第一章 別れとはじまり
――あの日、たしかに俺は、妹を庇って死んだ。
車の急ブレーキ音が耳を裂き、世界が白く弾けて、意識が遠のいていくなかで、俺は最後に、あの子の名前を呼んだ。
ナナミだけは、無事でいてくれ。それだけを願って、俺は目を閉じた。
もう二度と会えない。そう決めたつもりだった。
俺の命と引き換えに、彼女の未来が守られるなら、それでいいと、本気で思っていた。
なのに今――この腕の中には、確かに、あのとき守ったはずの少女がいる。
細く震える肩。掠れた嗚咽。名前を呼ぶ声は涙に濡れ、俺の胸を、何度も、何度も貫いてくる。
「……お兄ちゃんっ……本当に……ほんとうに、お兄ちゃんなんだよね……?」
その声を聞いた瞬間、止まっていた時がふたたび動き出した。
永遠に閉ざされたと思っていた扉が、奇跡のように軋みを上げる。
失われたはずの絆が、異なる世界の果てで、いま――再び結ばれたのだ。
忘れられるわけがない。この温もりも、濡れた頬の感触も、名前を呼ばれるたびに胸を刺す、この痛いほどの愛しさも。
「……ああ、ナナミ。遅くなって、ごめん。……やっと、迎えに来たよ」
俺の言葉に、ナナミは喉を震わせたまま何も言わず、ただ、ぎゅっと、胸にしがみついてきた。
――この命に、もう一度、意味が宿った気がした。
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春の風が、やわらかな陽射しとともに街を包んでいた。小鳥のさえずりがどこかから聞こえ、新しい季節の始まりを感じさせる朝。そんな穏やかな空気のなか、俺たちはいつものように並んで歩いていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日の英語のテスト、自信ある?」
歩きながら隣を見ると、制服のリボンを少しだけ曲げたままの菜々美が、心配そうな顔で俺を見上げていた。
「……正直ない。お前に頼ることになるかもしれん」
そう答えて肩をすくめると、菜々美は呆れたように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「まったくもう……昨日、ちゃんと予習しといてって言ったでしょ?」
「ごめんごめん。でも、優しいお前ならノート見せてくれるだろ?」
「……仕方ないなあ。ほんと、お兄ちゃんは甘え上手なんだから」
ため息をつきながらも、菜々美は俺の顔を見て、ふんわりと微笑んだ。その顔を見るたび、思う。長く艶のある黒髪、知的な雰囲気の奥に見えるほんの少しの幼さ。その笑顔を守るためなら、何だってできる気がした。
──俺の妹。だけど、それ以上に大切な存在。
「ほんと、将来が心配だわ。お前みたいな子が世間に出たら、悪い男に騙されるぞ」
「え……じゃあ、お兄ちゃんが一生守ってくれる?」
「バカ言うな、俺はお前の兄だぞ」
「ふふっ……でも、そう言ってくれるの、嬉しいよ」
照れ隠しのように笑い合いながら、俺たちは学校へと続く坂道を歩いていった。それは何気ない日常。けれど、俺たちにとってはかけがえのない時間だった。家族にさえ「仲良すぎない?」と笑われるほど、俺たちはどこにいても一緒だった。
──だが、その日常は、あまりにも唐突に終わりを告げた。
信号が青に変わる。俺と菜々美は横断歩道へと足を踏み出す。
そのときだった。
キィイイイッ──!
金属が悲鳴のような音を上げ、目の前の世界が一変した。猛スピードで突っ込んでくるトラック。
「なっ……!」
「菜々美、伏せろッ!」
考えるより先に体が動いた。俺は妹の手を引き、抱きかかえるようにして身を捻った。
──強烈な衝撃。
世界がひっくり返るような眩暈。
遠のいていく意識の中で、俺は最後に一つの想いだけを抱いた。
ああ、良かった。菜々美は、無事だ──。
その想いを胸に、闇に沈んでいった。
* * *
気がつくと、そこは現実とも夢ともつかない、不思議な空間だった。足元には何もない。ただ、白く穏やかな光が満ちている。浮遊しているような感覚の中、静かに目を開けると、目の前にゆっくりと光が集まっていく。
やがて、現れたのは一人の女性。
銀色の長い髪。澄んだ蒼の瞳。純白の衣を纏い、静謐なオーラを放つその姿は、この世のものとは思えなかった。
「こんにちは、祐輔さん。ようこそ、こちらの世界へ」
「……あなたは?」
「私はこの世界の管理者の一柱──いわゆる“女神”です。あなたのような魂に出会うのは、本当に久しぶり」
その声は、透き通るように澄んでいて、不思議と心が落ち着いた。
「女神……って、本当に、神様?」
「はい。あなたが妹さんをかばって亡くなった瞬間、私はあなたの魂を受け取りました」
その言葉を聞いて、俺の中にあの瞬間が蘇る。トラック、衝突──そして、妹の名。
「……菜々美は? 妹は無事なんですか!?」
「ええ、彼女は軽傷でした。あなたの勇気が、彼女を救ったのです」
その言葉に、心から安堵した。何よりもそれが大切だった。
「良かった……なら、俺はそれで十分です。あの子が生きててくれれば、それで……」
心からの本音だった。見返りなんていらない。ただ、菜々美が生きているなら、それで。
女神はしばし沈黙したあと、小さく息をついて微笑んだ。
「やはり、あなたは特別な魂ですね……見返りを求めず、誰かを守れる人は、そうそういません。だから、私はあなたに──“もう一度、生きる機会”を与えたいと思いました」
「もう一度……生きる……?」
「はい。異世界、“エルディア”という世界にて。あなたはそこに新たな名と肉体を得て、第二の人生を歩むことができます」
「……菜々美とは、会えませんよね」
「それは、あなたの願い次第。今すぐは無理でも、未来において──再び巡り会う可能性は、確かに存在します」
その言葉を胸に、俺はしばし沈黙した。
もう会えないと知りつつも、それでも彼女の幸せを祈るべきか。それとも、再び手を伸ばす未来を信じるべきか。
──いや、答えは決まっていた。
「……わかりました。新しい人生、やってみます。でも……いつか、必ず再会します。俺は、その日まで諦めません」
「ええ、その決意があれば、きっと道は開けるでしょう」
女神は静かに手を掲げた。
「あなたの新しい名は──“ユーリ・フォン・コーリング”。貴族の家の三男として生を受けることになります」
「ユーリ・フォン・コーリング……なんか、すごい名前だな」
「あなたには三つの祝福を授けましょう。“創造”の加護、“魅了”の加護、そして“戦闘”の加護。これらはすべて、あなたの生き方次第で、世界を救う力にも、破滅をもたらす力にもなり得ます」
「なら、俺は──“幸せになるため”に使いますよ。俺自身と、俺の大切な人たちが笑って生きられる未来のために」
「……その想い、きっと届きます。どうか、新たな世界で──あなたの物語を紡いでください」
女神の手が光に包まれる。
次の瞬間、俺の意識は再び沈んでいく感覚に包まれた。
やがて差し込んでくる柔らかな光が、新たな世界の幕開けを告げていた。
──これが、俺──祐輔、いや、“ユーリ・フォン・コーリング”の物語の始まりだった。