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同じ温度ではなかったけれど

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/12

プロローグ


 四月の空は、嘘みたいに青かった。


 桜の花びらが風に舞い、新しい季節の始まりを告げている。大学のキャンパスは新入生たちの緊張と期待に満ちていて、私、桜井麻衣もその中の一人として、真新しい教科書を抱えて講義棟へと向かっていた。


 あの頃の私は、まだ自分が「普通」だと思っていた。少なくとも、普通であろうとしていた。


 友達の恋愛話に相槌を打ち、「いいなあ」と言い、芸能人を見て「かっこいいよね」と言う。それは嘘ではなかったけれど、どこか──どこか、温度が違うような気がしていた。


 でも、その違和感の正体を、私はまだ知らなかった。


 知りたくなかったのかもしれない。




第一章:告白

1


「……好きです」


 目の前の人が、真っ直ぐに告白してきた。


 四月の午後、いつもの喫茶店「カフェ・ソレイユ」。窓際の席で、高橋春樹は少し震える声でそう言った。彼の手は、テーブルの上で軽く握られていて、その白い指先が緊張を物語っていた。


 春樹──三年来の友人。大学のサークルで出会い、読書会やカフェ巡り、たまに映画を観に行く仲だった。いつも冗談を言って笑わせてくれて、私が落ち込んでいる時は何も言わずに隣にいてくれる、そんな人。


「……麻衣ちゃんと一緒にいると、すごく落ち着くんだ」


 春樹は続けた。いつもは冗談ばかり言って、誰に対しても気さくな彼が、今日は違った。声のトーンが、表情が、空気が──全てが真剣だった。


「笑った顔も、真剣に本を読んでる横顔も、コーヒーカップを両手で持って飲む仕草も……全部、全部好きで」


 私は何も言えなかった。カップに注がれたカフェラテが、静かに湯気を立てている。窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。


 その言葉を聞いた瞬間、胸が少しだけ高鳴った。でも──それは恋ではないことを、私はなんとなく感じていた。


 それは、大切な友達が自分を想ってくれていることへの喜び。感謝。そして、少しの──戸惑い。


「返事は、急がなくていいから」


 春樹が優しく言った。その優しさが、かえって私を追い詰めるような気がした。


「……少し、考えさせて」


 私はそう答えた。春樹は静かに頷いて、いつもの笑顔を浮かべようとした。でもそれは、少しだけ──ほんの少しだけ、こわばっていた。


2


 その夜、一人暮らしのワンルームに帰って、私はベッドに倒れ込んだ。


 天井を見つめる。白い天井。何の変哲もない、ただの天井。でも今日は、その白さが妙に眩しく感じられた。


 春樹のことは好きだ。人間として、友人として、大切に思っている。一緒にいて楽しいし、彼の笑顔を見ると安心する。


 でも──恋愛感情というものが、私にはよく分からない。


 これまでも何度か、「好きな人、いないの?」と聞かれたことがある。サークルの先輩に、高校時代の友人に、バイト先の同僚に。その度に曖昧に笑ってごまかしてきた。


 誰かに惹かれたこともなかったわけではない。素敵だなと思う人はいた。


 例えば、一年生の時のゼミの先生。知的で物腰が柔らかくて、議論をリードする姿が格好良かった。でもそれは、綺麗な絵画を美術館で見た時の感動に似ていて、「付き合いたい」とか「もっと触れたい」とか、そういう方向には決して向かわなかった。


