無能な針子と呼ばれ、十一着の礼服を従姉名義で売られましたが、最後の三針が私の名を取り戻します
ぷつり、と指先が裂けた。
白い絹糸に赤が移る寸前で、私は指を引っ込めた。危ない危ない。礼服一着を台無しにすれば代金から引かれる。そもそも私へ渡される代金はゼロなので、引かれたら負債になる。働くほど借金。ずいぶん先進的な工房だ。
「手が止まっているわ、ヨハンナ」
リーゼルは鏡の前で、完成した紺色の礼服を自分の肩へ当てていた。
「血を拭いています」
「見えるところへつけないでね。ロイ様がお召しになるのよ」
見えないところなら私の血が入っても構わないらしい。承知しました、店主様。
私は布を汚さぬよう指へ端切れを巻き、袖口を返した。採寸から裁断、胴の合わせ、肩の逃がしまで、すべて私がした。残るのは袖裏の三針だけ。
一針目を内へ倒す。
二針目で糸を張る。
三針目は、着る人の腕が動く余地をひと呼吸ぶん残して留める。
「最後の三針は、私の仕事です」
「独り言はいいから、早くして」
早くすると糸がつれる。でも説明したところで、リーゼルが縫うわけではない。
納品票を持ってきたニコラウスさんは、眼鏡越しに紙を読んだ。
「春の第一月三日。紺絹の礼服、一着。受領は本日夕刻」
人より先に日付を呼ぶ人なので、私はニコラウスさんが好きだった。日付は嘘をつかない。人はする。いまも目の前でしている。
リーゼルは仕立人欄の「ヨハンナ」に一本線を引き、その上へ自分の名を書いた。
「あなたの縫い目では店頭に出せないもの。最後に確認した私の名義で出します」
「代金は」
「直しが必要だったでしょう?」
直したのは、リーゼルが仮留めした襟の左右差だ。私の縫い目ではない。
「次はもっと努力してね」
代金はゼロ、署名はリーゼル、針だけは私持ち。
私は春の第一月三日を頭へ縫いつけた。布より丈夫なところへ。
* * *
翌月、紺色の礼服が戻ってきた。
修繕依頼だった。
「同じ仕上げを、とロイ様からのご指定ですって」
リーゼルは頬を染め、伝言を二度読んだ。称賛は自分の名義で届くと、まことに吸収が早い。
礼服は丁寧に手入れされていた。胴にも裾にも傷みはない。ただ、袖口だけが毛羽立ち、糸が一本切れている。何をどうすれば袖だけ戦場帰りになるのか。
私は同じ向きへ三針を置き直した。
仕立人欄は、またリーゼルだった。
三月目は灰色の礼服。四月目は銀糸の礼服。
私は月に三組までしか仕上げられない。四組目へ手を出すと、決まって指の腹が開く。それなのにリーゼルは注文台へ追加の布を積んだ。
「今月は五組お願い」
「指は三組分しかありません」
「若いのだから平気でしょう?」
若さを万能の替え指だと思っている。ではリーゼルの若さにも二組ほど働いていただきたい。
四着目の採寸には、ロイ様本人が現れた。
背が高く、肩幅が広く、こちらが巻尺を回すたび黙って腕を上げてくれる。礼服の客としては大変ありがたい。こちらの指を見つけるまでは。
「その手を見せろ」
命令、一つ目。
「採寸が先です」
「今日は縫うな」
二つ目。
「納期は明日です」
「薬を塗れ」
三つ目。採寸より命令のほうが多い客は初めてだ。
「ロイ様、腕を下ろしてください。肩幅が増えます」
「増えない」
「では命令で胸板まで厚くならないよう、息を吐いてください」
ロイ様は何か言いかけ、渋い顔で息を吐いた。
リーゼルが接客室へ入ってきた途端、彼女は私から巻尺を取り上げた。
「お待たせして申し訳ありません。この子、手伝いには慣れているのですけれど、採寸となるとまだ遅くて」
「三月目の灰色は、誰が採寸した」
「もちろん私ですわ」
「そうか」
ロイ様の目が私の指へ戻った。
その日は三つ以上、命令されなかった。上出来である。
五月目、リーゼルは私の手元を見張った。
一針目。
二針目。
三針目。
「なんだ。そこだけなら簡単ね」
翌日、彼女は同じ三針を真似た袖を店頭へ飾った。表から見れば似ている。裏返すと、三本とも同じ方向へ寝ていた。腕を曲げれば布が引かれ、ほどなく糸が食い込む。
「私にもできたわ」
「はい。三針ありました」
そこまでしか褒められない。数は合っている。数だけは。
六月目から、私は注文票の控えへ三針の向きを書いた。
左、右、内。
右、内、左。
布の織りと、袖を通す人の癖で変える。リーゼルには読めないよう、袖口の簡単な絵へ小さな矢印だけを添えた。秘密の暗号というほどではない。見ていない人には、説明書があっても読めないだけだ。
七月目、ロイ様は表の接客室を通らず、裏の作業場まで来た。
私の椅子、私の裁ち台、私の血がついた針山。壁には納期順の布が掛かり、鍵のかかる材料棚だけは開けられない。工房の鍵はリーゼルの腰にある。
「ここで縫っていたのか」
「ここ以外では、リーゼルに見つかります」
「屋敷へ来い」
命令、四つ目。
「お断りします」
「屋敷付きの針子なら材料も薬も用意する。仕事をやめろ」
五つ目。増え方が雑!
