side16.剣
空気の匂いが違う。
クラウスが最初に感じたのは、潮の香りを含んだ空気だった。母国アーベントロートにも海に面した街はあるが、彼が赴いたことはない。王都は内陸のため、日常的に海が視界に入る光景が新鮮だった。
「遠方よりはるばるおいでなさった。歓迎しよう」
胡坐をかき、頬杖をついてゆったりと座すシュテルネンゼー国の国王は、クラウスを歓迎する。しかし、彼の眼は肉食獣を思わせる圧がある。控える男たちも猛禽類のように鋭い眼光の者が多い。国王に風を送るために侍られた女性たちは、見目良く着飾りつつ微笑んでいる。まるで彼女らにはこの圧はそよ風であるかのようだ。
「感謝いたします。ケヴィン国王陛下」
床に直接座す文化に倣い、クラウスも胡坐で座し、頭を下げた。敷かれた絨毯の柄には鮮やかな花が咲いていた。
これがシュテルネンゼーか、とクラウスは肌で感じ、知る。
鷹揚なようでいて油断のならない笑みを浮かべるケヴィン・ザシャ・フォン・デーアに、自分の父とは違った王の風格を感じ取る。侮れない男、それが彼の印象だった。
魔導学園を卒業して一年後、第二王子のクラウスはアーベントロート国の代表として、南の隣国シュテルネンゼーに招かれていた。国同士の交流のため、シュテルネンゼーの第五王子コンスタンティンが留学していたように、今度はクラウスがシュテルネンゼーの地に滞在することとなった。
騎士団に入団して間もないため、いささか断りたい気持ちもあったが兄のロイに王子としての務めを諭されて、クラウスは今この謁見の間にいる。
「案内に、娘のカティンカを付けよう」
歳が同じだと紹介された王女は静かに黙礼をする。クラウスが慣れぬ地への配慮に感謝を述べると、南国の王はからからと笑った。
「気に食わんかったら他を寄越すから、言うといい。うちの娘は美人揃いだ」
悪びれもない言葉に、クラウスはこそりと眉を顰めた。
国同士の友好を深めるために婚姻を結ぶのはよくあるため、その意図を含むことに問題はない。意図をほとんど隠さない様子も思い切りがよいと言える。
彼が眉を顰めたのは別のことだった。だが、それを王相手に言及する訳にもいかない。あらためて礼を述べ、その場をやり過ごした。
謁見の間での挨拶を終えると、コンスタンティンがクラウスに声をかけた。
「クラウス殿下、先日ぶりですね」
「ああ、スタン……いや、コンスタンティン殿下か」
「スタンで構いませんよ、クラウス先輩。あ、学園じゃないから先輩は変ですね」
彼の父親とは違い、人好きのする笑みでおどけるコンスタンティンに、クラウスも自然と笑みが零れた。
「同じ歳なんだ。オレも呼び捨てでいい」
早生まれのため、学園ではクラウスの方が一学年上だったが、生まれた年はコンスタンティンと同じだ。学園でも交流があったので、クラウスがシュテルネンゼーに来る際、国境まで迎えにきたのはコンスタンティンだった。出迎えた彼が、先に王宮へ戻ったのはほんの二日ほど前のこと。
気安く接してほしい旨をクラウスが伝えると、コンスタンティンは笑顔で了承した。
「じゃあ、クラウス。君の部屋まで案内するよ」
「ああ、頼む」
「ちょい待ちぃ!」
用意された部屋への案内の申し出にクラウスが頷いたところで、制止の声がかかる。声の方を向くと、先ほど紹介された王女のカティンカがこちらにやってくるところだった。
「親父に案内任されたんは、ウチやで。横取りすんなや、コン」
「そういえば、父がちゃんと紹介していなかったけど、彼女は第四王女のカティンカ・ジビレ・フォン・デーア。俺の腹違いの姉の一人なんだ」
「カティでええで。よろしゅう」
コンスタンティンが苦笑しつつ姉を紹介すると、紹介された姉は快活な笑みで手を差し出した。
「あ、ああ……」
カティンカの勢いのよい挨拶に気圧されつつ、クラウスは差し出された手を握り、握手を交わす。手を握り返されたことに満足そうに笑って、カティンカは次に弟の方を見て、肩を竦めた。
「しっかし、なんやの、コン。その喋り方。母国に帰ってきたんやから、いつも通りにしぃな」
「あのね……、カティ姉。いきなりウチの訛りに囲まれたらクラウスが驚くだろ」
「うちじゃこれが当たり前やし、通じるんやから、ええやん。それに、コンのその喋り、キモいねん」
あけすけなカティンカの物言いに、コンスタンティンは一度沈黙した。
「……クラウス」
「なんだ?」
「訛りでキツく聞こえるかもしれないけど、この国ではこれが普通の話し方で、喧嘩とかじゃないから誤解しないでほしい」
「わかった」
微笑んで事前に諭され、クラウスは首肯するしかなかった。彼の答えを得て、コンスタンティンはすぅ、と息を吸い、口火を切った。
「ちったぁ気ぃ遣えや、カティ姉! 客さん、ビビらせてもしゃあないやろ。親父かて訛っとらんかったやろがっ」
「せやから、ウチかて黙っとったやろ! ちゃんと気ぃ遣ったわ」
「戻るん早いねんっ、ええ歳して外交用の礼儀作法もロクに覚えんと! そんなんやから嫁の貰い手ないんじゃ!」
「いいんですぅー、母国出る気ないもん。大体、ついこないだまで、エーファ姐さんに嫁さんの心配されとったコンに言われたくないわ」
「ほんま、ああ言えばこう言う……っ」
頭痛を堪えるかのように、コンスタンティンは額に手を当てた。
口を挟む隙がなく、クラウスは姉弟のやり取りを傍観するしかなかった。クラウスにも上の兄弟はいるが、彼らのような激しい言い合いをしたことはない。姉らは、幼い頃に他の隣国へ嫁いでしまったし、兄は穏やかというか理知的ゆえに怒ること自体が珍しい。腹違いゆえに、兄のロイと交流を深めるようになったのは物心ついてしばらくしてからで、今目の前で繰り広げられているような、生まれたときからの親しさはない。
そういえば、兄弟喧嘩をどうやってしたらいいか、と真剣に兄のロイから相談されたことがある。幼い頃、王位継承権を争って険悪な関係だったのを忘れたのか、とそのときは呆れたが、こうした気の置けないやり取りに憧れたのかもしれない。それにしても、口論したい相手に直接相談するなんて、兄は時折ものすごく変だ。
目の前の光景に、クラウスは、自身の兄の風変りな一面を再認識した。
「……こない喧しい姉やけど、その分、遠慮はせんでええ」
案内が彼女でいいのか、とコンスタンティンに確認され、クラウスは選択する。
「困ることがあれば、相談する」
クラウスの答えに、コンスタンティンは仕方なさそうに、いつでも、と笑った。一方カティンカは、勝負に勝ったかのようにぐっと拳を握って喜んだ。
ほどほどにするよう注意する弟を、しっしっと手で払う仕草でカティンカは立ち去らせた。弟が去ったのを確認して、ふぅ、と小さく息を吐く。
「っとに、ぐだぐだ言ってんと、こっち来たばっかの嫁さんとこ、はよ戻ればええんや」
「弟想いだな」
クラウスの感想を耳にして、カティンカは一瞬身体を硬直させた。恐る恐る振り向いて、確認する。
「何言ってん、そないなこと……」
「スタンは今、王位継承の有力候補で政務処理に多忙だろう。婚姻予定のトルデリーゼ嬢もこちらに来たばかりだ。そんな彼女もスタンが傍にいれば落ち着くだろうな」
第五王子のコンスタンティンは、アーベントロート留学中に侯爵令嬢トルデリーゼと婚約し、卒業と同時に自国へ連れ帰ったばかり。それだけで、結ばれて日も浅い同盟を強固なものへとした。その他にも、留学中に両国の新規交易品の交渉も成立させ、国益貢献の褒美として王位継承権を得たという。
