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こんとらくと・きりんぐ

その銅は銀よりも強く(こんとらくと・きりんぐ)

作者: 実茂 譲

 その長城は果てしなく続いていた。

 長城の向こうは半分砂漠、半分草地の野蛮な騎馬民族の世界だ。もし、長城がなければ、騎馬民族は王国へ侵入し、略奪と殺戮をほしいままにするだろう。

 王国は長城をつくるために王国は民の半分を動員していた。男も女も酷使され、石材や大砲を駄獣のごとく引いたり、漆喰のかたまりを背負ったりしている。小さな子どもや老人ですら、煉瓦を一つずつ倉庫から工事現場まで運び、複雑に組まれた竹の足場を上っていく。ときどき、足場が崩れて、子どもが落ちて死んだり、大きな石のかたまりがごろっと壁から外れて、大勢の人夫を下敷きにしたりしている。

 長城は完成の目途が見えなかった。あまりに長大なため、一部分が完成したと思ったら、最初につくった部分が崩れ始めている。もう何百年と王国はこの長城をつくり続けている。

 ショートへアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋は長城の北、野蛮な騎馬民族の世界から現れた。ぶちの馬にまたがり、弓を手にして背中の矢筒に白い羽根の矢を十六本入れていた。馬の鞍には火酒の入った大きな革袋が結びつけられていた。

 殺し屋はねじれた潅木が点々とする丘から長城のほうへと近づいた。すぐに長城じゅうに敵発見の銅鑼が鳴らされ、金の房で縁取った三角形の軍旗が長城の櫓に立ち始め、人夫たちは慌てふためき、兵士たちは弓に矢をつがえ、大砲に弾を込めた。

 殺し屋は懐から小さな笛を取り出すと、依頼人に教えられたとおりに吹いた。その銅鑼にも増して耳障りな甲高い調べが長城に届くと、もう一度銅鑼が鳴らされ、兵士たちは弓を置き、軍旗をしまい、人夫たちは工事に戻り、大砲には革の覆いがかぶされた。

 殺し屋は乾いた雑草がこびりつくように生えた長城の大きな城門にたどりついた。赤く塗られた鉄製の大きな門で打たれた鋲は人間の頭くらいの大きさがある。もう一度笛を吹くと、開門!と番兵たちの声がきこえ、ガラガラと音を鳴らして、門が開いた。

 門の内側の砦のなかには門を開けるための大きな円錐型の錘が鎖で宙にぶら下がっていて、その鎖が歯車につながっていた。そして、門を閉じるために錘を巻き上げる人夫たちが百人が巻き上げ機に取りついた。肋骨の浮かんだ胸と黒ずんだ血と泥の混じったものが固まった裸足の人夫たちはぜいぜいと喘ぎながら、重い錘を少しずつ引き上げていった。

 錘のそばには竹でつくった牢屋がぶら下がっていた。工事監督に反抗した罪で死罪が決まった人夫たちが首をうなだれて座っていた。一人は仲間たちを励ましていた。

「おれたちはもう作らなくてもいいんだ、作らなくてもいいんだ!」

 殺し屋は元気な囚人を眺めた。絶望がまわりまわって希望を与えるのを見るのは初めてではないが、そう頻繁に見るものでもない。竹の牢屋のはるか真下には人糞が落ちていた。なにもかも垂れ流しで、食事は死なない程度の茹でた豆だけだ。

 鎧を着込んだ副官が馬にまたがり、二人の槍騎兵を随伴して現われた。

「お待ちしておりました」

 副官が殺し屋に言った。

「お望みのものを持ってきました」

 殺し屋が言った。

「それではこちらへ。将軍の幕営へいらしてください」

 殺し屋は馬を厩舎にあずけ、火酒の入った革袋を手に長城の兵舎につながる階段を上った。前に副官がいて、小さな鉄の札をいくつも重ねて連ねた鎧がしゃりしゃりと音を鳴らしている。

 兵舎は長城のなかでも特に頑丈な長城の上に造られた大きな砦で銃眼がいくつも壁に切られ、あらゆる角度から敵を射殺せるようになっていた。そのてっぺんには李と金糸で縫い取られた大きな軍旗が風にはためいていた。その風は三十人の人夫が交代で動かす巨大なふいごの風を浴びていたから、そよ風も吹かない日でもその旗だけはきれいになびいた。