「屋敷付きの針子にするのか、仕事をやめさせるのか、どちらです?」
ロイ様は口を閉じた。
「指を守るためだ」
「私から仕事を取り上げることを、守るとは呼びません」
「だが、この手では」
「この手で縫ったものを、ロイ様は毎月返してくださいますね」
傷んだ袖だけを。ほかのところは、新品より大切に扱って。
ロイ様は作業台に置かれた七着目を見た。裏返した袖に触れそうになり、裂けた私の指を見て、手を引く。
「せめて一人で帰るな」
「六つ目に数えます」
「夕食を抜くな」
「七つ目。採寸は終わりましたので、本日の命令受付も終了です」
追い出すと、戸口で二度振り返った。心配が増すほど語数が減る人なので、三度目は睨むだけだった。
八月目、リーゼルはロイ様の前で私を「よく働く手伝いの娘」と呼んだ。
ロイ様が帰ると、声が一段高くなる。
「八着目は三日早く仕上げて。九着目も先に裁っておきなさい。あなた、手伝いなのに接客室で余計なことを話しすぎよ」
「三日早めるなら、ほかの二組を断ります」
「全部やればいいでしょう」
「私の指は増えません」
「言い訳ばかり!」
扉の向こうで物音がすると、リーゼルの語尾だけが急に柔らかくなった。
「あら、ニコラウスさん。受領票ですの?」
「夏の第四月十二日。薄青の礼服、一着。受領は予定より三日早い」
ニコラウスさんは一枚だけ差し出した。
「確認ですが、八着目の受領日は今日で間違いありませんね」
「ええ。九着目は?」
「受領していない品の日付は記せません」
日付は本当に頼もしい。叱られても声量が変わらない。
私は八着目を渡しながら、小声で頼んだ。
「一着目からの受領日を確認できますか」
「組合の控えにあります」
「誰の名で?」
「八か月すべて、納品名義はリーゼル。現在は八月目ですが」
「先の二か月分も予約済みです」
ニコラウスさんは眼鏡を上げた。
「では、受領の都度、控えを残します」
九着目を受け取った日、ロイ様はリーゼルが勧めた新作を見もしなかった。
「前の灰色を」
「ですが、あれはもう何度もお召しですわ。こちらは私が新しく意匠を——」
「灰色を着る」
短い。強い。そしてリーゼルの笑顔が薄い。
修繕した灰色の礼服へ、自分の意思で腕を通す。袖口が、灯りを映したのでもないのに淡く光った。
ほんの一度。
私が瞬きをしたときには、ただの灰色へ戻っていた。
「いま、何か」
「どうした」
「袖が——いえ。糸が馴染んだだけです」
そんな馴染み方があるものか。
けれどロイ様は古い袖口を指でなぞり、満足そうに帰った。リーゼルの新作は衣装掛けに残ったまま。飾り物としては満点なので、そのまま飾っておけばよろしい。
十着目の受領票にも、リーゼルは自分の名を書いた。
未払い、十か月。
ロイ様の命令、七つ。
私の名、ゼロ。
数えるほど、腹の底がよく冷えた。
* * *
十一着目は、辺境伯家の宴席で披露される礼服だった。
リーゼルは最上等の布を出し、客前で選んだ意匠だけを得意そうに語った。裁断は私。採寸も私。縫製も私。リーゼルは金糸の飾りを一つ選び、仕立人欄へ名前を書く。
分業と呼ぶには、配分が大胆すぎる。
「絶対に失敗しないで。これで私の工房の名が決まるのよ」
「工房の鍵も、名義も、リーゼルが持っていますからね」
「そうよ。分かっているなら丁寧に」
分かっている。とうに。
私は裂けた指へ布を巻き、十一着目の袖を裏返した。
一針目は外へ。
二針目で戻し。
三針目を、腕の動きに沿わせて内へ倒す。
「最後の三針は、私の仕事です」
リーゼルが顔を上げた。
「何?」
「仕上がりました」
受領票には日付、品名、リーゼルの署名。
私は控えの袖口の絵へ、外、戻し、内、と矢印をつけた。
