side15.いろは楓
最後に、紅を差して完成する母の顔を見上げていると、その顔がこちらに振り向いた。
「どや、母ちゃん綺麗やろ?」
「うんっ、オカン、美人に化けおった」
誇らしげな母に同意を求められ、少年は眼を輝かせて首肯した。素顔だと素朴で強気な表情が少しばかり浮くが、今は同じ表情をしても嵌っていて迫力のある美人になっていた。
「化けるとはなんや!」
「やって、化粧する前と全然違うやんっ」
首に腕を回され、母に締め上げるフリをされて少年は降参する体を示しながらも、正直に事実を申告した。素顔の母の顔も好きな少年からすると、踊り子として絢爛な衣装を纏い、その装いに合う色香漂う化粧を顔に載せる母は、騎士が鎧を装備する様子に似ていた。
「そうゆうんは思っても言わんようにせんと、女にモテへんで」
「化粧せんでもオカン、綺麗やもん」
「それは言ってよし。言ってええことと悪いことの匙加減覚えたら、コンはいい男になるでー」
どうせなるならいい男に育て、と母は言う。少年にはいい男になるとどう得なのかは判らなかったが、金勘定のしっかりした母の言葉は信用でき、価値のあることだと理解した。ならば、目指しておいて損はないとコンと呼ばれた少年は判断する。
支度が整ったことを確認した母は、宴の席へと出てゆく。その背中を出入り口の幕に隠れて見送る。少年はまだ宴の席に出席できる歳ではないからだ。
遠目にも客に披露する母の踊りは眼を奪われるほどに素晴らしいものだった。誰もが踊る母に魅入り、指先の動き一つ見逃すまいとするのを、少年は誇らしく感じた。
客人をもてなすときだけに披露される母の踊りの価値は高い。なにせ、この国の王妃自ら舞うのだから。といっても、正妃ではなく側妃の一人だが。
国王を見遣ると、満足そうに笑みを刷いて踊る妻を眺めていた。傍らで客人が自分の妻に見惚れているのも構わない様子で。彼は、手に入れたものを披露するのが好きな男だった。きっと客人が望めば、母に酒の酌をやらせるぐらいはするだろうと少年は知っている。
気ぃが知れんわ……
一応父にあたる国王の様子に、少年は理解ができないと感じる。
元々、母は渡りの一座の踊り子だった。その彼女に惚れ込んだ国王が、口説いて側妃にした。だが、愛情だけで成立した結婚ではない。母は踊り子を引退する年齢が近付いており、安定した生活をできると踏んで側妃に甘んじた。国王も愛情はあるだろうが、今のように、元踊り子の妻に客人を接待させるという利用価値を迷わず使う冷静さもある。お互いの利害関係が成立した婚姻だった。
母の強かさは尊敬している。女性がいかに強く逞しいかを教えてくれたのは母だった。
けれど、少年には複数の妻を愛することができる国王の心情が不可解でしかなかった。母は強く美人でいい女だと思うが、男の趣味は悪い、と少年は思う。母にはもっと良い男がいたはずだと少年は感じているが、自分が生まれる前の話だからもう後の祭りだろう。
弦楽器の奏でる音が宴の間に響き渡るなか、ガチャン、と別の高音が少年の耳に届く。その音は廊下の方からで、出入り口にいた少年には聴こえていたが、宴の間の中までは届いていないようで音楽と歓談する声が途切れずに場を満たしていた。
音の原因を探るため、少年が音のした方に向かうと、廊下を曲がった角に青磁器の破片が散らばっていた。
「アホっ、触んな!」
眼に飛び込んだ光景に、少年はすかさず声を上げた。制止の声に驚いてか、声をかけられた相手は伸ばしかけた手を止めた。
相手は、少年よりいくらか歳上の男だった。床に散らばった青磁器の破片を集めようとした体勢のまま、固まって少年を見上げる。制止がかかったせいで、次の動作をどうすればいいのか判らないようだった。
「せやけど……」
「割れたんに触って、それ以上怪我されたら迷惑や!」
「怪我……? って、いったぁ!?」
青磁の陶器を割ってしまったことに気を取られていた男は、頬のぬるりとした感触に気付く。それが血だと理解し、怪我を自覚した途端、痛みに叫んだ。少年は、腰に巻いていた布を割いて、飛んだ破片で切ったであろう男の片目に当てる。
その躊躇のない行動に、男は無事な方の眼を見開く。
「そない高そうな布……っ」
「ごたごた抜かすな。黙って自分で押さええ!」
「俺……、死ぬん?」
「阿呆、ちょっと多く血ぃ出たからってビビるんやない。そんだけ喚けとるなら、平気や」
男は思った以上に出る血に怯え、そんな彼より歳下の少年は傷口に当てた布がずれないよう、残った布を彼の頭に巻き、固定する。自分よりずっと冷静な少年に叱られ、男の動揺は落ち着き始めた。そして、別の恐怖がもたげる。
「医者呼んでくるから動くんやないで」
「待ってぇなっ、コレ割ったんバレたら怒られる!」
弁償できない、と泣き喚く男に、少年は苛立つ。今の優先順位は、すでに割れてしまった調度品じゃない。
今日の歓待の宴のために、調度品の入れ替えを行ったのは少年も知っている。国王は、もてなす客に合わせて、飾るものや食事や酒に至るまで変える。調度品を総入れ替えするなど、よくあることだった。彼もその入れ替えを指示された下男の一人なのだろう。
青磁の陶器は高価で、弁償となったら彼の給料何年分になるか判らないことだろう。丁重に扱うよう注意されたそれを割ってしまったことで、彼が叱られる可能性も大いにある。
だが、少年には怪我人が興奮状態で余計な血を流すことの方が問題であり、男の心配は実にどうでもいいことだったため、堪忍袋の緒が切れた。
「やったら、ワシが割ったことにしたるから、大人しくしとれっ!!」
「そんなん怒られるヤツ変わるだけやん!」
「王子のワシに文句言えんから、黙ってじっとせぇ!」
「へいっ」
一喝され、男はその場に正座して待機する。少年が手当を呼びに去ってしばらくして、ようやく彼は言われた内容を理解する。
「王子ぃ!?」
理解した男は、なんて人物に罪を被らせたのかと狼狽えた。そして、挙動不審な動きをしていたせいで、医者をつれて戻った少年にじっとしていなかったことを叱られるのだった。
その後、下男の男に命の恩人と勘違いされた少年は、彼に懐かれ付きまとわれることになる。母に異性にモテるようには推奨されたが、同性にはモテたくはない、と少年は実体験で学んだ。
ふと懐かしい出来事を思い出し、窓を見ると緑の庭が広がっていた。
見慣れた青とは違う色が思い出と被ることはなく、自然と現実に意識が引き戻される。実家の部屋からは青い海が広がっていた。ここは故郷のシュテルネンゼーではない。
「……ティモの奴、ちゃんとやっとるんか」
「若、どうしやした」
「いや、前はティモと来たさかい、気になっただけや」
「あいつは馬鹿やけど、実直な奴ですから大丈夫ですよ」
ぽつりと呟いたことを拾われ、故郷に置いてきた自身の従者の様子をそのまま訊ねると、浅黒い肌の男から問題ないとの見解が返る。
あまりにも付きまとわれるので自身の従者にしたティモという男は、現在、国の道路補整の現場監督をさせている。アーベントロート国で学んだ土木工事の知識を活かして、物流の円滑化に従事するよう、命を下した。
命を下した当の本人、シュテルネンゼー国の第五王子、コンスタンティン・フランク・フォン・デーアは今、隣国のアーベントロートに留学している。故郷の訛りでしか話せないティモの代わりに追従してきたのは、国王の右腕とも言われる男だ。
