#10
「久しぶり、というほど時間も経っていませんね」
「あっ、あの。お姉様……その。今日は突然来てしまって――」
「とりあえず、ソファにでも座りなさい。……サラ、お茶の準備をお願いするわね?」
玄関でしばらく待たされた後に、どうやら許可が降りたらしく、マリーはベアトリスのいる部屋へと通される。
調度品の類などは質素で。整頓された、落ち着いた空間のように感ぜられる。
スタスタと、ソファに腰を下ろしたマリーの対面へと歩いてくると。彼女はマリーの顔を一瞥すると、そのまま向かい合う形で腰を下ろす。
そうして、やや呆れたような様子で小さく息をつきながらに口を開いた。
「……正直、追い返そうかとも思ったんですが。わざわざマリーがひとりで来たことを強調した、と。サラから聞いたのでね。どうせ、おそらくは、アデルバート様の入れ知恵でしょう?」
「あはは……それは、ええっと……」
「ということは、奥の手も渡されているでしょうし。追い返すだけ無駄でしょうしね」
あるんでしょう? と。ベアトリスがマリーに訪ねてくる。
マリーは苦笑いをしながらに、懐の中から一通の封筒を取り出して、その中身を見せる。
わざわざ、マリーがベアトリスと会って話せるように、というためのだけに。アデルバートの印が捺された依頼の書状。なんとも、権力というものをとてつもなく私的に利用した良くない例ではある。
それを見たベアトリスは、一等大きなため息をつく。
「……全く。相も変わらず、頭がいいのか悪いのか。好い人、ではあるんでしょうけれど」
ベアトリスの言葉にマリーが苦笑いを浮かべるしかできないでいたそのとき。ちょうどお茶の準備を済ませたサラが入室をしてくる。
シンプルながらに細やかな装飾の施された白磁のカップに注がれた紅茶は、柔らかな光に照らされて黄金にも近い色合いを見せる。
マリーがカップを持ち上げてみると、香り高い花のような匂いを立ち登らせていた。
「大丈夫よ、毒の類は入っていないから」
「そ、そんなことは疑ってませんから!」
香りを楽しんでいたマリーをからかうようにして、ベアトリスが紅茶に口をつけながらにそう言ってくる。
マリーは顔を真っ赤にしながらに、カップに口をつけて紅茶を飲む。
そんなマリーを見ながらに、先程までからかってきていたのが嘘かのような神妙な面持ちで、ベアトリスがゆっくりと切り出した。
「それで? 今日はどうしてこんなところに来たのかしら。それこそ、提供される飲食物に毒の混入を疑われても仕方のないような関係性の相手ではあると思うのだけれど」
それを自分で言うのか、というように思わなくもないが。しかし、実際マリーの周囲の人物でも、アデルバート以外の全員は同じように感じることだろう。だからこそ、マリーがベアトリスに会いに行くことへ反対しようとしていたわけで。
「私は……」
だけれども、改めて会って、確信した。
ベアトリスは、相変わらず、ベアトリスであった。
あの夜会での出来事は、ありとあらゆることが突然に巻き起こっていて。マリーにとっても、驚きの連続で。
だからこそ、冷静に物事を判断できていなかった。
だからこそ、マリーはベアトリスに嫌われたのではないだろうか、なんて。そんなことを考えてしまっていた。
しかし、それは違うとアデルバートに教えてもらった。
彼の助力もあって、こうしてもう一度ベアトリスと対面することができた。
そして。面と向かってキチンと会うことによって。やはり、と。
「お姉様は、そんなことをするようなお方ではない、と。私はよく、知っているので」
「……そう」
ベアトリスは、どこかやりにくそうな表情で、小さくそうつぶやいた。
アデルバートが言っていたように、ベアトリスは約束を反故にするような人間ではない。
同時に。真っ直ぐに生きようとしている人物を否定しようともしない性格である、ということも。
マリーは、よく知っている。
(……恨まれたり、嫌われたりしているわけでは、なさそう、かな)
無論、アデルバートから諭されたこともあって。このことについてはいちおうはマリーの中で納得自体はしていたものの。しかし、改めて対面して、キチンとそのことを理解できた、ということはマリーにとっては特別なことではあった。
……まあ、ベアトリスの口から直接にその言葉を得られたわけではないけれども。