「ニコラウスさん。これを預かってください」
「秋の第三月二十一日。白銀の礼服、一着。受領は正午」
ニコラウスさんは控えを折らず、厚い帳面へ挟んだ。
「確かに預かりました」
リーゼルは十一着目を抱え、宴席へ向かった。私は替え針と修繕箱を持たされた。仕立人は客席へ出せないが、ほつれを直す手は必要らしい。
便利な無能である。
宴席では、これまでの礼服を買った騎士たちも並んでいた。
紺。灰。銀。薄青。十か月ぶんの袖が、燭台の下で動く。丁寧に手入れされ、何度も着られた布だ。十一着目を着たロイ様は、リーゼルが用意した新品の模倣礼服ではなく、私が繕った古い袖覆いまで重ねていた。
「せっかく私が新しくお作りしたものがございますのに」
「これがいい」
リーゼルの笑顔が、また薄くなる。
私は壁際で命令数を更新した。
「私の後ろにいろ」
八つ目。
「修繕箱を置け」
九つ目。
九つ目に違反して箱を抱え直した瞬間、杯が落ちた。
甲高い音。
給仕に紛れていた男の腕から、細い刃が何本も飛んだ。
ロイ様が私を背へかばう。刃はその袖へ当たり——白く弾けた。
布の内側から光が走る。
紺の袖。
灰の袖。
銀の袖。
騎士たちが腕を上げるたび、刃は袖口で向きを変え、床へ落ちた。
「袖が光ったぞ!」
「刃が通らない!」
「こちらもだ、傷がない!」
十一か月の仕事が、一斉に腕を上げていた。
ただ一人、リーゼルが途中まで縫った模倣礼服を着た護衛の袖だけは光らなかった。刃が布を裂き、腕へ浅い線を引く。見た目が同じでも、三針の数が同じでも、そこには何もいない。
ロイ様は襲撃者を床へ押さえつけた騎士へ任せ、私へ振り返った。
「動くな」
十個目。
私は動けなかった。
ロイ様の袖口には、刃を受けた箇所だけ赤い跡が残っている。けれど皮膚には届いていない。
彼は袖を裏返した。
外へ一針。
戻して一針。
内へ倒した、最後の一針。
私の指から移った小さな血の跡まで、そこにあった。
ロイ様はその袖を握ったまま言った。
「これを縫った者を連れてこい」
リーゼルが一歩出た。
「はい、私が——」
ロイ様は彼女を見なかった。
「ヨハンナ」
はじめて、客前で私の名が仕立人として呼ばれた。
「お前だな」
十一着ぶん溜めた息が、やっと出た。
「はい」
たった二文字。もっと気の利いたことを言う予定だったのに、私の口は本番に弱い。
その代わり、胸の内では針山ごと万歳していた。
見たか、十一か月分! 私の袖は、名札がなくても持ち主を間違えない。
* * *
職人組合の裁定の日、リーゼルは用意してきた笑顔を崩さなかった。
「私が仕立てました。ヨハンナには簡単な下縫いを手伝わせただけです」
客前の柔らかい声。まだ使えると思っているらしい。
ニコラウスさんは十一枚の注文票を並べなかった。
最初の一枚だけを、私の前へ置いた。
「春の第一月三日。紺絹の礼服。受領は同日夕刻。納品名義はリーゼル」
「ええ。私の最初の仕事ですわ」
組合員が尋ねた。
「ではリーゼル。この礼服の最初の修繕箇所は?」
「襟です。ロイ様は剣帯をお使いになるので、襟元が擦れて」
ニコラウスさんが二月目の修繕票を重ねる。
「右袖口、糸切れ一本。襟の修繕記録はありません」
「細かな箇所まで、十一着すべて覚えているはずがないでしょう」
「最初の仕事では?」
ニコラウスさんは責めない。日付と品名を先に言うだけだ。だから逃げ道が勝手に狭くなる。
私は紺の袖を裏返した。
「最後の三針は、どちらへ倒しましたか」
「内側よ。当然でしょう」
「一針目は右、二針目は左、三針目だけ内側です。ロイ様は右腕を先に通すので、引かれないように」
組合員が袖裏の糸を確かめる。