そんな彼は、顔見知りかつ同性の自分が部屋に案内する方がクラウスが落ち着くだろうと気遣ったのだろう。彼の配慮は、クラウスにはもちろん有難いものだ。だが、わずかとはいえ、多忙なコンスタンティンの時間をとらせてしまうことも事実。
カティンカからすると、せっかく帰ってきたのだからゆっくりすればいいのにと思う。だが、王位を継ぐと決意した弟は歩みを止めないまま、周囲にまんべんなく気を配る。伴侶として連れ帰ったトルデリーゼにも、彼女が不自由なく過ごせるよう充分な手配をしている。
だが、そこに弟が息を吐く時間はあるのか。
そう思っていた矢先に、自分が案内を頼まれた客人に話しかけているのを見たら、カティンカは黙っていられなかった。
「……コンの嫁さん、かわええんやもん」
弟の伴侶を気に入っただけで、断じて弟のためではない、とカティンカは主張する。そんな彼女を見て、クラウスは眼を細めた。
「オレも、知らないうちに世話になってるんだろうな」
彼の呟きに、カティンカは小首を傾げる。
「オレも弟だ」
第三者の立場で見ればこうして気付けることも、きっと自分のときには気付ききれていないのだろうとクラウスは思う。派閥管理のため、第一王妃と第二王妃は現在も対立の立場をとっているが、王位継承権に関しては第一王子のロイが継ぐことで皆が納得し、クラウスは好きな剣を極められる環境にある。
兄が一人ですべてをしたとは思っていないが、王位継承権争いを円満に収めるために影で尽力していたことだろう。
「っぽい」
妙に納得するカティンカに、クラウスは可笑しくなって笑う。謁見の間で第二王子だと、彼女の父親に名乗っていたというのに、聞いていなかったのだろうか。
「さて、オレの部屋に案内してくれるか」
「任せとき」
こちらだ、とカティンカが王宮内を先導して歩く。彼女が国王から頼まれた案内は、シュテルネンゼー国内を見て回る際の案内であり、王宮内の移動に関しては下仕えの者に任せてよい仕事だ。だが、彼女が楽しそうに案内するので、クラウスは黙っていた。
「それにしても、あんた笑うんやね」
「どういう意味だ?」
道すがら零された呟きに、クラウスは意味が解らず訊き返す。
「だって、謁見の間ではしかめっ面やったやん。特に、ウチが紹介されたとき」
両手の指で、眉間に皺を作ってみせるカティンカに、クラウスはわずかに眼を見開く。
「意外と見てるんだな」
「意外とって何やの」
感心して、思わず失言してしまい、剥れたカティンカにすまない、とクラウスは謝罪する。そこに気付くとは思っていなかった。
「オレは目つきが悪い……、ということもあるが、少しばかりいけすかなくてな」
先ほどを思い出したのか怫然とするクラウスの様子に、一体何が、とカティンカは疑問になる。自分の父親はいつも通り、客人を歓待していた。
「あの言い方は、カティが物みたいだろ。そこだけ、気に食わなかった」
貴金属と宝石でできた装飾品を見せびらかすかのように自分の娘を紹介した。国王ケヴィンに伴侶が五人おり、その分だけ子供が多いとは知っている。けれど、多いからといって代わりの利く物かのような言いぶりはクラウスの癪に障るものだった。
そんなことで怒っているとは思わず、カティンカは眼を丸くする。
「あれでもいいとこあるんよ? ウチらの名前ちゃんと全員覚えてくれとるし……、おとんの言い方はあれかもやけど、クラウスが選り取り見取りなんはほんまやで。ウチみたいな売れ残りが嫌やったら、いつでも……」
「嫌だなんて言ってないだろう」
初対面の相手に丁寧な扱いを受け、カティンカはむずむずと居心地の悪さを感じた。それを誤魔化すために色々と並びたてていたら、即座に否と返り並びたてる言葉すら奪われた。
そうこうしているうちに、クラウスがこれから過ごすことになる客室に到着する。案内された部屋に入る前に、クラウスはカティンカへと振り向いた。
クラウスは、腰に下げていた剣を帯剣のためのベルトごと外し、カティンカに差し出す。カティンカは反射的にその剣を受け取った。ずしり、とした重さを感じた。
カティンカが剣の重量に耐えたことを確認してから、クラウスは剣から手を放した。
「騎士の命だ。シュテルネンゼーにいる間、預ける」
「なん、で」
どうしてそんな大事なものを、とカティンカは当惑する。
「オレの案内役はカティだ」
だから、預けるのに適任だ、とクラウスは告げた。当然が如く告げられ、カティンカは軽く眩暈を覚える。
これからよろしく頼む、と言ってクラウスは、彼女に背を向け部屋へと入っていった。廊下には、呆然と剣を抱くカティンカだけが残される。
腕のなかにある剣を見下ろす。
感じる重量の分だけ責任が重かった。けれど、これは自分だけに与えられた責任だ。他に代わりがない証拠だった。
いてもたってもいられないような面映ゆさに堪らなくなる。
「なんやの、もう……っ!」
集まった熱を拭うように、手の甲で頬を擦る。
カティンカは、気合を入れて自国を案内しなければならなくなった。
翌日、カティンカは腕を組み仁王立ちでクラウスの部屋の前で待ち構えていた。
身支度を整え部屋を出たクラウスは、彼女の姿に眼を丸くする。
「随分気合が入っているな」
「ちゃっちゃと朝飯食い。出かけんで」
朝の挨拶の直後に出たのはそんな言葉だった。クラウスの感想に答えず、カティンカは指示を出す。
出待ちしたついでにカティンカに食事の間へ案内され、クラウスは朝食をとる。彼女に急かされずとも食事の早いクラウスは、出された食事をあっという間に平らげてしまう。朝は小食のカティンカの方が、少しばかり食べ終わるのが遅かったほどだ。
先に食べ終わったクラウスが訊ねた。
「どこに行くんだ?」
問いかけられたのと同時に最後の一口を飲み込んだカティンカが、若干の悔しさに眼を据わらせつつ行き先を教える。
「露店や」
街路樹が並ぶ幅広の道。等間隔に並ぶ樹の下に様々な露店が並んでいた。木陰の下の店主たちは、太陽のように眩しい笑顔と大きな声で客を呼び込む。活気の溢れた喧噪にクラウスは圧倒されそうになる。
アーベントロートの市場通りを馬車から見たことがあるが、それよりもずっと賑やかだ。
「海じゃないんだな」
これはこれでシュテルネンゼーらしいと肌で感じるが、この国の代名詞といえば接地面積の多い海だ。クラウスはてっきり最初は海に案内されるとばかり思っていた。
「アホ言いな。準備もなしに行ったら、アンタの綺麗な髪も肌も荒れんで」
彼の発言に、カティンカは呆れる。
無防備に潮風の強い港や浜辺にいけば、クラウスの柔らかく光る白金の髪の艶は落ち、武人にしては滑らかな白い肌が痛んでしまう。
「その準備をするということか? 髪や肌が荒れたところでオレは構わないが」
「ウチが構う!」
自身の容姿を理解していない発言に、カティンカは憤る。
王子だ、騎士だ、の要素を抜きにしても、クラウスという男はかなりの美男だ。本人は目つきが悪いといったが、切れ長の瞳は凛々しさを感じさせる。服の上からでも判る均整の取れた筋肉で姿勢がぶれる様子がない。そこに立っているだけで絵になる部類の男だった。
「クラウス、イスやねんから、日に焼けたらただ痛いだけやで! その白い肌が赤くなるなんて許せんわっ」
「イス?」
