3.転の章
それはモノの捉え方は文化や風習によって異なるという意味であったのだろう。
分かりやすい例としては、日本の文化にとってのお茶とは『飲んで楽しむ』ものであるのに対して、中国などでは『飲んで楽しむ』といった他にも『飲まずに香りを楽しむ』といったものでもあるという。
この一点だけでも、片方にとってはお茶とは飲み物であるのに対して、もう片方にとってはお茶とは必ずしも飲んだりせずに香りを楽しむ物と捉えられるという話になるのだ。
「それに、相手はティーカップって答えるかもしれないじゃない」
「相手が、さっきの君の言葉をどう受け止めるか。そういった受け止め方すらも、相手の文化によっては異なる可能性があるってことだね」
「ええ。それこそ、可能性は無限よ」
小さくため息をついて。
「大昔の人達が調子に乗ってバベルの塔なんか作っちゃったせいで、自由に互いが意思疎通出来なくなったのが今の人間よ」
「神様から罰をくらったから喧嘩ばっかりしてるって?」
「災いなるかなバビロン。そのもろもろの神の像は砕けて地に伏したりってね……」
「陰険な罰だこと……」
「まあ、それについては同意するわ。でも、ちゃんと慈悲だって与えられてるわよ」
「どこにさ?」
「言葉を覚えたり、相手の文化風習について勉強したりとか、お互いにかなりの努力は必要になるでしょうけど、世界中の人達と一応は意思疎通が出来るようになってるでしょ?」
だから、完全には意思疎通の手段を奪われたという訳ではないのだと。
「そんな抜け道を用意するくらいなら、最初から罰なんて与えなきゃ良いのに」
「わかってないわねぇ」
「なんでだよ」
「私達は、もっとお互いを知ろうと努力しなさいって言われてるのよ。そうやって努力して、お互いを理解することで、前よりももっと仲良く出来るように工夫し続けなさいってね。……手段が残されているってことは、そういった努力をし続けなさいってことなんでしょ?」
そんな女の言葉に男は参ったと両手を上げて降参して見せていた。
「そこまで肯定的に考えることが出来るなら、人生色々楽なんだろうね」
「まーねー……。でも、相互理解の努力が必要っていうのは本当のことなんだと思うわ」
そう、クスリと小さく笑って。
「人間って、同じ人間の顔でさえ見分けが付きにくいのよね」
「よく知らない人の顔とかだと特にそうだね。外国人の顔を見ても、どこの国の人かは分かりにくいし……」
「多分、国籍や人種が違えば、その人達と触れ合うことが少なかったからって理由で、そういった個体識別とかが難しくなるんでしょうね。同じ人間同士でさえその有様なんだから……」
「犬や猫をみても個体識別とか難しくても仕方ない、か」
「そうね」
だが、その場合にもやはり例外はあったのだろう。
「それなのに、不思議と自分のペットのことは、皆んな見分けることが出来ているのよね……。それは犬や猫の場合でも同じなんだと思うわ」
「人間に限らずペットの側も、種族そのものが違うのに、飼い主とか知人や知り合いのこと、ソレ以外の他人とか、ちゃんと識別して態度を変えたりして対応してるよね」
「うん」
それは触れ合ってる頻度などによって種族の壁を超えて互いの個体識別を行う能力が高くなっていっていることの証明でもあったのだろう。
「つまり、僕達は人間同士は言うに及ばず、犬や猫なども含めて仲の良い生き物同士は、お互いを個別に識別できるようになっていく傾向があるって事を言いたいんだね」
それはきっとバベルの塔なんて代物をつくってしまう前の状態にも似て。
「そういうこと。人間同士は言うに及ばす、人間と犬や猫であっても、努力次第ではそれが出来るってことは?」
「死んだ後だって、もしかするとそれに似た事が出来ている可能性があるって?」
「ええ。その可能性があるって事なんじゃないの?」
つまり本来見えていても認識できないはずなのに、特別な個体の霊体だけは捉えることが出来ている。そんな可能性を示唆していたのだろう。
「なるほど。……なかなか面白い発想だね」
「これなら特別な個体の幽霊だけが種族が違っても見えている理由程度にはならない?」
「うん。これなら、かなり良い線いってる気がする……。でも、他の種族の幽霊が見えない理由にはちょっと弱いんじゃないかな」
「牛や豚、鶏の幽霊は何処だって?」
「気にならないの?」
「正直、考えたことすらなかったわね……」
