旅立ちの朝に
王都行きの馬車が来る日。
空は晴れわたり、初夏の陽光が窓から差し込む。涼やかな風がカーテンを揺らし、鳥のさえずりが館の庭に響いていた。
館の玄関先には、出立の準備を整えたユーリ・フォン・コーリングが立っていた。身につけた新調の制服はまだ少し着慣れず、緊張した表情に影を落としている。
そして、その前には――ミリアとメルリナ。二人の少女が、静かに彼を見送っていた。
「……本当に、行ってしまわれるのですね。ユーリ様」
ミリアの声は、まるで朝露のようにかすかで、けれど胸に残る響きをもっていた。彼女の瞳には迷いがあり、それを隠すように微笑もうとするが、表情はほんの少しだけ、歪んでいた。
一歩、また一歩と近づいたミリアは、ユーリの袖にそっと指先を添える。
「学園が始まったら、今みたいにずっとそばにいることもできません……。だから、せめて……最後に……」
言い終えたその手は、静かにユーリの手を取り、自らの頬へと当てた。
柔らかな感触と、その頬にこもる体温が、ユーリの胸を締めつける。
「ミリア……」
彼女と過ごした日々が、心の奥からあふれ出す。忙しい日々の中でも、彼女はいつも傍にいてくれた。遠慮がちに微笑みながら、それでもしっかりと自分の居場所をつくってくれた存在――。
「俺も、お前と過ごした時間を忘れない」
ごく自然に、距離が近づいていた。唇が触れそうな距離まで。
けれど、ミリアはそっと微笑むと、一歩だけ下がった。
「……行ってらっしゃいませ。ご無事で」
言葉よりも、静かなその微笑みにすべてが込められていた。
次に歩み出たのは、メルリナだった。
風に揺れる黒髪が、朝陽を受けて艶やかに光る。彼女は少しだけ俯いたまま、震える声で呟いた。
「……ユーリ。どうか、身体に気をつけて」
その声音には、寂しさを押し隠そうとする強さがにじんでいた。
ユーリはそんなメルリナの手を取る。すると彼女は、驚いたように顔を上げた。大きな瞳に映るユーリの顔――そして、その温もりに触れたことで、彼女の表情が揺らぐ。
「俺は大丈夫だよ、メルリナ。君がいてくれたから、領地でもずっと救われてた。……本当にありがとう」
「そ、そんな……私なんて……」
「君が笑ってくれるだけで、どれだけ心が楽になったか……君は、いてくれるだけで誰かを助けられる人だよ」
その言葉に、メルリナの瞳がみるみるうちに潤んでいく。
小さな両手が、ぎゅっとユーリの指を握り返した。
「また……会えますか?」
「ああ。必ず帰ってくる。……必ず」
メルリナは、顔を真っ赤にして何度も頷いた。
その横で、ミリアも同じように頷いていた。
言葉は少なかったが、それでもその一つ一つが、二人の気持ちを深く物語っていた。
「いつか、また……戻ってきてくださいね。私は、ずっと……待っていますから」
その一言が、胸の奥に響いた。
喉が詰まりそうになったが、ユーリは深く頷く。
ちょうどその時、旅立ちの馬車が静かに門を抜けて到着した。御者が扉を開け、手を差し伸べる。
ユーリは二人に最後まで視線を向け続けながら、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。
小さな窓越しに、見送る彼女たちの姿が揺れて見える。
二人とも、最後まで手を振っていた。泣くこともなく、ただ笑って――けれど、その笑顔の奥に隠された想いが、胸に刺さる。
「行ってくる。……必ず、強くなって帰ってくる」
その言葉と共に、馬車が動き出した。
柔らかな朝の光の中を、ゆっくりと、でも確かに、ユーリの旅が始まる。
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アルシェリア領から王都までは、馬車で三日の道のりだった。初日は森と丘を抜け、二日目には川を越え、舗装の整った王都街道へと入った。
街道沿いには露店や行商人、見知らぬ旅人の姿も多く、景色は徐々に賑わいを増していく。馬車の窓から見える風景は、どこか新しい世界の入口のようだった。
ユーリは窓の外を静かに見つめながら、胸の中にいくつもの想いを巡らせていた。
(学園生活……俺は、そこで何を得られるんだろう)
ただの好奇心ではなかった。
彼がこの地を離れると決めたのは、自分の願いを実現するため。
誰かを救う英雄になりたいわけではない。
大義を掲げて戦いたいわけでもない。
けれど――
(俺は、自分の大切な人たちを守れるようになりたい。……それだけなんだ)
優しさだけでは守れない現実を、彼は領主として幾度も目にしてきた。
それでも、大切な人を失わないために、彼は強くなる必要がある。
心も、力も――すべてにおいて。
(そのためには……この学園で、俺は成長しなきゃいけない)
そう自分に言い聞かせながら、馬車の揺れに身を預ける。
陽が傾き始めたころ、ようやく王都の外門が見えてきた。
背の高い城壁、整った街路、石造りの大きな建物。
騎士や魔術師、学者たちの姿が行き交い、空には魔導式の飛行艇がゆるやかに旋回している。
「……王都か」
ユーリは、その光景を目に焼きつけるように見つめた。
ここから始まる新しい日々の中で、彼は何を掴み、何を失い、そして――何を得るのか。
扉が開かれ、彼は一歩を踏み出す。
まっすぐに、新たな世界へと向かって。