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竜の娘  作者: 飛鳥弥生
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第四話~女性と縁の少ない限りの2次元をこよなく愛する同胞には申し訳ないくらいの一大イベント

 遡ること三ヶ月前に、エヌ・イー・イー・ティーにあと半歩という人生最初で最後っぽい危機的致命的絶望的状況を救ってくれた命の恩人たる椿波雲つばきなぐもという、現在の僕の雇い主のことをご紹介しようと幾つかのエピソードをつらつらとだらだらとぐだぐだと書いて、これで波雲{なぐも}氏という可憐ながらにして珍妙な彼女の生態というか活躍というかの一旦は伝わったと思うのですが、たかが三ヶ月されど三ヶ月という具合に濃密な日々なので他にも書いておきたいご紹介しておきたい逸話は幾つかありつつ、まあこの程度書けば後は皆さんの想像力で充分足りるであろうと最終章に入る次第ですが、これまでがご覧の通り三ヶ月間の僕の回想であったのに対し、今回は同じく回想ながら一昨日の、まだ記憶に新しい話題で、この話を思い出す僕が専用のアールデコ風味なスペースでパソコン相手にニヤニヤしているのは以下の内容がそういう類だからで、アクションヒロイン的大ピンチからの痛快逆転劇といったファンサービス精神豊富な派手なパートは以前に書いたようにないながら、寝てるか黙るかしていれば魅力的美人たる波雲氏のそれこそその女性的魅力が垣間見れる読者サービスのような贅沢な出来事を書こうと思っている今は夕方前なのですが、実はこれを書き終えた後にこれまた読者サービス風で実際は僕のみ役得なイベントが待ち構えているという、生きてて良かった人生まんざらでもないという脳内ピンク色であって脳はそもそもピンク色なのだけど、普段は退屈なFMを聴きつつでリクライニングシートに張り付くように座る波雲氏は今、仕事スペースから僕は立ち入り禁止であるエリアの寝室だかに移動していて、そうなった経緯を若干、いや、思う存分自慢するようにご紹介して、ナグモウォーズ・エピソード4をお披露目したく思いますが、少しだけヒントを書くと現在は梅雨明けの初夏で天候はほぼ回復しており、幸いにも仕事の表裏共にお休みであって、ならばどういう展開が待っているのかは勘のいい目の肥えた読者なら幾らか予想出来るでしょうし、今回に限りそのご期待に沿えるのではないかと自負しつつ、改めて椿波雲伝記第四部・復活編を始めますが、今更ですけど、この毎回付けているサブタイトルには全く意味はありませんので、あしからず。


 うっとおしい梅雨がようやく終わりそうな、やや湿度と気温が上がった初夏の入り口で、それまでに何度となく冥府からのタロンなる異形と遭遇した日々を全く意に介さない風でリクライニングシートでとろける波雲氏に、僕は密かに練り込んでいたある提案を、それも人生初でその粗末で安っぽい生涯の全てを賭けたといっても大袈裟ではない提案をしてみたのだった。

 初夏という時期からご想像される方もいるだろうが、花火大会である。

 本格的なものはもう少し先の八月辺りからだが一足早くでやっているところも幾つかある、という情報を立ち読み雑誌でゲットした僕は、実際のところ花火鑑賞など全くしたこともないし興味も殆どなかったのだが、だがである。

 もしもそこに波雲氏と並んで向かって歩いて、夜空に広がる壮大なスペクタクルを見物するとなれば話は全く違い、エロゲ、じゃない、正統派恋愛シミュレーションアドベンチャーのヒロイン軍団の一人として定番の、陰のある年上の無口なお姉さん、序盤のフラグ立てがやたらと難易度が高いが待っている終盤の展開は他の元気娘やドジっ娘や奥手なお壌タイプとは全く違う、とっても色っぽい展開からのアダルティックなハッピーエンドというのが未だに定番として用意されており、ギャルゲーをリアル世界で再現しようなどとはそれこそ病んでいるという指摘もその通りだがあえてシカトしておいて、夏、花火、美人のお姉さんとくれば、そう、浴衣ゆかたである。


