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政略のままで良かったのに

作者: 長月 おと


「クルグス王国の第三王子ギルベルトの結婚相手は、マリーベル……お前だ」



 父であるリュシエール国王からのその宣告は、マリーベルにとって死刑宣告に等しかった。

 リュシエール王国とクルグス王国は、先月まで戦争をしていた敵同士。

 だが先月、リュシエール王国は負けた。

 当然の結果だった。

 クルグス王国は魔法がどの国よりも発展している大国。

 対してリュシエール王国は小国であり、魔力を持つ者も少ない。

 戦えば勝敗は明らかなのに、どうして戦争を吹っ掛けたのか。実際に開戦から一か月も持たずに、我が国は白旗を掲げることになった。

 つまるところ今回の婚姻は、リュシエール王国が二度と戦争を仕掛けてこないよう牽制すべく、王族を人質にするためのものなの。そんなところへ嫁いだら、どんな扱いが待っているか。

 そして助けを求めたところで、家族は黙殺することも分かりきっている。

 しかしマリーベルはそれほど落ち込んではいなかった。



(どこへ行っても私は邪魔者。静かに生きるしかないわ。むしろお可哀想なのはクルグス王国……そしてギルベルト殿下のほう)



 マリーベルは、今年十八歳を迎えたリュシエール王国の第一王女。

 薄紫色の髪は扱いやすいよう肩ほどの長さに揃えられ、瞳はアメジストのような濃い紫。顔立ちは母譲りで整っていると昔は言われたが、古びたワンピースが似合うあたり、お世辞だったのだろう。

 母は下級貴族出身の側妃だった。

 父のリュシエール国王は美しく可憐な母を大変溺愛していたため、マリーベルも幼い頃は国王の寵愛を受けていたが、それは母からの愛情を得るためのパフォーマンスに過ぎなかった。

 その事実は、マリーベルが十歳のときに母が亡くなって、早々に気付いた。

 母を妬んでいた正妃が大ぴらにマリーベルを冷遇するようになり、頼ろうと思っていた母の生家はいつの間にか没落していた。おそらく、王妃が手を回したのだろう。

 しかし国王は一切咎めることも、関心を寄せることもない。まるで存在しないと言わんばかりの、空気のような扱いだった。

 国王たちはマリーベルがどうなろうと関係ないに違いなく、人質としての価値は無いに等しい。

 人質としての価値を望んで結婚する第三王子ギルベルトに申し訳なくなってくる。



(でも、体罰だけは嫌だなぁ……)



 想像して憂鬱になるが、マリーベルに拒否権はない。

 出そうなため息を飲み込んだ彼女は深々と頭を垂れ、「承知しました。陛下の仰せのままに」とだけ答えて国王の前をあとにした。



***



 一か月後。マリーベルはクルグス王国の地に足を踏み入れていた。



「クルグス第三王子のギルベルトだ。とはいっても、今回の婚姻で母方の生家フォルトナー公爵家の跡を継ぐことになったため、あなたは王子妃ではなく公爵夫人という立場になる。覚えておいてくれ」



 屋敷の前でマリーベルを出迎えてくれたギルベルトは、開口一番にそう告げた。

 ギルベルトは大変背の高い美丈夫だった。マリーベルより、頭みっつ分は高いだろう。

 今年二十四歳を迎える彼の髪は太陽のように眩い黄金色で短く、青い瞳は切れ長。背が高いため一見スマートに見えるが、肩幅の広さから、鍛えている人だと分かる。

 つい最近まで魔法騎士として活躍していた英傑だそうだ。

 騎士である彼の顔に笑みはなく、どちらかと言えば近寄りがたいクールな感じ。

 それでも姿絵で見たよりも、ずっと優しい印象を受けた。



(これだけ素敵な人なのだから、本来はもっと素晴らしい令嬢との縁も望めたでしょうに……私と結婚するなんて。しかも人質を王族の系譜に入れないために、急遽ギルベルト殿下は公爵を継ぐことになったみたいだし……色々と申し訳ないわ)



 人質としての価値がないだけでなく、婚姻のせいでギルベルトの立場を変える事態になっていることに、ますます罪悪感が芽生える。

 マリーベルは深々と腰を折った。



「初めてお目にかかります。リュシエール王国の第一王女マリーベルでございます。ご迷惑をお掛けしないよう気をつけますので、どうかよろしくお願いいたします」

「では早速、部屋まで案内しよう。こっちだ」

「あの、申し訳ありません。今荷物を降ろすので、少々お待ちください」



 マリーベルは人質。武器を持ち込まないよう荷物は最小限のトランクひとつで、侍女の帯同もない。

 そもそも最初から所持品は少なく、侍女もいないのだが……。

 それでも王女として扱っていたと装うために、渡されたトランクの中には宝石が入っている。唯一の貴重品を馬車に放置することも憚られるため、マリーベルはトランクを降ろそうとした。



「マリーベル、それは使用人に運ばせる。時間がないから、まずは案内をさせてくれ」



 ギルベルトがそう言うや否や、横からさっと従者が現れ、トランクを受け取る姿勢を取った。

 律儀にも運んでくれるらしい。



「ありがとうございます。よろしくお願いいたします!」



 マリーベルは従者にトランクを渡すと、すでに歩き出していたギルベルトの後ろを慌てて追いかけた。



「ここがあなたの私室だ」

「わぁ」



 食堂や応接間などを巡り、最後に案内されたマリーベルの部屋は、人質にはもったいないほど豪華絢爛だった。

 ベッドは今まで使っていた三倍ほどの大きさで、レースの天蓋付き。

 ソファーとクッションは、刺繍入りの布で統一。

 調度品は新品なのか、傷ひとつなく、つやつやに磨き上げられている。

 一目で高級品で揃えられているのが分かった。冷遇される前の部屋よりも、豪華に見える。

 その上、先ほど従者に預けたトランクは丁重にクローゼットの前に置かれていた。

 


(人質なのに、これほど良いものを使っていいのかしら? でも、待って。私が何か粗相をして、高級品に何かあれば糾弾できるわ。新手のいびり?)



