精霊は再び見た
森の調査を進めて何度目かの朝を迎えた。
深い緑の葉を透かして零れる陽射しは、まるで柔らかなカーテンのように地面を照らしていた。焚き火の跡からは、かすかに燻った匂いが漂い、小鳥たちのさえずりが静かに空気を揺らす。
「……ふわぁ。おはようございます、ユーリさん」
アリアがテントの布を押し上げ、眠たげな目をこすりながら現れた。髪の毛は寝癖で少し跳ねていたが、それすらどこか愛らしい。
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい。昨日も素敵な夜でした……」
一方、リディアも木陰から伸びをしながら歩み寄ってくる。顔を赤らめつつ、ユーリと目を合わせないまま声を発した。
「あ、あんたこんな森の中でも見境なしなんだから。ただ、ちょっとは我慢ってものを……」
「はいはい、ありがとな、リディア」
からかうようなユーリの声に、リディアは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
ふと、少し離れたところにいる小さな少女に気がつく。エルナだった。朝の光を受けて緑の髪がかすかに輝いて見える。日をますごとにほんの少しづつ、顔色が良くなっている気がした。
「エルナ、おはよう」
呼びかけに、エルナは少しだけ体をこわばらせたが、すぐに「……おはよう」とかすれた声で返した。
「無理に話さなくていいから。今日も、森を少し歩いてみるつもりなんだ。気になる場所がある」
エルナは、わずかに目を見開いた。けれど、それ以上何も言わず、ただユーリの言葉に頷く。
その日の探索は、昨日よりも慎重に進められた。森の奥へと足を踏み入れるたびに、かすかな違和感が空気に滲んでいた。鳥の声が唐突に消える区画。倒れた木々の断面に、不自然な黒ずみが残っている場所。ゴブリンたちが現れた場所には、何かを焚いていたような焦げ跡もあった。
「なあ……この辺りの木、焼かれてるな」
「誰かが火を……?」
リディアが地面にひざをつき、焦げ跡を指先でなぞる。
「でも変だわ。この森で焚き火なんて、普通しないはず。だって、湿気が多いし、火がまわったらすぐに危ないもの」
「……しかもこの匂い、ただの薪じゃねえ。薬草か何か、混ざってる」
アリアが眉をひそめた。
「何かを隠すため、か……何をだ?」
その問いに、誰も答えられなかった。ただ、わずかに空気が重くなる。
陽が高くなった頃、一行は一旦探索を切り上げて森の外れに戻り、簡単な昼食をとることにした。パンと干し肉、そして水。簡素なものだったが、リディアが持参したハーブソースが良い香りを添えてくれる。
「ん……このソース、美味しいですね」
エルナがそう言ったのは、ほんの囁きのようだった。けれど、それを聞いてユーリは嬉しくなった。
「良かった。リディアの料理の腕、なかなかだろ?」
「べ、別に! 私が作ったわけじゃなくて、調合しただけよ」
リディアはそう言いながら、どこか誇らしげな表情を浮かべた。
アリアは黙って微笑みながら、そのやりとりを見ていた。
穏やかな時間。だが、その背後にじわじわと近づいてくる何かの気配が、森の中に確かに存在していた。
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夜の森は、昼とは違う静けさに包まれていた。
「今日は、またいろいろ歩いたわね……」
そう言ってリディアが長い髪をほどく。疲れているはずなのに、その目にはどこか高揚した光が宿っていた。
アリアはすでに眠っていた。エルナは、毛布をかぶって目を閉じているようだったが、呼吸は浅く、どこか落ち着かない気配があった。
ユーリが焚き火の前で薪をくべていると、リディアがすっと隣に腰を下ろしてきた。ふわりと甘いハーブの香りが漂う。
「ユーリ、ちょっとだけ……つきあってくれない?」
「……ん? いいけど、眠れないのか?」
リディアは小さく頷く。そして、火の揺らめきに照らされながら、ぽつりと呟いた。
「…あの子に…エルナに助けを求められて、正直ほっとした。でも、同時に……何もできていない、してあげられない自分が悔しくて…」
「リディアはちゃんとやってたさ。明るくて優しいお前がいなきゃ、エルナだってここまで落ち着いてないよ」
「……ユーリは、そうやってすぐに慰めるんだから」
頬を赤らめながら、リディアは視線を逸らす。その横顔が、焚き火の影に揺れていた。
「……でも、嬉しい。ユーリが……そう言ってくれるの。私……」
そこで言葉が止まった。唇がわずかに開いたまま、彼女は迷うように視線をさまよわせた。
ユーリは、そんなリディアの肩に手を置いた。
「……リディア、無理はしなくてもいい。俺は……お前のこと、頼りにしてる。ちゃんと」
リディアが、顔を上げた。瞳が揺れ、何かを決意したようにゆっくりと瞬きをする。
そして、ふいに身を寄せてきた。火の光の中で、彼女の唇がそっと、ユーリの唇に触れた。
――熱く、でも優しく。ほんのひととき、世界が静止するような時間だった。
「……バカ。こういうの、私からするなんて……反則じゃない。あなたから…その、しなさいよね」
リディアは顔を真っ赤に染めて、言葉を濁した。けれどその瞳は、どこか嬉しそうで、どこか切なげでもあった。
そして、その光景を――再び誰かが見ていた。
