side00.雛芥子
「なー、頼むよ親父」
大男の襟首に子供がぶら下がる。そんな異様な状況に構わず、エルンスト公爵家の専属庭師デニス・バウムゲルトナーは出勤のため玄関に向かう。
「なぁ、ってばー!」
デニスの息子のイザークは、彼のシャツの襟首を両手で掴み肩甲骨の辺りに足を置いて、揺さぶる。だが、デニスはびくともしない。
そんな小猿に絡まれる熊のような光景を、彼の妻ナターリエは食卓に頬杖をついて、微笑みながら眺める。
玄関のドアの前に着いたデニスは、背後に手を回し息子の頭を掴んで引き剥がす。そのまま、自分の目線の高さまで持ち上げると剥れた息子の表情があった。
「まだ駄目だ」
怫然と一言だけ告げ、デニスは息子を床に降ろす。イザークがまだ不服そうにしていると、ナターリエの声がかかる。
「いってらっしゃいは?」
「……いってらっしゃい」
母に促されて、父を見上げてイザークは見送りの言葉を言った。ナターリエは、よくできました、と言うように満足げに笑んだ。
「行ってくる」
笑顔で手を振る妻と訴えるような眼差しで見上げる息子に見送られ、デニスは家を出た。
デニスが出た後も、諦めきれないイザークはしばらく玄関のドアを見つめる。
「よく飽きないわね」
「だって、早く親父に仕事教えてほしいもん」
仕事をしたいとせがむなんて我が息子ながら変わっている、とナターリエは思う。しかし、この一年同じやり取りを見続けて本気だと解った。
「まぁ、この分だとあの人が折れる方が早そうね」
「マジでっ 俺、頑張るっ」
表情を輝かせる息子に、ナターリエは苦笑する。息子が一緒に仕事したいという要望自体を、デニスが嬉しく思っているのを彼女は知っている。だが、デニス自身が幼少期強引な父親に仕事へつれ回されていたため、自分の息子には早い内から仕事を強制したくないという彼の親心をイザークは知らない。
もう本人がやりたいと言っているのだから気にしないでいいだろう、とナターリエは息子の肩を持つことにした。
「リエ姉さん、いる?」
ノックの直後、玄関のドアが開いて十代前半と思しき少女が顔を覗かせた。その彼女にしがみつくように小さな少年もいた。
「パウルとパウルの姉ちゃん」
「どうしたの?」
「折角の休みなのにさぁ、パウルの世話しろって言われちゃって……」
「姉ちゃんと遊ぶっ」
肩を落とす少女と、嬉しそうに彼女の足にしがみつく少年。
事情を飲み込んだナターリエが安心させるように微笑んだのと、イザークがパウルの視線の高さに屈んだのは同時だった。
「パウル、俺と遊ばねぇ?」
「……姉ちゃんと、遊ぶ」
少し悩んだものの、パウルは姉のスカートをぎゅっと掴んだ。その様子を確認して、イザークは笑った。
「そっか」
イザークは一度立ち上がると、食卓の近くにある雛芥子の鉢植えから一輪切り取り、二人の元に戻った。
「はい」
「え」
「前、好きだって言ってたから。よかったら部屋にでも飾って」
眼を丸くさせつつも差し出された雛芥子を受け取って、少女は赤い八重の花弁に表情を綻ばせる。
「ありがと……」
そんな姉の様子を、パウルは食い入るように見つめる。イザークはまた屈み、彼に言う。
「奥の庭にまだ色んな色のいっぱいあってさ、親父に少しもらっていいって言ってもらってんだ。パウルならもっと凄いの作れるよな?」
「おれ、凄いの、姉ちゃんにやるっ」
気合いの入った返事に、イザークは笑ってよしっと彼の頭を撫でた。姉を喜ばせようとはりきるパウルは、イザークが案内するより先に奥へ走って行ってしまう。
「……とゆーワケだから、パウルの姉ちゃんはゆっく、り?」
休んでくれ、と言いかけたが、少女に両肩をがしっと掴まれてイザークは首を傾げる。俯かれているので表情は窺い知れない。
「……ザク、あんたなんで歳下なの」
「姉ちゃんより後に生まれたから?」
惜しい、と絞り出すように呟かれて、イザークは訳が解らない。
イザークがパウルの元に向かった後、ナターリエの淹れたお茶を少女は飲んで一息つく。そして、顔を両手で覆って呟く。
「リエ姉さん。ホントなんなの、あのコ。狡すぎない?」
訊かれたナターリエはただ微笑んでお茶を飲むだけだ。
しばらくして、花を抱えたパウルが戻ってきた。それにイザークが続く。
「姉ちゃんっ」
パウルは仔犬のように姉に走り寄り、持っていた雛芥子の花束を差し出した。