リーゼルは笑顔を保った。頬だけが動かなくなった。
次に置かれたのは四月目、銀糸の礼服。
「受領は春の第四月十八日。予定より一日遅れ」
ニコラウスさんが票の余白を読んだ。
「仕立人の指の負傷により、血移り確認をヨハンナ立ち会いで実施」
「手伝いが怪我をしただけです」
「では、銀糸の袖で張りを逃がした箇所は?」
リーゼルは私を見た。二人きりのときの目だ。答えなさい、と声を出さずに命じる目。
私は自分の指を組んだ。
今日は彼女の作業指示を受ける日ではない。
「肘でしょう」
「手首です」
銀糸の袖を返す。二針目だけが斜めに渡り、硬い飾り糸を避けている。
ニコラウスさんが次の一枚を置いた。
「夏の第一月九日。薄緑の礼服。受領は正午」
「それなら覚えています。左袖を短く仕立てたものです」
騎士の一人が腕を上げた。
「着用日は夏の第一月十日。短かったのは右袖だ。左腕に古傷があり、そちらを長く取ってもらった」
「負傷は?」
「なし。袖口が光り、折れた杯の破片を弾いた」
別の騎士が続く。
「灰色を着た秋の第一月二日も負傷なし」
「紺を着た春の第三月二十七日もだ。傷んだのは袖口だけだった」
宴席の奇跡が、日付と負傷の有無へ変わって積まれていく。飾りのない証言は強い。こちらへ都合がよすぎて、私なら銀糸で縁取りしたいくらいだ。
「たまたまです」
リーゼルの声が大きくなった。
「ヨハンナがあとから直した箇所がそう見えるだけ。仕立てたのは私です。下働きが、私の意匠を盗んで自分のものだと言っているのよ!」
同じ口で横取りを叱れるとは、縫い目より面の皮が丈夫である。
扉が開き、ロイ様が入る。
リーゼルの声量が半分になった。
「ロイ様、これは工房内の行き違いで——」
ロイ様は十一着目の袖だけを裁定卓へ置いた。
「質問を続けろ」
短い。リーゼルの語尾が消える。
組合員が白銀の袖を持ち上げた。
「リーゼル。十一着目は、あなたが仕立てたと?」
「はい」
「最後の三針をどちらへ倒した」
「内側です。すべて内側へ」
私は袖を受け取った。
一針目は外。
二針目で戻る。
三針目だけが内。
「リーゼル。あなたが仕立てたのなら、最後の三針をどちらへ倒したか、ご存じですね?」
「いま答えたでしょう!」
「答えと袖が違います」
私は受領控えを開いた。外、戻し、内。十一着目を納品する前に、ニコラウスさんへ預けた矢印だ。
袖裏には、同じ順の三針。
そして三針目の脇に、裂けた私の指から移った点が一つ。
リーゼルの笑顔が落ちた。
「それは、ヨハンナが勝手に最後だけ——」
「一着目は?」
「……最後だけです」
「四着目の銀糸は?」
「下縫いを」
「七着目の肩の逃がしは?」
「採寸を手伝わせて」
「九着目の左右差は?」
「私は意匠を選んだわ!」
答えるたび、仕事が減る。仕立人が三針になり、下縫いになり、採寸になり、とうとう意匠選び一つになった。実に効率のよい自己解体だ。
ニコラウスさんが十一枚の票を、今度は受領日の順に重ねた。
「全件、納品名義はリーゼル。全件、受領時または修繕時にヨハンナの立ち会い記録あり。七件に指の負傷確認。六月目以降の控えにある矢印は、現物の三針と一致します」
リーゼルの前へ訂正文書が置かれた。
「署名を」
「家族でしょう、ヨハンナ」
初めて、リーゼルは私を見た。
「工房を守るためだったの。あなたは接客が苦手で、私の名がなければ売れなかった。二人でやった仕事でしょう?」
「代金を二人で分けたことはありません」
「これから分ければ——」
「過去の売上を返してからのお話です」
リーゼルの手が止まる。
私は十一着目の袖を、彼女の前でもう一度裏返した。
「最後の三針は、私の仕事です」
私語ではない。
