#3
「すみませんね、フォルテ。どうやら私はナミュールの名に恥を刻んでしまったようです」
ベアトリスは家に戻ってくるや否や、出迎えてくれた弟のフォルテにそう言葉を伝えた。
そんなベアトリスの言葉に、フォルテはどうにも不機嫌そうな表情を浮かべる。
「前にも言った気がするけど、やっぱりその言葉は俺じゃなくて父さんに言うべきだと思うんだけど」
「もちろん、後ほど伝えに行きます。が、フォルテにも迷惑がかかるのは確実ですし」
「全く。ここまで全部わかっててやってるくせに、よく言うよ」
ベアトリスとは違い、母譲りの青みのかかった黒髪をボサボサと掻きながら、フォルテは言葉を続ける。
「事前に俺に対して、ナミュールの名に泥を塗っていいかを確認しに来たくせに、今更なにを言ってるのか」
「でも、必要な確認ではあったでしょう?」
「それはそうだけど。それがわかってるのなら、塗らないようにするのが普通なんだよ」
「ですが、泥を払いのけるように指示をしなかったのはフォルテですよ。自身で選べる立場ではあったのに」
◇ ◇ ◇
しばらく前。アデルバートがマリーと懇意であるという噂が立ち、ベアトリスが敗北令嬢だと揶揄されるようになるよりも、前のこと。
「フォルテ、少し相談したいのだけれど、いいかしら」
「姉さんが俺に聞きに来るなんて珍しいな」
父親から、執務の経験をつけておけというテイで回されていた仕事をこなしていたフォルテは、その手を止めてベアトリスを部屋の中に迎え入れる。
「それで、どうしたんだ? 姉さん」
「単刀直入に話をしましょう、フォルテ。私がナミュールの名に泥を塗ってもいいかしら」
「……はい?」
普段からどんなことでもひとりでこなしていた姉がいったい自分にどんなことを聞きに来たのだろうか、と。
そんな興味に包まれていたフォルテは、あまりに突飛な内容に。思わず間の抜けた声を出してしまう。
「いや、どういうことなんだよ。というか、突然過ぎないか?」
「まあ、突然なのはそうですね」
「そもそも、そういう話ならば俺じゃなくて父さんに話すべき内容じゃないのか?」
「お父様には既に話を伝えて、了解を得ています。が、次代を担うのはあなたでしょう? ならば、塗られた泥を被り続けるのはフォルテなのだから、その判断はあなたにもあって然るべきだというのが、私とお父様の判断です」
「俺が次代、ねえ」
「嫡男なのだから、順当な話でしょう?」
ベアトリスから言われたその言葉に、フォルテは少し苦い顔をしながらに自身を顧みる。
フォルテから見た姉、ベアトリスは。とてつもなく優秀な人物であった。
大抵のことならば自身の力でやり通してしまう姉の存在は、フォルテから見てまさしく憧れの姿だったし。
それに、王太子であるアデルバートとの婚約という、大きすぎる役目を。ナミュールという家の名前を背負いながらに、しっかりと果たしている姿は、尊敬の対象であった。
「というか、そもそもその泥っていうのはなんなんだよ」
「私とアデルバート様の婚約が破談になるというものです」
「はあ!?」
「まあ、そもそも婚約自体が正式なものではないので、破談という表現は正確ではないのだけれども」
「いやいやいやいや、そういう問題じゃねえよ! というか、なんでそもそもそんな話になってるのかって話だよ!」
バッ、と。大きな身振りで抗議の意思を見せつつ、フォルテはそう叫ぶ。
「曲がりなりにも昔からあった話だろ!? それが理由で姉さんはアデルバート様と会ったりもしてたわけだし、そのための努力や勉強なんかもしてた! それなのになんで急にそんなことが!?」
叩きつけるように言い放つフォルテに、ベアトリスは落ち着いた声色で返す。
「マリーのことは知ってるわよね?」
「え? ああ、昔一緒に遊んだこともあるし、覚えてるけど……」
「あの子とアデルバート様が、お互いに恋情を抱いてるのよ」
「嘘だろ? そんな噂、聞いたこともないが」
「それはそうでしょうね。今のところはなんとか隠れてやっているようですし」