 そう思わず疑ってしまうほど、美しい部屋だ。

 マリーベルが扉の前で固まっていると、ギルベルトはさっと入室し、ソファに座った。

 


「今後について説明しておきたい。あなたも座ってくれ」

「はい」



 促されるまま、ギルベルトの正面に腰を下ろした。

 座面が驚くほどふかふかで、危うく変な声が出るところだった。

 


「この度の婚姻で籍は入れたが、結婚式は国際情勢が落ち着いてから行う。見通しが立ったら教えるから、それまで待つように」

「承知しました」

「また、これは政略結婚。正直、俺の意思はなかった……リュシエール王国の王女であるあなたを愛することは難しいだろう。それはマリーベルも同じはず。無理に俺を愛そうとしなくても良い」



 ギルベルトは至極真面目な態度で告げる。

 ただ、マリーベルを蔑むような視線はない。



(そうよね。戦争をしていたのだもの……ギルベルト殿下の友人が亡くなっている可能性もある。愛せないのは当然だわ)



 嫁いだときから、愛されるという希望は一切なかった。

 ギルベルトの言葉に失望も湧かなければ、怒りも湧くことはない。

 むしろ邪険にせず、真摯に伝えてくれることに感謝したいくらいだ。



「お気遣いありがとうございます。ちなみに……世継ぎについては」

「好かぬ相手に触れられるのは、あなたも苦痛だろう? 白い結婚で通せれば、そうしたい。幸いにも親類に、跡継ぎ候補はいる」



 あなたも苦痛だろう――ということは、ギルベルトも苦痛ということ。

 これ以上彼に可哀想な思いをさせたくない上に、自身も肌を晒すことに強い抵抗感を感じていたマリーベルにとっては、有難い提案だった。

 


「閣下のご判断に従います」

「協力してくれて助かる。もちろん、白い結婚だが公爵夫人としての礼儀は通すつもりだ。そこは安心してくれ」

「――!」



 ギルベルトは望まぬ婚姻をする羽目になり、その相手は憎き敵国の王女で、悲しいことに人質の価値もないという、完全にハズレくじを引いている。

 だというのに、素敵な部屋を用意してくれただけではなく、礼儀まで通すと宣言してくれるとは。彼はどこまで善人なのか。

 



「ご配慮ありがとうございます。私はきちんと立場を理解し、人質として真面目に過ごしますね!」



 ギルベルトの迷惑にはなりたくないし、できるだけ平穏を守ってあげたい。

 マリーベルは力強く、宣言した。



「…………そう言ってくれて俺も安心だ。よろしく頼む」

「はい!」



 ギルベルトがなんとも言えない表情を浮かべているが、人質のくせに元気が良すぎたせいかもしれない。

 でも腹を括っているマリーベルは、今さらめそめそするつもりはなかった。

 こうして彼女は、ギルベルトとの清らかな結婚生活をスタートさせたのだった。


 といってもギルベルトは大変多忙で、新婚生活とはほど遠い。

 彼は急に公爵位を引き継いだので、領地や事業の状況を把握し、時には視察に出かける必要があった。

 これまで王族としてやってきた公務を、他の王族に引き継ぐ業務もまだまだ終わらない。

 日中屋敷を空けることになるので食事は別で、もちろん寝室も別。

 朝の見送りで顔を合わす程度の関係。しかも、本日ついに「いちいち見送る必要はない」と言われてしまった。

 夫に疎まれている妻――と、指をさされても否定できない状態だ。


 しかし、公爵家の使用人はギルベルトの指示に忠実で、マリーベルを冷遇することはない。

 もちろん親切ではないし態度は固いけれど、しっかりと仕事をしてくれる。



(朝の洗顔の水は用意してくれるし、ちゃんとぬるま湯を出してくれるし……食事に異物や毒も入っていないし、シーツも毎日変えてくれる……これまでの暮らしとは比べ物にならないくらい、贅沢な生活だわ)



 礼儀は通すと言ってくれたが、ここまで徹底してくれるとは思わなかった。

 屋敷の主不在で、これほど快適で穏やかな気持ちで過ごせるのは、すべてギルベルトの人徳がなしていることだろう。

 マリーベルは、お小遣いが入った財布を手にした。

 先日お小遣いを与えてもらったものの、それを入れる袋を持っていなかった。そこで巾着を作るために布と裁縫セットが欲しいと相談したら、華の刺繍が入った、可愛らしいポーチタイプの財布をいただいてしまったのだ。



(綺麗な刺繍。きっとこれも、職人が施した高級品よね? あれもこれも与えてもらってばかりで、私は何もできていない。閣下に、何か日頃のお礼ができれば良いのだけれど)


 

 お小遣いの範囲で、できることを思案する。

 驚くほどの金額をいただいたけれど、元はギルベルトの資産。人様の金をどーんと使うのは気が引けるし、人質らしくない。

 でもできるのなら、ほんの少しでもギルベルトの役に立ちそうなものが良い。



「って考えてみたけれど、私にはアレしかできないもの。アレにしましょ」



 マリーベルはすぐに、執事に外出の相談をした。




 その晩、ギルベルトが帰ってきたという知らせを受けて、マリーベルは執務室にお邪魔した。

 朝の見送りをしなくて良いと言われたので、ギルベルトと顔を合わせるのは四日ぶりだ。



「何の用だ? このあと確認したい書類があるから、手短に頼む」


 