 友人たちが恋の話をする時、私はいつも聞き役に回った。


「あの人のLINE、既読ついたけど返信ないの! どうしよう!」


「明日デートなんだけど、何着ていけばいいかな?」


「手、繋ぎたいんだけど、タイミングが分からなくて……」


 そんな話を聞きながら、私は「いいなあ」「頑張ってね」と言う。でも、心の底から共感できているのか、自分でも分からなかった。


 スマホを手に取り、春樹とのLINEのやり取りを見返す。何気ない日常の会話。面白い本の話。美味しかったカフェの話。


 もしかしたら──と思った。


 もしかしたら、付き合ってみたら、何か変わるかもしれない。


 春樹は大切な人だ。一緒にいて楽しい。信頼できる。もしかしたら、付き合ううちに、恋愛感情というものが芽生えるかもしれない。


 そう、きっと──時間が解決してくれる。


 今はまだ分からないだけで、一緒に過ごすうちに、ドキドキするようになるかもしれない。手を繋ぎたいと思うようになるかもしれない。


 そんな安易な期待が、心の片隅で小さく灯る。


 深夜、私は春樹にメッセージを送った。


『私も、春樹くんのこと、大切に思ってる。だから、付き合ってみたいです』


 送信ボタンを押した瞬間、胸が少しざわついた。


 これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。


 少しだけ、希望もあった。


 でもそれと同じくらい──いや、もしかしたらそれ以上に、不安も、あった。


 この瞬間、私はまだ、自分の心の温度を正確に測ることができていなかった。


第二章:違和感

1


 付き合い始めて二週間。


「今日も可愛いね」


 デートの待ち合わせ場所、駅前の改札で会うたび、春樹はそう言ってくれた。


 嬉しかった──いや、正確に言えば、「嬉しいと感じるべき状況だ」と頭で理解していた。


 だが、心は──心は、かすかにざわついていた。


 春樹は『恋人』として私を見ている。その視線の温度が、いつもの『友達』としての温度と違うことに、私は気づいていた。


 でも、私の視線は──変わらなかった。


 その日、春樹が選んだのはロマンティックコメディ映画だった。「評判いいんだよ」と嬉しそうに言う春樹の横顔を見ながら、私は小さく微笑んだ。


 映画館の暗闇の中、スクリーンには恋に落ちていく主人公たちが映し出されていた。偶然の出会い。すれ違い。誤解。そして、走って追いかけるクライマックス。


 周りの観客は、笑ったり、ため息をついたり、感動して涙ぐんだりしていた。春樹も、時折私の方を見て微笑んだ。私も微笑み返した。


 でも──主人公たちの高揚感が、まったく理解できなかった。


 なぜそこまで必死になるのか。なぜそんなに会いたがるのか。なぜ、キスをしないと気が済まないのか。


 映画が終わって、カフェに入った。春樹が選んだのは、映画館の近くにある小さなカフェ。暖色系の照明が、落ち着いた雰囲気を作っていた。


「どうだった?」


 春樹が聞いてきた。


「面白かったよ」


 私は答えた。嘘ではない。物語としては面白かった。構成も良かったし、俳優の演技も素晴らしかった。


 でも、感情移入は──できなかった。


「良かった。麻衣ちゃんと一緒だと、何でも楽しいな」


 春樹がそう言って、テーブルの上で私の手を取った。


 ──その瞬間、身体が硬直した。


 春樹の手は温かかった。少し大きくて、頼もしい手。でも私の中で、ときめきも、胸の高鳴りもなく、ただ──「手を握られている」という事実だけがそこにあった。


 それどころか、何か──言葉にできない、奇妙な感覚。


 違和感。


 「気持ちが悪い」という感情を、必死で掻き消そうとした。そんな感情、持ってはならない。春樹は優しくしてくれているのに。


「麻衣ちゃん?」


「ううん、何でもない」


 私は必死に笑顔を取り繕った。春樹は安心したように笑った。


2


 その夜、一人でベッドに横たわりながら、私は考えた。


 恋人同士なら、手を繋ぐのは自然なことなのだろう。映画でも、ドラマでも、小説でも、みんなそうしている。友達もそうしている。


 でも私は、春樹の手の温もりに何も感じなかった。


 それどころか──


 少し、いや、正直に言おう。


 とても、気持ち悪かった。


 身体が、拒絶していた。心ではなく、身体が。


 その事実を認めたくなくて、私は枕に顔を埋めた。


3


 それから一ヶ月が過ぎた。


 春樹はいつも優しかった。デートの計画を立ててくれて、私の好きな場所に連れて行ってくれた。美術館、古本屋、静かなカフェ。話を聞いてくれて、笑わせてくれた。


 ──でも何かが違った。


「好きだよ、麻衣ちゃん」