何故、彼女が自分の肌の決定権を握るのかも不思議ではあったが、クラウスは耳慣れない単語に首を傾げた。
「ああ、アーベントロートはほとんどイスやから、わざわざ言わんわな。この国やと、肌の色で区別すんねん」
人種の入り混じるシュテルネンゼーでは、白い肌をイス、浅黒い肌をバルツ、中間の肌をルブと呼称するのだとカティンカは説明した。
「差別ではなく?」
「違うわ。体質が違うから、化粧品とか合うもん区別しやすいようにしとんねん」
それを証明するように、カティンカは、香油などを瓶に詰めて売る露店へとクラウスを案内する。瓶は色や形で性質などを判るようにしているらしく、商品ごとに集まる客の肌の色が異なった。
「基本、黒肌用は肌を綺麗に焼くための、白肌用はむしろ焼かんための、黄肌はどっちもあるけど合う油は違う」
カティンカは品定めしつつ、効能を店主に確認して、青い瓶に乳白色の油が入ったものと、透明な瓶に琥珀色の油が入ったものの二つを購入する。そして、青い瓶をクラウスへ渡す。
「絶対痛ぁなるから、肌出るとこには必ず塗りや」
「わかった」
海辺を嘗めるな、と現地人に眼差しで脅されクラウスは首肯するしかなかった。素直に従ったのを確認して、カティンカはにんまりと笑う。
「んで、ウチの肌質はルブやから、綺麗に焼いたんねん」
羨ましいだろう、と自慢げに琥珀の油が詰まった瓶を掲げられる。
カティンカは、イスではできないことだから悔しがるだろうと思ってのことだった。だが、クラウスはきょとりと彼女を見返すだけだった。訓練の雪山登山で霜焼けになったことはあっても、自身から肌を焼こうという感覚はクラウスにはない。
「充分、健康的な色をしてると思うが」
「夏はもっと濃くせなっ、やないと身体が締まって見えんやろ」
胸を反らし、腰に手を当てることで服の上からも身体の線が判るようにしてみせるカティンカに、クラウスは言葉を詰まらせ、いささか噎せる。
「なにボケとんの?」
「……俺の国では、令嬢は肌を焼くことを嫌がるし、異性に身体の美しさを口で主張することもない」
陽射しから守るために日傘を差し、足首まで丈のあるスカートで脚は隠す。腰から上は曲線美を強調するデザインも好まれるが、言外で主張するのが常であり、カティンカのように直接的に口にはしない。日焼けのしづらい体質の者が多いから、自然と美徳の置き所がそうなったのかもしれなかった。
「えぇ、コンの嫁さんもルブ寄りやから一緒に焼こう思っとったのにぃ……」
駄目なのか、とカティンカは気落ちする。男のクラウスがこちらの風習に動揺をみせるなら、弟の伴侶であるトルデリーゼはなおさら不慣れなのではないか。
悄気るカティンカに、咳払いをしてクラウスは耳を傾けさせる。
「彼女もこちらの者になるんだ、少しずつ慣らせば問題ないだろう。それに、聞いてもいないうちに決めつけない方がいい」
クラウスから見れば、トルデリーゼは兄の婚約者の友人だ。控えめに見えた彼女が、国境を越える覚悟ができるほど胆が据わっていると知ったのは最近のことだ。存外、自身から積極的にこの国の風習に馴染もうとするかもしれない。
彼の意見に、カティンカはそれもそうだ、と気を持ち直す。体質的に難しいイスでも日焼け気分を楽しめるよう、肌につける色粉もこの国にはある。それを試してもらって、興味があるか確認してみよう。
立てた計画に表情を輝かせるカティンカに、クラウスは笑う。つい先ほどまで悄気ていたというのに、忙しく表情が変わる様が可笑しかった。
「それにしても、民と同じところで買って問題ないのか?」
「むしろ、露店で買う方がええで。そんときにしかない品も買えんもん」
「怪しい品が紛れ込む可能性はないのか?」
「うちの国で、そない命取りなことする馬鹿はおらん。すぐ足が付くわ」
「何故」
「血印するもん」
海の向こうからの交易品も頻繁に入るシュテルネンゼーでは、一日限りなど期間を限定した露店への出店権利書を商業ギルドが発行している。事前審査が簡易で即時発行が可能な代わりに、扱う商品や接客に問題があった場合、次回以降の出店が叶わなくなる。
その管理に利用しているのが、血印だ。申請書と権利書に照会用の魔法陣があり、出店する責任者が自身の血を含めたインクでそこへ拇印する。申請書の方は商業ギルドで厳重に保管され、出店希望者には照会用の魔具で前歴があるか確認がとれるようになっている。
「やから、商売したいヤツは下手打てんようになっとるねん」
「見た目を変えられても、血は変えられないか」
納得するクラウスに、是と言わんばかりにカティンカは口角を上げてみせた。
商業の発展ぶりにクラウスは感心する。血印が当然のように定着しているということは、その定着に必要な魔法陣や魔具の開発などへ建国当初から先行投資していたのだろう。アーベントロートの半分以下の面積であるうえ、平地の少ないシュテルネンゼーでは、すべてを自給自足することは叶わない。そのため、輸入品に頼る必要がある。交易を重視するのは必然といえた。
ふと視線を感じてクラウスが横を見遣ると、カティンカが覗き込むように彼の顔を凝視していた。遠慮のないその視線に、クラウスはたじろく。
「なん、だ?」
「……やっぱ色眼鏡もいるな。次は眼鏡屋行こ」
真顔のカティンカが神妙にそんなことを言うものだから、クラウスは拍子抜けしてしまう。どうやら彼女は、クラウスの瞳が陽射しに耐えられるかどうかを見極めていたらしい。
こちらだと腕を引くカティンカに、クラウスは観念したように小さく笑う。彼女は今、自分を案内することに熱中しているようだ。これはとことん付き合うしかない。
それからクラウスは彼女に案内されるままに、様々な露店を覗いた。その日限りの店もあるというのに、カティンカは目的に合わせて迷いなく進む。どうしてかと思ったら、出店する品によって販売区域を分けているそうだ。見回っている間に昼を過ぎたので、軽食を作り売りする区域で二人は、半円状のパンの切り込みに具を詰めた焼きサンドイッチや、肉の串焼きを買って食べた。
必要なものを買い揃えたあと、最後に露店を一巡する。二人のように買わないまでも、どんな商品があるのかと見て楽しんでいる人は大人にも子供にも見受けられた。様々な国の工芸品が露店ごとに並んでいる様子を眺めていると、国によって文化が違うのだと実感する。
「これは何だ?」
眺めていた露店のなかに、用途の判らないものを見つけ、クラウスは首を傾げる。硝子や金属で花などを象った装飾部に金属の棒が一本伸びている。宝石をはめ込んだものもあるので、ブローチにも似ているが、留め具らしきものが見当たらない。
「簪や。こうやって髪を止めんねん」
外来の品を見慣れているのか、カティンカは並んだ簪の一つを手に取り、自身の後ろ髪をくるりと回し差してみせた。ただ金属の棒を差しただけだというのに、まとまった髪が解ける様子はない。彼女の朱色の髪に黄玉の粒が鈴生りになった簪はよく映えた。
「上手いもんだな」
「嬢ちゃん、もう付けてんから買いやで」
「えっ、嘘やん!?」
瞬時に付けてみせたカティンカをクラウスが褒めると、簪屋の店主が手に取ったからには購入するよう指摘され、カティンカは衝撃を受ける。
「似合ってるんだ。買っていいんじゃないか」
「そ、そう……?」
何気なしに手に取った物だが、似合っていると言われてしまうと悪い気はしなくなる。クラウスの言葉を受け、カティンカは買ってもいいかもしれないと心が揺らぐ。