 マリーベルに着席を促しつつ、先に座ったギルベルトは随分やつれたように見える。

 彼の態度は素っ気ないが、これほど疲れているのに追い返すことなく、執務室に入れてくれたあたり、やはり善人のようだ。

 早速マリーベルは、ハンカチに包んでいた物をテーブルに載せた。

 黄色い液体が入った小瓶が三本が、きらりと光る。



「こちら、よく寝れて、短時間でも疲れがよく取れる薬です。よろしかったら、ご利用ください」

「……医者に頼んだのか?」

「いえ、私が調合したものです」

「!?」



 母が亡くなってからすぐにマリーベルは、正妃から生活維持費を奪われ、味方だった侍女を奪われ、王宮庭園の端にある小屋に住むように命じられた。

 昔庭師が使っていた小屋で、仮眠用の古びたベッドと錆びた農具が置いてあるだけ。

 あとは「わたくしの慈悲よ。感謝しなさい」と言って与えると約束してくれたのは、カッチカチの固いパンだけ。野菜や肉、乳製品はなし。

 そのときのマリーベルは十歳。

 このままでは生きていけません。どうか、もう少し援助を――と訴えたこともあったが、憎い側妃そっくりの王女が、泣いて縋りつく姿を見るのを楽しんでいるだけとすぐに知って諦めた。

 そして小屋に引っ越して早々に、マリーベルは高熱を出して死にかけた。

 

 だがそのとき、前世を思い出したのだった――別の世界で薬師として生きていたときのことを。有名な師匠のもとであらゆる知識を得て、人々を救った記憶が蘇る。

 残念ながら子どもを庇って馬車に轢かれ、二十歳という若さで死んでしまったので、ベテラン薬師とは言い難いが……生活するための常識はある。



『この知識があれば、私まだ生きられる?』



 死を覚悟していたマリーベルは気合いで熱を下げ、薬草について調べ始めた。城壁の抜け穴を見つけ、王宮の外へ出て、図書館で植物図鑑を開く。幸いにも、同じ薬草が現世にも存在していた。

 そうして野生の薬草を手に入れ、小屋の近くの荒れた花壇を畑に変え、薬草を生産。収穫した薬草を調合し、ちょっぴり魔力を加え、王宮の外でこっそり売る。

 十歳の子どもが売る薬なんて誰も買いそうもないので、『師匠に頼まれて』と弟子を装い道端で商売をした。

 そこで手に入れた収益で、体を洗うための石鹸や、パン以外の食料を買ったのだ。

 薬の評判は良かったので、この世界でも自分の薬師としての腕は悪くないはず。

 そう思って、今回は日頃お世話になっているギルベルトのために、特に常連客に人気だった回復薬を調合してみたのだが……。



「毒でも入れたか?」



 ギルベルトから返ってきたのは、疑心に満ちた言葉だった。

 マリーベルは致命的なミスに気付く。



(私は敵国の王女。敗戦の恨みを持っていて、閣下の命を狙っていると思われても仕方のない立場。疑われるのは当たり前だったわ……! 執事が許してくれていたのは、私が自分で飲むために作ったと思っていたから。でも、ここで引っ込めたら余計に怪しまれる。よし――)



 マリーベルは三本の小瓶を指さした。



「毒は入れておりません。それを証明したいので、この中から閣下が一本選んでください。」

「……では、左の瓶を」

「御前にて失礼いたします」



 ギルベルトが指定した小瓶を手に取ると、マリーベルは一気に中身を飲み干した。

 酸味があり、癖のある薬草の香りが口いっぱいに広がる。

 が、それだけ。マリーベルが倒れることはない。

 


「これで毒ではないと伝われば良いのですが」

「そのようだな」



 ギルベルトの表情からも疑念の色が消え、マリーベルは胸を撫でおろした。

 毒の疑いが晴れなければ、王族暗殺容疑で処刑されるところだった。

 だからといって、怪しいものを飲んでもらうのは忍びない。



「私の軽率な行動で、閣下を困惑させてしまい失礼しました。ご迷惑でしょうから、これは回収させていただきます」



 申し訳なさそうに苦笑したマリーベルが残りの小瓶に手を伸ばしたとき――ひょいっと、ギルベルトが先に小瓶を取り上げた。

 そして、躊躇うことなく回復薬を飲んでしまう。



「閣下!?」

「ご主人様!?」



 予期せぬギルベルトの行動に、マリーベルだけでなく、控えていた執事まで目を丸くした。

 一方でギルベルトは、最後の一本も手にして「ふむ」と言いながらじっくり観察している。



「ど、どうしてお飲みに?」

「善意で用意してくれた物だろう? 無下にしない方法は、飲むしかないと思ってな……刺激的なところが癖になりそうな味をしている。……疑って悪かった」

「いえ! こちらこそ、信じてくださりありがとうございます」



 ギルベルトはどこまで真っすぐで、善い人なのか。

 マリーヴェルは深々と頭を下げると、これ以上ギルベルトの邪魔にならないよう退室した。


 それから数日後、ギルベルトから呼び出されたかと思ったら――



「調合室だ。今日からこの部屋は自由に使ってくれて構わない」

「良いんですか!?」



 調合室には、調合に必要なものが揃えられていた。

 作業台の上には乳鉢をはじめ抽出器具に、貴重な魔道具製のコンロまである。薬草を仕分けして保管できる棚や、気密性の高い瓶も完備。

 前世の職場より充実しているのではないだろうか。

 マリーベルの口からは「はわぁ」と間抜けな声が出てしまう。



「あと、ずっと放置されていた温室も使えるようにするから、執事に育てたい薬草を伝えておいてくれ」

「い、良いんですか!?」


 