きっと、それは多くの人にとって同じ事であり、知らず知らずのうちに人間を特別な存在として捉えていたという証でもあったのだろう。
「もしかして、アンタ、それって傲慢だとでも思ってるの?」
「ううん、そのことにコレまで気がついてなかったことがちょっと怖かったんだ」
「そうね。ちょっと怖かったかもしれないわね……」
「でも、まあ……。そういった感情論とか観念とかさ。深く考えたり捉えだすと色々と面倒になってくるから、さ」
そう『もっとフランクにドライに軽く考えてみようよ』と語りかけながら。
「そういったのを抜きにして、もうちょっとだけ難しく考えてみたんだよ」
「そんなの気にしなきゃ楽なのにね」
「多分、そういう性分なんだろうね」
「まあ、アンタらしいっちゃ、アンタらしいんだけどね」
「褒め言葉だと思っておくよ」
「褒めてないけどね」
「ありがとう。それで他の種族の幽霊の話なんだけど……」
「なぜ、見えないのかって?」
「可能性としては二つあると思うんだ」
「二つ?」
「単純に種族が違うから見えない。もしくは……幽霊なんて代物にはなれてない。つまり、最初から人間の幽霊しか居ない」
「二つ目の方はちょっと違和感があるわね」
「うん。これだと犬や猫の霊が見えたって体験談を説明出来なくなる」
「となると、見えてないって可能性が大きくなるわね」
「それでもまだ色々と足りないんだけどね……」
「足りないって、何が?」
「死んだら幽霊になるって言うのなら、この世界を埋め尽くすほどの数の幽霊が漂ってることにならない?」
「死んだら別の生き物に生まれ変わるっていうし、そこで整合とれてんじゃないの?」
「人間の数は昔とくらべて増え続けてるよ。死んだ数と生まれた数が合ってないでしょ?」
「色んな動物が絶滅してるっていうし、そんな風にして他の種族が数を減らしてきている分、人間になって生まれてきてるって可能性だってあるわよ?」
「ナンセンスだね」
「なんでよ」
なぜ、そこまで簡単に自分の意見を頭から否定してバッサリと切り捨てる様な真似をするのかと文句を言いたげな女に、男は苦笑を浮かべて答えていた。
「よく考えてみてよ。この世界には最初、何も生き物なんて居なかったんだよ? 地球だってただのチリとガスの集合体だったし、それらが集まって球体になった後はドロドロの熱いマグマの塊に過ぎなかったんだ。そこから何億年もかかって、ようやく最初の生き物が生まれてきたんだそうだよ。それが最初の単細胞生物だったんだろうね。つまり、最初から何十億、何百億、何兆とかの命が生まれた訳じゃないんだ」
そもそも最初の人間、アダムとイブは二人だったのだから。そういった宗教的な話を抜きにしても、最初の人間である始まりの人類は南アフリカ付近に誕生し、そこから地球上に広がっていった事が遺伝子の研究等で分かってる時代において、死者の数が新生児の数と等しい等というのは暴論にも程があったのかもしれない。
「人間だけを見ても、最初は極々少数だった筈なんだ。そこから長い時間をかけて段々と増えていって、進化していって、今に至ったはずなんだよ。それは歴史が証明してるよね?」
「まあ、そうなんでしょうけど……」
「僕は地球上のあらゆる生き物の数が昔から変動していないって可能性は、命が増え続けているという現状を加味した上で否定したいってことだよ」
「増えてるって?」
「きっと、最初の生命体は一桁くらいの規模だったんだと思う。でも、今は人間だけでも何億もいるし、昆虫は何兆って単位で数えきれない程に居て、星の表面に広がってるんだ。……命の数は、時間とともにどんどん増えていってると考えたほうがしっくりくるんじゃないかな?」
「それならむしろアメーバみたいにどんどん分裂していってるって考え方をしたほうが、いくらか納得しやすいかもしれないわね」
「アメーバか……。確かに、イメージにぴったり合うね」
そう『なるほどねー』と考え込んでいる男に対して、女は不思議そうに訪ねていた。
「なんか脱線してきてる様な気がしてするから、話を根本的な部分に戻すけど」
「うん」
「そもそも、アンタは幽霊って何だと思ってるの?」
「僕は、幽霊は霊体や魂なんかじゃないと思ってる」
「じゃあ、何だと思ってるのよ」
「ある種のエネルギーの塊。残留物程度の物でしかないんじゃないかなって思ってる」
「静電気とか電子波みたいな?」
「まだ観測とか出来てない類の、ある種のエネルギー。この世界に存在するはずの……」