父の右腕、ローマン・ゴスリヒは浅黒い肌をしているため、付いた筋肉の陰影がくっきりとして屈強さが増す外見をしていた。海賊あがりの王族が治めるシュゲルネンゼー国は、来るもの拒まずの風潮のため、様々な人種の者がいる。故郷では珍しくない肌の色だが、留学しているアーベントロート国では珍しいようだ。だから、護衛として追従してきたが、学園の生徒を怯えさせないため、送迎だけ頼み校内にまで付き合わせないようにしている。
「ほんま何でついて来たんや、ローマン」
「盃を交わすためにこちらさんの懐に入るなら、付き人は最低限やないとあかんでしょう」
「わぁっとる……」
父が彼を寄越したのと同じ理由を述べられ、コンスタンティンは納得するしかない。国同士の同盟を結ぶための交流の一環で留学しているのだ。仰々しい数の護衛をつれてくる訳にはいかない。国王の右腕と呼ばれるだけの力量を持ったローマンであれば、一人でも問題はない。だが、釈然としないのもまた事実だ。
「けど、お前、顔怖いねん」
「ウチでは温厚な面の方です」
気難しさが顔立ちに表れているローマンは、肌の色もあって迫力がある。しかも、学園の生徒がつれる護衛はほとんどが歳の近い者たちだ。三十路に近いローマンはかなり浮いており、生徒は怯え、遠退く。
コンスタンティンが彼を校内でつれ歩かないのはそれも理由だった。
「……ウチ、堅気らしい奴少ないからなぁ」
自分はマシな方だと主張されれば、同意するしかなく、コンスタンティンは嘆息する。
寛容な国柄は、国民の服装にも表れており、シュテルネンゼーでは身分や立場で推奨される素材や色はあるが、その最低限を守れていれば自由に着飾ってよいのだ。派手好きな者が多いので、髪を染めたり、髪型を他と被らないように個性的なものにしたりする。
そんなシュテルネンゼーの中で、髪を短く刈り染めもせず、装飾品も最低限だったローマンは面白みがないと揶揄されるほどだ。こちらに来てからは、父から直接下賜された腕輪以外の装飾品は身に着けていない。
そんなローマンも、制服を着崩す者すら少数派のアーベントロートでは浮くのだ。服装に関する国民性の差なので仕方がないとコンスタンティンは解っている。だから、彼は制服を規定通りに身に着けて、他の生徒と変わらない姿で溶け込んでいる。
「まぁ、お前がおらんかったら、ワシの愛嬌でどうとでもなるからええわ」
兄弟には髪を染めすらしないことを馬鹿にされることもあるが、コンスタンティンは自分の容姿を弄る必要性を感じていなかった。現に、同じように制服を着れば生徒たちは他国の者の自分にも警戒心を解く。周囲に馴染みやすい外見はコンスタンティンにとって、とても便利なものだった。
口角を上げる主を見て、ローマンは一応の忠告をする。彼が自室以外で晒すヘマをしないと知っているが念のためだ。
「若、悪い顔になってます」
「まだ若ちゃう」
忠告されたコンスタンティンは、呼称の方に引っかかりを覚え、わずかに表情を歪めた。シュテルネンゼーで若、と敬称を付けられるのは、王太子、次期王位継承者だけだ。自分は複数いる王子の一人でしかない。
主の答えに、ローマンはふっと可笑しげに笑みを零す。
「なんやねん?」
「いや、やっとまだ、になったんやなぁと思いまして」
「……ワシをそう呼ぶんは、ローマンぐらいや」
長子である第一王子を周囲が若、と呼ぶなか、ローマンだけは昔からコンスタンティンをそう呼んでいた。そのたびに、違うとコンスタンティンは否定していた。そのやり取りが当たり前だった。
まだ、と返せるようになったのは、つい最近のこと。
「なんで、エンゲルの兄貴をそう呼ばんかってん」
国を離れた今だから訊ける質問を投げかけると、ローマンは事もなげに答えた。
「エンゲル坊ちゃんも、ディーター坊ちゃんも、陛下と違って阿呆ですから」
第一王子も第二王子も、自分が仕えるに値しない、とローマンは断じた。彼らは血の気だけが多く、父から豪胆さだけを継いだ。
長年傍らに仕えているローマンは、国王がどれだけの狡猾さをもって国を御しているか見てきた。時には非情にも見えるその賢さを一番色濃く受け継いだのはコンスタンティンであり、その賢さが現在国を治め、発展させるために必要だと理解していた。
「それに、若ならいい姐さんを選べるでしょう」
「兄貴ら、女にだらしないからな……」
歳の離れた兄たちを思い出し、コンスタンティンはげんなりする。第一王子も第二王子も女好きで、女性にいいように操られやすい。実際、金目当てのカモにされているのを見かけたことがある。父が眼を瞑れる程度だが、コンスタンティンとしては今後予定している施策のために、財政の見直しをしたい頃合いだ。
一方踊り子だった母に育てられたコンスタンティンは、女性を嘗めることがないため、そういった点で騙されることはない。幼い頃にそんなところを見定められていたとは思いもよらなかったが、ローマンが自分に一目を置く理由にコンスタンティンは納得した。長年の疑問が解けて、すっきりする。
「ワシの嫁さんなぁ……」
ローマンの言及を受け、父の跡を継ぐのであれば必須の検討事項に思い至る。国政を整えることを優先していたので、失念していた。年齢的にもそろそろ考えなければならない。
今、同世代の者と多く交流できる魔導学園に身を置いているのは、絶好の機会だろう。
「網にかかったら、甘い夢見させたるかな」
「それやったら、若の気が休まらんでしょう」
「ええ。ワシの素は女受け悪いんや」
世の中には知らないままでいた方がいいことがある、と言う主に、ローマンは不服を示す。コンスタンティンは財政を圧迫しない程度の贅沢で満足できる伴侶でさえあればいいと思っているようだが、ローマンはもっと基準が高くてよいと感じている。
元々王位継承の対象外だった第五王子のコンスタンティンに味方は少ない。民衆の支持を多く集めてはいるが、王宮では第一王子派など反感を抱く者も少なくない。そんな中で更に守る対象を増やしてはコンスタンティンが疲弊してしまう。未来の王の伴侶は、彼を支えるだけの度量の持ち主の必要がある。
ローマンは、そう望むのが高望みだとは思わない。
「そろそろ行くわ」
「ご学友と約束ですか?」
今日は授業のない休日だ。だから、友人と会う約束があるのか、とローマンが訊くと、コンスタンティンは苦虫を噛み潰したように表情を歪める。そして、何も言うことなく静かに自室を出ていった。
主の珍しい反応に、ローマンは友人らしいと察する。しかも、コンスタンティンが猫を被らなくてよい相手のようだ。
「ダチがおるようやったら、大丈夫やろ」
まだ若い主は大海に出たばかりだ。彼の知らない世界に、きっと彼が望む以上の女性がいる、とローマンは確信している。
それだけ世界は広いのだ。
ローマンはそのうち来るであろう吉報を期待しているのだった。
「気になる方がいるんです」
そうぽつりと呟いたのは思いもよらない人物だった。そのため、リュディアはティーカップを持ち上げる手が途中で止まった。お茶会に同席していたシュテファーニエは眼を見開き、ザスキアは染まった頬に両手を当てた。
「トルデ様、それはまさか殿方ですの……!?」
「はい」
トルデリーゼの肯定を聞き、リュディアは青褪める。自分の与り知らぬところで友人に想い人ができていたとは。トルデリーゼはリュディアの最初の友人で一番付き合いが長いこともあり、気付けなかったことがショックだった。
「といっても、皆さんが思うのとは違う意味です」
リュディアとザスキアの顔色を見て、勘違いをさせたと気付いたトルデリーゼは恋愛的な意味ではないと伝える。そのおかげで、リュディアの顔色は随分落ち着いた。ザスキアは少し残念そうだった。
「誰が気になるんですか?」
「同じクラスのコンスタンティン殿下です」
シュテファーニエの問いに、トルデリーゼはさらりと答える。恥じらう様子が微塵もないので、本当に恋愛対象として意識しているのではないと判った。