 春樹は時々、そう言った。その度に私は「私も」と答えた。


 でもその「私も」には、春樹の「好きだよ」と同じ重さがなかった。同じ温度がなかった。


 私は春樹のことを大切に思っている。それは本当だ。友人として、人間として、尊敬もしている。


 でも、彼が求めているものを、私は持っていなかった。


 ある日の夜、春樹が「キスしてもいい?」と聞いてきた。


 春樹の部屋で、映画を観終わった後。ソファに並んで座っていた時だった。


 私は一瞬、言葉を失った。


 拒否する術を、私は知らなかった。いや──拒否したら、春樹を傷つける。「普通」のカップルなら、こういうことをするものなんだ。私が変なんだ。


 そう思って、私は小さく頷いた。


 春樹の唇が私の唇に触れた。


 それは触れるだけの、短いキスだった。


 春樹は幸せそうに微笑んだ。


 私も必死に微笑み返した。


 でも心の中で、私は思っていた。


 ──「気持ち悪い」。


 春樹の優しさは感じた。大切にされていることも分かった。


 でも、胸が高鳴ることはなかった。もっと触れたいとも思わなかった。


 むしろ──早く終わってほしいと思った。


 これが、恋愛なのだろうか。


 もしかしたら、私は何かが欠けているのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸が締め付けられた。


第三章:孤独

1


 付き合って三ヶ月が経った。


 梅雨の季節。雨の日が続き、世界は灰色に染まっていた。


 春樹は変わらず優しくて、私を大切にしてくれた。サークルの友達にも「幸せそうだね」と言われた。


 でも私は、どんどん苦しくなっていった。


「今度、泊まりで旅行に行かない?」


 ある日、春樹がそう提案した。


 カフェで向かい合って座っている時だった。春樹は嬉しそうに、旅行雑誌を開いて見せてくれた。「この温泉、評判いいんだって」


 私の身体は反射的に硬直した。


 泊まりで旅行──それは、つまり。


 春樹はそれに気づかなかった。いや、気づいていても、初めての旅行だから緊張しているのだと思ったのかもしれない。


「……考えておくね」


 私はそう答えた。春樹は「うん、ゆっくり考えて」と優しく言った。


2


 家に帰って、鏡の前に立った。


 そこに映っているのは、普通の女性だった。黒い髪、普通の顔、普通の体型。


 でも、中身は──違う。


 私には、春樹が求めているものがない。


 恋愛感情も、性的な欲求も。


 それは、悪いことなのだろうか。


 友人たちの恋バナを思い出す。みんな当たり前のようにそういう感情を持っている。ドキドキして、会いたくて、触れたい。キスしたい、もっと先のことまで考えている。


 私にはそれがない。


 でも春樹には、ある。


 彼は私を『恋人』として愛してくれている。


 でも私は──。


 スマホを取り出して、検索した。


 『恋愛感情 わからない』


 『性的欲求 ない』


 『キス 気持ち悪い』


 そして──見つけた言葉。


 【アロマンティック】恋愛的な惹かれを感じない、または感じにくいセクシュアリティ。


 【アセクシュアル】性的な惹かれを感じない、または感じにくいセクシュアリティ。


 画面を見つめながら、涙が溢れた。


 これが、私なのだろうか。


 記事を読み進める。


 「それは病気ではありません」


 「あなたは間違っていません」


 「あなたはあなたのままでいいのです」


 優しい言葉が並んでいた。でも──


 でも、それは、春樹を傷つけることになる。


3


 ──私は彼を騙している。


 恋愛感情がないのに、「好き」と言っている。


 彼が求めているものを与えられないのに、恋人のふりをしている。


 それは、彼を利用しているのと同じではないか。


 夜、眠れなくなった。


 春樹からのメッセージに返信する手が震えた。


 「好きだよ」というメッセージに、「私も」と返すたび、罪悪感が押し寄せた。


 ある日、春樹が私の部屋に来た。


 ソファに並んで座って、テレビを見ていた。何気ない休日の午後。窓の外では雨が降っていた。


 春樹が私の肩を抱いた。


 ──私の身体は硬直した。


「ねえ、麻衣ちゃん」


「うん?」


「最近、何か元気ないけど、大丈夫?」


 私は春樹の顔を見た。優しい目が、心配そうに私を見つめていた。


「大丈夫だよ」


 嘘をついた。また嘘をついた。


 春樹は私にキスをした。


 ──気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 私は、頭の中で必死に別のことを考えた。明日の予定。読みかけの本のこと。何でもいい。