 薬草は種類によって、新鮮なものが望ましい品種もある。

 そういうものに限って生育スピードが天候に左右されやすく、野生での採取は難しい。それが温室で安定的に栽培できるなんて最高すぎる。

 あまりの好待遇が信じられず、マリーベルは自分の頬を引っ張った。



「マリーベル!? 何を!?」

「夢かと思いまして……でも、夢じゃありませんでした」



 引っ張った頬は、ちゃんと痛かった。

 つまり現実。



「閣下、回復薬を気に入ってくださったのですか?」

「あぁ、たった一晩であれほど効き目を感じた回復薬は初めて飲んだ。正直、助かった。ありがとう」



 相変わらずギルベルトは無表情だけれど、最初に顔を合わせたときよりも、ずっと柔らかい。

 憎い敵国の人間にこんな顔を見せ、礼まで告げるなんて、相当疲れが堪えていた証拠。

 それでもマリーベルに不自由がないよう衣食住を整え、不満ひとつぶつけてこない。

 ギルベルトへの敬意は増すばかりだ。

 


「閣下のお役に立てて良かったです。いつもお仕事お疲れ様です。回復薬以外にも、体調で気になることがあったら教えてください。閣下のために、いつでも調合いたしますね!」

「では、胃痛に効く薬は作れるか?」

「待っててくださいね」



 棚の引き出しを確認していけば、胃薬に必要な薬草はすでに揃っていた。



「今夜にでもお届けします! ちなみに、回復薬や胃薬以外も調合してみても良いですか?」

「かまわない。では今夜、頼む」



 それだけ言い残すと、ギルベルトは調合室から去っていった。

 マリーベルは改めて部屋を見渡す。

 前世薬師だったこともあって、薬草の調合は好きだ。自分の手で調合したもので、誰かを救い、役に立つことにやりがいを持っていた。

 前世を思い出したとき、また夢の続きが追えると歓喜した。

 しかし、知識はあっても、冷遇された彼女が専用の器具を手に入れるのは難しく、最初の頃は調合に苦労するばかり。

 代わりになりそうな食器や調理器具の廃品を拾い、薬を売って、徐々にそれらしいものを集めたものだ。それでも最低限のものしか揃えられず……結局、嫁入りの際に手放した。

 先日の回復薬もすでにある程度加工された物を購入し、ブレンドしただけ。

 だから本格的な薬の調合はもうできないと諦めていたのだが。


 

(また、好きなことができるなんて――!)



 すべてはギルベルトの采配のお陰。

 彼への敬意は増すばかり。その上、役に立てる環境とチャンスまでいただいたのだから、全力を出すべきだろう。

 早速マリーベルは、胃薬の調合に取り掛かった。


 ギルベルトに渡した胃薬も大変好評で、マリーベルは定期的に回復薬と胃薬を処方することになった。

 徐々にその話は屋敷で広まり、公爵家お抱えの医師や使用人からも相談を受けるようになり、彼らの態度も軟化。

 庭師と一緒に温室に薬草を植えたり、秘伝の薬草レシピのハーブティーを使用人に振舞ったり、次第にマリーベルは公爵家に馴染んでいった。



(敵国に嫁ぐなんて、どうなるかと思ったけれど、上手くやっていけそうだわ――って、何かしら?)



 温室から私室に戻れば、宛先も送り主も書かれていない手紙が一通、テーブルの上に置かれていた。

 マリーベルに手紙を送ってくれる人に心当たりはない。



(閣下からの伝言かな?)



 最近のギルベルトは、薬のお礼を一言だけ書いたカードを執事に渡してくれるのだが、手紙とは珍しい。

 そう不思議に思いながら開封したところ――



「……嘘でしょ?」


 

 手紙を読んだマリーベルは、絶句した。



***



 敵国リュシエール王国の王女との結婚を命じられたとき、ギルベルトは悪い冗談かと思った。

 しかしギルベルトに政略結婚の命令を告げる父――クルグス国王の顔は、いつになく固い。

 親なりに、理不尽な命令をしていると自覚しているものだった。


 リュシエール王国の王族は非常に傲慢で、戦勝国であるクルグス王国との交渉の場でも、尊大な態度だった。

 今すぐ、賠償金は満額払えない。分割できちんと返しますから、とりあえず第一王女マリーベルをそちらにお渡しします。どうぞ、お好きなように。でも、不自由だけはさせないでくださいよ――と。

 そんな要求をしてくる国の王女など、見なくても悪女だと分かるというもの。

 しかし、尊厳を奪うような扱いをすれば、周辺国に悪い印象を与えかねない。政略結婚というのが妥当。

 ギルベルトは、兄たちに万が一があったときのスペアとしてこれまで婚約者不在だったため、今回白羽の矢が立ったというわけだ。

 


(まぁ、決まったものは仕方ない。相手も自国を負かした国の王子との結婚なんて嫌だろう。悪女とはいえ、嫌がる女性を組み敷く趣味もない。リュシエール王国につけ入る隙がない程度に物を与え、放置しておくか)