「スタンさんは身分のわけ隔てなく優しい方ですよね」
トルデリーゼ同様、彼と同じクラスのザスキアは人柄を思い出し微笑む。
リュディアとシュテファーニエは隣のクラスだが、隣国の王子なこともあって話題になりやすく、二人もおおよその人柄は知っていた。ザスキアの評価の通りの人物だった。
学園の方針が貴賤にわけ隔てないといっても、皆身分を意識するだろうと、コンスタンティンの方から気安く呼ぶように言ったのだ。それを最初に言った相手が、この国の第一王子のロイだったので、学園内ならばと生徒たちの気が緩みやすくなった。リーダシップをとって尊敬を集めるロイとは違い、率先して色んな人に話しかけることで和睦を成す親しみやすい王子だ。
「よい方なんですが……、なんだか気になるんです」
トルデリーゼはどう言葉にしていいか判らず、気になっている事実だけを説明する。
そう、ザスキアの言う通りの善人なのだ。疑ってかかる必要のない人間のはずなのに、トルデリーゼは言いようのない違和感を感じる。それはほんの些細なものだが、それが気になってつい彼を眼で追ってしまうことが増えた。
「害意がなさすぎる、というか……」
一番近い表現をトルデリーゼは探りながら呟く。
侯爵令嬢のトルデリーゼは、騎士団副団長の父を持ち、一学歳上に卒業後は騎士団入団予定の兄もいるので男性の荒っぽさをよく知っている。父の部下や兄の友人など、無骨な男性を見すぎて男性と接するのを敬遠しがちになっている。
彼女は男嫌いというよりは、男性に夢を見ていなかった。
娘を大事に想う父に、男は狼だと言い聞かせられて育ち、周囲の男性がよい見本だったのでその意味を正しく理解して現在に至る。だから、年頃の男性にもかかわらず野心や下心を感じられないコンスタンティンが不思議だった。
「ほら、素敵なロイ殿下も、穏やかなイザークさんも好きな方には下心があるでしょう」
トルデリーゼの例示に、シュテファーニエとリュディアは飲んでいたお茶を喉に詰まらせかける。視線でザスキアに彼女の婚約者もだろう、と同意を求めたら顔を真っ赤にして俯いてしまった。言葉での回答を得られなかったが、友人らの反応でトルデリーゼは肯定と判断する。
王立魔導学園の二年生になった彼女らの中で、婚約者がいないのはトルデリーゼだけだ。彼女に未だ婚約者がいないのは父の提示している条件が問題だ。
自分を倒せるほどに強い者でないと認めない、と父が言った。
騎士団副団長に勝てる若者など限られている。一人可能性のある者がいるが、騎士団長の息子であるシュターデン侯爵家の令息には、すでに婚約者がいる。もっとも兄の類友である彼は、トルデリーゼとしても遠慮したい。ともあれ、現時点で彼女の父に勝ってまで、彼女との婚姻を望む者はいないのだ。
トルデリーゼ自身も男性に憧れ以上の感情を抱いたことはない。だからこそ冷静に相手を見ることができ、コンスタンティンに違和感を覚えるに至った。彼には異性に持つべき警戒心を抱きにくい。彼が男女ともに受け入れられやすいのは、そのためだ。意図的にそうしているかは判らないが、トルデリーゼはそこが奇怪しいと感じる。
「同じ歳なのに清廉な瞳をされているので、妙に気になるのです」
コンスタンティンに無垢さや幼さは感じない。少し話せば解るが、彼は理知的で王族なこともあってか大人びている方だ。頭のよい彼から善良さしか窺えないのは、どういう訳だろう。
彼は、これまでトルデリーゼの周囲にいなかったタイプの男性だ。
考えに耽りつつ真面目に話す友人の様子に、動揺して狼狽えている場合ではないとリュディアはどうにか平静を取り戻す。こほん、と小さく咳払いをして切り出す。
「トルデ様がそこまで気になさるのであれば、コンスタンティン様と話してみてはいかがです?」
「そうですっ、同じクラスですし、話す機会もたくさんありますよ」
「話してみれば、スタンさんを不思議に感じている理由も分かるかもしれませんね」
トルデリーゼが異性を気にすることが珍しいので、追及してみればどうかとリュディアたちは提案する。
パーティーの場ならともかく、現在は同じ生徒として学び舎にいる身だ。身分や性別を気にせず、気軽に話しかけられる。コンスタンティン自身がそういう空気を作り出している一因なので、トルデリーゼが話しかけても問題はない。
「そう、ですね」
まずはそこからだ、とトルデリーゼは納得し、友人らの提案を聞き入れた。週末のお茶会はそれでお開きとなり、休日を迎えることとなる。
トルデリーゼは休日が明けたら、自分からコンスタンティンに話しかけてみようと決意した。
休日となり、トルデリーゼは昼下がりに散歩へ出かける。
紅葉の時期となり、雑木林が見頃だとリュディアから聞いたからだ。彼女の情報源は婚約者のイザークだろう。彼は一風変わっていて、侯爵令息だが学園の庭師の手伝いをしている。元は平民で、侯爵家の養子となったのが今年に入ってからのことだから、彼にとっては変でもなんでもないのだろう。
面白いものってなんでしょうね。
教えられたときにイザークと一緒に見たのだろう、友人のリュディアが楽しそうに話していた理由が何なのか気になり、トルデリーゼは期待に胸を高鳴らせ校庭の一角へ向かう。
しばらく歩を進めると、ブーツを履いた足音がさくさく、と軽やかなものへと変わっていく。雑木林の辺りはあえて落ち葉を掃いていないのだろう。石畳で舗装された道とは違う足元の感触と音が少しばかり楽しい。
そこはすでに赤と黄色の世界だった。ぐるりと見回してみても、緑が残っている箇所は見当たらない。トルデリーゼが足を止めると、穏やかな陽射しと風が場を占め、かさりと葉擦れの音が囁き、遠くに鳥の囀りが聴こえた。
「綺麗……」
静かすぎず騒がしすぎない心地よい空間に心が安らぎ、眼に映る光景をただ愛しむ。赤も黄色もドレスだと明るい色だというのに、紅葉で見ると何故こうも落ち着いた色に感じるのか、トルデリーゼは今さらながら不思議に思う。
さすがに休日に校庭にまで出向く者はいないのか、雑木林にはトルデリーゼだけだった。虫が苦手な令嬢は多いので、木が多いこの場所は逢瀬にもあまり向かないことだろう。トルデリーゼは、兄が幼い頃虫採りが好きでよく自慢されていたため、見慣れている。
トルデリーゼには、今この光景を独り占めできている状況がとても贅沢なものに感ぜられた。
不意に強めの風が通り抜ける。
思わず眼を瞑ったトルデリーゼは、風が過ぎ去ったのを肌で確認して、そっと瞼を開いた。
「わぁ……っ」
思わず感嘆が零れる。視界にくるくると回る翅が舞っていた。
よくよく見ると、虫の翅のようなそれは何かの植物の種子だった。種の重みでただ落ちるのではなく、そこから伸びた翅のような部分で風を受けくるくると回ってゆっくりと下りてくる。
落ち葉のうえに着地したひとつを拾い上げ、胸の高さにまでやってからトルデリーゼは摘まんでいた指をぱっと放す。
翅を持つ種子は、またくるくると回りながら落ち葉へ下りてゆく。
「ふふっ、確かに面白いです」
友人のリュディアの言っていた面白いものの正体を知り、トルデリーゼは小さく笑った。一人でくるのもいいが、友人たちとまた来よう。友人たちとはしゃぎながらこの光景を見るのも、きっと楽しい。
雑木林に佇んで眺めていると、トルデリーゼの耳に聞き慣れない音が届いた。みーという動物の鳴き声のようだ。
トルデリーゼは耳を澄まして、その鳴き声の元を探り、声が聴こえる方へゆっくりと足を運んだ。ある樹の前まできて、鳴き声が頭上からしていることに気付く。
