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温かな手のひら


 数日後――。


 学園への編入が正式に決まったユーリは、屋敷の離れにある書庫でミリアと共に静かな時間を過ごしていた。


 重ねられた羊皮紙の束と、使い込まれた魔術書。古びた木製の机には、彼が解析を進めている魔術式の図面が広げられていた。傍らではミリアが熱心に筆記を手伝っている。


「……あのときの魔術式、やっぱり感知距離が短すぎるな。条件下での改良が必要かもしれない」


「でも、それでも十分にすごいと思います。あんな繊細な魔法、私……初めて見ました」


 ミリアは控えめに微笑みながら、茶器を手にして机の上の書類に目を落とす。彼女は今ではユーリの研究補助も担っており、記録の整理や簡易な実験もこなすようになっていた。


 この書庫は、もともとユーリの亡き母が使っていた部屋だったという。華やかさはなく、色あせた壁紙に、木の床の軋む音。けれどその古めかしさが、どこか温かみと落ち着きをもたらしていた。


「この世界って、本当に不思議だよな。魔法や精霊、それに……神話まである」


 ユーリはふと顔を上げ、書架に並ぶ古文書に目をやる。そこには、彼が元の世界では一度も見たことのない“奇跡”の数々が記されていた。


 魔力を基盤に成り立つ文明。魔道具が人々の生活に溶け込み、国家の力を魔術の発展で測るこの〈ルフェリア〉という世界。王都エルディアには世界最高峰の魔法学園が存在し、貴族子弟や商家の後継者が集い、知識と力を競っていた。


 やがて、ミリアがそっと、焼きたてのパンと湯気立つハーブスープを机の端に置く。香ばしい香りが静かな空間にほんのりと広がった。


「どうか、お身体には気をつけてください。学園……きっと、貴族の方々ばかりでしょうし」


「うん。ありがとう。でも、そこで勝たなきゃ意味がない」


 パンを手に取りながら、ユーリの瞳に静かな炎が宿る。

 かつてこの屋敷で蔑まれ、名前すら忘れられかけた存在だった少年は、今、確かに前へと歩き出していた。


 自分の力で幸せをつかみ取る。その想いを胸に、彼はこの世界に降り立ったのだ。

 ――そう、あの時、菜々美に誓ったから。


(必ず、強くなってみせる。いつか、守れる存在になって……)


 まだ見ぬ学園の空を思い描きながら、彼はパンを一口かみしめた。

 それは、どこか懐かしくて、温かい味がした。


 


 *** 


 その夜。


 ミリアがいつものように寝間着を届けに来たとき、ユーリは机から顔を上げた。


「ユーリ様、お召し替えを――」


「ありがとう、ミリア。あのさ……少しだけ、話せないか?」


「はい?」


 意外そうに瞬きをしたミリアだったが、すぐに頷き、部屋の隅の椅子に腰を下ろす。


 外は夜更け。窓の向こうでは虫の声がかすかに響いていた。


「ミリア、最近さ……君、俺の部屋に来ることが増えてない?もしかして、手伝いを頼みすぎてるのかなって……無理、してない?」


「えっ……いえ、そんなことは……っ」


 ミリアはあたふたと否定の言葉を並べたが、すぐにうつむいて小さく言った。


「……私、自分から来てるんです。ユーリ様のお力になりたいって、心から思って……」


 その言葉に、ユーリはほっとしたように微笑んだ。


「そうか……ありがとう。君は俺にとって、たった一人の味方だから。君が笑ってくれるだけで、俺は十分救われてる」


 不意に紡がれた言葉。

 ミリアの頬が静かに染まっていく。心の奥に、じんわりと熱が灯ったような感覚に戸惑いながら、彼女は息を呑んだ。


「ユーリ様……時々、誰かのことを思い出しているような、そんな目をされます」


「……そう見えるか?」


 思わず声が揺れる。

 記憶の底から浮かび上がるのは、菜々美の面影だった。けれどそれを語る言葉は、まだ彼の中で整理できていなかった。


「……まあ、それは今度、話すよ。今はミリアと過ごすこの時間が大切だと思ってる」


「……ふふ、ありがとうございます」


 ミリアがそっと手を差し出す。

 彼女の白く細い指先は、どこか震えていた。ユーリは躊躇いながらも、その手をそっと握る。


 静かなぬくもり。言葉では伝えられない感情が、指先を通じて流れていく。


 ふと、ミリアの瞳が潤んだ。


「……ユーリ様、優しすぎますよ」


 こぼれそうな涙に、ユーリは思わず焦る。


「あっ、ごめん! その……泣かせるつもりじゃ……」


「違うんです、そうじゃなくて……嬉しかったんです。こうして、侍女の私を……人として見てくださったことが」


 ミリアの瞳ににじんだ雫が、ぽたりと指先に落ちた。


 ユーリはそっと手を離した。その感触は、まだ掌の中に残っていた。


(つい、手を取ってしまった……。ミリアの手って、思ったよりも……柔らかかったな。俺、案外……いや、結構スケベなのかもしれない)


 そんな情けない自己反省の裏に、ほんのひとしずく、今までとは少し違う想いが芽吹いていることに――ユーリは、まだ気づいていなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


<ミリア視点>

その夜。


 ユーリの部屋を辞し、自室へ戻ったミリアは、そっと扉を閉めると、背中で寄りかかるようにして息を吐いた。


 胸が、まだ少し熱い。

 心臓が、どくどくと音を立てている。


 さっきまで、彼の手が、あたたかさが、たしかにそこにあった。


 ベッドの縁に腰掛けて、彼女はふわりとスカートの端をつまむ。手のひらが、まだ微かに震えていた。


「……優しすぎるんです、本当に……」


 ぽつりと、呟きがこぼれた。


 ユーリは、決して特別な言葉を使うわけじゃない。飾り立てた甘いセリフも、強引な態度もない。けれど――

 だからこそ、彼の言葉はまっすぐに心に届く。


「笑ってくれるだけで、救われる」

「今はミリアと過ごす時間が大切だ」


 思い出すだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。

 彼の瞳は、誰かを思い出しているような切なさを宿しながら、それでも、今を真剣に生きている瞳だった。


(私じゃない、誰かがいるのかもしれない。それでも……)


 ミリアは、ぎゅっと両手を組みしめた。


(今、私の手を取ってくれたのは、ユーリ様。私の存在を「大切」だって言ってくれた)


 不安も、戸惑いもある。

 けれど、それ以上に心を満たしているのは、温もりと喜びだった。


 立場は侍女。

 けれど、ただ仕えるだけの自分で終わりたくないと、初めて心から願った。


(……私も、隣に並びたい。ちゃんと、ユーリ様の支えになれるように)


 鏡の前に立つ。

 そこには、ほんの少しだけ表情の柔らかくなった自分がいた。


 そっと頬に手を当てると、火照りがまだ残っている。


「ふふ……」


 小さな笑みがこぼれる。


 そしてミリアは、自分の中に芽生えた想いを胸にしまいながら、ベッドの上にそっと身を横たえた。


 カーテンの隙間から差し込む月の光が、彼女の微笑をやさしく照らしていた。


 ――いつか、堂々とあの手を取れる日が来るように。

 ミリアはその夜、静かに瞳を閉じた。


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