#20
「……彼女の後始末は、私の方でしてもいいのかしら」
「ああ、結末がどうあれ、いちおうは慣れ親しんだ顔だものね。いいわ、最後くらい、貴方が始末しなさい」
女性はそう言うと、次の日取りと待ち合わせを伝えてから、部屋から出ていく。……おそらく、次に本部に連れて行ってくれるのだろう。
(サラ……)
横たわっているその姿に、申し訳なさが込み上げてくる。たとえ、それがサラの同意の上の行為であったとしても。
迷ってしまいそうなその感情を、しかし、ここで足を止めるわけには行かない。それこそ、サラの覚悟に申し訳が立たなくなる。そして、然るべき行動をする。
(必ず。必ず――)
しばらく、ベアトリスとサラだけが残された部屋の中で、ベアトリスは作業をしてから。
そうして、サラのことをひとしきりやり終えて。外の空気を吸いながらに、大きく夜空を仰ぐ。
重く低くにのしかかる曇天。星のひとつでも見ることができれば、少しは心境も軽くなったかもしれないが。しかし、今のベアトリスにはそれすらも赦されないということだろう。
既に血は洗って落としたはずではあるが、自身の腕が、未だに赤黒く見えているように感じる。
「……さて。本番はここから、ですね」
ひとまず、これで組織の懐中には飛び込むことはできる。だが、まだやっとスタートラインに立てたようなものではある。
噂で聞く限り、マリーもかなり頑張って動いている様子ではあるし、その前にギルスが立っている、というのも聞いている。
あちらは、あちらでしっかりと世情世論への干渉をしている様子ではある。
ならば、こちらもしっかりと動いていかねばらならないだろう。
「まずはなによりも、情報の管理、ですね」
ベアトリスの現状がかなり危うい――一手間違えただけで一貫の終わりとなりかねない現状、ここは慎重に行わなければならない。
「あちらのサポートは彼女に任せるとして。こちら側の手札がなくなったのが、本当に苦しいですね」
ここから先は、サラを頼れない。ベアトリスが自力で調べて回る必要がある。
……それも、相手に気取られずに、だ。
とはいえ、弱音ばかり吐いてもいられない。
サラの覚悟の上で成り立った、彼ら彼女らへの信頼を、犠牲にするわけにはいかない。
覚悟をしっかりと握りしめる。
「……そちらは頼みますよ、ギルス宰相閣下」
改めて設定された日取りに指定された場所に向かうと。前回、サラの殺害についての見届けを行った女性がそこに立っていた、
暫定として、彼女の名前はルーシィと聞いているが、おそらくは偽名である。顔についても今のところは仮面付きでしか見ていないので、彼女が誰なのかはわからないが、口ぶり的に、おそらくは貴族や商人などの、広く顔が知れている人物であろうことが推測される。だが、ベアトリスの記憶上にルーシィという人物はいない。
彼女に誘導されるままに馬車に乗ると、どこかに向けて、そのまま走り出す。
時折揺れる車内では、車輪の音だけが聞こえていた。
「……まだ、仮面は取らないんですね」
「ええ。いちおうはまだ外でしょう? 立場上、あんまり誰それがどこに行ったか、なんてのは知られると厄介でしょうから」
いちおうは、前回とは違い、警戒されているがゆえのことではない、と。そう判断していいのだろうか。……まあ、一切合切の警戒が解けている、なんていうことはないだろうが。しかし、本部へと案内してくれる程度には、信頼は得られているのだろう。
そうして馬車に揺られること、しばらく。どこかの屋敷に到着する。
彼女の案内に従いながら歩いていき。途中、隠し扉を抜け。地下へと進んでいく。
そこまで来て、ルーシィはつけていた仮面を取り去る。
「改めて自己紹介するわね。……と、言っても。そこまでする必要性はないかしら」
「…………ええ、貴女のことは存じておりますから。もちろん、話すのは初めてですが。ルシエラ・レーヌ伯爵夫人」
貴族か商人であろう、という推測はついていたものの。実際にこうして、こんな場所こんな場面で対面すると、緊張の走るものがある。