「これっ!」
「おおー、色んなのあるね」
色とりどりで一重八重も混ざった一輪ずつ違う花束。だが、淡い色を中心に外へ行くほどに濃くなっている。選んだのはパウルだろうが、纏めたのはイザークだろう。
「全部とった! 姉ちゃんにっ」
「ありがとう」
自分の手柄だ、と褒めてほしい弟の判りやすい表情に、少女は可笑しげに笑い、頭を撫でた。
「ザク遊ぶぞ!」
「ノックぐらいしなさいよ」
バタンと大きな音を立てて玄関のドアが開けられ、そこからパウルより年嵩が少し上の少年と少女が入ってきた。
「ヨハン、マリヤ」
親しい二人を見て、パウルは駆け寄る。
「パウルもいたのか。ちょうどいい、冒険に行くぞ!」
「冒険っ」
ヨハンの言葉にパウルは瞳を輝かせた。弟の食い付きように、少女は解放されたことを確信する。
「どこ行く気なんだ?」
イザークが訊くと、ヨハンは自慢気に答える。
「こないだいきなり木の山できたから、あそこを制圧する!」
「あー」
あそこか、とイザークは納得する。大工の作業で必要な木材を、広場に一時的に置いていたはずだ。念のため、行きがけに持ち主の家へ了承を得に寄ろう。
出発する段になって、イザークはふと思いつく。
「ちょうどいいや。マリヤちょっと」
理由が解らないながらも呼ばれたので、素直にマリヤはイザークへ近寄る。イザークは屈んで、おさげの結び目に雛芥子をそれぞれ挿した。
「うん、可愛い」
「あ……ありがと」
「こっちこそ、もらってくれてありがとな」
マリヤは頬を染めて、自分のおさげの先に咲いた花に喜んだ。
「へんっ、マリヤみたいなブスに花なんて似合うわけないだろ!」
ヨハンが何かに怒ったように言い放った言葉に、マリヤはかっと赤くなる。その表情を見て、イザークは眼を眇めた。
「ヨハン」
珍しく重く自分の名を呼ばれ、ヨハンは怒られると思い身構える。
「なっ、なんだよ、ザクは女の味方するのかよっ」
「思ってないこと言うな。後悔するのは、お前だぞ」
真っ直ぐ眼を見て、真剣にイザークは言った。その眼に竦みそうになりながらも、ヨハンは反発する。
「思ってるし!」
「じゃあ、ちゃんと相手の眼を見て言ってみろ」
「えっ」
後ろから両肩を掴まれて、ヨハンの目の前に立たされたマリヤは驚く。また何か言われるのか、と彼女はヨハンを睨みがちに見る。対するヨハンは蛇に睨まれた蛙のように固まっている。
「何よ。言いなさいよ」
言われて傷付かないわけではないが、罵られる覚悟を決めたマリヤはそれなら早く言ってほしいと急かした。
「あ、う……」
言い淀んだヨハンは、じわじわと顔を赤くすると耐えきれなくなりパウルの手を掴んで玄関のドアに向かった。
「っ仕方ねぇから、さっきの撤回してやる! 行くぞ、パウル!」
急に手を引かれて驚きながらも、パウルはヨハンについて行く。
「何なのよ」
ヨハンの行動が解らないマリヤは呆気に取られる。おおむね理解できるイザークは苦笑い、マリヤの頭をぽんと撫でた。
「ヨハンも、マリヤが可愛いってさ。許してやって」
「……仕方ないから、許す」
おさげの毛先を玩びながら、少しだけ悔しそうにマリヤは頷いた。
「それ! そーゆートコ!」
「えっ、何っ」
いきなり立ち上がって叫んだ少女に、指を差されたイザークは驚く。
「大丈夫だから、いってらっしゃい。早く行かないと、ヨハンたちに追い付かないわよ」
「うん……、いってきます」
母のナターリエにそう言われ、よく解らないながらもイザークは素直にマリヤをつれて出ていった。
見送ったナターリエは、お茶のお代わりを淹れてまた席に着き、少女もそれに倣う。
「末恐ろしい……」
「いい人生送ってくれれば、私はどんな風に育っても気にしないわ」
危ぶむ少女に反して、ナターリエは朗らかに微笑む。
彼がどんな人生を歩むかは判らないが、少しでも悔いのない人生を送ってほしい。
彼女に判るのは、息子が庭師見習いになってはしゃぐであろう近い未来だけだった。
書店アプリ『まいどく』(サービス提供期間:2019.07.29~2020.09.30)に掲載いただいていた書き下ろしSSです。
博報堂様、Link-U様、アプリ配信開始から掲載くださり、ありがとうございました。
とても光栄でした。
また、まいどくにて購入くださった読者様、誠にありがとうございます。
とても感激いたしました……っ!!