ミリアと新しい自分
朝の食堂は、静かに張りつめた空気が流れていた。
大理石の床を軋ませる足音が止まり、ひとりの少年が部屋へと足を踏み入れる。
長く磨き抜かれた楕円形のテーブル。その中心に座るのは、コーリング伯爵――アレクセイ・フォン・コーリング。銀の髭を整えた中年の男で、鋭い目を細めながらこちらを見ている。彼の纏う重厚な雰囲気は、長年の政治と戦略の場で培われた威圧そのものだった。
彼の両脇には、ユーリの異母兄である長男ギルベルトと次男ロイエルが控えていた。どちらも正妻の子。幼少より英才教育を受け、既に貴族としての風格を身につけつつある。彼らの視線は、執拗なまでに冷たく、そしてどこか見下すような色を帯びていた。
「……お前か、ユーリ」
父アレクセイの声が低く、重く響く。その声音には血のつながりによる温かさは微塵も感じられなかった。
その目は、まるで“使える駒か否か”を見定めるように、冷たい光を宿している。
「はい。おはようございます、父上」
俺――ユーリは、堂々と返す。過去の記憶によれば、この家での自分は“従順で目立たぬ存在”として扱われていた。だがそれを今日から覆す。いや、覆さねばならない。
「最近、急に様子が変わったと聞いた。何かあったか?」
「少し……伯爵家の三男として目が覚めたようです。自分が何者であるべきかを、考えました」
兄たちが鼻で笑う。ギルベルトがあからさまに嘲るように呟いた。
「今さら“妾腹の三男”が何を考えたところで、無意味だ。お前に何ができる?」
「それは、これから示します。まずは、学園への推薦をいただけませんか」
食卓が一瞬、静まりかえった。使用人たちの足が止まり、部屋の空気が凍りつく。
コーリング伯爵家から、帝都のエルディア中央魔法学園に進学できるのは原則ひとり。ギルベルトはその推薦を得て既に入学し、今は実家に一時帰省中。そして次はロイエルが、ほぼ内定している――そんな中での“第三子”の立候補だった。
「ふん……お前に何か、能力でもあるのか?」
父アレクセイの声音には、侮蔑と試すような色が混ざっていた。
「いくつか……試してみたいものがあります。もし、“結果”を出せれば――考慮していただけますか?」
しばらく沈黙が流れた。だがやがて、アレクセイは重々しく頷いた。
「ふん、まぁいいだろう。ひと月後だ。ひと月後に“結果”を見せてみろ、ユーリ」
それはまるで、「興味はないが、見世物にはなる」とでも言いたげな声音だった。
部屋に戻った俺は、すぐに女神から得た能力を試すことにした。
まずは――“創造の加護”。
掌に魔力を集中する。記憶にあった、現代の道具――小型の発火装置、つまりライターの構造を頭の中で再構築する。内部の素材、圧縮機構、火花の発生原理。視覚だけでなく、金属の冷たさや重さすらもイメージに取り込んでいく。
魔力が流れ、空中に淡い光が走った。
「……!」
手のひらに、金属光沢を持つ小さな筒が現れた。ライター……に限りなく近いものだった。ただし、細部の精度にはまだ粗があり、表面もやや歪だ。だが、機能は果たす。
カチ、と回転させると、小さな炎が生まれた。
「……やった。創造の加護、成功だ」
その直後、膝が軽く震える。魔力の消耗が思ったより激しい。創造物の精度や複雑さに比例して、魔力の負担が跳ね上がるのだ。
「慎重に使う必要があるな……油断すれば、自滅する」
けれど、確かな手応えがあった。この力は、必ず自分を次の段階へと導いてくれる。
その夜、俺はミリアにそっと頼んだ。
「……明日から、しばらく、手を貸してくれないか?」
ミリアは驚いたように目を見開き、けれどすぐに柔らかく微笑んだ。
「はい、なんでもお申し付けを。……ですが、お坊ちゃま、少し変わられましたね」
「…変わった…か、そうだね、そうかもしれない」
「前は、誰かの視線ばかり気にしておられた。けれど今のあなたは……自分の足で立とうとしている。そんなふうに見えます」
その瞳に、ほんのわずかな敬意と、淡い期待が宿っていた。
(……この子を守れるだけの力も、いつか手に入れなきゃな)
初めての味方。いや、きっとこれからもっと大切な存在になる――そんな予感が、確かに胸にあった。
チクリと感じる少しの罪悪感とともに。
朝靄がゆるやかに晴れ始めた頃、コーリング伯爵家の裏庭には静かな緊張感が漂っていた。
ユーリは、広大な芝生の中央に立っていた。薄く霧がかかる中、その目の前には彼が深夜まで調整し続けた複合型魔術式が刻まれている。
後方には、父アレクセイ・フォン・コーリング伯爵が重厚な椅子に腰を下ろし、その隣にギルベルトとロイエルが並んで立っていた。兄たちの顔には、見下しと嘲笑が浮かんでいる。
「ふん、朝から随分と派手な遊びだな」
ギルベルトが皮肉をこめて吐き捨てる。
「お前がどれほどの“芸”を披露しようと、所詮は三男坊の悪あがき。何を見せてくれるんだ?手品か、それとも夢物語か?」
「父上に無理を言って、こんな芝居を見せるとはな。さすがは空気を読まない末弟だ」
ロイエルも追い打ちをかけるように言ったが、ユーリは彼らの言葉に一切動じなかった。
静かに手を差し出し、魔力を指先に集中。意識を魔術式へと繋ぎ、周囲に展開された魔力導線に命を吹き込む。
次の瞬間、術式が蒼白く光を放ち――その光が走った先、木の枝が淡く赤く発光する。
「……っ!」
ロイエルが驚きに息を呑んだ。
「これは……温度感知?いや、色魔法じゃない……魔力反応による、検知か……?」