淡々とそう言い放つベアトリスに、フォルテは眉をひそめながらに質問を続ける。
「そんなことをなんで姉さんが知ってるんだよ」
「そもそもマリーがアデルバート様と出会ったきっかけは、彼女が私に付き添ってアデルバート様との会談についてきているからですよ? 私が最も近いところにいる一人なのですから道理でしょう?」
「それは、そうかもしれないけど……」
その説明に一瞬納得しかけて俯いたフォルテだったが。ふと、ひとつのことに気づいて、改めてベアトリスの方に顔を向きなおす。
「いや待ってくれ。今の話を聞いている限りだと、今のところはまだ、婚約がどうこうという話にはなってないんだよな?」
そう。まだ、アデルバートとマリーが仲良くしている、という話でしかない。それ以上に話が進んでいないわけだし、他の人も知らないのであれば――、
「ええ、まだ他の人で気づいている人はいないでしょうし、いたとしても間近にいる人間。私たちの不利益になるようなことを話す人間はいないでしょうし、ここで私の方から釘を刺せば、ふたりの関係はここまでになるでしょう」
「なら――」
「ですが。好きもの同士が結ばれるということに越したことはないと、そうは思いませんか? 無論、我々は立場があるので、誰も彼もがそういうわけにはいきませんが」
「――ッ」
その言葉は、ベアトリスのことをよく見てきたからフォルテだからこそ、その重さをよく理解していた。
もちろん、ベアトリスがアデルバートに対して一切の感情を抱いていなかったわけではないし、むしろ好意的な感情は抱いていた、ものの。しかしながら、そこには間違いなく、互いの家の事情、という。そのしがらみがあったということを。
けれど、でも。それは――、
「でも、それを言うなら姉さんだって――」
「努力をした者は、可能な限り幸せであって欲しいと思うのが、人情というものです。私は、あのふたりが自らの力で勝ち取ろうとするのならば、それに賛辞を送りたいと、そう思うのです」
「……それなら、どうして俺にそれを相談したんだよ」
「ここまでのものは、あくまで私の個人的な感情に依るものです。私はひとりのベアトリスであるとともに、ナミュールに名を連ねるひとりでもあります。だから、私ひとりの考えひとつでその身の振り方を決めるわけにはいかない」
そう、しっかりと宣言した上で。ベアトリスは、フォルテに向かって言葉を投げかける。
「先程も言ったように、止めるも見逃すも。今が最後の機会です。だからこそ、これはナミュールの名を持つ者として、次期当主に対する、質問です」
「……俺が、このままだといずれ被ることになるであろう泥を。受け入れるか、それとも今から払ってしまうのか。その判断をしろ、と。そういうわけか」
フォルテのその解釈に、ベアトリスはコクリと頷く。
(本当に、この姉は。……だいたいなんても卒なくこなすくせに、変なところで不器用なんだから)
ベアトリスの姿を見て、憧れて、追いかけて。しかし、どこまで追いかけてもたどり着けなくて。
そんなフォルテだからこそ。ベアトリスには、幸せになって欲しい、と。そう願っていて。
どれだけ理不尽を押し付けられようとも、凛として、それを跳ね除けていた姉だからこそ。
もう、試練の道は辿ってほしくはない、と。そう思っていて。
なれば、彼女のその提案は。呑むべきではない。無論、后という立場に試練がないとは言わないが、ベアトリスが進もうとしているのは、それよりももっと苛烈な道で。
けれど――、
「――俺は、姉さんのことを信じてるよ。それをすることに、意味があるんだろうって」
「ナミュールには、間違いなく利益はありません。迷惑ばかりが降りかかりますよ」
「迷惑なんて。俺が今まで姉さんにかけてきたものに比べれば大したことねーだろそんなもん」
そんな訳はないだろうけど。これくらいは、格好をつけさせてほしい。
「……すみませんね」
「欲しいのは謝罪じゃねーよ。ったく」
「ええ、そうですね。では、改めて」
ベアトリスは、そう言うと。ニコリと笑いかけて、そして、言う。
「ありがとう、フォルテ」
「……ああ」