見上げると小さな毛玉が、伸びる枝のうえで張り付いて震えていた。
「どうして猫が……!?」
高い枝のうえで震えていたのは仔猫だった。
アーベントロートには野良猫や野良犬の類いはいない。飼育するにも申請と国の許可がいるため、増えすぎないよう繁殖が管理されている。学園が鼠捕りのために猫を飼育している可能性もあるが、仔猫をあんな場所に放置するはずもない。
あり得ない場所で仔猫を目撃して、トルデリーゼは動揺した。しかし、その間も自身で下りられない高さなのだろう、仔猫は助けを求めるように何度も鳴く。
鳴き声が悲痛に聴こえて堪らなくなったトルデリーゼは、高さを確認して、覚悟を決める。
「よし」
高さと枝の太さを確認して、大丈夫だと判断したトルデリーゼは適性属性の風魔法を発動させる。集中して、慎重に魔力を操作し発動させたそれは、浮遊の魔法だった。
ほとんどの風魔法は空気の流れを操作するが、浮遊魔法は周囲に影響を及ぼさず対象だけに干渉するため風魔法でも上級かつ魔力量の消費が多い。人間一人を浮かせるとなると、物を運ぶ訳ではないのでバランスに細心の注意を払わねばならず、かなり難易度が高いのだ。
仔猫を怯えさせてもいけないので、ゆっくりと浮遊して、トルデリーゼは仔猫と同じ枝に辿り着く。浮遊魔法を解除して、自身の重さでも枝がしならないことを確認し、ほっと安堵の吐息を吐いた。
「一緒に下りませんか?」
そっと手を伸ばし、仔猫の少し前で止めた。仔猫の方から自分にくるまで、じっと待つ。
猫は警戒心が強いと友人のリュディアから聞いた。彼女の母方の邸に猫がいるが、気を許してもらうまで何度も通ったそうだ。人見知りが激しい性格だったようで、こちらから近寄ると逃げるため、どんなに構いたくても相手がこちらにくるまでは我慢して待ったと言っていた。話を聞いたときは、我慢する友人の様子が容易に想像ができてしまい、随分微笑ましく感じたものだ。
人伝に猫への対応の仕方を聞いていたトルデリーゼは、初対面の自分が無理に迫ってはいけないと理解していた。緊張しながらも、安心させるように微笑んで、仔猫の出方を待つ。
仔猫はじっとトルデリーゼの手を見つめ、しばらくして恐る恐るその手に近付き、頬をすり、と寄せた。
その瞬間、トルデリーゼに言葉に言い表せない感動が去来するが、仔猫を怯えさせないよう努めて平静を装う。
掌を上に向けると、おずおずとだが、仔猫は彼女の手に乗った。片手から少し溢れる程度の大きさの仔猫を両手で支え、トルデリーゼは大切に胸に抱く。
抱いても抵抗する様子なく身を預けてくれることに、安堵した。ここで仔猫に嫌がられて抵抗されては、自分も樹から落ちかねない。
「何で、コイツも誘ったんだよ」
下りようかと思ったとき、下から声が聴こえた。不機嫌そうなその声に聞き覚えがあり、トルデリーゼが見下ろすと、柔らかい髪をした長身の男がいた。
ニコちゃん様?
見知った人物の姿にトルデリーゼは首を傾げる。姿も声も知っている彼のものだが、口調がいつもの女性的な話し方ではない。
そもそも彼は昨年度に学園を卒業しているので、本来ここにはいないはずの人間だ。かといって、卒業生が学園を訪ねてはいけない訳ではないので、休日に友人に会いに来たのだろう。トルデリーゼは、それほどに彼と親しい人物に心当たりがあった。
ニコラウスと一緒にいる彼より背の高い青年と、彼より歳下であろう薄茶の髪の青年、そのどちらもトルデリーゼは見知っていた。
「それはこっちのセリフじゃ、ボケ」
「だって、近所にプロペラの木なかったから、フランクも見たいかなって。ニコん家の庭にもないだろ」
「木の名前なんて把握しちゃいねぇけど、それ、ザクの付けた渾名だろ」
「あ、うん。ほんとはいろは楓って木」
「いちいちつっこんでられんわ。で、その木がなんやねん」
「ほら」
一番長身の青年が、先ほどのトルデリーゼのように落ち葉から翅付きの種を拾って、持ち上げてから手を放した。もちろんくるくると回って、種は着地する。
「この種、プロペラみたいで面白いだろ」
にかっと少年のように笑う彼が最年長だと、トルデリーゼは知っている。植物のことになると無邪気さが増すとリュディアから聞いてはいたが、他男性二名が脱力するほどとは。
げんなりとしながら、薄茶の髪の青年が頭痛を感じているかのように額に手を当てた。
「……まさか、こんだけのために呼び出したんか」
「うん」
「いい歳した野郎が集まって、こないガキみたいなことして楽しい訳ないやろ!」
「こんなにプロペラの木生えてんの、結構珍しいぞ」
「それ分かんの、庭バカのお前だけだ。ザク」
「ディアは面白がってくれたし、フローラも見たら喜ぶと思うけど……」
「お前のなかで、フローラ嬢何歳だよ」
十一歳と正確な年齢の回答を聞いて、ニコラウスは友人の感覚に呆れた。トルデリーゼも、リュディアの五つ下の妹のフローラを知っている。彼女に天真爛漫なところがあるとはいえ、彼は子供扱いすぎるように感じた。内心でニコラウスに同意する。
「えー、駄目かぁ」
「付き合っとれんわっ」
「ザク、こんなヤツ放っといて行こうぜ」
しっしっ、と手で追い払う仕草をする薄茶の髪の青年に対して、ニコラウスは突き放した態度を取り、最年長の青年はまた面白いものを見つけたら教えると言って、ニコラウスにつれられていった。
一連を眼にしたトルデリーゼは、彼ら三人が仲が良いのか悪いのかよく判らなかった。
ニコラウスたちの姿が見えなくなってから、薄茶の髪の青年はすぐに立ち去らず、一度屈んだ。そして、拾い上げたそれを自身の頭より上に掲げる。
「まぁ……、シュテルネンゼーにはないわな」
掲げたそれを手放すのと、橙の瞳と満礬柘榴石の瞳がかち合うのはほぼ同時だった。見つかったトルデリーゼは硬直する。
翅付きの種がくるくると着地するまでの間、沈黙は続いた。
どうしたらよいか判らず硬直するトルデリーゼと違い、事態を理解した薄茶の髪の青年は眼を据わらせ、親指を立てた手を下に向けた。令嬢のトルデリーゼが見たことのない仕草だったが、下りてくるよう指示されているのは明白だ。
相手の意図は解るが、トルデリーゼにはその指示に従えない理由があった。
「…………魔力が足りなくて、下りられません」
すみません、とトルデリーゼは謝罪する。魔力が完全に枯渇した訳ではないが、今いる枝の高さから地面までの距離を考えると魔力が足りない。少し休んで魔力が回復してからなら可能だが、すぐに下りることは無理だった。
「空になった訳やないんやな?」
「はい」
「やったら、着地のときだけ浮遊魔法使いい」
「そんな上手くできるか……」
「簡単や。下りる前やなく、下りた後に発動させればええ。失敗しても、支えたる」
「でも……」
「アンタにできんことは言っとらん」
トルデリーゼの魔力操作の精度を知ったうえで断言している、と彼は言った。可能だと確信をもった眼差しを受け、トルデリーゼは覚悟を決める。
仔猫を抱きかかえ、なるべく下を見ないように枝から一歩踏み出す。そして、落下を感じた瞬間に浮遊魔法を発動させた。落下の感覚が怖くて、思わず眼を瞑る。
ふわり、と身体が浮く感覚のあと、温かい確かな感触が背中と膝裏にやってくる。その感触に瞼を持ち上げると、自分が横抱きされる形で受け止められていると判った。受け止められたことに安心したトルデリーゼが浮遊魔法を解除すると、それに合わせて立てるように彼が降ろしてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「口止めは後回しにして、令嬢のアンタがなんであんなことしとったんや?」
