伊勢原雛子の瑠璃色アクアリウム - 11
信頼していた彼女(宮居)に裏切られ、傷心の椋丞は、
自暴自棄でガチャ死……を迎える寸前で『天使』に拾われた。
何を言ってるのか分からねーと思うが、椋丞くんの一人称では、そう認識されていたのです。
背中に羽の生えた、神々しい美女に抱きかかえられ……どこ?
ここはどこだ?
極楽浄土の天国なんかじゃない。
ごくごく普通の一軒家。
そこで彼は見事に「当たり」を引いてしまったのだけれど、
その「当たり」というのが、また……
運命を感じる第三章、いよいよ終幕へ!
ところで、サブタイトルにもなっている「伊勢原雛子」って何者よ?
ええ、この方です。
とか言っても分かんないですよね?
真相は、本編をどうぞ!
「へ?」
その子の顔を見て――――目を疑った。
「錦松さぁん????」
「監督ぅ????」
いつも仕事場では童貞殺しのロリータドレスでキメキメな彼女が……アイドル声優には在るまじきダサダサジャージ……学校名と学年と名前まで入ってる、クタクタジャージ姿で。
てことは、つまり?
ここは――錦松さんの自宅?
神社で行き倒れた僕を助けてくれたのは、錦松さん?
「どうして監督が私の家に?」
……ではないようだ。
目を剥いて固まってしまった彼女も、事の次第に合点がいかない様子。
それなら誰が?
行き倒れの僕を助けてくれたのさ?
リアルでもヴァーチャルでも【ガチャ死】しかけた僕を、土壇場で救ってくれた天使は?
「ママよ♪」
不意に背後から抱きしめられた!
錦松さん以上にラフな格好の、もはや裸婦に近い姿の女性に!
「ママが!?!?」
「ママ!?!?」
製作委員会幹部を筆頭に、急遽集められたGHP関係者が見守る中、
『お前らが脱出するまで夜は明けないし、一夜の出来事よ! 昼はない! それがGHP!!!!』
たった一人のオーディションが始まると……
『二ヶ月間、友達らしいこと一切してないから、その間に、友達への想いが、恋にレベルアップしても……いいよね? 』
ビリッ!
ビリビリビリッ!
彼女の声で、うんともすんとも言わなかった音叉が激しく踊り出す。
『先輩が嫌いなんじゃなくて、可愛いと言ってくれるのも愛してくれるのも構わないけど……その変態性だけは何とかして貰えますか?』
そしてその『音』は、音叉のみならず人間の耳にも強烈なインプレッションを与える。
「まるで声質は違うのに――不思議なほどに、ナスビちゃん!」
「言葉も感情も、すんなり頭に入ってくる!」
「最初から彼女がナスビちゃんだったんじゃないか、そう錯覚してしまいそうな……」
立ち会った全員の先入観が覆された瞬間だった。ほんの数ワードで、一気に!
「この子だ!」
―― この声こそ失われた種村未沙の代替たりうる ――
それは誰の耳にも明白だった。
「いける!」
「彼女でスケジュール手配します!」
一斉に色めき立つ、GHPの関係者たち。
重苦しい沈滞を脱ぎ捨て、プロジェクトが大きく脈動した!
まさに起死回生。
ストップモーションが解けた映画みたいに、各々が自分の仕事をリブートする。物凄い勢いで。
瀕死のプロジェクトに希望の灯を点したのだ。
――錦松雪姫という新人声優の声が!
その当事者(錦松さん)は、
『私、仕事あるので失礼します!』
とマッハで荷物をまとめ、録音用マイクで調整室へ挨拶。
「ごめん錦松さん! 付き合ってもらって!」
大丈夫です! と返してくれたが、遅刻確定の状況に笑顔も引きつり気味。
「こっちでフォローするから、心配しないで。慌てて怪我や事故が一番困るんだから」
宮居さんがフォローしてくれるなら、何の心配もいらない。
彼女(宮居さん)の根回しは迅速確実、超デキるOLの得意分野だから…………
「……って宮居さん!」
音叉の完成品を渡した朝以来、初めて直接会った彼女は……
乱れた服装、ボサボサの髪、崩れたメイク……修羅場で完徹したみたいな目。
現場統括として常に模範的な身嗜みの彼女が!