「いくらだ」
「え」
カティンカが購入に踏み切ろうとする前に、クラウスが店主に簪の金額を訊ね、支払いを済ませてしまう。
「なんで」
「案内の礼だ」
そう言われてしまえばカティンカは素直に受け取るしかなくなる。自然に気遣いをするクラウスに、カティンカは彼が王子なのだと実感する。さらりと相手が気負わないようにしてしまう。これは彼の国でも女性にモテただろうな、とそんな感想が浮かんだ。
「おおきに……けど、値切りもせんと買ったら、足元見られんで」
似合うと評価して簪を買ってくれたことは嬉しいが、礼とは別に忠告をしておく。気前のよい客だと認識されると、色を付けた値段を吹っかけられかねない。商品の価値と著しい差がない範囲でなら売る側が値段を変更するのは自由だ。値引き交渉もこの国の風習の一つであり、露店ならではの楽しみである。
「そういうものか?」
「そういうもんや」
「ひどいで、嬢ちゃん」
「なら、これも買うから、少しまけてくれるか」
シュテルネンゼーの風習に倣おうと、クラウスは桃色の小花が丸く咲き乱れた簪を手に取り、値引き交渉をする。店主は少し悩んだ素振りをみせたが、結局はクラウスの笑みに負け二割ほど値引きした値段を提示した。
カティンカは彼の順応性の高さより、思ったより可愛らしい意匠のものを購入したことに意外さを感じた。
「なんでそれ選んだん?」
「フィルが喜びそうだと思ってな」
手元の簪ごしに贈る相手を見て優しく微笑む様は、愛しい者を想うそれだった。知らず、カティンカの鼓動がどくりと跳ねる。
「フィ、フィルって……?」
「妹だ」
あまり外に出られないからきっと喜ぶと嬉しそうにするクラウスに、カティンカは肩透かしを食らう。自国に好い人でもいるのかと緊張した自分が馬鹿みたいだ。
なんだ、と内心安堵してから、カティンカは首を傾げる。何故、昨日会ったばかりの相手にここまで動揺しなければならないのだろう。
不意にちゃり、と耳の後ろ近くで音がしてカティンカの意識が惹かれる。音がした方にはクラウスの手があり、その指先で自分の簪の飾りが揺らされたのだと判った。
「動き回るカティにはそういうのが合うな」
房のように鈴生りになった黄玉の粒が、カティンカの動きに合わせて揺れる。それは太陽の光を反射して、彼女の笑顔のようにきらきらと眩しい光景だろう。
何気ない仕草と言葉だったが、カティンカを髪以外も朱色に染めるには充分だった。
「なっ、なんやの、ウチが落ち着きないみたいに……っ」
カティンカは、皮肉をどうにか返すことで精一杯だった。随分と心臓が騒がしい。
この男が心臓に悪いせいだ、とカティンカは動揺の理由を結論付けたのだった。
次の日、クラウスは今度こそ海に案内された。
シュテルネンゼーの衣服を纏ったクラウスは、上着はマントのような形状の布を紐飾りで留めただけで、腰から下は七分丈のズボンに鮮やかな腰布を巻き、靴は素足に木の靴底に麻縄で足の甲や踵を支えるだけのものだった。
砂場に足を踏み入れるにしては無防備ではないか、と思ったが、むしろブーツなどに砂が入った場合、除くのが容易ではないと説明され、納得した。
「……カティ」
「何やの?」
「その……、今日の格好は肌を出しすぎじゃない、か……?」
クラウスの服装も布数が少ないものだったが、カティの服装は布面積すら少なかった。胸元部分だけを染めた布で巻いており、ベストよりも丈の短いチョッキを羽織っているが、腕も腹部も隠れていない。膝下まであるスカートも一枚布を巻いたようなもので、彼女が歩くたびに右側面から脚が覗く。
腰布で解けないよう固定されているとはいえ、クラウスは目のやり場に困った。
「これから焼くのに肌出さんでどないすんの」
何を言っているんだと、カティンカは不可解を顕わにする。その反応で、この国では一般的な格好なのだとクラウスは理解する。周囲を見てみると、浜辺にいる者の格好は彼女同様、肌の露出が多かった。男性に至っては、腰から上は何も着ていない者もいる。
同じ言葉を使う国だというのに、こうも違うものか。クラウスは改めて別の国にいるのだと思い知らされた。
カティンカはすらりとした手足をし、筋肉質とまではいかないが均整のとれた身体は、露骨ではない程度に綺麗な曲線美を描いている。血色のよい肌の色と相俟って、健康的な魅力に溢れていた。
健康さが克っていると解っていても気にしてしまうのは、クラウスがアーベントロートの人間だからだろう。自身の上着の紐を解いて、カティンカの肩にかける。
「せやから、焼くぅ言うてんのに」
「すまん。つい……」
騎士の性分だ、とクラウスは釈明する。必要があれば、物理的危機だけでなく周囲の眼からも女性を守るのが騎士だ。王子としての教養もあるクラウスには、何もせずに見過ごすことができなかった。
不満を返しつつも、カティンカはむず痒さを感じていた。姉妹のなかでも活発なカティンカは、女性らしさを持つよう注意されることはあっても丁寧な女性扱いを受けることは稀だ。遠慮なく物を言う自身の性格や態度も原因と解っている。なのに、クラウスは当然のように丁寧な扱いをしてくる。
頬に集まった熱に気付かれないよう俯きかけたカティンカの眼に、自然とクラウスの腹部が映る。
「ええ身体してるやんっ」
締まった腹筋は深くはないが割れており、胸筋や腕の肉付きも鍛えられたことが判る厚みがあった。見事な筋肉に眼を輝かせたカティンカは、興奮のままにばしばしとクラウスの背中や二の腕を叩いた。
クラウスはといえば、何故褒めながら平手打ちをしてくるのか彼女の反応が理解できなかった。まったく痛みがない訳ではないが、女性の力なので抗議するほどのものではない。カティンカが嬉しそうなので、とりあえず平手を甘受した。
肌に直接触れたことで、カティンカは気付く。
「あっ、日焼け止め塗ってないやん!」
「いや、上を脱ぐ予定はなかったからな」
クラウスの反論に構わず、カティンカは念のために持ってきておいてよかった、と日焼け止め油を手に取り、彼自身では手の届かない背中に塗り始める。平手打ちよりマシと観念して、クラウスは彼女のなすがままになった。前方と腕は自身で日焼け止めを塗り、カティンカが満足したところでクラウスは訊ねる。
「海で何をするんだ?」
「ちょうどええときに来たで。クラウス」
カティンカは、意味深に口角をあげてみせる。彼女に腕を引かれるままに砂浜を歩くと、人だかりのできた一角まできた。
「みんなー、人手つれてきたでーっ」
「おー、姫さん」
「使えそうな色男やな。姫さん、でかした」
大きく手を振ってカティンカが声をかけると、筋肉質な男たちが口々に言葉を返す。
男たちは成人して間もない若者もいれば、壮年の者もいた。腰から上を着ている者は少なく、上着の代わりに刺青を纏っている者が散見された。彼らの家族だろう子供たちが男女ともにたくさんいた。
自分はどうやら何かを手伝わされるらしい、とクラウスは理解する。
年嵩の男が指示をして、人手を分け、距離を離して列に並ばせる。列の足元には縄があり、クラウスがその縄の先を追うと、海の中まで続いていた。カティンカから手を保護するためだと革製の手袋を渡され、前後の子供たちに一緒に縄を持ち上げるよう促される。慣れた者は素手だったり、指先が出る手袋だったりした。
