エルナ
森の中は、まるで世界から音という概念が消え去ったかのような、深い沈黙に包まれていた。
先ほどまで木霊していた戦いの気配――爆ぜる魔力の閃光や、鋼が肉を裂く乾いた音、獣たちの絶叫が、まるで嘘だったように遠ざかり、ただ風さえも息を潜めているようだった。
辺りには、倒されたゴブリンたちの残骸が散らばっていた。ねじれた四肢。黒く濁った血が湿った苔に滲み、空気に不吉な臭いを混ぜている。
その光景は、どれだけ場数を踏んできた者でも眉をひそめるほどの異様さを放っていた。
「……ふぅ。なんとか、片付けたけど……」
リディアが長杖を肩に乗せ、息を吐く。彼女の額には汗が滲み、金の髪が数筋、頬に貼りついていた。けれどその瞳は鋭く、視線は常に周囲の動きに集中している。
「妙ね……この規模の群れが、あんな統率を見せるなんて」
リディアの言葉は、疑念と警戒に満ちていた。
「本当に変でした。あんなに連携の取れたゴブリン……私、初めて見ました」
アリアが剣についた血を布でぬぐいながら、眉を寄せる。普段は物静かで淑やかな彼女も、この異常さには隠せぬ不安をにじませていた。
彼女の剣は鋭く、その動きには無駄がなかった。戦場での振る舞いはまさに侯爵家に伝わる剣術の賜物で、どこか神聖さすら漂わせていた。
「精霊の森にゴブリンが入り込んだ時点で異常だったが……あれは明らかに、何かに“誘導”されていた。偶然じゃない」
ユーリは、剣を鞘に収めながら森の奥を睨みつけた。その表情には、怒りではなく、確信に近いものが浮かんでいる。
まるで、何者かが背後にいて、ゴブリンたちを操っているとでも言わんばかりの鋭さだった。
三人はしばし無言のまま、ただ森の空気に耳を傾けていた。だがその静寂の奥に、何かが潜んでいる気配――沈黙の中に息を潜める“異質”が確かにあった。
「……見て」
リディアが静かに言った。彼女の指が指し示す先、倒木の陰に小さな足跡が残っている。
その足跡は、ゴブリンたちのものに比べて明らかに軽く、小さい。泥にまみれ、ところどころ滑った跡すらある。
「……これは、子供の足跡? いや……人間じゃない」
ユーリがしゃがみ込み、足跡に指を這わせる。感触を確かめるように、そっと苔の上を撫でた。
「――精霊族のもの、だと思う。細くて、足裏の接地が浅い。人より軽い」
「でも、どうして? 精霊族はもっと森の奥に住んでるはず……こんな入口近くまで来るなんて」
アリアの声が震えていた。森の外からやってきた“異物”が、精霊の子供をも追い詰めている。そう思えば、胸が締め付けられるのも当然だった。
「この足跡……どこかへ逃げた痕跡に見えるわ。追わないと」
リディアの声に、ユーリも黙ってうなずいた。
一行は、痕跡を追ってさらに森の奥へと踏み入れていった。
倒れた枝、削れた幹、爪痕――小さな足跡の傍らに、ゴブリンのものと思しき爪跡や血の痕も混ざっている。まるで、か弱い存在を狙って獣が這い寄った跡のようだった。
そして――
木々がわずかに開けた小さな空間に、ひときわ異質な気配があった。光が差し込むその場所の中央に、小さな影が蹲っていた。
外套に身を包み、足を抱え込むように座り込む姿。
髪は淡い緑、まるで春の新芽のような色。風に揺れるそれは、背中まで垂れ下がり、泥と血でところどころ束になっていた。
「……誰?」
アリアが問いかけた。だが、返事はなかった。ただ、怯えきったその瞳が、ゆっくりと彼女たちを見返してきた。
長く尖った耳、透き通るような肌――間違いなかった。精霊族の子供だ。
「……大丈夫、私たちは味方よ」
ユーリがゆっくりと手を差し伸べた。指先が震えないよう、慎重に、まるで迷い鳥に触れるように。
だが、少女は身をすくめ、身体をさらに丸めてしまう。怯えた表情、涙に濡れた頬。心の傷は、肉体よりも深い。
「……見て。足、怪我してる」
リディアが近づき、そっと膝をつく。
