4話
「……貴様。我が愛した『死の腐泥』を、よくもここまで無残に浄化してくれたな」
透き通った水面を裂いて、巨躯の怪人が姿を現した。
体中からドロドロとした黒い粘液を滴らせ、背中には何本もの触手が生えている。
この階層の主——魔神『ヘドロ・キング』。
その圧倒的なプレッシャーに、聖騎士であるリンですら息を呑み、反射的に剣を抜いた。
「佐藤先輩、下がって! こいつは今までの魔物とは格が違う……第62層の真の支配者よ!」
「支配者?」
カズヤは、ピカピカに磨き上げたばかりの岩場に腰掛け、水筒の麦茶を飲んでいたが、怪人を見て露骨に眉をひそめた。
「ちょっと、君。せっかく綺麗にしたのに、そんなベタベタしたものを床に垂らして……。マナーが悪すぎませんか?」
「貴様……我が毒をゴミのように扱いおって……。死ね!汚泥の激流 !」
魔神が腕を振るうと、津波のような真っ黒な粘液が押し寄せた。
それは触れるものすべてを腐らせ、溶かす地獄の濁流だ。
「ダメ、防ぎきれない……!」
リンが絶望に目を閉じた、その時。
シュッ、シュッ、と小気味よい音が響いた。
「……霧吹き?」
リンが目を開けると、そこには霧吹き(中身はカズヤ特製の強アルカリ洗浄液)を両手に持ったカズヤが、二丁拳銃のような構えで立っていた。
「噴霧・エクスプロージョン」
カズヤがトリガーを引くと、霧状に散布された洗浄液が、押し寄せる濁流と衝突した。
次の瞬間、化学反応のような激しい音と共に、真っ黒な濁流が瞬時に真っ白な「泡」へと変わり、そのまま消滅してしまったのだ。
「な……!? 我が奥義を、ただの霧吹きで打ち消しただと……!?」
「打ち消したんじゃありません。中和したんです」
カズヤはスタスタと魔神の方へ歩み寄る。
魔神は恐怖に顔を歪ませ、背中の触手を一斉に突き出した。
だが、カズヤはそれを一切見ることなく、手に持った『デッキブラシ』を槍のように繰り出した。
「そこっ! 隅っこに汚れが溜まってますよ!」
「ぐはぁっ!?」
魔神の急所である核を、ブラシの毛先が正確に貫く。
さらにカズヤは、驚異的な手捌きで魔神の全身をゴシゴシと力強く擦り始めた。
「ちょ、やめろ! 洗うな! 我のアイデンティティが、闇の力が剥がれるぅぅ!」
「だらしがないですよ。そんなにヌメヌメして。ほら、しっかり泡立てて!」
カズヤの高速ブラッシングによって、魔神の体から邪悪なオーラがどんどん削ぎ落とされていく。
数分後、そこに立っていたのは、禍々しい魔神ではなく、なぜかピカピカに光り輝く、つるんとした質感の「透明なスライムのような何か」だった。
「…………きゅぅ」
魔神だったものは、魂が抜けたような声を漏らし、その場にぺたんと座り込んだ。
もはや戦う意思どころか、生存本能すら浄化されてしまったようだ。
「よし、サッパリしましたね。神代さん、見てください。磨けば光るもんですよ」
「……佐藤先輩。あれ、魔神ですよね? ダンジョンを揺るがす災厄の一柱ですよね?」
「今はただの『綺麗なゴミ』です。あ、ゴミって言っちゃ失礼か。資源回収に出せるかな」
リンは悟った。
この男にとって、世界の危機も魔神の襲来も、すべては「掃除の進捗を妨げるトラブル」に過ぎないのだ。
「……あ、佐藤先輩! そのスライム、ドローンが撮ってます! またネットが大荒れですよ!」
「えぇ……。もう、動画配信とかいいから、早く次のエリアのワックス掛けに行きましょうよ」
カズヤは深くため息をつき、空になったバケツを手に取った。
その背中を見つめるリンの瞳には、もはや驚きを通り越し、崇拝に近い光が宿り始めていた。