全員が縄を掴んでいることを確認して、年嵩の男が開始の合図をする。すると、誰ともなく掛け声があがり、その掛け声に合わせて全員で縄を引いた。子供たちが一生懸命引いているのを見て、クラウスも掛け声に混じりタイミングを合わせて縄を引く力を込めた。
ぐっぐっとかなりの重量を感じながらも皆で力を合わせて引くと、一歩二歩と少しずつ全員の位置が後退していった。
クラウスの前方には、子供たち同様、懸命に縄を引くカティンカの背中があった。先ほど彼が肩にかけた上着は、縄を引く前に取り去ってしまっている。チョッキが汗ばんで、肩甲骨の線が浮き彫りになっていた。それだけ全力で臨んでいるのだと判り、クラウスも力になろうと更に力を込めた。
縄を引いてゆくと、海から縄の先が見え始め、二本の縄が一つの網に繋がっていると判った。波打ち際まで網の全体が迫ると、年嵩の男が終了の合図を出した。途端、わぁっと歓声があがる。
「クラウス、やったで大漁やっ」
「ああ。やったな」
大きな網のなかで大小さまざまな魚が跳ねていた。カティンカが喜びの余り両手を掲げるので、クラウスも反射的に両手を前に出すと、ぱんっとお互いの掌が鳴った。カティンカはそのまま、子供たちとも同様に両手を合わせだす。最初は、その様子を微笑ましく眺めていたクラウスだったが、彼も子供たちにせがまれ、何人か両手を合わせたのだった。
「彼らは、漁師だったんだな」
「言わんかったっけ?」
「言ってない」
地引き網漁を手伝った礼に、魚を少しばかり分けてもらった帰り道、クラウスが確認するとカティンカはきょとりと眼を丸くした。どうやら説明した気になっていたらしい。
きちんと訂正こそしたが、クラウスに責めるつもりはなく、本気で気付いていなかったカティンカの様子が可笑しかっただけだ。
もらった魚のどれが刺身が美味いだ、どれが揚げるといいだという彼女の話に耳を傾けつつ、ふと気になった。
「どうしてオレを手伝わせたんだ?」
「やって、一緒にやった方が面白いやろ」
さも当然というように、カティンカは答えた。
彼女からすれば、騎士として身体を鍛えているというクラウスにただ眺めるだけの観光、もとい視察はつまらないだろうと思っていた。身体を動かせる体験型の方がよりよいと判断した。
カティンカの答えに、クラウスは金緑色の瞳をわずかに見開く。彼女は出会ったばかりだというのに、相手のことをよく見ている。そして、相手を全力で楽しませようとする。それはきっともてなす相手がクラウスでなくても同じことだろう。
身体を動かすのも、それで成果が得られた達成感も心地よく、その成果を大勢と共有し笑い合うのも楽しかった。そして、その笑顔の中心にカティンカがいた。彼女は誰かと一緒に喜ぶことが好きなのだと、クラウスは知る。
「カティは最高の案内役だな」
「せやろ」
称賛を素直に受け取り、カティンカは満面の笑みを浮かべる。誇らしげにする彼女に、クラウスも自然と笑みが浮かんだ。
明日も期待していろ、と胸を張るカティンカに、クラウスは期待している、と返したのだった。
クラウスがシュテルネンゼーの王宮にきて三日目の夜、歓待の宴が催された。
王妃の一人が踊り子とのことで、彼女を主役に据えた舞が披露される。恐らく、他の若い踊り子たちと比べると年齢に差があるのだろうが、王妃である妙齢の女性は誰よりも洗練された舞い手であり、魔性を体現するかのような色香があった。人の眼を奪う魅力に長けた女性が、コンスタンティンの母だと聞き、クラウスは意外さに面を食らった。
踊り子たちから少し視線をずらすと、席の向こう側に眼を輝かせて食い入るように踊りを見つめるカティンカがいた。時折、隣にいるトルデリーゼに興奮した様子で話しているところからするに、踊りの良さを彼女に解説しているのだろうと窺い知れた。
声が届かない距離だというのに判りやすいカティンカが可笑しくて、クラウスは小さく笑みを零す。
気が付くと、空になりかけていた盃に果実酒が満たされていた。隣を見遣ると、酌をしたコンスタンティンがにこりと微笑んだ。
クラウスが礼を言うと、彼の笑みに少しばかりの苦さが滲む。
「カティ姉は迷惑かけとらんやろか」
「本当に遠慮をしなくていいから、気楽だ」
「なら、ええんやけど……」
まず姉の心配をするコンスタンティンに、初日のカティンカの様子が重なった。
「仲がいいんだな」
「……ワシらは、生まれる前から余りモンと決まっとったさかい」
腹違いでも親しいのはそのせいだ、とコンスタンティンはそっと自嘲した。
後継者の男子としても、交渉で嫁がせる女子としてもスペアを含めて三番目までいれば充分だ。以降の子供は、代用品にもならないから王族としての教養を強制せず、自由にさせる。
その王の方針に対して、それならばと思い切り奔放に育ったのがカティンカで、自身から教養を積み国外に出て見聞を広めるほど研鑽したのがコンスタンティンだ。方向性は違ったが、重要視されない子供だった二人は自身で価値を得ようとするところが似通っていた。
今でこそ王位継承権を得たコンスタンティンだが、いなくなったとしてもさして支障のない王族の一人だった期間の方が長い。母親同士が、王妃たちの中では親しい方だというのもあったが、お互い似た立場だったことが二人を姉弟らしくさせていたように感じる。
「今回、親父の役に立てるんを喜んどったけど、ワシはそんなん気にせんと、カティ姉は好きに生きたらええと思っとる」
王族として重要な役割のない王女であるカティンカは、国王ケヴィンにクラウスの応対を任されたことで、自分も王族らしいことができると意気込んでいた。
けれど、王族であることに縛られない方が姉は自由なのではないか、とコンスタンティンは考える。奔放に振舞っているようでいて王族を意識する彼女は、籠のなかで羽ばたく鳥のようだ。空を知らない鳥が本当に幸せか、コンスタンティンには解らない。
「ああ。アイツは笑っていないと駄目だな」
数日だけ彼女を見てきたクラウスですら、彼女の姿を浮かべるときは笑顔だ。彼女の笑顔を絶やさないために自由が必要なら、与えるべきだと感じる。
共感の言葉が思ったよりも深く、コンスタンティンは思わず隣の男の顔を見る。向こう側の席を眺め至極楽しそうなクラウスの表情に、既視感を覚える。その眼差しに潜むものをコンスタンティンは知っていたが、伏せることにした。それが姉のためなのか、彼のためなのかは、定かではなかった。
「けど、カティのことだ。案外、楽しんでいるだけかもしれないぞ」
「かもしれん」
目の前のことにすぐ夢中になる性質をすでに見抜かれている。コンスタンティンは笑った。姉の本質を説かれ、自身の杞憂を祓う彼は王子にしては人が好い。
コイツが王子やなかったら、任せんねんけどなぁ……
お互いが王族だからこその縁と知りながら、コンスタンティンは詮無いことを考えてしまう。
自分の婚姻で両国の同盟は充分補填できる。父親がクラウスの案内に姉を付けたのは、歓待の比重の方が大きい。もう一方はあわよくば程度のものだ。二人もそれを承知でいることだろう。どちらでもよいからこそ、気兼ねなくやり取りができるのだ。
クラウスの視線を追うと、姉が自分の伴侶と楽しそうに笑っていた。人の気も知らないで、と苦笑する。姉の顔を見ていると、心配するのも馬鹿らしく感じた。
なるようにしかならないだろう、とコンスタンティンは自身の盃を干したのだった。