 波雲氏の世界的ファッションモデル的プロポーションの主に胸辺りがBに近いAであることがどうしてそれでベストなのかは、彼女が異国風な顔立ちながら純日本人で、もしかすると着物などを着る場面があれば、日本の着物というのはあまり胸のない日本女性を魅力的に見せる着衣であるからで、ここでありがちなマニアが巨乳だとかボインだとか揺れ揺れだとかに財産と生命と尊厳を漏れなく捧げるのは真夏の海水浴場でのきわどい水着辺りを想定した健全なチョイスであり、それはそれで素直で盛り上がるのだが、デカくて露出が多ければそれでいいというのは明らかに浅いと僕を筆頭のコアなマニアは思うわけで、そもそも終盤のイベントとして海水浴というのは定番でビジュアル的には良いがさすがに使い古した感が強く、当然そこも大いに期待しつつその手前である浴衣からの花火大会、って順番が違うけど、これでしょう。

 浴衣ではなく着物、振袖であればきっと最近に僕と同じく成人式を向かえたであろう波雲氏なので、色っぽい着衣とは生涯無縁風な彼女も一着くらい持っているのでは、とそれとなく聞いてみたところ、残念ながら成人式には普段着で、つまり毎日見るブラウスとジーンズというラフな格好で列席したとのこと。

 まあそれはそれで波雲氏らしいがそれはさて置き、僕は事前に用意した観光グルメ系情報誌を、そういえば、とそれこそ今思い出した風で実は吟味して事前に用意していたそれ持ち出して波雲氏の事務テーブルに置き、ページをめくって花火大会を紹介している部分を見せて、いかにも日本的大衆娯楽なお祭りなので興味はないかもしれませんけど、と予防線な科白をどっさりと用意してそこを読んでもらった。


 それは波雲氏のマンションから車で十五分ほどにある河川敷で開催されるなかなかに規模の大きい初夏の花火大会の紹介記事で、屋台や露天なども出るらしく、メインの花火は夏休み手前にしては豪勢な一万発というもので、当初それほど興味でもなかった僕でさえちょっと良さそうと思える規模の本格的なものだった。

 で、これを一緒に見物でもどうですか? とさり気なくを装って続ける訳だが、一般女性であれば笑顔で、いいね、行こう、と食いつくそのネタが果たして一般とはレギュレーションが根本から異なる規格外の波雲氏に通じるかは全くもって自信がなく、普段からコルトのシングルアクションアーミー、アーティラリーを両手でバンバン撃っている、毎日が花火大会の如き彼女からすれば、今更花火などどうでもいい、と返って来るのも半ば予想していて、そういう場合は四十五口径よりももっと大きな何寸玉かの迫力の大爆発の連発ですよ、と危険人物に対する闇商人からの勧誘の如くに切り替えるか素直に諦めるかなのだが、渡して見せた情報誌の花火大会紹介誌面を咥え煙草で面倒そうに、しかし割とじっくりと読んだ波雲氏からの返答は、ああ、だった。

 ああ、つまりOK? 面白そうだののあれこれのそれっぽいリアクションは皆無のしかし、どうやら了承らしい波雲氏の返事に内心万歳で、肝心なのは次なのだ。

 花火大会ならば浴衣である。

 浴衣である、とかキッパリと断言しちゃったけど反論はないでしょうし、あっても受け付けません。そこで振袖などではなくあえて浴衣なのが東洋の魅力たるジャパニーズロマンであり、これはいわゆる着物はフォーマルな着衣なのに対して浴衣というのはあくまで普段着で、誤解を承知で言えばパジャマやジャージ的に使うのが正式であって、花火大会というプライベートタイムならば問答無用で浴衣なのが日本伝統と照らし合わせても正しいのだ。しかし、成人式で振袖ではなかった波雲氏なので当然、浴衣は持っておらず、ここで僕は、花火大会に誘うを超越する人生最初で最大でひょっとすると最後かもしれない大決心で、浴衣を買いにいきませんか? と心臓バクバクで提案してみたのだ。

