長禄の合戦 金ヶ崎城合戦まで
長禄2(1458)年6月末甲斐常治が病気にて倒れた。
斯波義敏は喜び堀江利真を越前に派遣戦を起こした。
利真は敦賀を攻め甲斐派を国外に追い出し北部を完全に制圧し守護側勝利となった。
しかし幕府はなおも義敏と甲斐常治に関東出兵を命じた。大樹は弟の堀越公方が関東に入る為に斯波の軍勢に派兵を命じていたのに内紛でままならなかった為である。
この際、大樹(義政)は甲斐常治支持を表明した。
同年12月常治の息子敏光と朝倉敏景は近江に陣を敷き、義敏も近江に陣を敷き膠着状態となる。
翌年2月幕府が斯波領地三カ国での内乱を懸念し再び調停を図る。しかし、常治に荘園の代官職を追われた国人の連合である為守護側堀江は拒否。また、関東出兵も無視した為、幕府は若狭・能登・近江の守護に守護代側の肩入れん命じた。
ここに追い込まれた守護義敏は総力にて甲斐側の金ヶ崎城攻略に挑む。
甲斐家は敦賀・府中を治めていたらしく敦賀がまず攻め取られました。
後の義景の時代。小樽の松前から鹿児島の島津までの日本海交易路が計画されていた事が分かっていますが
当時は穏やかな日本海川が主な交易路であり莫大な富の源泉でした。