宴も終わり、宛がわれた自室に戻ったクラウスは、自身の荷物からあるものを取り出した。
専用の容器に入ったそれを取り出し、部屋から廊下にでると広々とした窓の欄干に腰を落とす。潮の香りを含んだ夜風が肌を滑ると、涼しく感じた。涼しく感じるのは、酒で多少なりとも身体が火照っているからかもしれない。
視界には闇に染まる海が広がり、星空を映してところどころ煌めいている。街の明かりより、海に映った月の方が眩かった。
まだ騒ぎ足りないのだろう、遠くから談笑の声がちらほら届く。静寂とは遠い、程よい騒がしさが今は心地よい。ならば、自分も少しぐらい騒がしくしても誰も構わないだろう。
クラウスは手にしていたものを肩に乗せ、顎で押さえ構える。瞼を閉じ、耳を澄ませどうにか拾える幽かな波の音に合わせるように、そっと弦を引いた。
ぎりぎりまで弓を引くと、それだけ音が伸びる。一度、音の伸びを確認したあとは、さざ波のようにゆるやかに音色を響かせ、闇に溶かせてゆく。
音色を奏でることに浸っていたクラウスは、自身の音に誘われて近付いた気配にすぐには気付かなかった。それが気配だけでなく、音色に合わせて歌を口ずさむまでは。
奏でる曲に合わせて歌声が応えるのが心地よかったが、区切りのよい節でクラウスは弓を弦から放した。
「何て曲?」
「さぁ? 思いつきだ」
即興曲にしては綺麗だったと褒めるカティンカに、クラウスは礼を返す。酔い覚ましに弾いただけだったので、誰かに聴かれるとは思っていなかった。
「ヴァイオリン弾けるんやね」
「披露するほどの腕じゃないがな」
パーティーの際の楽団の演奏を知っているので、自分が趣味程度の腕だとクラウスは解っていた。今夜の宴の楽師たちも、違う弦楽器だったが見事なものだった。幼い頃から弾いてはいるが、音楽を仕事にしている者には遠く及ばない。
「好きなんやったらええやん。ヴァイオリン好きなんやろ?」
自分が惹かれてここにたどり着くぐらいには綺麗な音色を奏でていた。そう褒めてもよかったのだろうが、彼自身が好きで奏でるからこそそんな音色になったのだとカティンカは思う。
趣味ならば優劣など気にしなくていいという彼女の主張に、クラウスは肯定の笑みを落とした。
「ああ。弾くと、フィルが喜ぶ」
母国にいる妹を思い出し、クラウスは愛しげに微笑む。好きなことを好きなままでいられたのは、妹の存在があったからだ。妹のフィリーネは、いつだって自分の奏でる音色に表情を輝かせる。
妹のことだと解っているというのに、クラウスの浮かべる表情を見て、カティンカはもやりとした蟠りを胸に感じた。彼は妹を大事にしすぎではないだろうか。
「フィル、フィルって、妹のことばっか。クラウス、モテへんの?」
「まぁ、兄貴ほどじゃないな」
指摘するのは野暮だというのに、思わず口を吐いた。しかし、カティンカの皮肉をクラウスは半ば肯定した。
「それに、オレの場合は王子の肩書きに寄ってきていただけだろう」
コイツは何を言っているんだ、とカティンカは固まった。この男がモテない訳ないだろう。今も、月光を浴び仄かに光を帯びる白金の髪に、切れ長の瞳は光の加減で月を宿したような金色になり吸い込まれそうだ。容姿の良さだけでなく、カティンカは彼の人となりも知っている。自分の強引な観光に付き合うぐらいに人がいい。
「……そうやったとしたら、その令嬢たち見る目ないわ」
カティンカは本心で反論したが、クラウスには気遣いだと思われたようだった。
自身の言葉がきっかけでクラウスに卑下させてしまったことを悔やむが、今彼への賛辞を尽くそうとすれば余計なことまで口走りそうな気がして、カティンカは口を噤む。
「あっ、ウチも上手ぁないけど、好きなことあんねん」
気を紛らわせようと他の話題を探し、カティンカは自身のことを提示した。クラウスは、その話題に耳を傾ける。
「なんだ?」
「踊り! エーファ姐さん、あ、コンのおかんな、エーファ姐さんみたいに踊れんけど好きやねん」
幼い頃に宴の席で舞うエーファに一目惚れし、カティンカは憧れた。彼女に懐き、踊りの師事を受けたが、どうにも上手くならないのだ。
「柔軟も欠かしとらんから身体は柔らこぉなったし、ついでに教えてもろた捌きはいけんねんけど……」
「捌き?」
「なんか力使わんでええ武術みたいなん。護身にええからって」
「それで、カティの護衛は少ないのか」
攻めてくる相手の力を利用して攻撃を躱したり、反撃する術だとカティンカが説明すると、クラウスは彼女と出かけた際についてくる護衛の数に納得した。護衛が少ない理由の一つとして、彼自身が周囲への牽制になるからだとは思ってもいない。
「ウチみたいな余りモンに、人手割かせるワケにもいかんしね」
余りものと当たり前に卑下するカティンカに、クラウスは宴の席でのコンスタンティンの言葉を思い出す。
近くに自身より価値があるとされる者がいる環境をクラウスも知っている。クラウスは王位継承権があるので、諦めがつかず当初は躍起になっていたが、カティンカたちは序列が低すぎて最初から諦めるしかなかったのだろう。ケヴィン王は子供が多いので、そういった者は彼女らだけではないと解ってはいるが、自分が知る相手にのみ同情してしまう。
クラウスは、ただ彼女に苦い笑みは似合わないと感じた。
「どうして捌きならできるんだ?」
「へ? うーん……、一人やないからかな? 相手の間合いに合わせるんはできんねん」
急に問われて虚を突かれつつも、カティンカは思案する。
舞いは一人で拍子を刻み、自身の仕草にすべてを集中する。だが、捌きは相手の動きを見て、それに合わせて自身が動く。師事するエーファに基礎は同じだと教えられたが、カティンカには随分感覚が違った。
「なら、こっちの踊りならできるんじゃないか?」
「わっ」
ヴァイオリンを欄干に置き、クラウスはカティンカの腕を引き、彼女の腰に手を添えた。
「こうして二人でステップを踏むんだ」
カティンカが目の前にいる状態で、クラウスが一歩踏み出すので、カティンカは咄嗟に足を引いた。その反射具合を確認して、クラウスはワルツのステップを踏み始める。最初は覚束なかったカティンカだが、クラウスのリードもあってか、次第に彼の動きに合わせ始める。
月明りの下、二人はくるりくるりと踊る。動きに馴染み楽しくなってきたカティンカが笑うと、それに満足したようにクラウスも笑った。
音楽のない二人のステップの音だけが廊下に響くワルツは、一曲分あるかないかの長さで終わる。
「ほら、踊れた」
やはり見込んだ通りだ、と微笑むクラウスの顔が思ったよりも近いことに、カティンカは驚く。踊りを終えてみると、今の体勢はただ抱き合っている状態ではないか。今更、羞恥がやってくる。重ねた手や腰に回された腕の触れた部分が妙に熱く感じた。
「クラウス、酔っとるやろ!?」
「もう醒めた頃だと思うが」
カティンカが慌てて身を離すと、唐突に酔いのことを指摘されクラウスは首を傾げた。元々、酔い覚ましでヴァイオリンを弾いていたのだ。回った酔いも落ち着いた頃合いだろう。
どちらにせよもう夜更けなので寝るよう、カティンカは彼に言いつける。クラウスはそれに素直に従い、彼女も早く休むように返し、就寝の挨拶を交わして部屋へと戻っていった。
カティンカは脱兎の如き速さで、自室へと向かった。早くあの場から離れたかった。離れても触れられた箇所にまだ感触と熱が残っているような気がして、今夜眠れなかったら彼のせいだと、カティンカは心の内でクラウスを責めたのだった。