 通常、といっても主に美少女が登場しまくるゲームの場合だが、その通常だと花火大会当日の待ち合わせに普段は勝気でボーイッシュなあの娘が浴衣姿で登場して僕が驚きつつ思わず見とれて、そんなにジロジロ見たら照れるじゃない、とかなんとかな当事者は甘々なやりとりがイベントとして発生するわけだが、ああ、という短い波雲氏の科白に何だろうと目をぱちくりさせていると、妄想の部分を取り除いた会話を繋げてみると、何と、浴衣を買いにいきませんか、に対する、ああ、つまり肯定なのだった。

 神様ありがとう、とか思わず物凄く偉いであろう人に感謝してしまった。

 波雲氏と浴衣を買いに出かける、並んでショッピングをする、これはある意味、当日に浴衣姿で登場したいつもは男勝りなあの娘の七倍は美味しいシチュエーションである。揃って並んで歩くだけでも幸せを感じるであろう美人代表な波雲氏とショッピングで、それが浴衣って、奇跡ですよ。イベント的にはクライマックス付近にある隠しに匹敵するレア加減ですよ。


 そんな訳で早速支度をして、僕と波雲氏は商店街テナントビルに入っている着物や浴衣が置いてあるかなり本格的なお店へと向かったのだが、浴衣や振袖を筆頭のそれやこれやを全てギャルゲーとアニメの知識でしか網羅していない僕なので、展示してあるものの八割はサッパリ意味不明で、かろうじてが振袖や浴衣は一枚の布でそれを身に付けてから帯で留め、鼻緒な下駄の可愛い版みたいなものを履いて髪は浴衣なら簡単に縛った程度で、くらいが限界だが、さすがはマルチパーパスウーマンな波雲氏、こういうお店でもそれは堂々としたもので、態度だけは毎度のダルそうながら帯だったり浴衣だったり髪飾りだったりを眺めていて、それらが何なのかは知っているのが当たり前という態度もまがりなりにも女性だからか博識の塊の波雲氏だからか、ともかく店員の説明にも面倒そうに頷いて見せたりしていた。

 一方の僕は着物を始めを置いてある専門のお店に迷い込んだただのアホ、みたいに立ち尽くしているだけだったのだが、店員さんの一人が、素敵な彼女さんですね、とか言うものだからアハハと大袈裟に笑って汗を流しながらしかし否定もしないということを、波雲氏が気付かない距離でやって、店員さんと笑い合ったりしつつ、花火大会に集中し過ぎて忘れていた浴衣などの和装衣服の予備知識を入れておけば良かったと若干後悔していた。

 専門店だけあって種類や柄は豊富だが、波雲氏の場合どれもバッチシ着こなすだろうから正直なんでもいい、なんてことはなく、僕的好みを言えば浴衣は白地に大きくもシンプルな花、名前にちなんで椿なんかをあしらったもので、帯は今時だとピンクなどが売れ筋らしいがもう少し落ち着いた、暗めのオレンジなんてどうだろうと妄想上でコーディネイトしてみて、黒い腰まであるロングヘアはそのままでもいいが、ここはやはり必殺のポニテだろう。ポニテロマンは国境と時代を超えたとは説明不要だろうし、っていちおうポニーテールのことですので。

 シュシュと呼ぶのかフワフワなあれでぐいと縛った黒いポニテに髪飾り、かんざしを一本刺して足元は素足で、最近ではヒールや靴、足袋にサンダルなどな女性もいるそうだが、カランコロンの下駄で鼻緒だけ赤だったりが似合いそうで、足のラインが最強に魅力的な波雲氏なのでここも外せません。


 というか、女性の買い物、服なんかのそれに付き合うなんて初めてで、全身の水分が水蒸気爆発するくらいに緊張です。

 当然禁煙の店内でガムを噛みつつ浴衣だ帯だを眺める波雲氏の目が、気持ち、若干普段より生き生きしているのは気のせいかもしれないが、少なくとも店員相手にダルいだ面倒だどうでもいいだへったくれだ、という科白は封じてくれていて、そのうち気に入ったどれかを片手に試着室にでも入るのだろうと遠くから眺めていた、店員さん曰くボーイフレンドな僕だったがどうしてか波雲氏にそういう気配がない。もしかして気に入るものがないのか、はたまた選ぶのが面倒だからやっぱり止めた、という波雲氏っぽいオチだろうかと血の気が毛細血管末端の一滴まで引く僕に波雲氏が寄ってきて、選ぶのが面倒、そう言った瞬間、思わず泣きそうになりました。所詮は現実なんてそんなものなんだ、ギャルゲーなんて妄想の産物であんなものは現実逃避の電子薬物なんだ、と落胆しそうな僕にしかし、こう続いた。