口止めとは一体何をされるのだろうと一瞬恐怖したが、先に原因を訊かれて、トルデリーゼは腕の中の仔猫を見せる。
「この仔猫が下りられなくなっていたんです」
「それ、魔物やで」
「え」
一瞥しただけで仔猫ではない、と返され、トルデリーゼは眼が点になる。彼はあっさりとした様子で述べたが、魔物とは場合によっては軍や騎士団で討伐が必要となるあの魔物だろうか。
「ほれ、羽生えかけとるやろ。フレーダーティガっちゅー、肉食の魔物や。虎並にでかなんで」
トルデリーゼには猫にしか見えない動物の背中を指して、そこにある二つの突起が羽が生える部分だと教えられた。
飛翔が可能な魔物なので、恐らく空の散歩中だった親の背中から落ちて、この樹に着地したのだろうとのことだった。学園の敷地の周囲には魔物除けの結界を張っているが、さすがに常駐型の結界を空中まで張ることはできない。学園付近まで飛翔型の魔物が飛んでくることが稀なのも理由だ。
「親御さんとはぐれてしまったのなら、帰してあげないと……っ」
「人間の匂い付いてもうたから、戻しても最悪噛み殺されんで」
野生に帰すことは難しいと、容赦なく言われ、トルデリーゼは青褪める。
「じゃあ、飼えるように申請して……」
「隷従の契約をしても、フレーダーティガは魔力の劣る者には従わん。でかなったら、アンタの魔力量じゃ御せんくなるで」
「なら、どうしたら……」
「助けんかったらよかってん」
無慈悲な言葉がトルデリーゼに降る。思いがけない言葉に、彼女は固まった。
「手前でやらんと、なんですぐ人呼ばんかったんや。考えが甘いねん」
目の前の彼は、本気で怒っていた。仔猫があり得ない場所にいる時点で、奇怪しいと思えと指摘される。自身の行動が軽率だったと叱られ、反論できず、羞恥か悔しさか判らない感情がこみ上げる。
「どうしてそんな酷いこと……っ」
「酷いんはどっちや。ソイツが親んとこに戻れんくなったんは、アンタのせいやぞ」
そこを突かれては言い返しようもなく、トルデリーゼはぐっと黙り込む。自身の軽率さを知って、口惜しさに涙が滲みそうになったが、被害者面をしていると思われたくなくて堪えた。
指摘しきった彼は、黙り込んでしまったトルデリーゼと彼女の腕のなかにいる魔物を見比べ、嘆息一つ落とす。
「口止め料や。ワシが飼う」
「……え」
とん、と人差し指で魔物の額を突くと、魔法陣が指先から広がり、そして魔物の額へと吸い込まれていった。一瞬で済んだ隷従の契約に、トルデリーゼの理解が追い付かない。
トルデリーゼが状況を理解するよりも早く、彼は魔物の首根っこを掴んで持ち上げ、自身の肩に載せてしまう。
「ローマンの頭にこの毛玉載せとったら、いくらかマシになるやろ」
呟かれた魔物の用途に、トルデリーゼは噛み付く。
「そのコは装飾品じゃありませんっ」
「文句は、ワシより飼える甲斐性つけてから言い」
自分の従魔になった以上どうするかは自分の勝手だ、と宣う彼に、トルデリーゼは身勝手だと怒りを覚えた。
しかし、魔物を飼うとなると魔力のない動物を飼うよりも申請条件が厳しい。猫との区別がつかなかった自分より、魔物の生態を把握している彼の方が適任であることは確かだった。それに、魔力量が足りず制御できない時点で、トルデリーゼにフレーダーティガを飼う資格はない。父が騎士団に所属しているため、制御できない魔物の脅威は充分に理解していた。
言い返せず悔しそうにするトルデリーゼに対して、彼は不敵に口角を上げてみせた。その笑みが、トルデリーゼには勝ち誇ったような意地の悪いものに映った。
「ほな、また学校で」
彼は笑顔で立ち去り、言い負かされたトルデリーゼだけが雑木林に残された。
「……っあんな人だったなんて!!」
あれでは詐欺ではないか、とトルデリーゼは憤慨する。今日出会った薄茶の髪の青年が、これまで接してきたコンスタンティンと同一人物なのか疑わしいほどだ。
彼のせいで、穏やかなはずのトルデリーゼの休日は吹き飛んでしまった。
平日となり、トルデリーゼが通学してみると、柔和な笑みのコンスタンティンが変わらずいた。
少し違った点があるとすると、通学時の送迎をする護衛の頭に仔猫のような魔物が乗っているぐらいだ。どうやらあの呟きは冗談ではなかったらしい。
挨拶をすればいつも通りに返される。そんなコンスタンティンに話しかけるより先に、トルデリーゼにはしなければならないことがあった。休憩時間に隣のクラスを訪ねると、目的の人物がちゃんといた。
「ディア様」
「トルデ様、どうしましたの?」
友人のリュディアに声をかけると、親しみのある微笑みで迎えられた。彼女の許にゆき、教室窓側後方の席を一瞥する。
隣の自分のクラスにまで、卒業したばかりの生徒が短期の実技指導で呼ばれている、と噂になっていた。その実技指導員が、当然のようにこのクラスの一生徒と歓談している。数ヶ月前は、あれが当たり前の光景だった。
「あの、イザークさんとニコちゃん様にお話があるのですが、声をかけてよろしいですか?」
「どうしてわたくしに聞くんです?」
「ディア様の同伴なく婚約者に話しかけるのは風聞よろしくないかと……」
「わたくしは気にしませんが、トルデ様に余計な詮索をされては困りますものね」
友人の確認の理由に、リュディアは得心がいく。トルデリーゼが婚約者と話して嫉妬することではなく、周囲にいらぬ噂の種を与えることを危惧しているのだ。リュディアとしても、友人があらぬ誤解を受けて、今後の彼女の婚約に支障をきたす訳にはいかない。
「それで、わたくしは聞かない方がよろしいんですね」
「はい。お二人に謝りたいことがあるんです」
単身で話しかける必要をリュディアに察せられ、トルデリーゼは苦笑してみせた。追及をしてこないあたり、友人の優しさと自分への信用が感ぜられた。
イザークとニコラウスに声をかけると、席にいるよりは立ち聞きされにくい廊下で話そうということになった。廊下で話せば、人目こそ増えるが聞き耳を立てる者がいれば判りやすい。身丈のある男性二人が並べば自然と目立つし、ニコラウスはたたでさえ華やかな外見をしている。元より目立たない、ということの方が無理な話だった。
「で、トルデ嬢。アタシたちに話って何よ?」
「あの、お二人に謝罪しなければならないことがありまして」
「謝罪?」
謝罪を受ける覚えのないイザークは首を傾げた。ニコラウスも同様に覚えはないが、トルデリーゼの気まずげな様子を見て、何かあるのだろうと察した。
「……先日、コンスタンティン殿下と三人で話されているところを立ち聞きしてしまいました」
「コン……?」
「フランクのことよ」
「ああ、フランクと一緒のトコ見たのか」
コンスタンティンのミドルネームしか記憶していないイザークが、誰か判らずにいるので、ニコラウスが助け船を出した。すみません、と謝るトルデリーゼに、気にしていないとイザークは許容して笑う。
「ニコちゃん様の口調のことは黙っていますので」
「別にどっちでもいいわよ。こっちが演技だし、もう知られても問題ないわ」
ニコラウスの女性的な話し方は、元々力ない子供のときの防衛手段がクセになっているだけだ。現在、彼に手を出す者がいたとしても、性別問わず容易に返り討ちにできるだろう。
特に秘匿せずとも困らないと返され、トルデリーゼはそうですか、と頷くしかできなかった。
「でも、コンスタンティン殿下には口止めされました」
「ああ、アイツは困るでしょうね」
「俺はどっちでもいいと思うけどな」
あの表裏の激しさに寛容な反応を示すイザークが、トルデリーゼには不可解だった。
「イザークさんは、平気なんですか?」
