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音使いの白狐  作者: Triones
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第一話:空色の鈴音(すずね)

山を一つ越えるごとに、空気の色が変わる。

北へ向かうほどに、陽の光は薄く、冷気を帯びてきた。


雪を孕んだ雲が低く垂れ込める山道を、「音使い」である白上フブキが一歩ずつ踏みしめていた。

彼女の足音は、湿った落ち葉に吸い込まれて消える。

白い髪が風に揺れ、その間から覗く三角形の耳が、時折ピクリと不自然な動きを見せた。

彼女の耳には、普通の人間には聞こえない「音」が届いている。


「……冷えてきましたねぇ」


独り言は、白く小さな吐息となって霧の中に溶けた。

フブキは腰に下げた、真鍮製の古いラジオのような機械を軽く叩く。

それは「調律器」と呼ばれる、音使いの商売道具だ。

メーターの針が、微かな震えを見せている。

近くに、いる。


この世のことわりから零れ落ちた、音の亡霊――『響子ひびこ』が。


響子とは、生命が形を成す前の「震え」そのものだ。

それ自体に善悪はない。

ただ、そこにあるだけで周囲の音を歪ませ、時に人の精神や肉体を変質させてしまう。


フブキが目指しているのは、その山間にある「楢の木村」だった。

数ヶ月前から、村全体が「奇妙な音」に侵され、人々が次々と病に倒れているという。


峠の頂に立ったとき、フブキの耳が鋭く反応した。

「チリ……ッ……、リ……」

微かだが、鼓膜を針で突くような、凍てつく金属音。

村を包む霧の奥から、その音は脈打つように響いてきた。


「これは……『氷弦ひょうげん』ですか。随分と、深い哀しみが混ざってますね」


フブキは目を細め、静かに村へと下っていった。

ーーーーーーーーーー


村に入ると、異様な光景が広がっていた。

まだ昼時だというのに、人影は一切ない。

どの家も戸を固く閉ざし、隙間という隙間に古い布や真綿が詰め込まれている。

まるで、外から忍び寄る「何か」を、音一つ立てずに拒んでいるかのようだった。


フブキは村の中央にある、古びた庄屋の門を叩いた。


「ごめんください。旅の者ですが」


返事はない。

しかし、奥の方から、激しい耳鳴りに耐えるような、呻き声が漏れ聞こえてくる。

フブキはためらわず、調律器のダイヤルを回した。

機械が「サーッ」という砂嵐のような音を吐き出す。

不思議なことに、その雑音が流れると、家の中から漏れていた不快な緊張感が、わずかに和らいだ。


やがて、重い戸が数センチだけ開いた。

顔を出したのは、ひどく目の下に隈を作った、痩せ細った男だった。


「……あんた、耳は大丈夫なのか」


男の声は掠れ、震えている。


「ええ、少しばかり耳が丈夫なもので。音使いをしてます、白上といいます」


男は「音使い」という言葉を聞くと、救いを求めるように門を開いた。

男の名は、この村の長である源三だった。


奥の広間に通されると、そこには源三の妻とおぼしき女性が、耳を厚い布で縛って横たわっていた。


「一ヶ月前からです」


源三が、震える手で茶を淹れながら語り始めた。


「最初は、夜風に混じる綺麗な鈴の音だと思っていました。ああ、冬が来るな、と。ですが、その音は次第に大きく、鋭くなっていった。今では、耳を塞いでも頭の中に直接、氷の粒を流し込まれるような音が響くのです。夜も眠れず、村の者は皆、正気を失いかけている」


フブキは源三の言葉を静かに聞きながら、部屋の四隅に視線を走らせた。

天井の梁から、細い、銀色の糸のようなものが垂れ下がっている。

それは実体がないかのように、風もないのにゆらゆらと揺れ、壁を通り抜けて消えていく。


「あれが見えますか」


フブキが指差すと、源三は首を振った。


「何も……。ただ、あそこから『音が降ってくる』ような気がするだけです」


「あれが『氷弦』です。冷気を媒介にして増殖する響子の一種。ですが、氷弦は本来、これほど人里に降りてくるものではありません。もっと高い、雪山の頂でひっそりと鳴っているはずのものです」


フブキは茶を一口啜り、ふっと視線を落とした。


「源三さん。この村で最近、誰か亡くなりませんでしたか? 音楽を愛していた方、あるいは……声を出せなかった方」


源三の手が止まった。

彼の目から、大粒の涙がこぼれ、畳に染みを作った。


「……私の娘、サヨです。生まれつき、喉が弱く、一言も喋ることができなかった。サヨは、あの広場にある『火の見櫓の鐘』を鳴らすのが唯一の楽しみでした。あの子が鐘を叩くときだけは、まるで自分の声が村中に届いているような……そんな幸せそうな顔をしていたのです」