それを、知ることができただけでも。マリーとしては大きな進歩ではある。
けれど。今日の目的は、それだけではない。
「今日、ここに来たのはお姉様としっかりと話すため、です」
聞きたい内容としては、主にはベアトリスがなにをしようとしているのか、ということ。
もちろん、それを聞いたところで、ベアトリスが素直に話すとは思っていない。
だからこそ、ひとまずはベアトリスの現況がどうなっているのか、ということを。
通された部屋については、先に感じたようにかなり質素である、と同時に。極めて整頓をされている。
それこそ、普段、彼女がなにをしているのか、ということのその一端が窺い知ることができないように。
マリーに対する応対の所作や表情の選び方などについても、まさしくいつもどおり、という様子で。
こういうところをしっかりと詰めてきているのは、やはりベアトリスらしい、というところではあった。
――だが、
「お姉様、最近ちゃんと休まれていますか?」
「ええ、キチンと休んでいますよ」
ほぼ確実に、嘘である。
無理、というほどではないだろうが、かなり働き詰めで動き続けているはずだ。
なんだかんだでマリーはベアトリスとは長い付き合いであり。彼女のその性格や癖というものも一部理解している。
たとえば、ベアトリスから目につく範囲についてはこうしてしっかりと整頓されていて、彼女の心境を窺い知ることが難しい、ということも。
その一方で、精神的、肉体的な疲弊などが出る場合。無論、ベアトリス自身それを自覚しているからこそ、それらが見えないようにとはしているためにパッと見での判断は難しいのだけれども。しかし、その一方で制御が難しい範囲での変化を抑え込むために、やや、化粧等が厚めになる。
僅かな違い、ではあるものの。ベアトリスの変化ともあれば、マリーには察知ができた。
とはいえ、無茶苦茶をしている、というほどでもないのではあろう。それこそ、ベアトリスからしてみれば疲れていない、というのがある意味嘘ではない、とも言えるのかもしれない程度には。
「……お姉様は、あの夜会で言った言葉には、嘘はないんですよね?」
「ええ、もちろんです。私は、私の夢を諦めたわけではありませんから」
マリーの質問に。たしかにベアトリスは、ハッキリとそう答えた。
夢を、諦めたわけではない、と。
(あのときは、動転していて、気づけなかったけれど)
発言は、夢を諦めていない、というもの。そう、あくまで、諦めていないのは、夢。
その具体的な内容までは、発言していない。
「……お姉様の夢は、かつてと変わっていませんか?」
「ええ。そういえば、貴女には伝えたことがありましたね」
……そう。思い出したけれど、聞いたことがある。
今よりもずっと昔、マリーもベアトリスも、幼かった頃。
ベアトリスの結婚相手が家の都合で、実質的に決められている、という。そういう話を聞いて。それでいいのか、と。マリーが聞いたときに、教えてもらった話。
ベアトリスの、夢。
「私は、お姉様のことを応援していますから」
「……全く。以前も言いましたが、しっかりと自分の立場を自覚なさい」
呆れた様子で、ベアトリスはマリーにそう言う。
そんな彼女に向けて、マリーはそっと目を伏せて、ほんの少し、首を横に振って。
「ええ。理解しています。私が、考えの甘い、世間知らずで未熟な子爵令嬢だということも」
こうしてこの場にいることはアデルバートからお膳立てしてもらったことであり、そしてそのアデルバートとの関係性があるのは、ベアトリスの存在があってのもの。マリーは、ただ自分のありたいようにと過ごしてきて。それを、周りの人が助けてくれていた。
いかに、今までも。そして、今でも。ベアトリスやアデルバートから、守られていたのか、ということを。痛く、感じ取ることができる。
「そして。私が、アデルバート様の。王太子殿下の、婚約者である、ということも」
「そう。それならば、相応しい立ち居振る舞いを期待します」
ベアトリスは、ただ淡々と。マリーに、そう告げた。
(……もちろんです。お姉様)
マリーが、やるべきこと。マリーの立場が、できることを。尊敬する、彼女のようには、なれなくとも。マリーのできることを。
小さく、拳を握りしめながらに。マリーはしっかりとベアトリスの姿を見据えた。