第3話:お互いの世界の距離
距離。縮まることも、広がることもない状態を基準として。
互いに適当な距離を定め、無意識にそれを守ってきた。バランスを取る為に。不必要な軋轢を避ける為に。
でも、そうとは限らない。
近づきたいと思っているものもたくさんある。その多さを意識していないだけで。
そして、近づこうとしたその結末は……
僕にはもはや何がなんだかさっぱり分からない。というかお手上げ。
目の前のよく分からない"存在"だけで手一杯だ。それ以上に他の事に回せる分の脳味噌なんて余ってはいない。
「あ、あなたは……
あの者が、わ、私の"パートナー"だというのですか? 冗談じゃない!
待ちに待って、あれですか? 何かの間違いです」
だが、どうやら"存在"の方には心当たりがあるらしい。すっかり冷静さを失っている"存在"。
その地に足がついていない声に、
『私が言う事が間違っている? そのような事、過去にも未来にも、無論、現在にも無い。
おまえの目の前にいるあいつがきっとおまえのパートナーになる者だろう』
はっきりとした声は一点の淀みも無く、きっぱりと言い切った。
何となく、只者じゃない。言い切った端からも、威厳のようなものを感じさせる。
というか、「あれ」とか「あいつ」って僕の事?
それっきり、天の声も"存在"も黙り込んでしまった。
◇ ◇ ◇
パートナーって、僕がそれと何の関係があるのだろう?
そもそも、どうして天から声が聞こえてくる? 思うに、あの声はよく通ってはいるが、スピーカー越しではなさそうだし……
そんな事を少ない脳容量でごちゃごちゃと考え始めた頃。
「そうか、おまえにもついにパートナーができたか…… 感慨深いの。
これでようやく仕事が始められる、といった感じだな。良かった良かった、シェワードよ」
先ほどの声とは百八十度裏返った感じで、今度は底抜けに明るい響き声がした。
思わず驚きが口から洩れそうになるのを押しとどめる。
一方、その声からシェワードと呼ばれている"存在"にとってはいつものことなのかもしれない。
驚きもせず、ただ声音だけ落として溜息でもつきたそうな感じで答えている。
「恐れ多いのですが、どうしてあれが私の"パートナー"だとあなたには分かるんですか?
特に何かいいところがあるとも見えませんし、何より、私にはどう見ても自分とはそりが合わない感じがするのですが。
はっきり言うと、私は嫌です」
言葉は丁寧だが、刺々しい。明らかに嫌々なようだ。
何のパートナーかは知らないけど、別にどうでもいいんだけど、そんなことはどうでもいいのだけれども、あそこまで毛嫌いされると少し傷つく。
でも僕は心の広い人間なので、その辺は流しておく。
ま、訳の分からない奴らとはなるべく関わりたくないし、お互い利害は一致している。
ところで、僕自身も落ち着いてきたようで、ちょっとした事を色々と気づくようになってきた。
例えば、"存在"の声。男っぽい感じの雰囲気だと始めは受け取っていたのが、よくよく聞くと、凛とした女性の声、のような気がしてきた。
それに、天の声、とは言っても、天から声が雨のように降ってきている、という感じではない。
どこか遠くから、一点に向かって話しかけているかのような感じだ。そこがスピーカーと違うような感じのするところ。
……それと、もう一つ。
僕にとっては、"存在"の声とか、天がどうだとか、そんな事はむしろ今はどうでもいいって事。
僕が、あいつらの言う通りとっくに死んでしまっていたとしたら。
そんなことが急に不安になってきたのだ。
もともと不安だったけど、一息吐いてから改めて向かい合ってみると、自分が間違っている気がしてくる。
自分に言い聞かせているだけでは不安だ。
何か、確たる証拠が欲しい。
考えていてもはじまらない。
それに、今僕がうとうとと考えごとにふけっている間にも"存在"と天の声はどこか噛み合わない会話を続けている。
このまま黙ったままジッとしていると、何だかおいてけぼりになりそうな感じがするし。
びくびくしながら二人の会話の間に言葉を搾り出した。
「……あなた達は、どなたなんですか?
というか、あなた達二人はどうして姿が見えないんですか?」
いかにも普通だと思われることを、順当に聞いてみた。
どんな答えが返ってくるか。それに注目だ。
「どなた、といわれてもな…… 今の段階では何にも説明できないんだよ、私達については。
そうだな。おまえが、私の目の前にいるシェワードに協力してくれるというのなら、多少の事は囁いてやってもいいが?」
天の声は、何故だか僕に"存在"のパートナーなるものになって欲しいらしい。
「だから、どうしてあなたはあれを私のパートナーにしたがるんです?
人間ならこれまでにもいくらかはここにやってきたのに、あなたがこんなに積極的になるのは珍しいように思います。
どの辺りにそんなに確信を持っていらっしゃるんですか? 私には分かりません」
"存在"はだんだんと不機嫌を募らせているようで。
相変わらず、噛み合わないなぁ。
天の声がどうして僕をそこまで持ち上げるのか。それが気になるところ。この会話はそれに尽きる気がするんだけど。
僕がふとそう思った時。
それを読んだかのようなタイミングで、天の声は、一気に声のトーンを落とした。
最初と同じトーン。荘厳とした、重々しい声に近くなった。
「私は、これまでに幾らも人間達を見てきた。奴らには数え切れない程のタイプがある。
おまえだって、それはこれまでから承知している事だろう。
私は感じるんだよ、あれから。おまえが足りない所を、あれは助けてくれる。
あれは、ぱっと見そんな逸材には見えないが、中に何かを秘めている。
まずあれの死に方からして、の」
……え、死に方!?
