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中遠一揆 遠江今川氏の胎動

曰く、今川は名門である。

足利の庶子吉良の庶子である今川が何故?

この今川、実は武闘派である。

北畠顕家と戦い赤い鳥の行くところ勝利のみと言われた。

報奨で駿河守護遠江守護を親子で歴任した。

有名なところに今川了俊(りょうしゅん)事今川貞世(さだよ)が居ます。

3代足利義満の時代渋川義行の後任として九州探題となりました。

この渋川氏は足利で斯波氏に並ぶ名門ですが渋川の名前の時にあまり活躍しないので影が薄いです。

しかし、度々出てきます。

さて、了俊はまず安芸にて毛利元春・吉川経見・熊谷直明ら国人衆を招集し豊前に至り周防・長門の大内弘世・義弘の協力を得て南朝勢力を一掃。

結果、豊後・安芸・筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩守護となりました。

また、懐良親王宛の明使を足利義満に委ね日明貿易にて足利義満の黄金時代を築きました。

日本史で足利義満と言えば日明貿易ですが了俊のおかげです。

この日明貿易は後に大内氏に奪われ大内氏の繁栄の源泉となりました。

そして、了俊は応永元年(1394)年4男の尾崎貞兼を南九州に派遣し島津氏を滅さんとしますが、翌年上京の命が下り。そこでいきなり九州探題職を解任され島津氏討伐は叶いませんでした。

後任は渋川満頼です。

戦いの履歴だけで本書けそうですが手短に。

解任後、遠江駿河半国の守護を命じられそれぞれ弟と甥に譲りましたが大内氏から誘いの連絡が度々来ていたが固辞した。

何故か甥泰範から大内との内通を義満に報告され遠江守護を泰範に奪われています。

よほど恐れられたとみえ義満から関東管領上杉憲定に了俊追討令が出されるが泰範と憲定の助命嘆願にて堀越郷を与えられ今川ではなく堀越を名乗る条件で許されました。

孫の代で今川を名乗る事を許されましたが度々遠江守護の斯波氏と戦っており武闘派らしく討ち死が続いていました。

遠江守護代は甲斐氏です。


では、次回長禄3年中遠一揆です。

守護から戦国大名になったのは今川と島津の2家しかないのですがこんな因縁があります。

書いて無いですが今川両陣営は九州の3代表として太宰少弐家・大友家・島津家と会談をしています。

少弐家と渋川家と大内家が紛争して渋川氏は姪浜と言う福岡の1地方、少弐家氏に至っては家臣の対馬の宗氏に居候するまでに落ちぶれ代わりに龍造寺氏が台頭する事になります。

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