「エーファ姐さぁん!」
「煩い!」
翌日、カティンカがエーファの部屋へ飛び込むと、すかさずクッションが彼女の顔に投げつけられた。顔面に当たったクッションが落ちると、クッションの山に横たわるエーファが半身を起こし、頭を抱えていた。
「朝っぱらから静かにしぃな」
「もう昼前やで? エーファ姐さん」
「ウチが寝たん、いつや思ってんねん……」
恐らく、宴の後も夫のケヴィン王と酒を呑み交わしていたのだろう。彼女は酒好きだ。二日酔いのためか、ぐったりと顔色が悪く、そして沸点が低くなっていた。
カティンカは、自身の用より先に、控えている侍女の一人に薄荷水を用意させる。放っておくと、彼女は二日酔い対策に迎え酒を呷りかねない。
エーファが薄荷水を飲んでいる間、カティンカは彼女を眺める。
化粧を落とし、鬘もない現在の彼女は、昨夜の婀娜っぽい雰囲気とは一変していた。
息子のコンスタンティンと同じぐらいに短い髪は頭の形の良さが判る。最近は色んな鬘でその時々に合わせて着飾っているため、本来の髪を短くしていた。だというのに、彼女の気だるげな様子には大人の色香が漂う。彼女を前にすると、女の色気は胸の大きさや髪の長さに比例する訳ではないとカティンカは実感する。
「で? あんた、色男にべったりやったんちゃうの」
水分を摂って幾分マシになったエーファが訊ねると、カティンカはうぅ、と唸って先ほど投げつけられたクッションを抱き込んだ。その頬は赤い。
「なんや、惚れたん?」
「ちゃうもん!」
「煩い」
「ごめんなさい」
察しのよいエーファの指摘に、思わずカティンカが反論すると、声量を落とせとひと睨みされてしまった。カティンカはすかさず謝罪する。
「色男は放っておいてええの?」
「クラウス、今日は交易とかの会議があるとかで、ウチの案内いらんねん」
「つぅか、なんでロジーんとこやなく、こっち来んの」
「おかんに言うたら、結婚一択やもん」
何故自身の母親に相談しないのか、とカティンカに言及すると、答えが解りきっているからと答えが返り、エーファは納得する。
彼女の母、ロジーナは元は王都随一の富豪の娘で、利益重視の面食いだ。ケヴィン王の求婚に応えたのも、彼の顔が良いからに他ならない。そんな彼女に見目の良いクラウスのことを相談すれば、結婚を一押しされるだけだろう。
「ほんで、惚れとらんかったら、なんやのその顔」
「ふ、不可抗力やし、クラウスが悪いんやもん……っ」
どの口が言うのか。エーファは呆れて、仔細を訊く気にもならない。カティンカの初心な反応は、経験を重ねすぎたエーファには愛らしい以前に面倒臭いものに感じた。
エーファの見立てだと、クラウスは懐に入った相手に自覚なく気を許しすぎる嫌いがある。そして、アーベントロートの王子だけあって女性には紳士的だ。そんな彼に気を許された女性は堪ったものではないだろう。そう、目の前のカティンカのように。
かといって、気を許す相手を選ぶ分別もきちんとある男だ。出会って間もないというのに彼の懐に入れたカティンカもカティンカだと思うが、エーファはそれを口にはしない。彼女が調子に乗りやすいからだ。自分に憧れているらしいので、迂闊に褒めて有頂天にさせては、話ができなくなってしまう。
話を聞くだけ聞いてやる、とエーファが促すと、カティンカは自身の戸惑いを零しはじめる。
「そら、クラウスはめっちゃカッコええで? ただでさえカッコええのに、ウチがわーってなることしてきて落ち着かんし、けど隣の王子やし、ウチは売れ残りやし……」
「惚気るんやったら出ていき」
寝起きに他人の惚気を聞くことほどウザいものはない。相談らしい相談をしないのであれば退出しろと、エーファは容赦なく告げる。
「相談しとんのっ」
「一体、何ぐちぐちしとんの」
「……うち、出たない」
自分がシュテルネンゼー以外にいる姿が想像できない。一番の不安はそれだった。
カティンカは海が見えるシュテルネンゼーに生まれ、育ち、これから先もこの地で過ごすのだと疑っていなかった。アーベントロートにも海はあるが、王都とは離れすぎている。王子のクラウスに嫁ぐとなれば、海のない生活が待っていることだろう。
文化や風習が違うことよりも、慣れ親しんだ海が自分の環境から消えることが恐かった。
「なら、出んかったらええんちゃう」
「やけど……」
けど、何なのだろう。生活から海が消えることがひどく恐いというのに、エーファの言葉に肯けない自分がいた。
クラウスの無防備な笑顔を知ってしまったからだ。
彼に出会う前の自分なら、迷わずに自国に居続けることを望んだ。彼のせいだ。
言葉が出なくなったカティンカを見て、エーファはにんまりと揶揄うように笑う。
「えらい色男みたいやなぁ」
「ほんまに……」
堪忍してほしいわ、とカティンカは項垂れる。
きっと彼は知らないのだろう。その笑顔が容赦なく自分の何かを崩すのだと。
誰かの笑顔ではなく、彼の人の笑顔を望む自分に気付かざるを得なかった。
数日後、カティンカはクラウスを小さな入り江へと案内した。
入り江がよく見渡せる場所に生えた木の下に二人で座る。木陰に入ると、陽射しが肌を焼く感覚がなくなり、暑さが和らいだ。
「ウチのお気に入りの場所やねん」
「今日は何かしないのか?」
「せんよ。たまにはぼーっとするんもええやろ」
何もしない、という選択肢を用意していたカティンカにクラウスは眼を丸くする。
これまで、熱した硝子を筒から吹いたり、好きな色を選んで布を染色したり、この国の工芸の製作を体験させてもらった。クラウスは今日まで、数日の間とはいえ目まぐるしい日々を送っていた。そこへきて、何もせず海を眺める日を設けるカティンカに意表を突かれた。
けれど、この国の名物を眺める、というのも一興だ。
「兄貴にも見習わせたいな」
絶えず穏やかな笑みを浮かべているが、やっていることは人の倍な兄を思い出す。クラウスには何もしていない兄が想像つかない。
「お兄さん、せっかちなん?」
「いや、気長すぎるくらいだ。けど、よく休めとフィルに叱られている。最近だと、婚約者にも叱られていたな」
政策というのは長期的計画がほとんどだ。だから、先を見越して、焦らず着実に事を進める兄は為政者に向いているだろう。だが、長期的な案件を抱えたまま、求められた性急な案件の対策を講じて、常に政務処理を行っている。
好きでしているため、それを苦と思っていないから性質が悪い。言わないと休息をとらないので、妹や兄の婚約者が心配するのは必然だった。
何も考えず、青い空と青い海を味わうというのは、とても贅沢だ。常に思考を巡らせているような兄だが、流石にこの光景を前にすれば、思考も奪われることだろう。
いつか、兄もこの海を見るといいと思う。
「仲ええんやね」
「これでも、昔は目の敵にしていた。今は、支えたいと思う」
尊敬している、と言いかけて、クラウスは適切ではないと言い換えた。ただ尊敬するには兄の残念な部分を知りすぎているし、兄が自分に求めていることは盲目的に慕うことではない。
「支える?」
「兄貴はアーベントロートを今よりずっとよくするだろう。だから、俺は騎士として無用の剣になりたい」
「いらんモンになりたいん??」
「ああ」
意味が解らずカティンカは首を傾げる。不要な存在になりたい、という感覚はカティンカにはない。
