そして、兄は異世界で目を覚ます
まばゆい光の中、意識がゆっくりと浮上していく。
音もない虚無の中で、ただ微かに、自分という存在の輪郭だけが残っていた。それが少しずつ、色を帯び、重さを持ち、呼吸と鼓動を取り戻していく。
そして――ふわりと、重力から解き放たれたような身体の感覚が訪れた。
新しい世界の空気は、どこか甘く澄んでいて、胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、心の奥に染み込むようだった。
(……ここが、エルディア……?)
ゆっくりとまぶたを開くと、視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天蓋付きの寝台だった。絹のように滑らかなシーツが肌を包み、天蓋から垂れるレースが柔らかな光を乱反射している。微かに漂うのは香木の芳香。白い天井には緻密な彫刻が施され、まるで物語の中の王宮の一室のようだった。
「……夢、じゃないよな……」
言葉に出した瞬間、自分の声の変化に気づいた。以前の自分よりも少し若く、澄んだ声色。
のろのろと身体を起こす。全身が妙に軽い。いや――これは、違和感だ。重さの変化だけじゃない。手を見れば、白く繊細な指。鏡代わりの銀の装飾に映ったのは、銀色の髪に青い瞳を持つ、15歳ほどの美少年だった。
どこか影を宿した瞳と理知的な眉、感情を抑えたような表情。けれど、その奥に宿る強い意志は、確かに自分のものだった。
(これが……ユーリ・フォン・コーリング……)
女神の口から聞いた名前が、記憶と共に胸に落ちる。伯爵家の三男。正妻の子ではなく、妾腹。家では日陰者として扱われ、兄たちには蔑まれながらも、実は優れた頭脳と感応力を備えた隠れた逸材――。
流れ込んでくる断片的な記憶が、脳内で徐々に一つの像を結ぶ。ユーリとしての過去と、俺――祐輔の記憶が混ざり合い、新しい自我として確立していく。
(最初から特権階級ってわけじゃないのか……でも、悪くない。下から這い上がるのは、むしろ性に合ってる)
この世界――エルディアは、剣と魔法の力がすべてを支配する場所。貴族社会も例外ではなく、家柄や名声は“力”に裏打ちされて初めて意味を持つ。
だからこそ、女神が与えてくれた三つの加護には、大きな意味がある。
◆ 加護1:創造の加護
“想像できるもの”を、具現化する力。ただし、それには等価の対価――魔力、素材、そして正確な知識が必要不可欠。つまり、無から有を生む万能能力ではなく、発想力と応用力を求められる、極めて高度な力だ。
発展すれば、失われた古代魔導技術や禁断の錬成術すら再現可能。後に、世界の常識すら塗り替える“鍵”となる加護。
◆ 加護2:魅了の加護
異性との心の距離を自然と縮める“雰囲気”をまとわせる能力。だがそれは万能ではなく、相手の心に入り込む“きっかけ”を与えるに過ぎない。誠意と信頼を築く努力を怠れば、逆に相手の心を壊す危険すらある。
真の人間関係は、加護ではなく“人格”で築かれる――それが、この力の本質だった。
◆ 加護3:戦闘の加護
反射神経、筋力、感応力、魔力耐性など、戦闘に関わる“基礎能力”を飛躍的に高める加護。だが、これは“天才のスタートライン”に立ったに過ぎない。鍛錬を怠ればその才能は腐り、やがて凡庸に沈む。
努力を続ける者だけが、この力を本当の武器とできる。
「……なるほどな。女神様、あの優しい顔で、なかなかハードなプレゼント寄越してくれたな」
ただ勝たせるためではない。“選び取る自由”と“自分で進む責任”を、与えられたのだ。
(なら、やるしかない。……ナナミに、また会えるその日まで)
そう心の中で誓った瞬間――コン、コン、と控えめなノック音が扉の向こうから響いた。
「……お坊ちゃま。お目覚めでしょうか?」
柔らかく、どこか緊張を帯びた若い声。その名を知っている。ミリア――この屋敷で唯一、ユーリに対して分け隔てなく接してくれていた、数少ない味方。
扉が静かに開き、栗色の髪を結い上げた清楚な印象の少女が、慣れた仕草で一礼する。彼女は俺――いや、ユーリの孤独を知り、それでもそっと寄り添ってくれていた存在だった。
「……ミリア。おはよう」
自然と口をついて出たその言葉は、ユーリの記憶と、俺自身の想いが重なったものだった。
ミリアは一瞬驚いたように目を見開き、そして微笑む。
「……お目覚めになったばかりなのに、まるで別人のように……凛とされていて」
「……色々と、思うところがあってね。……兄たちは、もう食堂に?」
「はい。お父上も、お目覚めの挨拶をお待ちです」
「……そうか。じゃあ、行こうか。俺の“立場”を、きちんと把握しておかないといけない」
この世界で生きていくためには、“家”という土台がどうしても必要になる。そして今の俺は、その土台すら曖昧な存在だ。
(ナナミ……お前に、また会うために。今はまだ、そっちには行けない。でも、必ず――)
心に浮かぶ、愛おしい妹の姿。あの涙、あの声、俺を信じてくれた澄んだ瞳。
(強くなる。どんな困難が待ち受けていても、必ず乗り越える。お前を迎えに行く日まで――)
ベッドを離れ、ミリアが差し出す上着に袖を通す。その仕草一つひとつに、覚悟が宿る。
そうして、祐輔――いや、ユーリとしての新たな人生が、今、静かに動き出した。