 そう期待せずに花嫁を迎え入れれば、あまりにもあどけない少女がやってきて驚いた。

 今年十八歳になったという王女マリーベルの背は、今まで見てきた令嬢たちと比べても小さく華奢。

 薄紫の髪は飾りつけせずに下におろされ、アメジストのような瞳は宝石がはめ込まれたように澄んでいる。

 傲慢なリュシエール王国の王族とは思えないほど、シンプルな装いと慎ましい態度だ。

 だからといって、雰囲気まで弱々しい感じではない。

 白い結婚など、ある意味女性として屈辱的な提案をしたのに、人質として真面目に過ごすと宣言する強さも意外性もあって――



「ふっ」

「ご主人様、顔が緩んでおられますよ」

「すまない。これほど最近穏やかに過ごせるのは、やはりマリーベルのお陰かと思って」



 思わず仕事中に笑みを零してしまうくらいには、ギルベルトはマリーベルが気に入っている。

 日が昇るかどうかの時間にもかかわらず、毎朝見送りに来てくれていた健気さは可愛らしかった。

 使用人だって大半が寝ている時間帯だったので、申し訳なくて断ってしまったが……実は嬉しかった。


 回復薬も最初は疑ってしまったのに、怒ることなく許してくれた寛大さに敬意を抱いた。

 あんな聞き方をすれば、誰しも傷つくだろうに……明るく振舞ってくれたことは、今も感謝している。


 詫びとして調合室と温室を与えてみれば、想像以上にマリーベルは喜んでくれた。

 手に入れるのが難しい物でもなんでもないのに、彼女は目を輝かせて感嘆し、ほっぺまで引っ張っていた。

 それから真面目に薬を調合し、使用人の体調にも耳を傾けて分け与え、医師の相談にも協力的で、薬草の手入れを手伝う庭師のことも見下したりしない。

 屋敷の雰囲気はすっかり明るくなり、その中心にいるのはマリーベル。

 その姿は、悪女とはほど遠いものだ。

 どうしてあの性格の悪い王族から、これほど心根が美しい子が育ったのか不思議でならない。



「マリーベルは、天使なのだろうか」

「ご主人様、もしやマリーベル様に惹かれていらっしゃる?」

「――そうらしい」

「なんと単純な。まぁ、ご主人様はこれまで仕事が恋人でしたからね。ようやく生身の人間に目が向いて良かったです」


 

 執事に笑われてしまうが、否定できない。

 あんなにも清らかな女性を見たことがない。大した金額ではないお小遣いを、宝石やドレスではなくギルベルトのために使ってくれた。

 その回復薬には、肉体的にも精神的にも助けられた。胃薬も同じく。

 マリーベルの優しさに癒され、虜になっている。

 そんな彼女の明るい無垢な笑みをもっと見たいと思ってしまう。


 

「だというのに、俺は……! 初日にどうしてあんなことを……!」



 この結婚に愛は不要。白い結婚でいこう。

 と、冷たい態度で言い切ってしまった過去の言動に頭を抱えた。

 マリーベルとの関係は良好だと自負している。しかし、そこに恋愛感情は一切ないということも知っている。

 どちらかと言えば、主従関係に近い。

 だってマリーベルは徹底して、真面目な人質でいることを貫こうとしているのは明白。


 もし今、急に「すまない。あのときの言葉は撤回する! 仲良し夫婦になろう!」と宣言したとして、マリーベルに「私はこのままの方が居心地が良いのですが」なんて言われたら――想像しただけで、眩暈がしてくる。


 

「ご主人様、頑張るしかありませんね」

「分かってる。まずはマリーベルに夫として意識してもらえるよう、色々試してみるさ」



 ギルベルト・フォルトナー、二十四歳。

 初恋に目覚めた。



***



 ある日から突然、マリーベルはギルベルトに食事に誘われた。

 仕事が一段落したため、これからは朝昼晩のどの食事も一緒にとれるようになったらしい。

 最初は距離のある長テーブルだったのが、徐々に小さくなり、一週間経った今では二人用の小さな丸テーブルになっている。

 しかも肉を切り分けてくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくる。


 それだけではなく、ギルベルトは温室にもよく顔を出すようになった。

 決まって、マリーベルが薬草の世話をしているとき。

 薬草の名前についてよく質問してくるのだけれど、必ずマリーベルの横にピタリと張り付いている。


 調合室にも、頻繁に訪れている。

 回復薬も胃薬も、クルグス王国の王宮医師が処方するよりも効果を実感しているらしい。

 今日もギルベルトはマリーベルの隣に立ち、手元を覗き込んでいる。



「へぇ、湿疹薬はこうして抽出しているんだね。ちなみに効き目をアップさせるコツとかあるの?」

「ぎゅっと絞らずに、ろ紙で自然にろ過したものだけ使うのがポイントなんです。無理やり絞ると、有効成分以外にも余計なものが抽出されて、逆に肌荒れを起こしてしまう可能性がありますからね。あとは加熱処理では、高温かつ沸騰直前で火を止めること。沸騰させると有効成分が蒸発しちゃいますし、だからと言って低温だと保存性が悪くなります。温度調整が難しいんですよ。あとは仕上げに魔力をちょっぴり混ぜると――あ」


 

 気付いたら、ギルベルトの端正な顔が近くにあった。

 つい調合の説明に熱くなって、距離感を間違えてしまったらしい。


 

「すみません!」



 マリーベルは慌てて、顔を離した。

 己の薬草マニアっぷりが恥ずかしい。



「いや、かまわないよ。マリーベルは、落ち着く香りがするんだね」

「え!? い、あ、や、薬草の香りかと」

「そうなのかな? 花のような香りもするけれど、何だろう」


 

 そう言いながらギルベルトはマリーベルの薄紫の髪を指に絡め、鼻を寄せた。

 少し伸びたとはいえ、マリーベルの髪は肩より少し長い程度。つまりギルベルトの顔は、彼女の顔に触れそうなほど近い。

 意識せずとも心臓がバクバクと心拍数を上げていく。顔も熱いから、赤くなっているだろう。



「すみません閣下、離していただけないでしょうか。私、男性経験がまったくないので、こういうの困ってしまうんです」

「つい、気になって。嫌だった?」

「そういうわけではないのですが……とにかく困ります」



 本当に、これ以上は駄目だ。

 マリーベルの頭の中で警鐘が鳴り響いている。

 しかし――



「だったら閣下ではなく、夫婦らしく旦那様――と、そろそろ呼んでくれないか? そうしたら離そう」

「――――っ」



 ギルベルトは少し甘えるような声色で強請った。

 いつも無表情だった顔には柔らかな微笑みが浮かべられ、青い瞳は真っすぐマリーベルに向けられている。

 分かりやすい、好意。

 さすがのマリーベルも、ギルベルトが抱いている感情に気付いてしまう。



(私は敵国の王女よ? 愛さないって言ったじゃない……愛は求めないって言ったじゃない……これは政略結婚だって。だから安堵していたのに、どうして? とにかく、旦那様とは呼べないわ)