ギルベルトの顔が、明らかに引きつる。
「たまたま上手くいっただけだろう。こんなまがい物で推薦が取れるとでも……!」
だが、アレクセイの目が鋭く光る。
「ふむ。……予想外だな」
「その魔術、独力か?」
「はい。屋敷の古文書と、生活道具の仕組みを応用しました」
しばしの沈黙のあと、アレクセイは重く口を開いた。
「お前のような妾腹の子が、そこまで頭を使えるとはな。だが、勘違いするな。これは“褒美”ではない。“試験”だ」
「……承知しております」
「貴族社会とは、家柄と血筋がすべて。それを魔術ひとつで覆せるとは思わぬことだ。だが――」
その視線が、ギルベルトとロイエルを一瞥する。
「“使える道具”なら、それなりの場所に置いておく価値はある。お前を、エルディア中央魔法学園に送り込む。ただし――勝手は許さん」
「父上、それはあまりにも――!」
ギルベルトが反論しようとしたが、アレクセイが手で制す。
「推薦枠は予備を含めて二つある。結果がすべてだ。……だが、一つでも問題を起こせば、その時は――家から追放する」
場の空気が凍りついた。
だがユーリは、静かに、深く頭を下げる。
「覚悟はできております。ありがとうございます、父上」
ギルベルトの苛立ち、ロイエルの戸惑い。だが彼らの心中など、もはやどうでもよかった。
(見てろよ、兄さんたち。俺はもう、誰の影にも隠れたりしない)
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夜、屋敷に戻った俺は、廊下の片隅で控えていたミリアの姿に足を止めた。
彼女はそっと頭を下げ、変わらぬ制服と所作で俺を迎える。けれど、その佇まいのどこかに、今までよりもほんの少しだけ――距離の近さとは異なる、別の温かさがあった。
「ミリア……少し、話がしたい」
俺の声に、ミリアは静かに頷いた。
二人きりになった応接室。夜の帳が窓の向こうに落ちていた。俺はしばらく言葉を探し、それからゆっくりと告げた。
「……俺は、もう“元のユーリ”じゃないんだ。事故に遭って……いろいろあって……中身が、少し違ってしまった。お前にどう説明すればいいのかも、正直わからない。ただ……それだけは、伝えておきたかった」
言ってしまえば、楽になると思っていた。けれど実際は、言葉にするたびに胸の奥が痛む。ミリアの中にある“ユーリ”像を、自ら壊すことになるのだから。
ミリアは、ほんの一瞬だけまばたきし、それから小さく首をかしげた。
「……正直なところ、私には、今のお話の意味は……あまり、よくわかりません。でも」
そう言って、彼女はまっすぐに俺を見た。
「あなたが、これから“ユーリ様”として歩んでいかれるのなら。私は、専属メイドとして、これまでと変わらず……いえ、それ以上に、あなたを支え続けたいと思います」
その言葉に、胸の奥が、静かに熱くなった。
理解されなくてもいい。ただ、俺がどうありたいかに寄り添おうとしてくれる。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「ありがとう、ミリア……。お前がいてくれて、本当に助かる」
「ふふっ、そう言っていただけて光栄です、ユーリ様」
はじめて聞いた呼び方に、少し照れくさくなる。けれど、その言葉には確かに、あたたかな距離が宿っていた。
今はまだ、お互いに踏み込むには早すぎる。けれど、たしかに――ここに、始まりがある。
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<ミリア視点>
ユーリ様の目が、いつもと違って見えたのは――ほんの少し前からだった。
けれど私には、それが何を意味するのかまでは、分からなかった。疲れているのか、それとも新しい環境で無理をしているのか。そう思って、そっと見守ることしかできなかった。
だから今夜、「少し話をしたい」と声をかけられたとき、胸の奥が小さく波打った。
応接室に入って、扉が閉まる。夜の静けさがふたりの間を包む中、ユーリ様が言った。
「俺は、もう“元のユーリ”じゃないんだ」
意味は、正直に言って、よく分からなかった。言葉の端々にあった痛みや罪悪感が、むしろ余計に、私の理解を遠ざける。でも、たった一つだけ、確かに感じ取れたものがある。
――この人は、今の自分を恐れている。私の中の“お坊ちゃま”を壊してしまうことを、怖がっている。
だから私は、言葉を選ばず、心のままに伝えた。
「正直なところ……私には、今のお話の意味はあまりよくわかりません。でも――あなたがこれから“ユーリ様”として進んでいかれるのなら、私は……」
喉が一瞬詰まりそうになったけれど、それでも視線は逸らさず、続ける。
「私は、専属メイドとして、あなたを支え続けます。これからも、ずっと――」
これは、決意だった。分からないことを無理に分かったふりはしない。でも、変わってしまったとしても、私は新しく歩み出す“ユーリ様”に仕えたい。心から、そう思った。
「ありがとう、ミリア……お前がいてくれて、本当に助かる」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。だけど私は、微笑んで答える。
「……ふふっ、そう言っていただけて光栄です、ユーリ様」
初めての呼び方が、ほんの少し照れくさくて、でも温かい。
これが、私たちの“これから”なのだと思った。まだ恋ではない、けれど、心が確かに重なり合った気がした。