武衛(斯波)家の事情
武衛家は越前(福井)の守護職を務める。
越前は南朝が新田義貞に下賜した土地であり幕府にとって重要な地で、あり一族で抑える必要があった。
細川・斯波・畠山は足利の一族であり管領職を務める事から三管領と呼ばれる。
参照
畠山重忠が関東武者として有名なのでその一族と思いがちですが、北条が武蔵の守を賜り(武士としては初)畠山重忠の役と被った為重貞は謀殺され、その未亡人と足利一門が再婚した為、実は足利一門です。
後に尾張・遠江守護が加わり武衛家は三国の守護を務めるがいづれも幕府の重要拠点である。
この武衛家何故か早死が多くこの度も宗家が絶え大野斯波家より斯波義敏が入り18にて家督を継いだ。
長禄2(1458)年 府中
敏景殿敏景殿
おーこれは織田殿
また、甲斐殿と武衛殿がいがみ合っておって実に居心地が悪い。
まあまあ、とりあえずくつろがれよ。
どかっと、胡座をかく。
それは親の代からの事と政事の違いじゃ。
よいか、大樹(足利義政)殿はおのに権限が集まるよに不知行地還付を行なっておろう。寺社や貴族に荘園を返す政事じゃ。これは守護の権限に水を掛ける様なもので先の武衛殿の後見人であった持種殿つまり、武衛殿の父君とも対立しておった。現に所領や
代官職を追われた国人共が武衛殿を支持しておる。
甲斐殿はどさくさに刈田狼藉をしたり代わりの代官を指名したりと影響を増しておるが、武衛殿をあからさまにぞんざいに扱っておる。
誠に由々しき事よ。
すまんかった。
そなたが甲斐殿を嫌っている故何か得られるかと思うてな。
織田達定殿
気になさるな。尾張守護代としての辛いお立場分かり申す。
わしが話易いなればいつでも。
一応三家老なれば。
参照
甲斐常治
武衛家三家老筆頭。
越前・遠江守護代 兼幕府直臣
斯波義敏により幕府に訴えられたが勝訴
主家を侮る事しばしば忠義の臣眉をひそむ。
裏には幕府による斯波家の力を弱める担い手としての立場があった。
今回織田達定を登場させています。
当時の織田家の当主が清州織田家当主の彼(織田信長の祖父)だったからです。
しかし、兄弟で兄が在京守護職弟が在住尾張守護代等役割分担も含め織田家の役割分担は複雑で、分家が複雑化していきます。