日暮夕陽‐10
持病が悪化して続きが書けていないので、しばらく更新が止まります。ごめんなさい。
その日も教室で聞きたくもない会話が耳に入ってくることに辟易して、ぼくは逃げるように文芸部の部室へと向かった。
いつも通り、独りで静かな時間を過ごそう。クラスメイト達の会話の内容のあまりのくだらなさに疲れていたぼくは、目を伏せて部屋のドアを開けた。それがいけなかった。
「あ、センパイ! こんにちは! 奇遇ですね!」
「……日暮さん?」
先日と全く同じ席に彼女はちょこんと座り、あの屈託のない笑顔をこちらに向けてくる。
「えーと、何でいるの?」
「はい! 実は、センパイとお昼をご一緒させていただきたくて!」
「…………」
「あの、どうかしましたか?」
ぼくは突然のことに戸惑いを隠すことができず、声をだせないまま棒立ちになってしまった。なぜぼくなんだろう、そしてどうしてお昼を一緒に食べたいんだろう。彼女は友達がいないのだろうか、なんて失礼なことを考えてしまう。
そこで彼女のくりっとした大きな瞳がこちらの返答を待っていることに気づいて、ようやく口を開く。
「あー、その、なんで?」
「なんでって……一緒にお昼を食べることに理由がいるんですか?」
彼女には質問の意味が全く分かっていないようだった。彼女にとって、ぼくがイエスと答えることは既定事実なのだ。断られる可能性なんて微塵も頭の中にないのだろう。
「……そうだね。理由なんてない、確かにそうだ」
ぼくはやっとそれだけ返して部屋に足を踏み入れた。
正直に言えばぼくは彼女から逃げたかった。女子と関わることを可能な限り避けるのがぼくの行動原理であり、高校生活を通した目標でもあったからだ。そして全ての女子にとって婚約を望まないぼくに時間を使うメリットはなく、この点で完全にwin-winなはずだった。もっとも、今この瞬間をもってこの完璧に見えたこの論理はたやすく崩壊してしまったのだが。
ぼくがそうした行動をとるのは女子に影響を与えないためだ。けれどぼくがここで断れば、彼女は困惑するかおろおろするか、悲しむだろう。あるいは理由を訊いてくるかもしれない。
そうなればぼくはぼく自身の主義と矛盾する。だからぼくは仕方なく一緒にいることを選んだ。彼女の向かいの席に着き、食べかけの弁当を取り出す。
そこで彼女が遠慮がちにひとつの提案をしてきた。
「あの……、よかったらわたしのお弁当、味見してくれませんか?」
「味見?」
「ほら、この前言いましたよね。わたし、男の人から見たわたしの腕前を知りたいって。それで」
「ああ……」
「ほら、この卵焼きとかどうですか? 基本の『き』みたいな料理ですけど、最近ようやく形を整えられるようになってきたんです」
分かった――ぼくはそう言って彼女の弁当箱の卵焼きに箸を伸ばすつもりだった。適当な返事であっても前回そう約束してしまったのだ。それを破るのはポリシーに反する。
ところが――
「はい、どうぞ」
日暮さんはぼくの弁当箱の空いた部分に卵焼きを彼女の箸で移してきた。
ぼくはその卵焼きを前にして固まることしかできなかった。だってその箸はすでに彼女が口をつけたものだったのだから。
「センパイ?」
日暮さんがどことなく困惑した様子でこちらをのぞき込むように見てくる。卵焼き。日暮さん。その手のピンクの箸。そんなものたちがぼくの頭の中でぐるぐる回っている。ぼくが自意識過剰なのか、それとも彼女が鈍感なのだろうか?
結局ぼくは無心を装ってそれを口に入れた。
「美味しい」
やっとそれだけ言うと不安の色は彼女の顔から消え、かわりにぱっと花が咲いたように表情が明るくなる。
「そ、そうですか? じゃあじゃあ、この松前漬はどうですか? あ、こっちのポテトサラダも食べてみてください!」
「あっ、うん……。そうだね。そうさせてもらおうか」
さながらぼくは飼い主から餌を口に突っ込まれる雛鳥のような気分で、次々に彼女が差し出してくるおかずを食べつづけた。
ぼくはすっかり自棄になっていた。ぼくの理想的な行動は、「いやいや、いいよ、見た目だけでじゅうぶん上手だってわかるさ」とかなんとか言って断ることだ。なのにそれができずに完全に押し切られてしまっている。しかもその食べ物は彼女が口をつけた箸に触れたものだ。
最初は精いっぱいの無愛想さを纏うことで身を守ろうと試みていたのだが、彼女はそんなことはおかまいなしに心の距離をぐいぐい詰めてくるのだ。ぼくが彼女の料理を口に入れる前にはそわそわし、口に入れた瞬間に、わあ、と眼を期待で輝かせ、咀嚼しているのを見て心底うれしいといった顔をする。この感情の奔流をどうやって躱せというのだろうか?