「放っておいたら歩けなくなる。治してもいい? 怖くないから」
少女はしばらく動かなかった。だが、リディアの柔らかな声に、わずかに肩の力を抜いた。
ユーリが静かに癒しの魔法を紡ぐ。淡く揺れる光が、少女の足を包んだ。傷口がゆっくりと閉じていくたび、少女の表情に、痛みではない涙が浮かんでいく。
「……ありがとう」
その声は、掠れていた。けれど、その震える一言は、確かに届いていた。
「名前を、聞いてもいいかな?」
ユーリが優しく問いかける。
少女は、しばらく逡巡した後、小さく唇を開いた。
「……エルナ」
その瞬間、森の風が柔らかく枝葉を揺らした。まるで森そのものが、その名を聞いて応えるように。
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森の静寂の中、少女――エルナはまだ警戒の色を浮かべたまま、三人からほんのわずかな距離を置いて腰を下ろしていた。治癒を終えた足を抱え、身を守るように膝を引き寄せている。
ユーリはあえて距離を詰めず、彼女の目線の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「……改めて、僕はユーリ。こっちはリディア、そしてアリア。驚かせてごめんね」
「……知りません。あなたたちのことなんて」
エルナは俯いたまま、けれどその声には先ほどよりも棘がなかった。
「そうだね。いきなり現れたよくわからない人たちなんて、信じられないのが普通だと思う。……でも、僕たちは本当に君を助けたくてここにいるんだ」
エルナはほんの一瞬、ちらりとユーリの顔を見た。そしてまたすぐ視線を逸らす。彼女の頬に、かすかな赤みが走ったのをユーリは見逃さなかった。
「……なんで……助けるの。私、何もしてないのに」
「困ってる人を見て放っておけない性分なんだ。そのせいで怒られることもあるんだけどね」
横にいたリディアが「まったく、バカなのよ、こいつ」と肩をすくめるように言ったが、その表情はどこか優しさを含んでいた。
「……ふん」
エルナの唇がわずかに動いた。明らかに笑いをこらえたような、そんな小さな反応。だがそれだけでも、ユーリにとっては十分だった。
「君、精霊族なんだよね?」
すると、エルナの体がびくんと反応した。
怪訝な表情でユーリを見つめる。
「……どうして、それを……」
「さっきの足跡でなんとなくわかったよ。小さくて、でもふわっとしてて、森と一緒に歩いてるような感覚があった。あれは……普通の人間の子供にはできない歩き方だと思った」
「……観察力、だけはあるのですね。でも、一つだけ訂正します。私は子供ではありません」
今度ははっきりと、揶揄するように言ったエルナの声に、ユーリは小さく笑って返した。
「ありがとう。それと、ごめん。精霊族に出会ったのはこれがはじめてだったんだ」
その場に、ほんの少しだけ温かい空気が流れた。
アリアが静かに後ろで立ち、あえて口を挟まないようにしている。リディアも腕を組んだまま黙っていたが、視線はエルナをじっと見ていた。ふたりとも、ユーリが時間をかけて心を開かせようとしていることを理解していた。
「……あなたはユーリ。名前、ちゃんと覚えました。変な人だけど、どうも悪い人じゃなさそうです。それに助けていただきましたし」
「変な人……まあ、それは否定できないな」
「でも……信じるかどうかは、もう少し見てから決めます。私は、簡単に誰かを信じたりはしませんから」
「うん、それでいい。僕は焦らないよ。君が信じてくれるまで、ゆっくり進めばいい」
その言葉に、エルナはほんの少し、口の端をゆるめた。
風が、そっとエルナの髪を揺らす。彼女はまだ幼い少女のような見た目だったが、どこか年輪を重ねたような、深い孤独と誇りをその身にまとっていた。
そしてその孤独が、今、わずかに解け始めていた。