 殺し屋は何度も番兵が守る扉を通り、工事中の長城を一望できる廊下を通り過ぎ、砦の頂上の将軍の居室へと案内された。

 将軍は金色の冠に銀の鋲を打った胸当てをつけ、宝石を柄にはめた剣を佩び、涼しい風の吹く窓のそばに座っていた。白く長い鬚がゆったりとゆれていた。紫に塗った卓の上には長城の図面と柑橘を持った青磁の器があり、今も将軍の手のなかで太陽のような明るい蜜柑を一つ手に玩んでいた。

 将軍は蜜柑を見ていて、殺し屋には一瞥もせず、

「見せてくれ」

 と、だけ言った。

 副官が大きな陶器の鉢を持ってきて、殺し屋の足元に置いた。

 殺し屋は短剣を抜いて、酒の革袋を切った。

 赤く染まった火酒と一緒に人の首が鉢の上に落ちた。辮髪を結い、ナマズのように細い鬚を生やした男の首で、将軍が肘を置いている卓と同じ紫色に脹らんでいた。

「あなたが望んだ騎馬民族の王の首です」

 殺し屋がそう告げると、副官が鉢を持ち、将軍の前に貢物のように捧げた。

 将軍はちらりと首に目をやり、言った。

「陛下も喜ばれる」

 将軍は下がるように手をふった。殺し屋は部屋を出た。

「騎馬民族のあいだでは後継者をめぐる内紛が置き、わが王国へ攻める余裕などなくなる。これでわが王国も安泰だ」

 遠ざかる殺し屋の背に将軍の上機嫌な声がきこえた。


 殺し屋は報酬を馬の蹄鉄の形をした銀のかたまりでもらった。それが馬車にいっぱい積まれたので、殺し屋はそれを運ぶのに報酬のほんの一部を使って、脚は短いががっしりした駄馬を二頭、馭者付きで買わなければいけないくらいだった。

 騎馬民族は王がたとえ生きていても、長城を越えて王国へ攻め込むつもりはなかった。民のほとんどを動員した長城工事のせいで王国は騎馬民族の領土よりも貧しく、荒れ果てたものになったのだ。襲う価値がなくなったのだ。

 それにもう一つ、将軍に伝えなかったことがある。

 それはある一人の長城作りに酷使された少女が死に際に、将軍を暗殺するために王国で最も価値のない小さな銅銭一枚で凄腕の殺し屋を雇ったというもの。

「でも、それを教えたところで」と、殺し屋はひとりごとをつぶやく。「あの将軍は本気にしないだろうな」

 だが、少女は約束した。もし、将軍を殺してくれれば、この長城に連れてこられた全ての民が一枚ずつ銅銭を殺し屋に支払う。国の民の半分があなたに一枚ずつ必ず払う。それは膨大な額に――将軍が払う銀よりも膨大な額になる、と。

 殺し屋は懐から黒く固まった血が点々とついている小さな麻のぼろ袋を出して、その中身を手のひらにあけた。

 すっかり錆びて光沢を失った小さな銅銭が一枚、落ちてきた。

 あの少女の約束は本当だろう。人夫たちには独自の情報網がある。その伝達機構が、殺し屋が雇われ、もうじき将軍が殺されることを知らせた。

 その証拠は竹の牢屋に閉じ込められたあの男。

 あの男は解放のときが近いことを知っていた。

 殺し屋は優しげに微笑んで、銅銭を撫でてやると、袋に戻し、馬首を転じて、銀の馬車をそのままに長城のほうへ戻っていった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 毎日一個、潤沢を楽しく読ませて頂いてます。 これはがっちり端正にきまったな(ええ毎回ですね)っとかまた無差別試合に持ち込まれたものだと顔がにやけます。飽きっぽいとか伺いましたが何でも着こなす…
[一言] 毎度の事ながら圧倒的な舞台描写に鳥肌がたつ思いです。 仕事に律儀で、シビア。なのにこういう一面を読むと「惚れるゾ!!」 と叫びたくなります。
[良い点] 無国籍、時代も不明のアクションが冴えてます。 血も涙もないようで、トキドキホロリなラスト。 殺し屋さんのクールで、年齢性別不詳の姿は色々と想像を刺激します。楊子をくわえたり、ギターを弾き…
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