「ルシエラ伯爵夫人は、どちらかというと親王派閥に属しているというような話を聞いていたのですが」
「あら、貴女ほどの存在であれば、そのくらいの事情は把握しているでしょう?」
つまりは、巧く周囲からの評価や印象を操作していた、ということであろう。
貴族ともなれば、そのくらいすることは普通ではあるが。しかし、イザベラやサラが調べてくれたうちには全くなかった存在なので、どうしても驚きのほうが勝ってしまう。
そうして案内された部屋の中には、そうそうたるメンツが、長方形に並べられた卓を囲む形で揃っていて。直接に話したことはなくとも、まず名前を知らないわけがない、という人物たちで溢れている。
その中でも、おそらくは陣頭を執っているであろう人物が、囲われた卓の最も奥に座っていた。
(バッカス公爵――まさか、公爵家まで噛んでいるとは)
貴族位としては、最高位。かつ、原則的には王室の親族か、最側近に与えられる爵位。
ここにいるバッカスもその例外ではなく、血を辿れば王室に行き着く身の人物である。
そんな人がここにいて、かつ、指揮を執っているということが持つ意味は考えるべくもない。
「君が、ベアトリス・ナミュール侯爵令嬢だね。件の噂については聞いている。ぜひとも、世論の大義を勝ち取り、こちらの陣営に味方してくれることを期待しているよ」
バッカスから、そう声をかけられる。
……これは、やはり想定を大きく上方に修正する必要があるかもしれない。
規模についても、そして、集まっている人物の持つ権力や資産……つまるところが、行動力に直結する要素についても。
◇ ◇ ◇
マリーは、自室でひとり、布団にくるまっていた。
「そんなわけない。ベアトリスお姉様が人殺しなんて、するはずがない……」
それは、マリーが知るベアトリスという人物に対する信頼が半分。そして、マリー自身がそう思い込みたいという願望が半分であった。
たしかに、ベアトリスがそういうことをする人物ではない、というのは正しいだろう。その点については、マリーだけでなく、ギルスも同じく考えている。
だがしかし、その前提は「なにも理由がないのに」という前提がつきまとう。
そうしなければならない理由があるのであれば、ベアトリスは合理的に判断を下しかねない。
だからこそ、マリーも完全にベアトリスのことを――ベアトリスが殺人を行っていない、というようには信じきれておらず。その確信度の不安定性が、ことさら彼女の不安を掻き立てていた。
「……でも、噂で聞くようなことは、しないはず。ベアトリスお姉様であれば、サラさんから止められたから、それが邪魔だから、という理由だけでは、殺してまで振り切らない」
それだけは、マリーが確実に信じられることだった。
考えがぐるぐると頭の中を逡巡して。ときおり、いてもたっても居られなくなって起き上がっては。しかし、なにもできなくて、夜も遅いからとまた横になって。
しかし、眠れない。感覚のすべてが、不安で塗りつぶされている。
「お姉様が、殺人なんて。するはずが――」
そう、つぶやいていた、そのとき。
コンコンコン、と。扉がノックされる。
考えが、止まる。誰かが来た、ということはわかる。だが、なにかが変。
マリーが就寝のために寝台に向かってから、かなり時間がたっている。そんな夜更けであるのに、緊急でもなければ客人も侍女も、わざわざやってこない。
しかし、ノックのその様相からは焦っている様子は伺えない。
「夜分に申し訳ありません。都合、どうしてもこの時間帯でないとならない理由がありまして」
マリーが行動を決めあぐねていると、扉の向こうからそんな声がした。
聞き慣れた声ではない。家族や侍女、あるいは頻繁に会うような人物ではない。
だが、聞き覚えがある声ではある。たしか、この声は――、
「――嘘、そんなっ!」
思考の行き着いた先にあったその人物に、マリーは慌てて寝台から飛び起きると、ドアに向かい、その勢いのままに扉を開け放った。
そして、その扉の向こうにいたその人物は。
マリーが想像していたとおりで。そして、
そこにいるはずがない、人物だった。