ユーリの失敗と蠢くもの
その夜、ユーリは寮の裏手にある静かな林へと足を運んでいた。誰にも気づかれない場所。ここは、リディア・アーデルレインと内緒の訓練を続けてきた、二人だけの秘密の場所だった。
「遅いわよ。まさか忘れてたんじゃないでしょうね」
木の陰からリディアが現れる。いつも通り凛とした表情だが、その頬にかすかに赤みが差していた。
「忘れるわけないだろ。今日の演習でもおかげで助かった」
「ふん。べ、別にあんたのために教えたわけじゃ……」
いつもの照れ隠し。だが、どこか落ち着かない様子のリディアに、ユーリは首を傾げる。
「何かあったのか?」
「……演習中のこと。なんか、変だった。あんたから、妙な気配がしたの」
「……気づいてたのか」
ユーリは苦笑し、正直に打ち明けた。加護――女神から授かった“魅了の加護”が、無意識に発動していたことを。
「なるほどね。……それで女の子たちが色めき立ってたのね。ふざけた力」
「悪気はなかったんだ。ただ、うまく制御できてなくて……」
「はぁ……」
リディアは大きくため息をつくと、腰に手を当てて睨みつけた。
「だったら、ちゃんと訓練しなさい。加護も魔法も、使いこなせなきゃ意味がないわ」
「はい、師匠」
「誰が師匠よ!」
リディアの頬がさらに赤くなり、怒鳴った拍子に身体のバランスを崩す。そして――
「きゃっ……!」
バランスを崩したリディアは足を滑らせ、ユーリに向かって倒れ込んだ。受け止めようとしたユーリも、その勢いで地面に倒れ込み、リディアの柔らかな身体が上にのしかかる形になった。
「い、痛っ……ごめ――」
ユーリが謝ろうとした瞬間、自分の手がリディアの胸に触れてしまっていることに気づく。
ふわりとした感触と、リディアの瞳に走る電撃のような怒り。
「……ユーリ・フォン・コーリング!!」
「い、いや違う!これは事故だ!完全な――」
「どこが事故よバカァァァァッ!!」
雷のような怒号とともに、リディアの手が振り下ろされた。
その夜、林に悲鳴が響いたことを知る者は少ない。
***
翌朝、寮の中でユーリはベッドの上で呻いていた。リディアの拳は見事に彼の腹に入っていた。
(……まさか、またやっちまうとは)
だが不思議なことに、今回はそれほど冷たくされなかった。怒ってはいたが、リディアの態度にはどこか“ため息混じりの甘さ”があった。
(少しずつ、距離が縮まってるのかもしれないな……)
そう思いながら寮の廊下を歩いていると、ふと視線の気配を感じて立ち止まった。
振り返る。しかし、そこには誰もいない。
(まただ……)
最近になって頻繁に感じる、背後からの刺すような視線。それは単なる気のせいではなかった。特にアリアと接する時、その気配は顕著に強まる。
何者かが、明確な敵意を持って見ている――そう確信するようになっていた。
***
その日の午後、ユーリはアリア・グランシュタインと、学園の裏庭で偶然再会した。小さな花壇に座り、アリアは本を読んでいた。
「……兄様」
彼女は銀髪を揺らして顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「よかった、今日も会えて」
「こっちこそ。……花、好きだったんだな」
「ええ。静かな場所、落ち着くの」
アリアの声はどこか遠く、揺れていた。その眼差しには優しさと、同時に微かな怯えが滲んでいる。
「また、変な視線を感じたのか?」
「……うん。でも、兄様が近くにいると、安心するの」
小さな手が、そっとユーリの袖を握る。その指先は少し震えていた。
ユーリは彼女の手を優しく握り返し、言葉を探した。
「……俺が守るよ。君が怖がらなくてすむように」
「……ありがとう、兄様」
アリアはそっと目を閉じた。
だが、その瞬間――木々の陰に、確かに人影が揺れた。
(今のは……)
ユーリはすぐに立ち上がり、視線を向けた。しかしそこには、すでに誰もいなかった。
***
その夜、学園の塔の屋上にひとりの影が立っていた。風に揺れる銀髪。鋭く冷たい眼差し。
「ユーリ・フォン・コーリング……」
その名を呟いた男――エリオット・グランシュタインの眼差しには、燃えるような怒りが宿っていた。
「僕の妹に……触れるな」
そしてその視線は、遥か下にある学園の寮へと向けられていた。
エリオットの心には、複雑な感情が渦巻いていた。
妹への深い愛情と、それに近い執着。かつて心惹かれたリディア・アーデルレインへの淡い想い。そして、そのどちらにも近づく男――ユーリへの、果てしない憎悪。
夜風が吹き抜ける中、エリオットの視線は決意を帯びたものへと変わっていった。
「僕から全てを奪うつもりか。ならば、先に――消えてもらうしかない」
その呟きは、誰にも届かぬ夜へと溶けていった。
――次なる衝突の幕開けは、すぐそこまで迫っていた。