 心をどこか遠くにやってしまわないと、壊れてしまうと思った。


 春樹が帰った後、私は床に座り込んだ。


 涙がどっと溢れた。


 ──怖かった。


 手を繋がれるのも、キスをされるのも。


 キス以上のことをされることにも、常に怯えていた。


 怖くて怖くて、でも言えなかった。


 嘘の笑顔を精一杯顔に貼り付け、春樹と接するのが──つらくなってきた。


 春樹と付き合い始めてから、常に気持ち悪さと恐怖が私を支配していた。


 私は冷たいのだろうか。


 私は「普通」ではないのだろうか。


 春樹は何も悪くない。彼はただ、普通に恋をして、普通に『恋人』を愛しているだけだ。

 ──悪いのは私だ。


 そう思った。


第四章:告白

1


 決心したのは、桜の季節が終わろうとしている頃だった。


 もう限界だった。これ以上、春樹を──そして自分を──騙し続けることはできない。


「……話があるんだけど」


 私から春樹を呼び出した。


 一年前に告白された、あの喫茶店「カフェ・ソレイユ」に。


 窓際の同じ席。でも今日は、桜はもう散っていた。


「どうしたの?」


 春樹が聞いた。いつもの笑顔だったが、少し──不安そうだった。


 私は深呼吸した。手が震えていた。


「あのね、春樹くん」


 言葉が喉に詰まった。何度も飲み込んだ。カップの中のコーヒーが、冷めていくのが分かった。


「私──」


 春樹が手を伸ばして、私の手を取った。


「大丈夫。何でも聞くよ」


 その優しさが、もっと私を辛くした。こんなに優しい人を、私は──。


「私、春樹くんのことは、大切に思ってる。それは本当なの」


「うん」


「でも──」


 涙が溢れそうになった。でも、ちゃんと言わなければならない。


「私は、春樹くんと同じ『好き』を持てなかった」


2


 春樹の表情が変わった。でもそれは怒りではなく、混乱のようだった。


「どういう、こと?」


 私は震える声で、全てを話した。


 恋愛感情というものが分からないこと。


 性的な欲求を感じないこと。


 それでも、もしかしたら付き合ううちに変わるかもしれないと思っていたこと。


 でも三ヶ月経っても、何も変わらなかったこと。むしろ──怖くなってきたこと。


「手を繋ぐのも、キスも──すごく怖かった」


 春樹は黙って聞いていた。その顔は──痛みに歪んでいた。


「私は、春樹くんを騙してた」


「騙してなんか──」


「騙してたの」


 私は遮った。


「春樹くんは私を『恋人』として愛してくれてた。でも私は、その気持ちに応えられなかった。同じ温度で愛せなかった」


 沈黙が流れた。


 春樹は俯いていた。何を考えているのか、分からなかった。


 どれくらい時間が経ったか。


 春樹がゆっくりと顔を上げた。


「……麻衣ちゃんは、俺のこと、嫌いになった?」


「違うの」


 私は首を振った。


「嫌いになったんじゃない。最初から、恋愛感情がなかったの。でも気づかなかった。いや、気づきたくなかった」


「今も、俺のこと、大切?」


「大切だよ」


 涙が頬を伝った。


「人間として、友人として、すごく大切。でも──恋人には、なれない」


 春樹は目を閉じた。


 目が、少し赤かった。


「……そっか」


「ごめんなさい」


「謝らないで」


 春樹が言った。


「麻衣ちゃんは、何も悪くない」


「でも──」


「本当に」


 春樹は微笑んだ。それは少し、悲しい笑顔だった。


「麻衣ちゃんは、ちゃんと向き合ってくれた。ちゃんと正直に話してくれた。それだけで、嬉しいよ」


 私は何も言えなかった。


「少し、時間をくれる?」


 春樹が言った。


「整理したいことがあるから」


「……うん」


 春樹は立ち上がった。私も立ち上がった。


「ありがとう、麻衣ちゃん。正直に話してくれて」


 そう言って、春樹は去っていった。


 私は一人、喫茶店に残された。


 窓の外は、曇り空だった。


第五章:許し

1


 一週間後、春樹からメッセージが来た。


「会える?」


 また同じ喫茶店で会った。


 今日の春樹は、少し──いや、かなり落ち着いて見えた。目の下に少しクマができていたけれど、表情は穏やかだった。


「考えたんだけど」


 春樹が言った。


「俺、麻衣ちゃんに恋してたんだと思う。今も、たぶん好きだ」


 私は何も言えなかった。


「でも、麻衣ちゃんは違う。それは、分かった」


「ごめん──」


「謝らないでって言ったでしょ」


 春樹が微笑んだ。


「麻衣ちゃんの『好き』は、俺の『好き』とは違った。でもそれは、どっちが正しいとか、間違ってるとかじゃない」