「この世界の物理法則とかに影響される類のエネルギーって言いたいの?」
「うん。そのエネルギーも、熱エネルギーとか電気エネルギーとかと同じ様に、きっとエントルピーの増大による拡散からは逃げられないと思うんだ。そんな、この世界のルールに縛られた……僕達のまだ知らない類のエネルギー。それか、もっと単純に静電気みたいな感じのエネルギーかもしれない。それが僕達が命とか魂とかって呼んでいるモノの正体だと思ってる」
それはなかなか刺激的な意見ではあったが、どこか納得しやすい意見でもあったのだろう。
「じゃあ、あの世……天国や地獄は?」
「そんなの存在しないよ」
「言い切ったわね」
「まあね」
「その考えに根拠ってあるの?」
「現実問題として何処にもないから存在しないって答えじゃ駄目なのかな……」
「それでも沢山の人は、あるって思ってるわよ」
「それは宗教的な知識を植えつけられているせいで、それを信じたがってるだけだよ」
小さくため息をついて。
「神様も居なければ、閻魔だって居ない。天使も悪魔も居なければ、地獄の鬼だって居ないんだ。三途の川は何処にも流れていないし、渡守のカロンも居なければ、地獄の番犬のケルベロスなんて居る訳がない。そんなものが存在しているって考えるほうがおかしいんだ」
「アンタって、随分とドライなのね」
「ウィットに考えるべき問題じゃないんだよ。これはきっと、宗教論とか教義とかとは切り離して考えるべき話なんだ」
現実だけを捉えて。あらゆる不可能、不条理、宗教上の都合等を残らず排除していった先には、酷く冷たい現実だけが残っていた。それは熱力学における第二法則にある通り『世界はいつか絶対零度に冷やされる熱的死を迎えるしかない運命にある』という冷たい現実が存在していることにも似ていた。
究極的には宇宙にすらも、いつか絶対的に避けられない死というモノが待っているのだ。それはつまり、永遠や不老不死なんて代物は何処にも存在しないという逆説的な証明にもなっているのではなかったのだろうか。
そんな冷たい現実を前にしたとき。それこそ、全てが熱的な死に向かっていく中で……。人間は、ただ死という結末に対して悪足掻きすることしか出来ないのだろう。そんな現実だけをさらけ出していたのかもしれない。
「僕達に与えられている答えは最初から一つだけなんだよ。何人も死は避けられない。ただ、それだけなんだ。そして、僕達の世界はここにしかない。僕と君の目の前にあって、僕達の周りにこうして存在している……この冷たくて、残酷で、ちっぽけで狭くてゴミゴミしてる。そんな世界だけしか、僕達には与えられてはいないんだってね」
そんなひねくれた言葉に女は否定も肯定も返さず、ただ苦笑して答えていた。
「だから、幽霊なんてものは存在しない。輪廻転生なんて起こりえない?」
「ないね」
「じゃあ、死んだら?」
「当然、それまで、だよ」
薄く笑って。手でポンと何かが弾ける仕草を見せる。
「魂は肉体という入れ物を失ったら、ただ漂う事しか出来ないんだろうね」
「じゃあ、漂い始めた魂はどうなるの?」
「あっという間に冷え切って霧散してしまうんじゃないかな……」
多分ね、と。そう付け加えて。急激に訪れる事になるのだろうエントルピーの増大によって内包していたエネルギーは希薄になっていき、そのまま霧散するしかないのだと。
「体はきっと魂の熱量を維持する優れた機能をもってるんだと思う。それでも、熱は段々と失われていくんだ。僕の認識では魂は熱湯。体は魔法瓶って感じなんだよ」
その例えは色々と間違ってはいたがイメージしやすい例え方ではあったのだろう。
「魔法瓶からこぼれたお湯は、あっという間に冷えてしまうのね」
「冷えていって常温になってしまえば、そこで終わりって事だよ」
「でも、お湯って魔法瓶にいれていても何時かは冷えてしまうのよね」
「それは避けられないからね。所詮は、早いか遅いかの差でしか無いよ」
「再加熱は?」
「基本的には出来ないと思ったほうが良いだろうね」
寿命で死ぬのもケガで死ぬのも大差はないのだろう。肉体の中で冷え切って霧散するか、魂が体の外に漂い出て霧散していくか。それは、きっと、そういう意味だったのだろう。
「つまり幽霊っていうのは……」
「まだ世界に拡散してしまう前の状態。熱を残してる魂そのものなんじゃない?」
その考え方でいくと、魂はいつか熱的な死を迎えて散華するということになるのだろう。