立ち聞きした限りだが、ずれてはいたものの彼の示した厚意にコンスタンティンはよい反応を返していなかった。自分への反応のことを示唆されたと気付いたイザークは可笑しそうに笑う。
「ははっ、俺にまで気ぃ遣わなくていいんだよ」
「腹立つけど、アイツに気遣われた方がキモいわ」
二人ともコンスタンティンが気遣い屋だという見解は一致していた。トルデリーゼは、普段のときはともかく、素の方が気遣い屋だとはとても思えない。腹立たしいことしか言われなかった。
指摘され言い負かされたことを思い出し、トルデリーゼは少々剥れる。彼女の反応を見て、ひと悶着あったらしいとイザークは察する。
「フランクと喧嘩した?」
「私にも非がありましたが、言い負かされました……」
「アイツ、口がよく回るものねぇ」
悔しそうなトルデリーゼに、イザークは苦笑し、言い負かした様子が手に取るように判ったニコラウスは彼女に同情した。
「あいつ、すぐ憎まれ役に回ろうとするからなぁ」
イザークは仕方なさそうに笑みを零す。自分には常に喧嘩を売っているとニコラウスが主張すると、その件に関しては否定できず、イザークはまぁまぁ、と宥めるに留めた。
「女子には優しいヤツだから、たぶんアウグストが気にしないようにしたんだと思う」
憶測でしかないが、イザークの知る彼は素を知られようと女性にわざわざ喧嘩を売ったりはしない。トルデリーゼを怒らせた方がいいと彼が判断したのだとイザークは考える。
何から気を逸らしたのかまでは判らないが、とイザークは彼を擁護する。理由があると言われ、トルデリーゼはどうしてああも容赦のない指摘のされ方だったのかと考える。
あのような言い方をせずとも、理由を聞けばトルデリーゼも彼が魔物を保護することに納得した。もし彼に普段の善性ある態度で説得されたら、自分がどう感じるか考えてみる。きっと、軽率な行動をして魔物を野生に帰せなくしたことに罪悪感を持ち、その責任すら他人任せにしたことで自分を責めただろう。
あえて容赦なく指摘し、魔物を物のように扱って見せて、自身に敵意を向けさせる。そうすることで、トルデリーゼが自身を責めないようにしたとも解釈できた。
庇われたかもしれないことに気付き、トルデリーゼはなんだか悔しくなる。
「フランクは嫌われてもいいと思ってるだろうけど、できればあんま嫌わないでやって」
「はい。彼の思い通りになりたくないので、嫌ってあげません」
トルデリーゼがそう言って神妙に頷くので、イザークは、その調子、と笑った。
授業が始まる時間が近付き、トルデリーゼやニコラウスと別れたイザークは自身の教室に戻る。戻ってきた彼に、リュディアが友人の様子を訊ねた。
「トルデ様、珍しく怒っていらっしゃいましたけど、大丈夫でしたの?」
「ディアの友達は、やっぱいいコだな」
嬉しげに微笑んでイザークが友人を褒める。その理由は判らないが、トルデリーゼの人柄を知っているので、もちろんだとリュディアは肯定するのだった。
昼休憩に入ってすぐ、トルデリーゼからの相談があるという呼び出しに、コンスタンティンは笑顔で応じた。
食事が終わったあと、落ち合う予定の校舎から少し離れた東屋にトルデリーゼが向かうと、相手はすでに中で座って落ち着いていた。
「お待たせしました」
「いや、俺も今きたところだよ。それで、相談って何かな?」
「……ニコちゃん様の気持ちが少し分かりました」
「いきなりムカつく名前出すなや」
素の彼を知っていると、にこやかな状態で接せられることに居心地の悪さを覚える。そのことをトルデリーゼが正直に申告すると、ころりと素に戻られた。眉を顰めざるを得ないことを、耳にしたせいかもしれない。
「んで、何や?」
文句でも申告通りの相談でもなんでも来いと聞く体勢になるコンスタンティンを見て、イザークの言う通り進んで喧嘩腰になるタイプではないのだと知る。
少しの距離を空けて、隣に座り、トルデリーゼは気になっていたことを訊いた。
「あのコ、どうなりましたか?」
「ああ、トラかいな。ローマン、ワシの従者に申請の手配させたよって、寮の部屋で世話しとる。シュテルネンゼーに帰ってからの準備もするよう文も送ったしな」
休日の間に申請書類を各種準備し、留学後の手配まで済ませるとは。彼の頭の回転のよさと機敏さに、トルデリーゼは内心舌を巻く。
「名前付けたんですね」
「こういうんは呼びやすいんが一番や」
虎に似た縞模様があるからトラと、名前の由来は判りやすい。だが、トルデリーゼは名前の付け方にではなく、名前を付けたこと自体に言及したのだ。名前を付けるのは、情をかける行為の一つだ。先日、物のように扱って見せたのは、本当に演技だったらしい。
「ワシに文句言いにきたんかと思ったわ」
「私は、人に八つ当たりする趣味はありませんっ」
見損なわれたくなくてトルデリーゼが反論すると、コンスタンティンは可笑しげにくつくつと喉を鳴らす。
「ほんま賢しい令嬢やで」
感情的になりやすい女性が多いなか、トルデリーゼは論理的に思考するタイプだ。客観的に物事を見るのが得意で、感情に流されにくい。平素のコンスタンティンであっても誘導しづらい相手だった。だから先日も、自分の素の顔に驚いているうちに強めの言葉で流したが、どうやら後で冷静になってしまったらしい。
彼女の騙されにくいという点は、貴族として長所だ。そう、コンスタンティンは評価していた。
「可愛げがないと……?」
嫌味かとトルデリーゼが問うと、コンスタンティンは笑い飛ばした。
「愛嬌と関係あるかいな。賢しない女の方が珍しいわ」
コンスタンティンの見解は、女性を侮っていないそれだった。彼は女性の媚びに潜む打算も見抜いているのだろう。きっと彼はこれまでに女性の綺麗なところも醜いところも、どちらも見てきたに違いない。
彼が女性に対するときに下心らしいものを感じない理由が解った気がした。彼は性別がどちらであっても対等に見ているのだ。彼にとって性別は、性格などの傾向を掴む特徴のひとつでしかないのかもしれない。
異性に幻想を持っていない。トルデリーゼは、そこが自分と似ている気がした。
「充分かわええと思うで。婚約者おらんのが不思議なくらいや」
女性を褒めるのが常となっているコンスタンティンは、他意なく正直な感想を述べた。しかし、普段の柔和な笑みではない状態で称賛されるとは思っていなかったトルデリーゼは驚いた。素の彼からは、嫌味しかでないとばかり思っていた。
思いがけない言葉に、トルデリーゼは動揺する。
にこやかなときの彼からも似たような言葉をもらったことはある。しかし、それは女性にわけ隔てのないもので、励ましの言葉だった。だというのに、口の端を持ち上げて同じことを言われただけで鼓動が早まるのは何故なのか。
「ト、トラちゃんのことが確認できたので、戻ります……っ」
すくっと立ち上がって、トルデリーゼは時間を作ってくれた礼を言う。先に教室に戻ろうと踏み出した背中に声がかかる。
「トラ、アンタのこと気にいっとるみたいやから、今度構ったってぇな」
「……っそ、それは是非」
フレーダーティガの子を釣られて、トルデリーゼは思わず食いついてしまった。あのふわふわの感触が忘れられなかったので、また会わせてくれるなら願ったり叶ったりだ。
立ち去りながら、次を作った彼の真意が掴めないトルデリーゼだった。
それから、フレーダーティガの子の遊び相手として、トルデリーゼはコンスタンティンと二人で会うようになった。
まだ羽が生えていないときはローマンがつれてきていたが、小さいながら羽が生えるようになって以降は自身で空を飛んでくるようになり、コンスタンティンが呼べばどこにいても現れるようになった。