「……」


「ただ、形が違うだけ」


 春樹の言葉が、心に染み込んだ。


 形が違うだけ。


 私の「好き」は間違っていない。ただ、春樹の「好き」とは違うだけ。


「俺は、恋人としての麻衣ちゃんを求めてた。でも麻衣ちゃんは、それになれない。だから──別れよう」


 覚悟していた言葉だった。でも、胸が痛んだ。


「でも」


 春樹が続けた。


「友達には、なれる?」


 私は顔を上げた。


「俺、麻衣ちゃんと話すの好きだし、一緒にいると楽しい。それは恋愛とか関係なく、本当なんだ。だから、時間はかかるかもしれないけど、また友達に戻れたらいいなって」


 涙が溢れた。


「……ありがとう」


「泣かないでよ」


 春樹が笑った。


「麻衣ちゃんが泣くと、俺も泣きそうになるから」


 私は笑った。涙が止まらなかったけど、笑った。


「春樹くんは、優しすぎる」


「そんなことないよ。俺も、正直、辛い。でも──麻衣ちゃんを責める気にはなれない」


「……本当にごめん」


「最後だから言うけど」


 春樹が真剣な顔をした。


「麻衣ちゃんは、何も悪くない。そのままでいい」


 そう言ってくれる優しさが嬉しかった。


 私は、こんなに優しい人を苦しめてしまった。でも──春樹は、私を許してくれた。


 そして何より、「そのままでいい」と言ってくれた。


2


 喫茶店を出て、駅まで一緒に歩いた。


 初夏の風が、優しく頬を撫でた。


 道端の紫陽花が、綺麗に咲いていた。


「あ、そういえば」


 春樹が言った。


「この前読んだ本、面白かったんだ。麻衣ちゃん好きそうだなって思って」


 何気ない会話。いつもの、春樹との会話。


「本のタイトル、何?」


 私も普通に聞き返した。


 駅のホームで、私たちは別れた。


「じゃあ、また」


「うん、また」


 春樹が手を振った。私も手を振った。


 電車が来て、春樹は乗っていった。


 私は、ホームのベンチに座った。


 胸の奥が、まだ少し痛かった。


 でも──


 でも同時に、何か──軽くなったような気もした。


 嘘をつかなくていい。


 自分を偽らなくていい。


 そのままの自分でいい、と言ってもらえた。


エピローグ


 ──それから数ヶ月が経った。


 春と夏が過ぎて、秋が来た。


 私は一人で、公園のベンチに座っていた。紅葉が風に舞っていた。赤、黄色、オレンジ。色とりどりの葉が、空を舞い踊る。


 春樹とは、少しずつ距離を置いていた。


 彼が新しい誰かを見つけられるように。そして私も、自分自身と向き合うために。


 あの日から、私は自分について調べた。


 アロマンティック、アセクシュアル。


 そういう在り方があること。それは病気でも、欠陥でもないこと。


 同じような人たちが、世界中にいること。


 少しずつ、受け入れられるようになってきた。


 でもまだ時々、思う。


 私は春樹を傷つけた。彼の期待に応えられなかった。


 でも同時に、こうも思う。


 私は春樹のことを大切に思っていた。


 それは恋ではなかったけれど、嘘ではなかった。


 私の「好き」は、世間一般の「好き」とは違う温度だった。


 でもそれは、温かみがないわけではない。


 ただ、形が違うだけ。


 風が吹いて、髪が揺れた。


 私は空を見上げた。


 高い、青い空。雲が流れていく。


 もう、自分を責めるのはやめよう。


 私はこういう人間なのだ。恋愛感情を持たない。性的な欲求を感じない。


 それは、罪ではない。


 誰かを「違う温度」で大切にすること。


 それもまた、愛の形なのだと思うことにした。


 許せなかった自分を、受け入れる。


 スマホが鳴った。


 春樹からのメッセージだった。


「元気?」


 シンプルな一言。でもそこには、重たい期待も、責める気持ちも感じられなかった。


 ただ、友人としての──温かい気遣い。


 私は微笑んで、返信した。


「うん、元気だよ。春樹くんは?」


 時間はかかるだろう。


 でもいつか、また友達として笑い合えるかもしれない。


 そして私は、私のままでいい。


 桜井麻衣という一人の人間。


 恋愛感情を持たない、性的な惹かれを感じない──それでも、人を大切に思う心を持った、一人の人間。


 秋の冷たい空気が、私の頬を撫でた。


 でもそれは、痛いほど冷たいわけではなく──


 心地よい、秋の風だった。


──完──

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