サヨは初秋、急な流行り病で世を去ったという。

彼女が亡くなった日の夜から、あの冷たい「鈴音」は鳴り始めた。


「サヨさんは、自分の声を置いていってしまったのですね」


フブキは静かに立ち上がった。


「想いが強すぎると、音は行き場を失い、響子と混ざり合って『淀み』を作る。彼女の残したかった声が、氷弦に囚われてしまったんですね」

ーーーーーーーーーー


フブキは一人、村の中央にある火の見櫓へと向かった。

陽は既に落ちかけ、周囲は藍色の闇に包まれ始めている。

気温が下がるにつれ、『氷弦』の音は激しさを増していった。

「キィィィィィィン……」

それはもはや鈴の音ではなく、凍った大気が悲鳴を上げているかのような、鋭利な響きだった。


櫓を見上げると、そこには驚くべき光景があった。

巨大な鐘を包み込むように、無数の銀色の糸がまゆを作っている。

糸は天高く、雲の向こうまで伸びており、そこから冷気と音を吸い上げているようだった。


「……これは、想像以上に根が深い」


フブキは調律器を櫓の柱に固定し、いくつもの複雑な配線を引き出した。

彼女が調律器のスイッチを入れると、機械の真空管が青白く発光する。


「コンコン……聞こえますか、サヨさん」


フブキは調律器を通して、語りかけた。

それは言葉というよりも、一定の周期を持った「波形」だ。

音使いは、音を以て音と対話する。


「貴方の声は、もう十分届いてますよ。でも、このままでは村のみんなが凍りついてしまう。音は、流れなければならないんです」


返答の代わりに、突風が吹き抜けた。


『氷弦』が激しく震え、フブキの頬をかすめる。

かすった場所が、一瞬で白く凍りついた。


フブキは痛みに眉をひそめることもなく、背負い袋から小さな木箱を取り出した。

中には、透き通った青い石――「響石ひびきいし」が入っている。

それは、ある晴れた日の「波の音」を閉じ込めたものだ。


「氷を溶かすのは熱だけではありませんよ。より強い『生』の響きです」


フブキは響石を指先で弾いた。

パリン、と美しい音が響き、石が砕ける。

その瞬間、凍りついた広場に、真夏の海の記憶が溢れ出した。

寄せては返す波の音。カモメの鳴き声。陽炎の揺らめき。

冬の山村にはあり得ないはずの、暖かな音の塊が、銀色の繭へと衝突する。


「チリ……ッ! ギギギ……」

氷弦が嫌悪感を示すようにのたうち回る。

冷たい金属音と、暖かな波の音が混ざり合い、広場は異様な「不協和音」に支配された。

フブキは調律器のツマミをミリ単位で調整し、二つの相反する音の接点を探り続ける。


(……もっと。もっと深く。サヨさんの『本当の声』に同調して)


フブキは目を閉じ、自身の聴覚を極限まで研ぎ澄ませた。

雑音の奥の奥、氷の壁の向こう側に、小さな、震える震動を見つけた。


それは「助けて」でも「苦しい」でもなかった。

「聴いて」

ただそれだけの、純粋で、透明な願い。


「ええ、聴いていますよ」


フブキの声が、不協和音の中に静かに通った。


「いい声ですね、サヨさん。それはまるで、冬の朝に初めて踏む、新雪のような……」


フブキが調律器の最後の一押しをした瞬間。

「――ボォォォォン」

誰の手も借りず、火の見櫓の鐘が、自ら鳴り響いた。


それは、これまで村を苦しめていた鋭い音ではなかった。

深く、重厚で、それでいてどこか優しく、村全体を抱きしめるような、柔らかな余韻。

銀色の糸は、その鐘の音に解けるようにして、光の粒子となって霧散していった。

ーーーーーーーーーー


翌朝、村は深い雪に包まれていた。

だが、その雪は以前のような刺すような冷たさではなく、どこか穏やかな静寂を運んできた。


村人たちは次々と家から出て、眩しそうに空を見上げた。

耳鳴りは消え、人々の顔には久方ぶりの平穏が戻っていた。


源三は、フブキの手を何度も握りしめた。


「鐘の音が……聞こえました。サヨが、最後に笑って『さよなら』と言ったような、そんな気がしたんです」


フブキは穏やかに微笑み、雪に埋もれた山道を見据えた。


「サヨさんは、この村の風になりました。これからは雪が降るたび、彼女の穏やかな呼吸が聞こえるはずです。それはもう、誰を傷つけることもありません」


フブキは調律器を袋にしまい、青いマフラーをきつく巻き直した。


「さて、私はそろそろ行きますね。次の『音』が私を呼んでいますから」


「あ、あの! お礼も何も……」


源三が慌てて呼び止めるが、フブキはひらひらと手を振るだけだった。


「代わりに、冬の間、あの鐘を時々鳴らしてあげてください。サヨさんが寂しがらないように。……あ、あと、美味しい油揚げがあれば、一つ頂いてもいいですか?」


茶目っ気たっぷりに笑う彼女の姿は、先ほどまでの神秘的な「音使い」とは別人のようだった。

ーーーーーーーーーー


村を離れ、再び独りになったフブキは、深い森の中を歩いていた。

彼女の腰の調律器からは、微かにラジオの雑音が流れている。


「……お疲れ様です、フブキさん」

不意に、調律器からノイズ混じりの「声」が聞こえた。


フブキは驚く様子もなく、機械に向かって話しかける。


「いい仕事でしたよ。でも、氷弦があれほど巨大化するなんて、やはりこの地の『音の巡り』が少しずつ狂い始めているのかもしれませんね」


機械の向こう側の主は、フブキの言葉を肯定するように、短くノイズを鳴らした。


フブキは足を止め、空を仰いだ。

雲の切れ間から、透き通った冬の青空が覗いている。

どこからか、チリン、と小さな鈴の音が聞こえた気がした。


「次は……海の近くでしょうか。潮騒の中に、何か『不自然な静寂』が混ざっているみたいですね」


白い狐の耳が、新しい音を求めてピクリと動く。

彼女が歩き出すと、その足跡はすぐに新雪に覆われ、まるで最初から誰もいなかったかのように、森は再び深い静寂に包まれていった。


音は巡る。

形を変え、主を変え、この世界の隙間を縫うようにして。

それを導く「音使い」の旅は、まだ始まったばかりだった。

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