生えた羽は小さく、体重から考えると空を飛べるはずがない。その疑問をトルデリーゼが訊けば、風の魔力値が高い魔物なのだとコンスタンティンが教えてくれた。
フレーダーティガのトラが自身で来れるようになってから、飛んでこれた褒美にコンスタンティンが干し肉をやっている。浮遊は魔力消費が高いので、その分空腹になるらしい。
しばらくして、その様子を羨ましがったトルデリーゼにその役目が移行した。
季節が一つ変わると、トラは両手に余るほどの大きさになり、抱くときの重量も増していた。寒い時期にトラの高い体温はありがたかった。
「ぼちぼちサロン貸し切った方がよさそうやな」
コンスタンティンは、ぽつりと問題提起をする。トラが飛んできやすいよう、校庭にある東屋で落ち合っていたが、雪も降ろうかという時期に屋外では身体が冷えてしまう。小さいサロンを一時的に貸し切り清掃代を上乗せすれば、屋内でトラと遊ばせても大丈夫だろう。
「トラちゃんあったかいから、私は大丈夫ですよ?」
「阿呆。こない赤うしといて、よう言うわ」
屋外の方がトラが走り回れてよいと思ったトルデリーゼが問題ない、と言うと、コンスタンティンは呆れた様子で寒さで赤くなった彼女の頬に触れた。
突然触れた冷たい指先に、トルデリーゼはびくりと身体を強張らせる。コンスタンティンとは気安く話せる友人とはなっただけで、触れ合うような仲ではない。このような接触は、雑木林で着地を手伝ってもらって以来のことだ。
「女が身体冷やすもんやない」
温めるためか掌で頬を覆い、冷えているのを確かめるように親指で撫でられた。叱るような言い方をするが、自分を心配しての言動だとトルデリーゼも解っている。解ってはいても、家族以外の男性にこうして触れられることがなかったので、トルデリーゼの頬の赤みは増した。
素の彼と話すようになって解ったが、コンスタンティンは女性に対する理解と敬意が深く、女性を大事にする姿勢は彼の本質だった。
貧血気味のときに顔色の悪さを隠すために化粧をしたというのに、気付かれ医務室で休むよう言われた。また別のときは、体重が少し増えたことを気にして食事の量を減らそうとしていたら、栄養が偏ると説教された。女性側の事情に明るすぎるのは、隠し事ができなくて困るのだとトルデリーゼは思い知る。
イザークがどちらでも変わらないように言っていたのを、最近になってトルデリーゼは理解した。
「……あったこうなるまで、控えるか」
「え?」
先ほどまで屋内で過ごす案を提示していたというのに、不意に冬が終わるまで落ち合うこと自体なしにしようとコンスタンティンは言い出した。しばらくトラと遊ぶことができなくなることに、トルデリーゼはショックを受ける。
「どうしてですか……!?」
「外やったらどうとでもなるけど、部屋ん中やったら誤魔化しきらんやろ」
自分たちの男女の仲を疑われる可能性を危惧され、トルデリーゼは冷や水を浴びせられたような心地になる。
「私は、構いません……っ」
どうせ婚約者もいない身だ。トラと会う機会が減るぐらいならば、誤解も甘んじて受けよう。
意地を張るトルデリーゼに、コンスタンティンは橙の瞳を眇める。立ち上がって、トラを抱いて座る彼女の背にある東屋の欄干に右手を突いて、満礬柘榴石の瞳を見下ろした。
「構え。自分大事にしぃ」
婚約者が定まっていない令嬢だからこそ、慎重になれとコンスタンティンは叱る。
密室で男女が二人だけで会っていることが知れれば、男の自分より、女性のトルデリーゼの方が不名誉を被ることになる。王子の火遊び相手の烙印を押された令嬢が、婚姻相手から大事にされる可能性は低い。
まだ無垢な子供だったとはいえ、警戒心の強いはずの魔物が、隷従の契約もなく懐いた彼女だ。そんな心根の彼女は、婚姻相手から大事にされるべきだとコンスタンティンは思う。
大事な友人だからこそ、一線を越えたと誤解を受けるような扱いはできなかった。
「この国におれんくなってもええんか」
怒るような強い眼差しで脅され、トルデリーゼは頭に血が上る。心配してくれていると理解できているのに、今縦に頷きたくはなかった。だから、トルデリーゼは彼を睨み返す。
「そうなれば、トラちゃんとずっといられます!」
売り言葉に買い言葉で返すトルデリーゼに、怒った風を装っていたコンスタンティンは本当にキレた。
「どういうことか分かっとんのか」
「分かってます!」
「ほぉ……、さよか」
是と答えたトルデリーゼに、コンスタンティンは欄干を掴んだまま覆いかぶさった。唇に触れた感触に、トルデリーゼは眼を見開く。すぐ間近に彼の顔があった。
一瞬、頭が真っ白になる。そして、ぱんっ、と弾けるような音でトルデリーゼは我に帰った。
目の前では、コンスタンティンが左頬を晒している。
「ほれ、見てみぃ。惚れとらん奴にされても嫌なだけやろ」
彼が手の甲で頬に触れる仕草で、自分の手が彼を打ったのだとトルデリーゼは理解する。酷薄に断言されたことに、彼女は是とも否とも返せなかった。
詰まった言葉で苦しくなり、トルデリーゼは東屋から出て、駆け去る。
そうして東屋に残されたのは、男一人と魔物一匹だった。
彼女の姿が見えなくなってしばらくして、コンスタンティンはどかりと乱雑に腰かける。浅く座った状態で欄干に背を預けたため、姿勢が悪い。そんな彼の上に、魔物がぽふりと乗っかった。
「トラ……」
暖を求めて自分の胸元で丸まるトラを軽く撫でる。
「いくらお前がかわええゆうても、こんなオマケがおったら熨斗付けて返すわなぁ」
飼い主の問いかけにトラは答えず、心地よさげに眠り込む。
コンスタンティンの問いは答えを得ないまま、空虚な寒空へと溶け消えた。
部屋のドアがノックされ、来客を招き入れると友人がいつになく興奮した様子で立っていた。
「トルデ様……? どうされたのです?」
「ディア様ぁ……っ」
泣きだしそうな声で自分を呼んで抱き着く友人に、リュディアは戸惑う。友人のトルデリーゼがこんなに感情的になっているところを初めて見た。
リュディアは縋りつく彼女を抱き止めながら、自身のベッドへと誘い、メイドのエミーリアに温かい紅茶を用意するように指示する。寒空にどれほどいたのか判らないが、彼女の身体はだいぶ冷えていた。
トルデリーゼをベッドに座らせ、毛布を肩にかける。しばらくして湯気が立つほどに温かい紅茶が届き、彼女の両手でティーカップを包ませた。
じわりとティーカップの熱が冷えた指先に移り、トルデリーゼは思ったより指の感覚が鈍くなっていたことを知る。ゆっくりとティーカップを持ち上げ、紅茶を一口含むと、ほっと熱のある吐息が零れた。
「……温かい」
「少し、落ち着きました?」
リュディアに優しく微笑みかけられて、トルデリーゼの緊張の糸が切れる。泣いてやるもんか、と思っていたのに、親友を前にしてぽろぽろと涙が落ちた。なので、これは彼に泣かされた訳ではない、とトルデリーゼは胸中で自身に反論した。
「自分が、分らないんです……」
そう、解らなくなった。
コンスタンティンが心配してくれていると理解できた。彼の出した答えが正しいことにも同意できる。それでも彼に言われると腹が立ち、頷けなかった。
自分で自分が解らなくなることなんて初めてで、トルデリーゼは戸惑った。
「彼は、王子だし」
そんなことは最初から知っていたはずだった。
「意地悪だし」
いつもは素でも優しいと知っている。けど、さっきのは明らかに嫌がらせのつもりだった。
「嫌じゃなかったけど……」
触れた感触に嫌悪感はなかった。
「ものすごく嫌だったんです……っ」
