハルト様は分かりやすいですも、の……」


フロレンツィアは笑ってみせようとしたが失敗する。涙が溢れて、うまく笑えなかった。すると、ベルンハルトの眉がさらに下がる。今の彼は全然怖くなかった。


「コルネリアさんのような方が好みなら、どうしたってベルンハルト様は私にはあんなに笑ってくださらないでしょう?」


「……僕? 笑った方が君の恐怖が和らぐということか??」


自分が怖がらせたせいで泣いたのか、とベルンハルトは見当違いな解釈をしてしまう。仕舞いにはこの状況で笑うのは難しいと葛藤して唸り始める始末だ。


「私、もうベルンハルト様が怖くありませんわ」


「じゃあ、どうし、て……」


フロレンツィアは怯えていないことを示すため、涙を拭ってくれていたベルンハルトの手を両手で掴む。そして、(すが)るようにハンカチ越しに彼の(てのひら)に頬をすり寄せた。その所作に、ベルンハルトの腕はびくり、と跳ねる。


「どうしたら、私を女性として見てくださいます……?」


涙に濡れ懇願する瞳に捕まり、ベルンハルトは硬直した。

一瞬思考が停止して、再起動したあとに彼女に言われた言葉を脳内で反芻(はんすう)する。彼女は最初から女性だというのに、なぜそんなことを言うのか。まさか、と信じられない思いで、ベルンハルトは意味を理解した。

理解した瞬間、ぶわっとベルンハルトは赤面する。顔どころか首まで赤くなった。


「ベルンハルト様?」


「…………僕は、ゆ、友人になれれば、と……、けど、君は避けて……??」


「……最近のは、恥ずかしかったからですわ」


「けど、僕は、君に、好かれるようなことは何も……」


ただ添えられているだけの両手に、ベルンハルトは腕を引くことができず、かち合う瞳から逃げられない。それゆえに、混乱する。彼女には怯えられていたはずだ。友好を築くことも困難を極める相手ではなかったか。

そんな相手から、友情どころか恋愛感情を向けられるなんて、想定外にもほどがある。


「ありのままの私を見ても呆れないでくれました」


「それは当然だ」


「私の震えに気付いてくださったのは、ベルンハルト様です」


「それは偶然……」


「私を可愛いと言ってくださるのは、ベルンハルト様だけですわ」


「そんなことはない」


反射したかのように即座に否定が返る。自身の言葉が事実だと疑わない彼の眼差しに、やさしさを感じる。


「当然のことでも、偶然でも、他の方でもできることだったとしても、それがベルンハルト様だったことが、私は嬉しいです」


言葉通り、フロレンツィアは嬉しそうに微笑んだ。それは、ベルンハルトが見れないと思っていた心からの微笑みだった。


「ベルンハルト様に可愛いと思っていただければ、私は他の方にどう思われても構いませんわ」


自分の想いはそういう類いのものだ。フロレンツィアは自分の恋心の形を伝える。

ベルンハルトは首まで赤くしたまま、弱って彼女から視線を逸らす。彼女の瞳を見ていると正常に思考が回らない。


「……っぼ、僕は、そういう意味合いで好かれたことがなくて、つまりは、想定外で……その、君のことはむしろ異性と意識してはいけないと思っていたものだから、考えたことがなく、て……」


男女としての付き合いに不勉強なベルンハルトは、ともかく自身の現状を伝えることにした。しかし、要はこれまで意識したことがないという事実を報告されたフロレンツィアは、やはり振られる流れなのかと悲しげに眼を伏せた。

様子を窺うために彼女の表情を見たベルンハルトは、その悲しげに伏せられた睫毛に胸がずきりと痛んだ。


「こ……これから、検討する」


まずは異性として意識するところから歩み寄りたい、とベルンハルトは今できる精一杯の回答をした。恋愛感情かはまだ解らないが、彼女を悲しませたくないと思ったことは事実だ。

フロレンツィアは瞠目する。

てっきり振られるとばかり思っていた。恋心を自覚した途端、感情溢れるままに懇願してしまったのだ。彼に面倒な女だと思われたとばかり思っていた。

現実か確認したくて、念押しで訊ねる。


「前向きに検討してくださいます?」


「ぜ、善処する……っ」


普段はフロレンツィアの方が眼を逸らしていたというのに、今は赤面したベルンハルトが彼女からの視線から逃れるように眼を逸らしていた。

現実だと理解して、フロレンツィアの瞳からまた涙が零れる。それに、またベルンハルトが狼狽えると、彼女は嬉し涙だと言って泣きながら微笑んだ。

それを見て、ベルンハルトは彼女はやはり笑っている方がいい、と感じた。

前向きに考えた先が、彼女の笑顔が見られる未来ならば悪くない。


春を迎えた二人は、これからも隣に並んで歩み続けるだろう。



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3日で記憶が戻りました。」連載中

2023.06以降、コミカライズ連載の更新が不定期となったのは出版社の判断によるものです。(2023.05.02 22話追加から2025.03 23話追加まで長期間空くなど)
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[良い点] 初めまして。 本編の『萼の君』のところが好きで何度も読み返していたので、背が高いことがコンプレックスだったくだりで驚き&感動し、リアルに息を飲んでしまい、勢いのまま感想を書きました(笑)。…
[良い点] 続き読めて幸せですヽ(´▽`)/ ベル~~っ!純情かわいい!そしてフロフロちゃんかっこかわいい!!二人が幸せになりますように! 新しい噂をまき、悪い噂を駆逐するポメ素敵です!あんまり出番な…
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