#6
「世情は。まあ、かなり大きく動いている様子だな」
ギルスは自室にて顎をゆっくりと撫でながらにそう呟く。
無論、なにに依るものなのかというのは明白で。先日のベアトリスの発言に起因する諸々。
色事と政治事との混和物である本件は、強く関わってくる方々の貴族などはもちろんのこと。噂話好きな平民たちにも、新聞屋を通じて面白可笑しく報じられ、やれどうだの、誰それはこうだの、好き勝手に話されている。
「それにしても、新聞屋たちは随分な書き方をしてくれているものだな。……まあ、彼らにとっては文字通り飯の種なのだから、逃すわけにはいかない、という話なのだろうが」
ベアトリスの発言について、可能な限りの恣意の意見を除いた、ある意味での公平性を保ちながらに報道しているものもなくはないのだが。しかしながら、多くの紙面ではそれはもう自身の解釈をふんだんに盛り込んだ過激な報道が見られる。
そして皮肉な話に、そういったもののほうが、よく売れている。
とはいえ、あることや自己解釈の範疇の諸々を書くならともかく。無いことまで盛り込まれて書かれているのを見ると、このあたりの法整備についても考慮が必要なのだろうか、と。そう思わなくもない。
ギルスはその場にいたからこそ、ことの真偽についてを判断できるものの、この新聞を読むことになるであろう多くの民衆はもちろんそんなことを知るわけもなく。つまるところが、この記事を信じる他ないわけになる。
ペラペラといくつかの新聞を捲りながら、飛び抜けて報道の内容が酷いものはないだろうか、と。ひととおり目を通していると。ふと、ひとつの記事が目に止まる。
「……ほう。意外、というほどではないが。アデルバート殿下とマリー様についての記事を書いてるものもあるのだな」
おそらくはベアトリスがマリーに向けて言った、自身の立場を自覚しておくように、というその言葉から考えられたものであろう、マリーの貴族としての家格などに言及しているもの。
他の記事でもマリーやアデルバートについての記載がありはしたものの。ほとんどの報道ではベアトリスを主としたものだっただけに、少し目につく。
「しかし、やはりどちらかというとベアトリスに対して否定的な意見の記事のほうが多いようには思うな」
まあ、こればっかりは致し方のないことではあるだろう。
曲がりなりにもアデルバートは王太子であり、マリーはその婚約者――それも、ベアトリスのように仮のものではなく、正式なものとしての婚約者である。
そのような人たちに対して悪し様に書くような新聞を発行しようものなら目をつけられる可能性があると考えるのは当然の道理であろう。
まあ、実際にはアデルバートやマリーを擁護するかのように書いていながらに裏を読めば批判をしているものもあれば、もはやそんなことを気にせずにキッパリと書ききっているものもありはするが。
「しかし、世論のこの動きに対して。当事者たちがどうにも平然としている、というのが」
いや、厳密にはマリー以外が、あまりにも動揺が見えない。
マリーについては、昨日にアデルバートを尋ねてきてはいた。かなり不安そうな様相だったので、アデルバートが隠しサロンにいる、と暗に伝えた。
帰ってくる際の彼女も、随分と考え込んでいる様子だったし。
正直なところ、あの焦り様が妥当なところだろうとはギルスは思う。
ことを引き起こしたベアトリスはともかくとして。ことの当事者であるはずのアデルバートはひどく落ち着いた様子で、自分のやるべきことを、と動いていたし。
こちらも当事者であるはずのナミュール家やベルティエ家も、なんら動きがない。先日の件で、周囲から様々話が飛んできているだろうに。
おそらく、今回の件で今のところ発生している一番大きな動きといえば、ベアトリスが別邸に移った、という程度であろう。逆に言うと、それ以上のことが今のところ起こっていない。
「本当になにも起こっていないのか。それとも――」
ギルスの目に映っていないだけで、水面下でなにかが動いているのか。
「……ベアトリス。君の目的は一体」
案の定、というべくか。ギルスが執務を行っている際も、文官たちの間では件の話についての噂がそこそこに立っていた。
これが業務に差し触る程であれば言を挟もうかとも考えたが、きちんと仕事は行っている様子ではあった。
「宰相閣下、こちらの承認をお願いします!」
「ああ、わかった」
女性文官のひとり、ソフィアが纏められた紙を持ちながらにギルスの元へとやってくる。
ギルスは彼女からその紙を受け取ると。パラパラと内容に問題がないかを確認していく。
「そういえば、閣下もあの話は聞きました? ベアトリス様の――」
「聞いたもなにも、その場にいたからな」
「あっ、そういえばそうでしたね」
えへへ、と。ソフィアは恥ずかしそうに笑いながらそう言う。
「閣下はあの話、どう思いました?」
「どう、と言われても。俺はアデルバート殿下の味方だ、としか」
「……あっ。も、もちろん、私もですよっ!」
どうやら自身の質問が失言であったということに気づいたソフィアが慌ててそう訂正する。
まあ、この手の噂話では外野がアレコレ言うのはある意味の常ではあるので、ギルスとて彼女の言葉についてはとやかく言うつもりはない。慌てて訂正したあたり、自信が文官であるという立場はしっかりと認識しているようだし。
「けど、ベアトリス様があんなことをするのか、ってのはちょっとびっくりしましたね。失恋? は人を変えるのかなーって」
「失恋、か」
たしかに、ベアトリスの立場からしてみればそう捉えることもできなくはないだろう。それにしてはあまり悲しんでいる様子なども見られなかったが、人の心情などは表面から全てを見透かすことはできないものではあるし。
そんな会話を交わしつつ、ギルスはソフィアから受け取った紙に判を捺してから彼女に返すと、ありがとうございます! と、元気な返事をして、たったったったっ、と軽やかな足取りで戻っていく。
「……アデルバート殿下からは、好きに動くように言われた。それがベアトリスの望んでいることだとも」
アデルバートがそれを推奨している、ということは。少なくとも、アデルバートやマリー、もといギルスにとっては不利益になることではない、ということだろう。無論、ここでギルスが唐突にふたりを裏切る、だなんてことをしなければではあるだろうが。
しかし、行動していくにしても、その指標がまだハッキリしない。特に、ベアトリスが行おうとしていることのあたりが全くつかないあたりがどうにも動きにくい。
「……アデルバート殿下がベアトリスの行動の真意を把握しているあたり。単純に、俺が彼女のことを十分に知らない、という話なのだろうな」
ともすれば、ひとまずは彼女について知る。あるいは、彼女の動向についてを調べる、ということになるだろうか。
とはいえ、少なくとも対立している立場にいるであろうベアトリスのところに直接ギルスが行ってもあまり情報は得られないだろう。夜会の直後に話したときが、そうであったように。
「と、なれば。彼女に親しい存在から、か」
アデルバートとマリーがすくさま思い浮かんだが、アデルバートは話すつもりはないだろうし、マリーは昨日の様子を見るにギルスと同じく状況をまだ把握できていない立場である。
ならば――、
「たしか、彼女には弟がいたはず、だったな」
丁度、この騒動が起こったにも関わらず、なぜナミュール家が動いていないのか、というその疑問についても識りたいところではあった。
自身の予定を諳んじながら、ギルスは業務を進めていった。