どういう意味か、と瞳で問いかけるカティンカに、クラウスは説明する。
「平和で豊かな国というのは、他の国に狙われる。天災だってないとはいえない。万が一のときのために、使わなくとも軍事力はいる」
戦争が非生産的だと解っている兄がいる限り、万が一にもそんな事態にはならないだろう。クラウスは、ない万が一のために強くなり、国の剣でありたいと願う。
「丸腰の相手と、鞘に入った剣を腰に下げている相手がいたらどっちを狙う?」
「ああ、なるほど」
政治として考えると難しいらしかったので、クラウスが対人として例示すると、カティンカはようやく理解した。
「クラウスは抜かん剣になりたいんか」
「そうだ」
飾り物と罵られようと、常に刀身を研いでおく。王族の自分が騎士団に所属していれば、無用の長物と認識されるようになってもある程度国防に資金が割けるだろう。懸念すべきは、平和に慣れたときに国防の費用を削られることだ。
それに、兄ほど視野の広くないクラウスには国防に注力する方が性に合っている。
クラウスの金緑色の瞳は、海を移して穏やかな深い緑に見える。だというのに、宿る意思は確固たるものだった。
カティンカには、彼が眩しく映る。自分は生まれた国を愛しているが、国の未来を考えたことはない。コンスタンティンが王を目指すと知ったときに、この国は安泰だ、と安堵したぐらいのものだ。彼に比べると、自身の愛国心など些細なものに感じた。
「オレは、さぞつまらない男になるだろうな」
立場上、騎士団でも上位の役職に就くことは確約されている。平穏のなかで最低限の武器と武力の確保を訴え続ける自分は、将来的に煙たがれる存在になるだろう。そんな自分に嫁いで嬉しい女性がいるとは思えない。兄の王位継承が確定し、伴侶を持つ必要性がなくなったのはクラウスにとって幸いだった。
「アホ抜かしぃ!」
クラウスの意見に真っ向から否定したのはカティンカだった。
「クラウスみたいに顔も身体もええ男がつまらんはずないやろ!! 自分の目の保養具合を嘗めとったらあかんでっ」
怒りのあまり馬鹿正直に本心を吐露したカティンカは、自身も母親同様面食いと言っているようなものだと気付いていない。
ぶはっと、クラウスは思わず吹き出す。彼女は叱っているつもりだろうが、内容は褒めているだけだ。なのに、彼女は至って真剣なものだから、可笑しさが極まった。
「っ身体もか、そうか」
先日、カティンカが自分の筋肉に眼を輝かせていたのを思い出す。彼女は、鍛えた筋肉が好みらしい。そこまで正直に明かさなくてもいいだろうと、可笑しくて仕方なかった。
「そんなこと言うのは、カティぐらいだ」
真面目に叱ったつもりのカティンカは、何が可笑しいとさらに怒る。
「ウチの話を……っ」
「聞いてる。カティにはオレがつまらなくないんだろ」
「せや!」
「なら、これからもオレといてくれるか?」
「まか……!?」
反射で頷きそうになり、遅れて意味を理解したカティンカは固まった。その反応を予想していたのか、クラウスは彼女から海へと視線を移す。
「カティといてつまらなくないのは、オレに限った話じゃないな」
クラウスがこの国でさまざまなことが体験できたのは、カティンカがいたからだ。行く先々で迎え入れられたのは、カティンカがこの国の人々に愛されているからこそだと解っている。
この国に愛され、そして彼女もこの国を愛している。ほとんど知識でしか知らないクラウスは彼女のように、自分の国の名所を紹介できない。シュテルネンゼーのことを話す彼女はいつも誇らしげに笑っていた。
彼女を通してシュテルネンゼーを知れて、本当によかったと思う。
「最後までいい案内だった」
ありがとう、と笑顔で感謝を述べられ、カティンカは呆ける。
「さい、ご?」
「滞在は一週間だからな」
明日帰ると言われ、カティンカは瞠目した。
「コンは三年もそっちおったやん!」
だから、一年ぐらい、最低でも一ヶ月はいるのだとばかり思っていた。弟と彼では立場も経緯も異なると知りながら、明確に予定を聞いていなかった。
カティンカの抗議に、騎士団の訓練と警護の合間に時間をとれたのがこれだけだったのだと事情を伝えた。騎士団に入団して一年足らずの騎士にしては破格の長期休暇だったのだ。
唐突に別れを知らされ、カティンカは愕然とする。
状況に感情が追いつかない。夕暮れが迫る頃、王宮に帰り自身の部屋に戻ると、部屋に不似合いな剣が出迎えた。剣の前に立ち、見下ろしても涙も出なかった。
鞘に納まった剣を、カティンカはしばらく見つめるのだった。
翌日、謁見の間で国王ケヴィンへ滞在の礼を述べるクラウスの姿があった。
その姿は、来たときと同じ騎士の正装だった。一つ違う点があるとすると、腰に剣を下げていないことだ。剣はカティンカの手元にある。
滞りなく謁見の間での挨拶が終わり、カティンカは剣を持ったままクラウスと連れだって正面玄関まで向かう。
正面玄関に着くまでの間、この剣を返さなければ彼は帰らないのではないか、と子供じみた考えが浮かんだ。また、彼が帰るにしてもこの剣だけは持っていたい気持ちもあった。だが、騎士の命と預かったものだ。返さなければいけない。クラウスの大事なものなのだから。
そんな葛藤をしているうちに、正面玄関に着く。少し先にはすでに従者や馬が待ち構えていた。
クラウスは踵を返し、カティンカと向き合う。
「カティ」
剣を乞われていると判り、カティンカは少しの逡巡のあと、剣を前に差し出した。その拗ねたような表情に、クラウスはふっと笑う。
クラウスは、彼女の前で片膝を突き、剣を受け取った。
受け取るだけだというのに、仰々しい所作をとられ、カティンカは動揺する。剣を受け取ったあと、クラウスは彼女の手を取り、その瞳を見つめる。
「来年、また来る。そのとき、求婚するから考えておいてくれ」
宣告の直後、カティンカの手の甲に一瞬だけクラウスの唇が触れた。
大した衝撃ではないはずなのに、カティンカは雷に撃たれたような錯覚を覚え、顔を朱に染める。
「なっ、な……っ」
「返事はどっちでもいいぞ」
そうクラウスは笑う。婚姻しようとどちらでもいい関係なら、断られたとしてもまた求婚すればいい。次に会う口実ができるだけのことだ。
「なんやの、アレー!!」
カティンカが絶叫したのは、クラウスの乗った馬が随分遠ざかってからだった。
「嫁の貰い手おってよかったな、カティ姉」
「よくないっ、ウチが売れ残るん前提やないの!」
姉の激怒ポイントがそこなのか、とコンスタンティンは呆れた。傍らで見ていたコンスタンティンからすると、あの発言は、彼を自惚れさせる反応を示したカティンカに原因があると思う。
「ウチが大人しゅう待っとるタマかいな。コン!」
「何や?」
「勉強教えてっ」
ついでに、アーベントロートのマナー講師も付けてほしいとカティンカは弟にせがむ。
「ワシ、容赦せんで」
「臨むところや! 見とれよ、クラウス。来る前に、こっちから行ったるわっ」
勝負魂に火が点いたことで、カティンカの覚悟が決まったらしい。これだけ闘志に燃えていれば、これまで教養を重視していなかったツケも挽回できることだろう。
しかし、それよりも色気を身に着けた方がいいのではないか、とコンスタンティンは姉の一番の課題に気付く。
姉が向こうに行ったとき、喧嘩腰で求婚しないか、心配になるコンスタンティンだった。








