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間章 お兄ちゃんが死んだ日

お兄ちゃんが死んだ――その現実が、菜々美の心をずっと締めつけていた。


 季節は春。街の桜が満開で、風に乗って花びらが舞い踊っていた。あの日も、そうだった。

 通学路の歩道を、お兄ちゃんと並んで歩いた。前日買ったばかりのパンをかじりながら、「あー、今日の数学小テスト、やばいかも」と菜々美が嘆くと、隣で苦笑いするお兄ちゃんがいた。

 「また寝てただろ、お前」と、肩を軽く小突いてきた。その手の温もりが、まだ掌に残っているような気がする。


 「晩ごはん何かな」と、他愛ない話をした。

 「帰りにコンビニ寄っていい?」なんて、いつも通りのやり取りをした。

 だからこそ、あの一瞬が信じられなかった。


 ――クラクションの音が鳴り響き、世界が凍りついた。


 突如飛び込んできたトラック。悲鳴。ブレーキ音。反射的に目をつぶったその瞬間、お兄ちゃんが自分を思いきり突き飛ばしたのがわかった。地面に投げ出された菜々美の視界に、跳ね上がる砂ぼこりと、お兄ちゃんの背中。そして、轟音とともに――世界が崩れた。


 時間が止まったようだった。音も色も消えた世界で、ただ一つ、現実だったのは、お兄ちゃんが動かないという事実だった。


 それからの数日間、菜々美は泣き続けた。

 目を覚ませば泣いて、何も食べられず、誰とも話せず、ただ布団に潜って過ごした。

 母がそっと頭を撫でてくれたが、何の慰めにもならなかった。

 学校の友達も来てくれた。けれど、みんなが何を言っているのかよくわからなかった。耳に入らない。心が拒絶していた。


 夜になると、お兄ちゃんの遺影の前で一人になる。線香の匂いが部屋に満ちて、静かすぎる空間に、菜々美の声が溶けていく。


「なんで……なんで、私じゃなくて……お兄ちゃんだったの……?」


 自分の命より、お兄ちゃんの方がずっと価値があると思った。

 だって、優しくて、頭が良くて、料理もできて、友達も多くて。みんなに頼られていて、未来があって。

 自分なんかより、よっぽど生きるべき人だったのに。


 お兄ちゃんの部屋は、あの日からそのままだった。

 整理する気になれなかったし、してしまったら、本当に「いなくなってしまう」気がして怖かった。

 机の上には、読みかけのライトノベルが伏せられている。

 その横に、使い込まれたヘッドホンと、画面が消えたスマホ。

 ベッドの上には、昨日まで着ていた制服のジャケットが無造作に置かれている。まるで、また学校から帰ってきたら、あの笑顔で「ただいま」って言ってくれそうで。


 一つ一つに触れるたびに、胸が締めつけられる。呼吸が苦しくなる。

 でも、触れていたい。温もりが消えてしまいそうで怖いから。


「お兄ちゃん……私ね、ずっと思ってたの」


 小さく、呟く。自分だけに聞こえる声で。

 部屋の静けさが、まるで返事のように寄り添ってくれる。


「お兄ちゃんが、誰か他の女の子と仲良くしてると……なんか、モヤモヤしてたの」

「友達だよって言ってたけど、それでもなんだか嫌で。意味もなく不機嫌になって……。でも、言えなかった」

「私、妹だから……こんな気持ち、言っちゃいけないって……」


 心の奥に、ずっと蓋をしていた気持ち。

 「兄妹なんだから、当たり前」と言い聞かせて、見ないふりをしてきた想い。

 けれど今、彼がいなくなった今になって、ようやく自分の感情の正体に気づいた。


「……それって、恋だったんだよね」


 涙が頬を伝い、膝に落ちる。

 止まらなかった。今さら気づいて、何になるのか。もう、届かない。もう、言えない。

 けれど、それでも――。


「もし……もし、また会えたら、その時はちゃんと言いたい」


 声が震える。けれど、心の奥から湧き上がる言葉は、もう止められなかった。


「私、お兄ちゃんのこと、ただの家族以上に……好きだったって」


 その告白は、誰にも聞かれることのない、静かな決意。

 けれど、その瞬間から、彼女の時間は再び動き始めたように思えた。


 ぼやけた視界の向こう、窓の外に見える星が、やけに綺麗だった。

 夜空に瞬く光は、どこかで彼も同じように見てくれている気がして。

 遠い世界のどこかで、彼が生きているなら――。


「どこにいるの? お兄ちゃん……。私、きっと……いつか会いに行くから」


 その言葉に、微かに震えた声が、優しく夜に溶けていった。

 悲しみの底で、菜々美はほんの少しだけ前を向いた。


 会いたい。その一心だけが、今の彼女を支えていた。

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