「どうしたんですか????」
異変は一目で窺えた。
人目を避け、二人で裏へ隠れると、
「――軟禁されてた?」
小声で宮居さん、耳を疑うような事情を明かしてくれた。
「私の不注意で……製作委員会側の事情を鑑みれば、遭ってもおかしくない措置だったのに……」
「そんな! 悪いのは製作委員会だし、宮居さんも被害者じゃないですか!」
「ごめんなさい、椋丞くん……結果オーライで済んだからいいようなものの……一歩間違ったら、お詫びのしようもないことになってたかもしれない……私のせいで……」
赤い目を更に赤く腫らして、涙ぐむ宮居さん。
「何、言ってんですか……」
震える彼女を力いっぱい抱きしめ、
「無事で良かった……」
安堵の溜息。
良かった、本当に良かった。
何より――裏切りが僕の誤解だったことに安堵する。
「宮居さんが宮居さんのままで本当に良かった……」
だって本当に嬉しかったんだ、彼女の「帰還」が何よりも!
暴利を貪るためなら口八丁手八丁でクリエーターを籠絡させる、闇の会社員じゃなくて、
ゲーム愛に殉教も厭わぬ、真摯な彼女でいてくれたことが何も嬉しい!
それでこそ僕は全幅の信頼を置ける。背中を任せられる女性だよ!
「椋丞くん……んんんんんんんんんんんんんんんん!」
あ? 痛かったですか? ちょっと強く抱きすぎました?
「これ! これれれれれれれれれれれれ!」
宮居さんが僕の下腹部を指すと…………ビンビン震えていた。ポケットの中の音叉が。
「えっ?」
おかしいな?
錦松さんはオーディションが終わるなり、スタジオを飛び出していったのに……
この音叉は特別。
錦松さん(もしくは種村未沙、本人)が喋らなければ、ピクリとも動かないのに?
何十人とプロの声優を試しても反応しなかった特注品だぞ?
音叉の魔術師お墨付きの高精度音叉だってのに?
なんだなんだ?
何事か遭ったのか?
と、慌てて調整室へ戻ってみると……特に何も変わった様子はない。
忘れ物を取りに錦松さんが戻ってきた、みたいな形跡もなく。
「後任決定☆めでたしめでたし」の緩みきった空気の中、関係者が屯っているだけ……
いや?
『おはよう、眷属の諸君! 今日も君たちの魂を試しに来た!』
関係者たちは金魚鉢を眺めている。
皆、一様に笑顔を浮かべ、うんうんと頷きながら。
(えっ? 誰?)
今朝のオーディションは錦松さん一人だけ。他に誰も呼んでいないのに……
首を傾げつつブースを覗き込んで見れば……
「錦松さんの、お母さん????」
娘の職場見学に来た保護者が、勝手に入れる場所じゃないのに!
マイク前は【巫女の聖域】なんだぞ!
だけど……
関係者は誰も彼女を止めたりしなかった。
驚いたことに、みんな心地良さそうに耳を傾けてる。
ここにいる関係者は全て「使う側」の人間で、【商品】を視る眼は厳しい。売れるか売れないかの値踏みはシビアだ。
そんな彼らが「受け側」の顔でお母さんの声を聴いている。
ちょっと異常な光景と言っていい。
(でも……)
『これであなたも――大人の仲間入りよ!』
確かにお母さんには、素人の付け焼き刃に思えない風格がある。
やさしく嫋やかな声だけど、しっかりお腹から声が出ている。
そして聴きやすい滑舌と、日本語として自然な抑揚。適切なブレス。
「人に聞かせる喋り」の訓練を経た人の喋り方だ。
そして何より、僕の掌で震える音叉が雄弁に物語っていた――――『彼女は特別』と。
「あの人……」
「知ってるでしょ、ヲタクなら誰でも?」
傍らの宮居さんは、さも当然とばかりの口調で。驚くに値しない、とでも言いたげな表情で。
「知りませんよ! だって僕は!」
ヲタクじゃないです! 音叉の魔術師です! 似ているようで違う生き物ですから!
「あの人――声優の伊勢原雛子さんよ?」
「えっ?」