木の陰から、小さな影がひっそりと覗いていた。
エルナだった。
昨日と同じように、また夜風に目を覚まし、偶然、目の前に広がった焚き火の光景に足を止めてしまった。
(……また……キス……)
まぶたの裏に、アリアとユーリの昨夜の姿がよみがえる。そして今度は、リディアと。
胸の奥が、少しずつざわつく。
(どうして……)
その感情が何なのか、エルナにはまだよく分からなかった。ただ、自分の胸がほんのりと熱くなり、どこか寂しさに似たものが広がっていく。
(わたしだけ……仲間外れ……)
そこまで考えて、エルナははっとして息をのんだ。
(……わたしが、そう思うなんて……)
混乱したまま、けれど目を逸らせないまま、小さな手で自分の胸元をそっと押さえた。
“精霊族”という存在として生きてきた年月の中で、こうした人間たちの関係を遠くから見てはいた。けれど、自分がそこに入りたいと感じるなんて思ったことは一度もなかった。
だけど――なぜか、今日は。
(……ユーリの隣に、あたしがいたら、って……)
小さな声で、そっと呟く。
「……ばか……」
でもその声には、怒りも、呆れもなくて――ただ、ほんの少しの憧れと、寂しさだけが滲んでいた。
そして、もう一度だけそっと焚き火の光を見つめてから、エルナは自分の寝所へと静かに戻っていった。
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焚き火の明かりが、ゆらり、ゆらりと揺れながら、夜の深まりとともにその光を弱めていく。炭となった薪が静かにくすぶり、かすかな熱を残して辺りを暖めていた。
その焚き火からそっと離れた場所――木立の陰に敷かれた寝床へと、エルナは静かに身を戻した。草の香りと、土のぬくもり。森の鼓動が感じられるその場所に、彼女は誰にも気づかれぬように足音を殺し、そっと身を伏せた。
毛布を肩まで引き寄せ、ゆっくりと瞼を閉じる。けれど、眠気は一向に訪れなかった。
(……眠れない……)
吐息が一つ、静かに夜の冷気へと溶けていく。胸の奥がひどくざわついていた。
(なんで……こんなに……苦しいの……)
柔らかな布地の感触を確かめるように、毛布の端をそっと握る。指先に力がこもるたび、胸の奥で何かが締め付けられるような感覚に襲われた。
思い出してしまう――ついさっきの出来事を。
ユーリと、リディアの……唇が重なった瞬間を。
ぱちん、と脳裏に焼き付いていたその光景が、まるで火花のように何度も何度も反芻される。
(あの人たちは、信頼し合ってる仲間で……それだけのこと、なのに……)
心の中で何度もそう言い聞かせようとした。けれど、言葉にすればするほど、かえって胸の痛みが増していく。
(なのに、どうして……あたし、こんな気持ちになるの)
精霊族のあたしには、こんな感情、無縁だと思ってた。ずっとずっと、そう信じてきた。
自然とともに生き、森と共鳴しながら命を紡ぐ自分たちの在り方は、人間のような激情とは無縁だと。愛や恋など、ただの概念に過ぎないと――
(でも……)
焚き火のそばで、そっとかけられた優しい言葉。
「寒くないか?」という、たったそれだけの一言が、どうしてあんなにも心に沁みたのか。
(……嬉しかった)
胸の奥からじわりと湧き上がる温もり。それは魔力ではなく、精霊の囁きでもない。もっと――人間らしい、名もない感情だった。
彼が、自分のために動いてくれる瞬間を目にするたび、どこかくすぐったくて、でも嬉しくて、でも――誰かと一緒にいるのを見ると、心の奥がきゅっと締めつけられる。
(それって、もしかして……)
自分の中で、あるひとつの言葉が形になりそうになって――慌ててそれを振り払うように、エルナは毛布の中で身体をぎゅっと丸めた。
「なに……考えてるの、あたし……!」
声には出さず、唇だけが小さく動く。頬が燃えるように熱くなり、目元にはじわりと涙さえ滲んでいた。
(だって……リディアさん、きれいだった。キスだって、自然で……あたし、どうしてそんなこと思ってるの……?)
知らないはずの感情なのに。精霊の森で過ごしてきた日々では、感じたことすらなかった想いなのに。
(あたしも……)
その先の言葉が怖くて、でも確かに、心の中で生まれかけている。震える唇が、その輪郭をなぞるように、ゆっくりと動いた。
「……あたしも……キス、してみたいな……」
呟いた瞬間、心臓が跳ねた。
(……な、なに言ってるのよ、あたし……!)
あまりの恥ずかしさに、エルナは毛布の奥深くへと顔を埋める。心臓の音がうるさいほどに響き、どうしても落ち着かなかった。
けれど――その騒がしさの中に、確かに存在していた。ほんの少しの温もり。たったひとつの、やさしい確信。
(あたし、変わり始めてるんだ……)
それは、怖くもあった。でも同時に、嬉しくもあった。
冷たく澄んだ夜気の中、精霊たちの囁きが、風にまぎれてそっと聞こえてくる。まるで「大丈夫」と言ってくれているような、穏やかな気配だった。
(……明日、少しだけでも……ユーリと、話せたら……)
言葉にするには、まだ勇気が足りない。けれど、その願いは確かに心に宿っていた。
毛布の下で、エルナの表情がほんのわずかに緩む。
森の夜はまだ深く、静寂はどこまでも澄んでいた。けれど、その静けさの中で、彼女の胸に芽生えた一輪の想いは、誰にも気づかれぬまま、やさしく花開こうとしていた。