 だって、自分はあまり長く“妻”ではいられないから。



「ギルベルト様、お願いです」

「――っ、今日はまぁ、それでいいだろう」



 マリーベルの髪は解放され、ギルベルトの顔が離れる。

 彼は「コホン」と咳払いして余裕ぶっているが、耳の先が赤くなっていることから、照れが隠しきれていない。

 旦那様とは呼べなかったけれど、悪くなかったようだ。

 ギルベルトは「仕事が頑張れそうだ」と言って、執務室へと戻っていった。

 調合室に残されたマリーベルは、作業台の前から動けず、立ち尽くす。



(愛さないでほしかったな……だって私は、もう少ししたら死ななければいけないんだもの)



 先日、部屋に置かれていた手紙は母国からのものだった。

 


『マリーベルよ、春の月終わりまでに自決しなさい。さもなくば、ギルベルトを消す』



 要約すれば、そんなことが書かれていた。

 リュシエール王国は敗戦したことで多額の賠償金を払わなければならず、人質である王女と、国境付近の領土を担保にして、支払いを遅らせている状態。

 もしここで王女が死ねば、その責任をギルベルトに問うことができ、賠償金の減額や領土の返還を求めることができると踏んでいるようだ。

 華よ蝶よと育てられた王女が、人質としての生活を苦痛に感じないはずがない――というように。

 マリーベルは、最初から切り捨てるためにクルグス王国へ嫁がされたらしい。



(なんと浅はかな計画なの)



 最初からそんな隙を与えぬよう、クルグス王国はマリーベルを冷遇することはしなかった。

 ここ最近のギルベルトの甘みを含んだ態度も、クルグス王国に落ち度がないようにするための行動かと思っていた。

 だからマリーベルが自ら命を絶ってもギルベルトはなんら心は痛まないし、リュシエール王国に有利になることはないと、覚悟を決めていたのに……ギルベルトに揺さぶられてしまっている。


 ギルベルトは素晴らしい人だ。

 多くの人から慕われているし、頼られているし、無価値な人質にまで優しくしてくれた。

 家族に冷遇されながらも必死に生き延びてきた価値はあったと思えるほど、現在の生活は素晴らしい。

 マリーベルにとって、上っ面ではない、きちんとした人の温もりを感じたのは今世では初めてのことだから、なおさらギルベルトには恩を感じている。


 ただでさえ好印象を抱いているのに、好意を向けられてしまったら、本当に抗うのが難しい。

 前世を通しても、ギルベルトほど麗しい人は見たことがないし、気持ちを真っ直ぐに向けてくれる人もいなかった。

 心は自然と彼に惹かれ、求めようとする。

 マリーベルがその気持ちを隠しきれてないから、ギルベルトはじわりじわりと距離を詰めてくるに違いない。

 好きにならなければ、これほどの胸の痛みを感じずに命を絶てたというのに……困ったものだ。



(前世では薬学に夢中で、今世では生き延びることに必死で、恋愛は無関係の人生と思って生きてきたのに……とんだ落とし穴だわ。でも、また短い人生で幕を閉じることになるのだから、酷い落とし穴だわ)



 自分はどうやら、不幸になる運命から逃げられないらしい。

 苦笑しながら、窓から外を眺める。

 そこには裏庭で洗濯物を干す使用人の姿が見えた。どの使用人も、とても親切でいい人ばかり。

 だから信じたくはなかったが……タイミングよくマリーベルだけが読めるよう部屋に手紙を置けたことから、屋敷の中にリュシエール王国のスパイがいることは確かだ。

 もし秘密裏に手紙のことをギルベルトに相談しようとして、母国への裏切りがバレてしまったら、ギルベルトが害されるかもしれない。

 だからリスクを冒して、相談することは諦めた。

 ギルベルトにわずかでも危機が及ぶくらいなら、無価値な自分が消える方がましだとマリーベルは本気で思っている。



(お望み通り死んであげるわ。閣下に責任が問われないように死なないと)



 何度目かの決意をする。

 だがギルベルトと顔を合わすたびに、それは揺らぐ。



(政略のままで良かったのに。そうしたら楽に死ねたのに)



 そんな思いを噛み締めながら、マリーベルは薬草を煎じ始めた。



 そうして葛藤しながら過ごし、リュシエール王国が求める期日の前日を迎えた。

 死に方は決めた。

 薬草の調合を間違え、毒ガスを発生させ、それを吸って死ぬのだ。自殺ではなく、マリーベルのミスによる事故死。

 第一発見者になるであろうギルベルトや無実の使用人には害がないように、一定時間が経ったら毒の効果がなくなる仕込みもしておく。

 念のため、集中したいから〇〇時までは調合室に入らないで、と通達しておけば大丈夫なはずだ。

 リュシエール王国はギルベルトに責任を追求できないどころか、ギルベルトの安全を脅かしたとして、立場が悪くなるかもしれない。

 たくさん自分を苦しめた彼らに、家族の情などマリーベルにはない。少しくらい、仕返しをしても神様は怒らないはず。

 