「女子に影響を与えない」というぼくのイデオロギーは、日暮さんの無邪気さというハンマーで粉々に打ち砕かれてしまった。そうしたら後は彼女のされるがままだ。ぼくに抵抗するすべはなかった。
彼女の弁当のおかずを一通り食べ終わって、ぼくは自分の無力さにため息をついた。
日暮さんがそれを見て不安そうな顔になる。
「あの……おいしくなかったんですか? やっぱりお世辞で言ってくれてたんじゃ……」
「ああいや、違うんだ。全くそんなことはなかった。とても美味しかったよ」
ぼくはあわててそう言う。
「ご覧の通りぼくには愛想がないから。誤解させてしまったかもしれないが、本当にどれもおいしかったよ。ため息をついたのはちょっと別の件で。料理の腕前は男子と遜色ないんじゃないか?」
「そ、そうですか? そこまでほめられると照れますね。えへへ……」
なぜそんな感謝と好意のこもった瞳でぼくを見てくるんだ。ただ料理の感想をそのまま話しただけなのに。
その見ているこちらをはっとさせる縋るような表情、そっと細められる瞳、そして人の良さが透けて見える混じり気の一切ない微笑みを、他の誰かに向ければすぐに彼らを虜にできるだろう。
それなのになぜそれをぼくなんかに向けるんだ?
彼女が少し照れながら口を開く。もちろんぼくの心中の悶えには気づかないまま。
「あの……わたし、また来週ここに来ていいですか? いま焼売に凝っていて、今日は作ってこなかったんですけど……。先輩の感想が聞きたいんです」
ぼくはだまってうなずくことしかできなかった。彼女の顔がまたぱっと明るくなる。
ぼくにはそうするほかなかったのだ。自分でも今までにない事態に対して混乱していて、どう対応すればいいのか分からなかったから。とりあえず現状を壊さない選択しかぼくの目の前にはなかった。
それからぼくはせめて彼女に借りをつくるまいと、お返しに自分の弁当のおかずを分けることを提案した。その言葉を聞くと彼女がますますうれしそうな顔をしたので、ぼくは後悔した。
「先輩は、和食が得意なんでしたっけ。ならこんなにおいしいのも納得ですね」
おいしいおいしいと連呼しながら一通りぼくの弁当のおかずも食したあとに、彼女がそう切り出してきた。どうしてそれを、と口に出そうとして、ああ、そういえば彼女も「名簿」を持っているのだということに気が付く。興味を持たれないようにほとんど情報を与えなかったのだが、嘘を書くのは何となく気が引けてしまい、結局すべて本当のことを書いたのだった。
それからは和食について他愛ない話――たとえば肉じゃがで醤油とみりんと料理酒の配分をどうしているかとか、そんな話をしばらくしていた。そうしているうちに昼休みも終わりの時間になった。
日暮さんは途中まで一緒に戻ろうと提案してきたが、今度のぼくはどうにか理由をひねり出して断ることができた。そして彼女は「じゃあセンパイ、また来週ですね!」と、ご機嫌なまま先に部屋を出て行った。こちらがちゃんとここに来ることを全く疑っていない様子で。
来週はゴールデンウィークだから、そもそも学校は休みだ。でも、おそらく再来週に元からそういう約束だったような顔をしてやってくるんだろう。
彼女が視界から消えた後、ふとぼくはあることに気づいた。彼女はぼくについて、とりわけぼくの「『婚活』拒否」について何も詮索してこなかったな、ということだ。
1年生のときも、一切のパーティーに出ない変人のぼくを一目見に来た女子は何人かいた。そして彼女たちはひとりの例外もなく、どうしてそんなことをするのか、とぼくに問うてきた。
でも、彼女は一切その話を出さなかった。
まず今日の話からして彼女は「名簿」をすでに見ているわけだから、その中でぼくだけ明らかに浮いているのがわかっただろう。「君のことはみんな噂しているよ。変わり者だってね」と侑理が言っていたから当然日暮さんもそんなようなことを聞いているはずだ。「パーティー」に出たのなら並んで入ってきた男子の中にぼくがいなかったこともわかっただろう。
どういうことなのかはわからない。たまたまかもしれないし、わざとなのかもしれない。
そこで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
ぼくはそこで考えることをやめて、弁当箱を持って本と部誌でごたごたした文芸部室を後にした。
実秋との会話を終えて教室から帰る途中、夕陽は安堵とうれしさを感じている自分に気が付いた。
なぜだろう、と少し考えてみる。すぐに結論は出た。彼が先週と全く変わっていなかったからだ。
先週の金曜日から今日までずっと、夕陽を取り巻く人たちはみんないつも通りではなかった。舞花はこちらがいくら大丈夫だと言っても心配するし、薫は逆に「パーティー」は私がついてるからね、とばかり言い、美乃莉は顔には出していないもののいつもと違う様子だった。そして春香はあの日の夕陽の報告を聞いてからずっとうきうきしていて、それは妹の春陽も同じだった。そんなわけで夕陽は学校では心配をかけていることに、家では嘘をついていることに対してずっと申し訳なさを感じながら過ごさねばならなかった。
夕陽は「婚活」だけが高校の、そして生活のすべてではないと思っている。だから『パーティー』の結果などに関係なく皆にいつも通りでいてほしかったが、そうはならなかった。加えて春香に隠し事をしているという罪悪感もあって、楽しい気分にはまったくならなかったのだ。
けれど実秋は何もかもが先週のままだった。無愛想なところも、それでもちゃんと返答してくれるところも、自分の眼を見てくれるところも。
だからわたしはほっとしているんだ――そう気づいた。来週も必ずここに来よう、というよりわたしはここに来たい。
ここでいつも通りのわたしになれる時間を過ごしたい。
夕陽はそう強く思ったのだった。