春風に揺れる想い
春の陽光が、屋敷の庭を柔らかに包んでいた。淡い花々の香りと風のささやきが心を和ませ、小鳥のさえずりが春の空気に彩りを添える、穏やかな午後。
コーリング領の屋敷。その広大な敷地の一角で、ユーリの提案による小さな茶会が開かれていた。白いクロスがかけられた丸テーブルには、ミリアが心を込めて用意したハーブティーと焼き菓子が並んでいる。
その席に招かれたのは、町に暮らす少女、メルリナ。
薄桃色のワンピースを纏った彼女は、最初こそ少し緊張した面持ちだったが、今は表情もほころび始めていた。目の前に広がる貴族の庭園には、季節の草花が咲き乱れ、彼女は何度も目を輝かせていた。
「……これ、本当にミリアさんが作ったの? すごくいい香り」
「ええ、庭のレモンバームとカモミールを乾燥させて、リンデンを少しだけ足してあります。飲みやすくなるんですよ」
エプロン姿のミリアは、微笑みながらティーポットを傾ける。メルリナとはすでに何度か顔を合わせていて、今では気兼ねなく話せる友人となっていた。
「さすがだね、ミリアさんって本当に器用なんだね」
「ふふ、それほどでも。でも、お口に合って良かったです」
ふとした拍子に目が合い、二人は小さく笑い合う。以前はぎこちなかった空気も、今ではすっかり和んでいた。
「ユーリってやっぱり貴族なんだね、こんな立派な屋敷に住んでるなんて、……ほんとに、夢みたい」
「けれど、今こうしてここにいるのは、メルリナさんが招かれたからです。ユーリ様は、誰の立場も気持ちも、同じように大切にされる方ですから」
「……うん。そう思う」
メルリナは頷いた。ユーリと出会ってから、少しずつ見えてきた彼の人柄。気取らず、偉ぶらず、誰に対しても真っすぐな優しさを向けるその姿に、彼女は少しずつ心を開いていた。
「……ねえ、ユーリ」
「うん?」
メルリナはカップを持ちながら、少しだけ身を乗り出す。
「どうして、学園に通おうと思ったの? このお屋敷にいれば、何不自由なく暮らせるのに」
問いかけは素朴で、けれど真剣な響きを帯びていた。
ユーリは少し黙って、風に揺れる花々を見やった後、ゆっくりと答えた。
「――この家にいても、未来の選択肢は多くなかったと思う。いずれは政略や家の事情に組み込まれて、自分の意思なんて関係なくなってたかもしれない」
メルリナが、はっと目を見開いた。
「でも、学園なら……自分で知識を学び、力を身につけられる。誰かに敷かれた道じゃなくて、自分で選んだ道を歩けると思ったんだ」
その声には、揺るぎない決意があった。
「自分の力で誰かを幸せにしたいと思った。そのためには、学園で学ぶことが一番の近道だと、そう思ったんだ」
「……そっか」
メルリナは頷いた。その真っ直ぐな瞳に、嘘はひとつもなかった。胸の奥が、じんと熱くなる。
そんな空気の中、唐突にそれは破られた。
「ほう、ここにいたか。やはり民草と茶を飲むのがお似合いだな、末弟殿」
テラスの扉が音を立てて開き、二人の青年が姿を現す。煌びやかな装いに身を包んだ彼らは、ユーリの異母兄たち――ギルベルトとロイエル。
かつてから、ユーリに嫉妬と軽蔑を抱き続けてきた二人は、その矛先を彼の交友関係にまで向けてきた。
「おやおや、これはまた珍妙な集まりだな。まさか門番まで下賤の娘を通していたとは」
「さすがは末弟。家名の重みも知らずに、平民をもてなすとはな」
メルリナの顔色がさっと曇る。手にしていたカップが小さく震え、視線が下を向いた。
ミリアが即座に立ち上がる。
「お兄様方、そのような無礼なお言葉はお控えください。この方は、ユーリ様がご招待された大切な客人です」
「ほう、侍女が吠えるとは。可愛い顔をして、随分と生意気だな」
「……っ」
ミリアの眉がひそめられたその瞬間、テラスの奥から、はっきりとした足音が響いてきた。
「やめてくれ、兄さんたち」
庭に姿を現したユーリは、まっすぐな眼差しで兄たちを見据えていた。その声には、普段の穏やかさとは違う、鋼のような芯があった。
「ここは俺の屋敷であり、俺が招いた客と過ごす時間だ。君たちに、侮辱されるいわれはない」
「ふん……ずいぶんと偉くなったものだな」
「偉くなったわけじゃない。ただ、大切なものを守りたいだけだ」
そして、メルリナに向き直る。
「君はなにも悪くない。来てくれて嬉しい。今日は楽しんでいってくれ」
その一言に、メルリナの胸がきゅっと締めつけられた。何気ない言葉に込められたまっすぐな優しさが、彼女の中の何かを揺さぶった。
(……あれ……この感じ……)
「ふん。くだらん。ロイエル、行くぞ」
「ええ、兄上。無駄な時間を費やすのは、ごめんですからね」
皮肉な笑みを残しながら、二人は庭を後にした。残された空気に、春の風が優しく流れ込む。
ミリアが、そっとユーリの袖を引いた。
「ユーリ様……ありがとうございます。……私、悔しくて……でも、何も言い返せなくて……」
「ミリアが言ってくれた言葉がなかったら、俺だって黙っていたかもしれない。ありがとう」
そして視線をメルリナに移す。
「本当に、ごめん。嫌な思いをさせてしまって」
「……ううん。そんなこと……。むしろ……なんだろう……胸が……あったかくて……」
メルリナは言葉を探しながら、自分の中で何かが芽吹くのを感じていた。
(私……この人のこと……好き、かも)
春の陽射しが柔らかく降り注ぎ、庭の花々が揺れる。
その中で芽吹いた感情は、ゆっくりと彼女の中に根を張り始めていた。