 マリーベルは大量の小瓶が入った箱を見つめた。

 もしかしたら自分がなくなったあと、ギルベルトは胃痛を再発するかもしれない。リュシエール王国との交渉や、葬儀などで忙しくもなるだろう。

 これだけあれば、しばらくは回復薬と胃薬に困らないはずだ。

 あとは毒ガスを調合すれば――と思ったところで、ふと欲が顔を出した。



(最期なんだから、思い出をもらってから死にたいかも……)



 気付けば、マリーベルの足は執務室に向かっていた。

 訪問を報せれば、微笑みを浮かべたギルベルトが歓迎してくれる。

 執事はお茶を出した後、主人への気遣いからか、さっと退室していった。

 いつもは「ふたりっきりにしないで!」と思っていたマリーベルだが、今日に限っては都合が良い。



「どうしたんだ? マリーベルから来てくれるなんて、久々じゃないか」



 隣に座ったギルベルトは心から嬉しそうに、笑みを向けてくれた。

 まるで太陽のような輝き。

 クールで無表情だった当初のことを思い出せないほど、毎日笑いかけてくれている。

 でも数時間後には、この笑みともお別れだ。



「閣下、一度でいいので、抱き締めていただけませんか?」

「一度? あなたが望んでくれるのなら、いくらでもいいのに」

 

 

 お願いするや否や、マリーベルはギルベルトの腕の中に閉じ込められた。

 


(温かい……抱擁って、こんなにも温かいのね)



 すっかり忘れていた人の温もりを思い出す。

 でもそれは亡き母の温もりで、男性の温もりを感じるのは初めてだ。

 ギルベルトの胸は広く、腕は逞しくて長い。大きく包み込むような抱擁は、深い安心感を与えてくれる。

 幸せが胸いっぱいに広がり、心を満たしていく。

 

 

(あの世に持って行く、いい手土産を手に入れられた。閣下、今までありがとうございました)



 熱くなった目頭から涙が浮かぶ前に離れようと、ギルベルトの胸元を押した。

 しかしマリーベルが、力を強めても体勢はピクリとも変わらない。

 ギルベルトは彼女を抱き締め続ける。



「閣下、そろそろ――」

「どこに行く気だ? 俺の目の届かないところへ、行こうとしているのなら許さない」

「ど、どうしてそんなことを!?」

「最近、やたらと薬の在庫を増やしているし、あなたが俺を見る目が悲しそうだから……まるで、別れの準備をしているように見えたんだ」

「っ」



 マリーベルの胸がズキンと痛む。

 隠していたつもりだったのに。あと一日、もう一日と欲をかいた結果、死ぬタイミングを先延ばししすぎたようだ。

 だからと言って、計画は変更できない。

 今日中に死なないと、ギルベルトの命が危機にさらされる。

 


「私は、どこにも行きません」



 嘘をついた口の中に苦みが広がるが、必要な嘘だ。

 これで解放されることを祈ったのだが……



「嘘をついたな?」

「あ、あの――」

「マリーベル、あなたを愛してしまったんだ。愛は不要と言ったあの時の俺は愚かだった。俺はマリーベルと愛し合いたい。本物の夫婦になりたい」

「――っ」



 一番求めていて、一番聞きたくなかった言葉に、マリーベルは体を強張らせた。

 何日も、何週間もかけて固めてきた覚悟が、ぐらりと揺れる。

 よりによって、どうして今日なのか。



「マリーベルは、微塵も俺を愛していないの?」


 

 ギルベルトは腕の力を緩め、マリーベルの顔を覗き込んだ。

 体は解放されたのに、次はギルベルトの強い視線が彼女を掴んで離さない。

 いつだか道端で見た、捨て犬のような目でマリーベルを見つめてくる。



「これだけ惚れさせておいて、俺を捨てるの? 俺を苦しめるの?」

「そんなことは――」


 

 否定しようとするが、その先の言葉が出ない。

 だってマリーベルが命を絶てば、ギルベルトは絶対に悲しむことが目に見えているから。

 自分が誰よりも彼を傷つけるという事実に、気付いてしまったから。



「嫌なら、叩いてくれ」

「え?」

「こっちも引き留めるのに必死なんだ」



 動揺している間に、ギルベルトの唇がマリーベルの唇に重ねられた。

 そっと触れるような、優しい口付け。

 抱擁のとき以上に彼の温もりと愛情を感じ、押し込んできた本音が胸から突き上げてくる。

 唇が離れたと同時に、マリーベルの瞳にじわりと涙が浮かんだ。



「本当は、傷つけたくない……っ」

「良かった。やはりマリーベルは優しい女性だ。事情があるんだね。今、部屋には俺たちだけだ。話してくれないか? マリーベルが辛いと、俺まで胸が痛くて仕方がないんだ」

「でも」

「ふたりで考えたら、他の解決策が浮かぶかもしれないよ? 俺はそんなに頼りない? ………………駄目か。ということで、マリーベルに分かってもらうまで解放する気はないから覚悟するんだね」

