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春風に寄せる想い


  ユーリの学園編入が正式に決まってからというもの、屋敷では慌ただしい準備が続いていた。


 入学に必要な制服、魔道具、生活用品、そして護衛の選定に至るまで、彼の生活はまるで王都へ向かう貴族の子息そのものだった。だがその裏で、ユーリ自身は複雑な感情を抱えていた。自ら望んで手に入れた推薦とはいえ、他人の期待や自分の過去を背負う中での一歩だったからだ。


「ユーリ様、こちらが学園指定の制服です。サイズも調整済みで……あの、その……よろしければ、試着をお願いできますか?」


 ミリアは、手に持った制服を胸元でそっと抱えるように差し出し、視線を逸らした。頬がうっすらと紅潮しているのが分かる。


「そんなに照れることか? まあ、着替えるからちょっとだけ待ってて」


 ユーリは少し苦笑しつつ、与えられた制服に袖を通した。柔らかい布地が肌を包み、動きに違和感もない。


「ふむ……悪くないな。意外と似合ってるんじゃないか?」



「……はい。とっても……素敵です」


 静かに呟いたミリアの声は、いつになく柔らかく、そこには言葉以上の何かが込められているように思えた。


 ユーリはふと、彼女の変化に気づく。以前のミリアなら、もっと控えめに、一定の距離を保とうとする態度を崩さなかった。だが今、彼女は迷いながらも一歩ずつ彼に近づこうとしているように感じられた。


 そんな彼女とともに街を巡る機会が増えたのは、入学準備の名目もあったが、何よりもユーリが自らの領地をより深く知ろうとしたからだった。


 ある晴れた午後、市場の視察中、彼の視線がふと一人の少女に止まった。


 黒髪を肩で結び、白い布のエプロンを身につけた町娘。ぱっと見ただけで明るく素朴な性格がにじみ出ている。少女は彼の姿を見るなり、驚きと緊張、そしてどこか好奇心を湛えた目でこちらを見つめた。


「……あ、あの、そちらのお方は……?」


「ああ、俺はユーリ・フォン・コーリング。このあたりの様子を見て回ってたんだ」


「ユーリ様……って、伯爵家の……!? す、すみません、お声掛けしてしまって……」


 慌てて頭を下げるその様子に、ユーリは苦笑するしかなかった。だが同時に、彼女の様子がどこか普通ではないことにも気づいていた。


 (……やっぱりか)


 彼の内には、転生時に女神から授かったスキル《魅了》がある。それは意識せずとも周囲の女性に好意や関心を呼び起こしてしまう力だった。


「ごめん。俺、何か変なことしちゃったかな」


「ち、ちがいますっ! ……わたし、ただ……あなた様に、見惚れてしまって……」


 少女は思い切って顔を上げ、精一杯の言葉を紡いだ。彼女の名はメルリナ。近くのパン屋で働く娘で、黒髪の艶やかさと素朴な笑顔が印象的な少女だった。


「ありがとう、メルリナ。そう言ってもらえるのは嬉しいよ。君みたいに素敵な子に好かれるなんて、ちょっと照れるけどね」


「……あ、あのっ、またお会いできますか……?」


「もちろん。また会おう。よかったら、次は街の案内でもしてくれる?」


「はいっ、喜んで!」


 そうしてメルリナは、時折屋敷を訪ねてくるようになった。手作りのパンを差し入れに持ってきたり、町の様子を報告したりと、少しずつ距離を縮めていく彼女を見て、ミリアの心にも静かな変化が訪れていた。


 ある晩、ユーリの部屋の机にパンとスープを置いた後、ミリアはふと、口を開いた。


「最近……メルリナさん、よく屋敷に来られますね」


「うん。明るい子だし、街のことも色々教えてくれる。助かってるよ」


「……そうですね。よく気のつく子ですし。ユーリ様に、あの子のような明るい人が傍にいるのは、きっといいことです」


 その言葉には、わずかな戸惑いと、割り切れぬ想いがにじんでいた。だが、彼女は微笑んで言葉を継いだ。


「でも、私は私の立場で、ユーリ様を支えます。たとえ誰かのようにはなれなくても、専属メイドとして……いえ、いまの“ユーリ様”に仕える者として、誇りを持って」


「ミリア……」


「私には分からないことも、たくさんあります。……けれど、それでも。あなたが今ここにいて、こうして誰かを想い、未来へ進もうとしているのなら、私はずっとその隣にいます」


 静かな灯りの中で、ミリアの言葉は、深く優しくユーリの胸に沁みた。


(……そうか、俺はやっぱり……一人じゃないんだ)


 彼女の言葉は、血の繋がりではない“家族”のような温もりを持って、確かに彼の心を支えていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 春の陽光が優しく差し込む午後。ユーリは屋敷の庭に設けられた小さな東屋で、ミリアとメルリナとともに、のんびりとしたお茶の時間を過ごしていた。


「このお茶、おいしいですね。なんていう花の香りなんでしょう」


 メルリナがカップを両手で包み込みながら、ふわりと笑った。栗色の瞳が陽に透け、まるで琥珀のように揺れていた。


「精霊花っていうんです。精霊の森に春の初めにだけ咲くんですよ。ユーリ様がお好きな香りですから、特別に調合していただきました」


 ミリアは嬉しそうに微笑み、そっと茶器を整えた。ユーリの隣に座る彼女の所作は相変わらず丁寧で、だがどこか柔らかく、昔よりも自然体になってきているように見えた。


「そういえば、二人って最近よく一緒にいるよな」


 ふとユーリがそう呟くと、ミリアとメルリナは顔を見合わせ、少しだけ頬を染めた。


「だって……メルリナさんって、お話が楽しいんですもの」


「えへへ……ミリアさんのほうこそ、最初はちょっと怖いかなって思ってたけど、優しくて頼りになる人だなって」


「こ、怖いって……そんなこと、言われたの初めてです」


 思わず肩をすくめたミリアに、ユーリとメルリナは笑い合った。


 お菓子の皿が空になる頃、三人の間に心地よい沈黙が流れる。時折、風に乗って花の香りが舞い、近くの木々では鳥が囀っていた。


「ねえ、ユーリ様」


 不意にメルリナが声を発した。その声音はどこか真剣で、けれど柔らかかった。


「うん?」


「学園に行っても、たまには……こうして、戻ってきてくれますか?」


 その言葉に、ミリアも静かにうなずいた。


「私も……お屋敷を空けるのは寂しいです。けれど、ユーリ様が前に進まれるのなら……応援したい。でも、帰る場所はここにありますって、思っていてほしいんです」


 ユーリはしばらく無言で二人の顔を見つめ、それから小さく笑った。


「ありがとう。俺、こうして待っててくれる人がいるって、すごく嬉しい。絶対にまた帰ってくるよ。……二人に、会いに」


 ミリアは微笑み、メルリナは少しだけ、視線を落とした。


 それは、恋と呼ぶにはあまりに淡く、けれど友情だけとは言い切れない、そんな不思議な感情だった。


「じゃあ、今度は三人でピクニックなんてどうですか? 私、得意なお菓子があるんです」


「それ、いいですね。私も手作りのお弁当を用意します」


「えっ、二人とも料理できるの? 俺だけ何も用意できないじゃん……」


「ユーリ様は、食べる係で充分です」


「それはそれで……幸せかもな」


 さざ波のように笑い声が広がり、春の午後はゆっくりと過ぎていった。

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