 選ぶのが面倒、選んでくれ。

 これは、これは、と思わず繰り返しちゃったが、超美味しい限定イベント発生? 知らず呆然としていた僕に店員さん二人の微笑みが向いて、その店内限定のボーイフレンドな僕はどうやら、この幸せ者め、ということらしい。

 振袖だったり浴衣だったりの知識は殆どないが、どんな浴衣が波雲氏に似合うかということなら世界中で僕が一番理解しているとこっそりと豪語しちゃうので、念の為に波雲氏に好みの色やデザインを尋ねると、そこも任せる、と返ったので、美少女アニメ夏パートとギャルゲー終盤隠しイベントの知識を総動員させて、椿波雲の理想的浴衣姿を、他ならぬ僕が選ぶのである。

 ちなみに予算は全く気にしなくていいと言われたが、振袖などに比べれば浴衣はお手頃価格らしく、ここも昔の普段着たる浴衣といったところ。或いは一切の妥協を許さない波雲氏の毎度の性格かで、そもそも値札がないお店なので言われるがままである。


 さてさて、当初は白地で花がプリントされた、と妄想コーディネイトをしてみたが、全面的に僕の趣味全開でいいのなら話は変わるのは当然として、最近の売れ筋はピンク系だそうで、そういうのもまあ可愛いが波雲氏のイメージではない。いや、波雲氏ならそれさえ完璧に似合うがここはこれぞ波雲氏、他の小娘有象無象とは格が違うのだ、というチョイスにするのがマニアックを自称する僕のこだわりの使命であり、散々悩んだ挙句、これはこれで定番ながら波雲氏のイメージと見た目にピッタリの濃い紺の浴衣、これにしてみた。藍色という表現が合いそうな具合の紺である。

 白い菊だかのプリントがさりげなくあるシンプルなもので、これでどうでしょうか、と店員さんに尋ねると営業スマイルで素敵ですしお似合いですとあり、波雲氏に聞くと、ああ、と。

 この人、本当にどうでもいいのか、はたまたどんな浴衣であれ完璧に着こなしてみせるという自信なのか対処に困るのだが、そういう人だと解っているのでその一言はOKだと解釈して、帯は鮮やかな、ちょっと眩しいくらいの派手な黄色にしてみた。この組み合わせは実物を見たりそういう写真を観てもらうと納得だと思う。一見地味だが帯が明るい印象で、菊の花プリントが女性っぽさを引き立てるという黄金比にも似た組み合わせなのだ。

 そんなカラー表紙のマンガがあったな、とか思っても口をつぐんでおいて下さい。


 残すは小物だが、足元は素地で薄い浴衣下駄。鼻緒は帯と合わせた黄色がお店にあったのでそれを選び、かんざしは店員さんのオススメから金属、純銀製で華奢ながら凝った風車を象ったシンプルなものにしてみた。この簪の風車は実際にからからと回るという何とも凝ったもので限定生産なのだとか。それやこれを試着室に持ち込んでしばらくして、黒いロングヘアをポニテにした波雲氏が簪をサクッと刺した姿は、思わず二人の店員さんも、お似合いですよ、と声を大きくするそれはもう見事なもので、コーディネイトした僕も思わずにやけてしまった。特にポニテだからこその栄えるうなじの色っぽさといったらもう、言葉になりませんと言葉にしてみてます。

 波雲氏がそれらを気に入ったのかは毎度の如く表情からも口調からも全く解らないのだが、似合い過ぎているのだから本人はともかく花火大会の露天辺りで男性女性を問わず思わず振り返るのは確実だし、そこでピンクが似合うヘラヘラした女子高生などがいても所詮はガキだ、と周囲も納得な浴衣美人がこうして完成したのだった。全く、美人というのは上限がないのかえらく色っぽい湯上り玉子肌的浴衣美人な波雲氏、しかもポニテって無敵ですやん、とかいきなり関西弁になってみたり。