「へ!?」



 太陽のような眩しさを持った彼はどこへ消えたのか。

 マリーベルに向けられたギルベルトの笑みは、おとぎ話に出てくる悪魔のような邪悪さを帯びていた。



***



「ようやく解放された。急いで作らないと」



 翌日、マリーベルは調合室で薬草を煮込んでいた。

 ギルベルトに解放してもらったのは、今朝になってからのこと。

 まったくもって想定外のことばかり。少しは手加減してほしいものだ。

 眠気を引きずりながら煮込んだ薬草をろ過していると、ノックもなしに使用人が入ってきた。



「アンヌ、どうしたの?」



 アンヌはギルベルトが当主を継ぐ前から屋敷にいる、古参のランドリーメイドだ。

 今は集中したいからひとりにしてほしいと、誰も入室しないようお願いしていたというのに……アンヌは扉を閉めるなり、ポケットから短剣を取り出した。

 どうやらマリーベルの自決を待ちきれず、殺しに来たらしい。

 フォルトナー公爵家のメイドが王女を殺せば、雇い主であるギルベルトに責任を追及できると思っての指示だと思われる。



「待っていたわ。あなたが故郷からの手紙を届けてくれたのね?」

「ふんっ、自分で死んでくれれば良かったのに、やっぱり自ら命を絶つ勇気はなかったようですね」

「えぇ、すっかり覚悟を崩されてしまったから。だからアンヌから来てくれて良かったです――ね、ギルベルト様」



 そうマリーベルが笑みを深めた直後、カーテンに潜んでいたギルベルトが姿を現した。

 アンヌは顔を引き攣らせ、後退るが……



「こうなったら――」


 

 自暴自棄になったアンヌは、ギルベルトに向かって短剣を振り上げた。

 しかし刃は届くことはなく、魔法騎士であるギルベルトの魔法であっという間にアンヌは拘束されてしまう。

 すかさずマリーベルは、ろ過したばかりの薬をガーゼに沁み込ませ、ギルベルトに渡した。

 アンヌの鼻と口を覆うようにガーゼを当てれば……彼女の目は瞬く間に、トロンとなる。



「アンヌの独断ではないな? 誰の指示だ?」

「……依頼人です。リュシエール王国の、王妃付きの、従者だと名乗っていました」

「そいつの滞在先は? どこでいつもやり取りをしていた?」

「街の喫茶店で会っていました。宿はわからないけれど、いつも――」



 ギルベルトが質問をすれば、アンヌはペラペラとお喋りを始めた。

 これはマリーベル特製の自白剤だ。即効性があり、頭に浮かんだことを勝手に口が話してしまうという劇薬。

 前世では王家にしか納品していなかった、門外不出の秘薬である。

 アンヌはしばらくお喋り人形と化し、リュシエール王国との繋がりを洗いざらい話したのだった。


 

 アンヌがリュシエール王国に買収されたのは、マリーベルが嫁いできたと同時期。

 報酬に目が眩み、最初は怪しい依頼人から受け取った手紙を秘密裏にマリーベルの部屋に置いただけだった。のちに手紙はリュシエール王国から送られた脅迫状だと、依頼人から知らされたらしい。

 敵国との内通は重刑。どうせ処罰されるのなら、その前にたくさんお金をもらって遊びつくしたらどうか――と依頼人に唆されて、アンヌは開き直ったようだ。

 たっぷり前金をもらい、贅沢を堪能し、覚悟を決めてマリーベルを殺しにきたと教えてくれた。


 それからアンヌの供述で依頼人も捕らえ、リュシエール王国の王家と繋がっていた証拠も手に入れることに成功。

 停戦条約を破ったとして、次はクルグス王国から攻め入ることになり、あっけなくリュシエール王国は敗北。

 リュシエール王国の王族は全員投獄され、クルグス王国の属国となった。

 これからは、クルグス王国が指名したリュシエール王国の公爵家が、新王家として統治するらしい。


 

 そうしてマリーベルはというと、お咎めは一切なし。

 調査を進めていったことで、マリーベルが冷遇されていたことが明らかになり、リュシエール王国の条約違反とは無関係と証明されたからだ。被害者として、そのままクルグス王国に保護されることになった。

 むしろマリーベルの調合する自白剤や回復薬などの効能の素晴らしさから、王宮医の相談役として重用されることに。

 大好きな薬作りができると、今日もマリーベルは調合室でせっせと薬草の仕分け作業をしていた。

 すると彼女のお腹に、逞しい腕が回る。



「マリー、癒しをちょうだい?」


 

 ギルベルトが、背後からマリーベルを抱き締めた。

 リュシエール王国の処理で、また彼は多忙な日々に引き戻されていた。

 少しでも時間があれば、こうして調合室に足を運んでマリーベルに甘えてくる。ぎゅっと抱き締め、くんくんと香りをかぎ、頬ずりしてくる。

 以前、犬に見えたことがあるが、ギルベルトの前世は本当に犬なのかもしれない。



「うーむ。相当お疲れですね。これは回復薬の改良をした方が良いかもしれません」

「それも良いけれど俺は今、別のものがほしいな」

「別なものですか?」



 問いかけるように振り向けば、ギルベルトは人差し指の先を、ちょんとマリーベルの唇に当てた。

 そして物欲しそうに、彼女の目を見つめる。

 


「し、仕方ありませんね」



 マリーベルは顔に熱が集まるのを感じながら、踵を浮かすように背伸びをして、ギルベルトの頬に口付けを送った。

 それだけで彼の表情は、あっという間に蕩ける。

 その顔を見ているだけで、マリーベルまでとびきり幸せな気持ちが胸の奥から溢れてくる。


 

(政略のままで良かったのに――なんて、もう思えない)



 ギルベルトからの愛がない人生は想像できないほど、マリーベルも彼を愛しているから。



 こうして不遇の王女は、薬を作ったり、薬の革命を起こしたりしながら、敵国の王子にとびっきり甘く愛される人生を長く送ったのだった。


END

■設定こぼれ話■

★マリーベル:前世は宮廷薬師の弟子。今世の薬学よりも発展している世界だったので、知識をフル活用した結果、クルグス王国に大きな恩恵をもたらすことになる。未来の『薬の聖女』

★ギルベルト:圧倒的光属性だったが、マリーベルから別れの気配を察知して以降、闇を深めてしまった。マリーベルを冷遇していた元王族たちを自らの手で捕縛し、ちょっと(?)痛めつけてから投獄している。


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