顔からあっという間に血の気が失せていくような気がした。
何故そういう話になるんだ。二人共まるで、僕が死んでいるのが前提、みたいな話し方をする。
僕があの天の声の威厳に当てられているのだろうか?
ますます不安になる。そう思いだすと止まらない。
冷静に考えられなくなる。僕は死んでいない。頭の中がそれだけになりそうだ。細胞がそれだけしか伝達しなくなる。
とにかく、だ。
一旦、あいつが知っている僕の死因なるものを聞かせてもらおう。
どこまでそれが説得力を持っているのか。そこだ。
「今、僕の死に方を知っている、みたいな事言いました?
どういうことか…」
これで何とか話を進めよう、と思ったところで。
「いや、断じて私は認めません!
あんな奴を私はここで長々と待っていたなんて、認めたくもない。
あいつの死に方なんぞ、私にとってはどうでもいい! あなたの目が曇ったのではないですか?
まず、どうせ何を言ってもあれは私たちを信用しませんよ。それで私は困っていたのではないですか!」
思いもよらぬ横槍が入った。いきなり"存在"が大声で怒鳴ったのだ。
一瞬、何がどうなったのか分からなくなりそうだったほどだ。
僕は、何にも言葉が接げなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
だけど、ある意味良かったのかもしれない。頭の中が少し冷めて、溜まっていた血が少し下りたようだ。
かっとしすぎていたんだ。僕らしくない。
第一に、ここは、僕がこれまでに住んで来た世界とは本当に全然違うところなのかもしれないって事。
頭にさっきの"存在"の弱々しい声が横切った。
『確かにそうかもしれない。おまえから見たら、な。
だがな。私にもどうにも説明できない。だから困っているんだ……
私でも、こればっかりはどうにもならないんだ……
夢、なんて言ったらこの世界は全てそうなってしまうんだよ……』
僕は生きていて当然だと思っている。
無意識に生まれて、いつの間にか大きくなって。
一日一日を気付かぬうちに積み重ねてきた。それが生きるって事だった。
死ぬ事は、これまで自分が過ごしてきた世界から去る事。輪廻転生、来世の事はひとまず避けて。
でも、あのシェワードって呼ばれている"存在"からしたら。
この世界は、そこが根っこから違うのではないか。
だって、そうでもなければ、
"おまえは死んでいる。それは説明するほどでもない"
なんて無茶な説明をここまで一生懸命に通そうとはしない。もし僕なら、言っている自分の方が居たたまれなくなってくるだろう。
それとも、よほど重度の厚顔無恥ってやつか。
いや、それがさも当然のように通ると思っているらしいのだから、やっぱりこの世界の方がずれているのではないか……
普段ならばこんな事は絶対に考えない。
当たり前の事だけど、それほどに、自分の生きている世界=人語を解する生物の存在する唯一の世界、これは僕の中では絶対のものだから。
それを考えさせてしまっている一番大きな部分は、やはり、自分の身体が直に訴えてくる違和感だ。
ここに来た当初は、身体がまるっきり動かなかった。
今ではだいぶマシにはなったが、それでも身体中を通っているはずの神経が一斉に鈍くなったような感覚は残っている。
身体の奥が落ち着く事無く、常に訴えてくるのだ。ここはこれまでに住んでいたところでは決してない、と。
夢の世界なのか、死後の世界なのか、それ以外の思いも付かない世界なのか、そんな事は何も言えないけど。
今居るここは、僕がこれまで生まれ育ってきた場所じゃない……
理性では抑え切れない部分。頭に上っていた血が引くと、身体の底の方で、本能が勝手に機転を利かせて。
そのまま、勝手に押し込まれてしまいそうになってきた。
……これ以上先に思考を進める事は、無理矢理止めた。何より、それより先を考える事自体が怖かった。
結局は、今の僕には正しい答えなんて導き出せないだろうから。
今はとりあえず、結論にがむしゃらに近づきたがる気持ちを抑えた。
覚めた事を言えば。
本当に死んでいるとしたら。
僕が、死んでいると気づいていてもいなくてもそれに変わりはない。……その逆も然り。
そして、ここがどんな世界なのかが分からないのは、僕が死後の世界を知らないのと同じ事……
ふと思い立った。
これが、胡蝶の夢、ってやつだ。
この妙な世界に夢の中で迷い込んだのか。
この妙な世界にいた僕がうたた寝をして、その夢が、『僕の思っていた何気ない日常』だったのか。
悪く言えば、言いがかりみたいなもの。けれども、それは誰にも分からない。
死んでいるのか、いないのか。
どちらにしろ、今の僕が出来る事はそれを見極める事ぐらい。その後でしか、何にも行動のしようが無い。
そのためにはどうすればいいのか?
……この『世界』がどういう世界なのかを知る。そこからだ。
やるべき事は、何だかんだと考えても一つだった。
気がつけば、すっかり沈黙状態だった。
天の声も、怒鳴った"存在"の声も。誰も喋ってはいなかった。
「この世界がどんな世界なのか、もっと僕に教えてくれませんか?」
今思った事、そのままを。
闇の中、"存在"のいるであろう方向にぶつけてみた。
◇ ◇ ◇
「そう、考えたか……」
一寸先も見えない闇の中。
その声は、小さく囁いた。