触れられたこと自体は嫌じゃなかったが、その理由に腹が立った。あれで自分が彼を嫌うと思っていることが許せなくて、思わず手が出た。
呟くたびに紅茶を一口、二口、と飲んで感情を吐露するトルデリーゼに、リュディアはただ寄り添い、話を聞く。いつぞやとは立場が逆だと、リュディアは昔を思い出す。自分は彼女にしてもらったことを返せるだろうか。
トルデリーゼが紅茶を飲み干したことを確認して、ティーカップを取り上げてエミーリアに預ける。されるがままの友人を引き寄せると、すっぽりとリュディアの腕の中に納まった。
「そういえば、わたくしたち、昔は王子様に憧れていましたわね」
「あんなの……、憧れてた王子様と全然違います」
「そうなんですの?」
「はい」
しかと首肯する友人に、リュディアは可笑しそうに微笑む。その振動を、トルデリーゼは埋めた胸越しに感じる。
絵本の王子様に憧れていた少女らは、もうここにはいない。
「わたくし、トルデ様と離れたくないので、全力で反対いたしますわね」
「そうしてください」
トルデリーゼには、友人が寂しがってくれることがとても嬉しかった。そして、彼女はきっと最後には自分の選択を応援するだろうことも、彼女の反対の言葉に反論するのは自分の心だろうことも、予想が付いていた。
ただ、自分の覚悟のために反対をしてくれる親友に、トルデリーゼは感謝した。
数日後、トルデリーゼはよく落ち合う東屋にコンスタンティンを呼び出した。
いつもは彼の方からトラを理由に声をかけられていたので、自分からはこれで二度目だ。以前、彼がすでに待っていたのでそのときより早く向かったというのに、東屋の中に彼はいた。
「……なんで、そんなに早いんですか」
「寒空で女を待たせる男がおるかいな」
負けた気分のトルデリーゼの問いに、コンスタンティンは愚問だと返す。
きっと誰にでもこうなのだろう。たとえ、身支度に時間のかかり、待たせるのが当然と思っているような女性が相手でも。他の女性と待ち合わせる彼を想像して、胸がつきん、と痛んだ。
「先日のことは、謝りませんし、許しません」
「そうか」
予想していた答えに、コンスタンティンはただ頷く。
嫌われるためにしたこととはいえ、友人の一線を越えた行為だった。コンスタンティンは、自分も年相応に血の気が多かったことを自覚した。彼女の今後に支障をきたさないよう、あの出来事は一生秘匿することを誓う。
「どれだけ賠償金を積まれても足りないので、代わりに、わ……っ、私のことをどう思っているのか吐いてもらいます!」
「は?」
未婚の女性に手を出したのだから、何を請求されても奇怪しくないとコンスタンティンも思っていたが、そんな請求をされるとは予想外だった。
「包み隠さず言ってくださいねっ、こ、これは、辱めなんですから……!」
どうやら令嬢の彼女なりに考えた意趣返しの嫌がらせらしい。異性への見解を赤裸々に本人へ晒す行為は、確かに辱めには違いないだろう。
「それで気ぃ済むんやったら言うけど」
彼女が望むなら応えようと、コンスタンティンは了承するが、彼には言う前から彼女の方が緊張した面持ちであることが気になった。ともあれ、要求に従い彼は吐露する。
「ええ女やと思う」
冒頭に結論を持ってこられて、トルデリーゼは眼を丸くする。
「ワシに食ってかかるほど負けん気強いし、トラやローマンにもビビらんぐらい肝据わっとるからシュテルネンゼーに来てもやってけそうや。騙されにくいほど賢しいとこもええな。顔もかわええし、体付きも割と……」
「あのっ!」
すらすらと褒めているのかどうかが定かではないことを述べられ、本当に赤裸々なことに差し掛かったため、トルデリーゼは思わず制止をかけた。
「なんや? 吐けぇ言うたん、自分やろ」
「全然恥ずかしそうじゃない……」
少しは照れるかと思ったが、あまりにも平然と吐露され、トルデリーゼは抗議したい気持ちになる。
「男が下心持っとるん分かってて聞いたくせに」
最後まで聞かないなんて意気地がないとコンスタンティンに揶揄されて、トルデリーゼは悔しくなる。男性がそういう生き物だと知ってはいたが、彼が自身をそういう目線で見ているとは思っていなかった。彼がずっと友人として接してきたから、ともすれば自分は対象外ではないかと疑っていた。
どうやら違っていたらしい。
「だって、肝心なことは、まだ……言っていません」
この請求はトルデリーゼの臆病の表れだ。自身の気持ちを伝える前に、先に相手の気持ちを確認しておこうという安全牌を切ろうと思ったのだ。
彼女の言わんとすることを察して、コンスタンティンが少し考える。
「ワシは、一人でもシュテルネンゼーを賄ってける。せやけど……、帰ったときにトラとアンタがおったら、そない嬉しいことないやろな」
その光景を想像してみたら、自然とコンスタンティンの表情は緩んだ。それが何よりなことだと、彼は直感する。
彼のその顔を真っ向から見たトルデリーゼは、期待を何倍も上回る回答に心臓が止まるかと思った。胸に手を当て、心臓がちゃんと機能しているか確認する。鼓動の速度は早いが、止まってはいなかった。
コンスタンティンの想いの丈を聞き、トルデリーゼは静かに呟く。
「私、あなたの思い通りになるのが嫌です」
随分嫌われたものだ、とコンスタンティンは、相応の報いを受け止める。しかし、彼女の次の言葉に瞠目することになる。
「だから、絶対に嫌ってあげませんし、離れてあげません!」
そう怒りに燃える眼差しで宣言され、今度はふっと柔らかく微笑まれる。
「あなたの自慢する青い海を見せてください」
トラと遊んでいるとき、コンスタンティンはたまにぽつりと故郷の話をした。自国を愛する王子は、故郷の話をするときは本当に嬉しそうに語るのだ。彼はそのときどんな顔をしているのか知らないことだろう。
王宮の窓からは青い海と青い空が広がっているのだと、トルデリーゼは聞いた。橙の彼の瞳に、青い海が映ったらどんな色に見えるのか、と興味が湧いた。
今、彼の瞳に映っているのは、自分と似ている色のようで宝石のように光輝く瞳だ。
コンスタンティンは、なんだか可笑しくなって、口角をあげる。
「せっかく逃がしたろぉ思ったのに、阿呆やなぁ」
「あら、賢しい女性が好きなんじゃないんですか?」
トルデリーゼに挑発的な売り言葉を投げられ、彼はそれを買うことにする。
「ほんまワシの裏かこうやなんて、賢しい女や」
もう逃がしてやれない、とトルデリーゼは彼の腕の中に捕まった。そして、自分も彼に腕を回そうとして、大事なことを思い出す。
「あの、私にこれまで婚約者がいなかった理由ですが……」
「なんや?」
おずおずと見上げてくる彼女に、コンスタンティンは首を傾げる。
「父が、自分を倒せる男でないと許さないと豪語してまして」
トルデリーゼの懸念事項を聞き、コンスタンティンは鼻で笑った。
「なんで行儀よぉ言うこと聞かなあかんねん。戦も政治もな、こっちの土俵に引きずり込んだ方が勝つんや」
彼女の父が騎士団副団長であることは、コンスタンティンはとっくの昔に知っている。誰が相手の得意分野に首を突っ込むか、と一蹴する彼に、トルデリーゼは驚く。
その考えはなかった。知らず、父たちに感化されていたことに彼女は気付いた。彼は本当に、トルデリーゼがこれまで出会ったことのない男性だった。そのことを胸中で感謝する。
「本当に、いい性格してますね」
「親父さん、娘が悪い男に捕まったって泣くやろうなぁ」
楽しげに口角をあげる様子は、とても性格が悪そうだ。こちらの彼を見慣れてしまったのだから仕方ない、と彼の背中に腕を回す。
トルデリーゼは、これから自分以上に言い負かされるであろう父を、少し不憫に思った。