 折角なので僕も浴衣を、と店員さんに言われたが、いやいや店員さん、甘いですよ。

 あえて僕は普段着だからこそ浴衣姿の波雲氏が引き立つという、厳密な計算です。決して男性で浴衣が似合うにはそれなりの胸板なんかがないと駄目だ、という理由ではないのであしからず。というか野郎の浴衣なんぞに興味はありませんし読んでくれている方もそんなものどうでもいいでしょうから。


 で、当然その後はお会計なのだが、僕が選んだ今時とはちょっと違うが定番な路線のあれこれは他に比べて三倍くらいの値段らしく、合計すると僕の半年分くらいの生活費に相当するので、これは大袈裟でなく狼狽してしまった。浴衣は安い、という先入観があったので尚更で、やっぱり女性の買い物というのは財布を揺るがす習慣なのだなと納得しつつ、さてどうしようか、まさかここでローンを組むのはカッコ悪いような、しかし総額からそれが自然なようでもあり、とあたふたしていると、試着室で普段着に戻ったノーマル波雲氏がレジカウンターにカードを置いて、それで一件落着した。

 花火大会に誘ったのも浴衣をリクエストをしたのもチョイスしたのも僕なのに波雲氏が支払いを、というのは何だかささやかなプライドががらがらと崩れるところだが、自分のものは自分で買う、という波雲氏の男前な科白と某アメリカンカードのプレミアゴールドを出された店員さんは若干驚きつつ、お会計で万事が終了したのだった。

 マンションだったり腕時計だったりがあるので、波雲氏の金銭事情にはもう驚かないです。


 そんな、主に僕だけドタバタな買い物で気付けば昼過ぎだったので店を出て目に付いた定食屋に入り、僕は掻き揚げ丼、波雲氏はサバの味噌煮定食を注文し、毎度ながらで波雲氏のおごりでご馳走になり、まだ早いかなと思いつつ車でマンションに戻ってあれこれの雑用をこなしながら浴衣の余韻を堪能しつつ一日を終えての翌日。

 花火大会は今日の夕方、十九時から二十一時までと情報誌にあるのでまだまだ余裕があるが、例えば僕が一旦自宅に戻って着替えるということはあえてしない。見栄えが大した衣服など持っていないし、浴衣姿な波雲氏と並べるだけの服装など貧相な僕の部屋にはまずないだろうから、そのままでいることにした。

 着物店でプレミアゴールドカードをポケットティッシュ感覚で出した波雲氏も凄いが、その前、チョイスを僕に任せるというのも物凄く、服装に限らずあれこれ適当で済ます波雲氏なので選ぶ面倒から適当に任せた、とするには僅かに、かすかに波雲氏の様子が違っていたことを僕は見逃していなかった。

 だからといって僕が波雲氏に認められているだとか自惚れることはないがつまり、少なくとも短くはない付き合いなので好みくらいは解るだろう、という具合なんだろうなと考えるのが妥当かもしれない。間違っても波雲氏に僕に対する甘い感情があるなんてことは想像もしないし、そんなことがあればそのまま笑顔で天国行きでも後悔はないのだが現実的でもないので、だったらライフと引き換えの天国行きでそれを実現してくれとかは思っても実行はさすがにしないが、そういう取り引きを持ちかけられたら心が揺れるかもしれない可能性はあえて否定もしないでおこう。


 女性と縁の少ない限りの2次元をこよなく愛する同胞には申し訳ないくらいの一大イベント、超絶美人お姉さんたる波雲氏と浴衣を買いに一緒に行って僕がそれを選ぶというこれはギャルゲーなら隠しイベント扱いなものだが、そこで更に普段はそれはそれで魅力的な黒いストレートヘアを天下無敵のポニテにしてうなじがちらりと見えるという、そこだけでプレミアレアカード発売決定なシーンまであり、写真こそないが僕の脳回路にしっかりとその光景は刻まれて、しかしなのだ。