組合員、騎士、ロイ様、ニコラウスさん。全員が聞いている。
リーゼルはペンを握った。最初の字で一度インクをこぼし、それでも書き直しは許されなかった。
「十一着すべて、ヨハンナが縫いました」
自分の署名で認める。
ニコラウスさんが訂正文書へ受領印を押した。
十一枚の仕立人欄からリーゼルの名が消され、一枚ずつ私の名へ改められる。最後の票に印が落ちたとき、十一か月ぶんの売上金の残額が入った工房の金庫も封を切られた。
不足分はリーゼル個人の預金から弁済される。返金の証書が私の前へ渡り、店主名義の返還書にも印が押された。
紙だけでは終わらない。
リーゼルは腰から工房の鍵を外した。
金属が卓へ当たり、乾いた音を立てる。
店主の席から立たされ、裁定卓の端へ移る。そこには「仕上げ職人」と書かれた雇用票があった。賃金制、全品検査、売上への接触禁止。監督は組合。家族だから免除、の欄は最初から存在しない。
「残るなら、この条件です」
私が言うと、リーゼルは唇を噛んだ。
工房を出れば弁済義務は残る。残れば、自分の名で働いた分だけ賃金が出る。
彼女は二度目の署名をした。
救いではない。仕事である。針は一本ずつ持たせる。
* * *
裁定が終わると、ロイ様は工房の鍵を拾った。
「工房は閉じろ」
命令、十一個目。
「返してください」
「指が裂ける」
「私の工房です」
「ならば職人を雇えばいい。お前は本邸へ来い」
「十二個目は契約違反です。十三個目を言う前に、その婚姻契約へ署名してください」
ロイ様が止まった。
私は裁定卓の下から、用意していた契約書を出した。
「仕事の継続。工房の鍵は私が保持。単独外出の自由。注文を選ぶ権利。月三組の上限。私の同意なく工房を閉じないこと」
「婚姻契約を持ち歩いていたのか」
「受領控えと一緒に、たまたま」
ロイ様は私をじっと見た。何月目から気づいていたかなんて、聞いてはいけない。女には裁定へ持参した婚姻契約の一枚や二枚、ある。
「守る必要がある」
「守ってください。私が立っている場所ごと」
ロイ様の手から、鍵が私の掌へ落ちた。
先に鍵。
それから彼は、求婚した。
「ヨハンナ。私と結婚しろ」
「命令形ですね」
「結婚してくれ」
「採用します」
私は署名した。
ロイ様も署名し、条項を最初から最後まで読んだ。そして一か所を指で叩く。
「閉じ込めるなとは書いてある。毎日迎えに来るなとは書いていない」
「十三個目に数えますよ」
「命令ではない」
「では、毎回お誘いください。断る権利はこちらにあります」
「毎回誘う」
抜け道を見つけた顔が、宴席で襲撃者を押さえたときより真剣だった。過保護にも契約が要る。たいへん良い勉強になったことだろう。
翌月、組合台帳の工房主欄が読み上げられた。
「工房主、ヨハンナ」
ニコラウスさんが日付を記し、騎士たちがリーゼルではなく私の前へ並ぶ。
「次の礼服を頼みたい」
「私もだ」
「宴席で着た袖と同じ仕上げを」
「月三組までです」
三人が即座に手を挙げた。四人目からは翌月。命を守る袖でも納期は守っていただく。指は増えない。
リーゼルは離れた仕上げ台で、検査票のついた裾を縫っている。客へ名乗ることも、売上箱へ触れることもない。縫った分だけ記録され、賃金が出る。私はその仕上がりを確認し、合格した一枚にだけ印を押した。
夕方、最後の客を見送ると、ロイ様がいた。
本当に毎日来る気らしい。
「帰るぞ」
「命令ですか?」
「誘いだ」
「では、お受けします」
差し出された手へ自分の手を重ねる。裂けた指を見つけたロイ様は何も言わず、持っていた清潔な布で一本ずつ包んだ。
一、二、三。
最後の三本を包み終えても、鍵は私の掌にあった。