 その隠しイベントには続きがあるとは書いた通りで、もう数時間後はまたあの悩殺浴衣姿のポニテ版椿波雲の登場であり、しかも初夏の花火大会というシチュエーションは、煩悩が沸騰して鼻から湧き出しても不思議でもないものだが、そうなると不機嫌が常の波雲氏の表情はそれはそれでアリで、もしも、もしも花火へと向かう最中に笑顔なんかがチラリとでもあれば、こちらもキラキラ版プレミアカードか限定生産フィギュア発売決定の価値で、なんて毎度の妄想は心のブレーキで抑えて、花火が良く見えるスポットのうちの穴場をネットの地図サイトなんかできちんとチェックして、波雲氏が極度に嫌う人ごみなども避けるルートを頭に入れて、大いに初夏のスペクタクルイベントを堪能してもらいつつ、僕は僕で波雲氏の魅惑の浴衣姿を隅々まで堪能じゃなかった、波雲氏と一緒に花火大会を満喫しようというプランである。

 古典的ありきたりイベントながら、花火大会、いいじゃないですか。隣に無敵の浴衣姿の波雲氏なら、咲いて散る一瞬の魅力たる花火の如く、もう我が生涯に一片の悔いなしですがまだまだ生きますけどね。当初、たかが花火とかバカにしていたものの、されど花火、恐るべしです。空でバンと爆発するだけのアレに充実しきっているカップルがわんさか集まる理由が何となく解りました。他のバレンタインとかクリスマスもこういう具合な盛り上がりなんだろうな、とかでこちらも納得です。


 ……といった具合な夢心地な数時間だったのだが、今回に限り思い出して書いている部分とこの部分がそのままリンクするのですけど、いよいよ時間です。現地までは車で十五分ほどで渋滞するルートは避けるよう頭にインプットしていますし、河川敷にある丘の上の高台にベンチがあって、そこなら人ごみを避けつつ絶好の角度で花火が観れる穴場なので、屋台や露天とは少し距離はあるものの静かにのんびりと花火を見物できるそこに向かうための僕の身支度は既に済んでいて、寝室かにいる波雲氏はきっと浴衣に着替えているのでしょうけど、あ、出てきました。

 生きてて良かった。

 お店の試着室で見た浴衣姿はもっと近い距離で見ると知らず口が開いたままになってしまう反則的な色っぽさで、紺の浴衣OK、黄色い帯OK、黄色い鼻緒の浴衣下駄OK、ポニテとそこにある風車な簪OK、ちらりと覗くうなじOK、普段通り冷たい澄ました表情もそれはそれでOKの完璧浴衣美人の登場です。口に煙草があって煙がゆらゆらですけど、まあそこもOKとしましょう。

 少し早いかなと思いつつ波雲氏が珍しく持て余してる風なので、出ましょうか、と切り出してマンションを出て、駐車場から車を出します。咥え煙草で無口なのは変わらずながら、浴衣だからか普段より少し姿勢が良くて運転に集中するのに大変ですが、どうにか目的地に到着です。

 高台というほどでもないちょっとした土手に設置された屋根のあるベンチに先客はなく、しかし辺りはそろそろ暗くなる時間帯で、もう三十分もすれば目的の花火大会開始ですが、もう目的は果たしてます、とは内緒で、途中のコンビニで購入しておいたコーヒーとジュースと波雲氏の煙草をベンチに置いて、座ります。

 その手前で車で並んで座っているので肩を並べるのは初めてでもないですけど、それとこれとは話が全く違うというもので、煙草を咥えてまだ何もない夜空をぼーっと眺めるポニテの波雲氏のエロっぽくも色っぽいこと。いつもと同じで無口なのが今回ばかりは逆にいいというもので、しかしただ黙っているだけというのも勿体無いので何か話題でも、とない知識を総動員させて、変化球でスベるより、ここは素直に、浴衣が似合ってますね、という直球ストレートで勝負してみるのはどうだろう、と僕にしては随分と男前な案が浮かび、仮に肩透かしでもそれには慣れているのでここはもう決め球はそれしかないという勝負師的感覚で口を開こうとした正にその瞬間、僕の決死の覚悟を無視するように大声が響き、その人は現れた。

 夕暮れでもそうだと解る特徴的顔立ちの、浴衣ではない椿波雲が。

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