92.白米
年明けの休みから初めての営業日である。
まだまだ寒い朝のひととき、今日は時間はかかるが前々からやってみたいと思っていた朝食メニューを初お披露目するための準備で水場で作業をしていた。
試してみたいと思っていたのは旅館で出てくるようなミニかまどセットで白米の炊き立てを食べてもらう、である。普段は家の鍋や屋台のコンロを使ってご飯を炊いたものをおにぎりにしたりしているのだが、やはり炊き立ては特別だ。寒い日に炊き立てのご飯を食べたらもっと元気が出るはず!とずっとずっと考えていたシズクは、リグの時間が空いたときに羽釜の作成をしていたのである。
旅館で出てくるミニかまど釜セットのイメージを伝えても、こちらの世界にはそのようなもの自体がないのでリグになかなか伝わらず苦労したのもいい思い出である。
ご飯がくっつかないような羽釜を作るのも、鍋よりも羽釜独特の丸いフォルムも、かまど部分もリグを悩ませたがそこは職人。度重なる試行錯誤の末にようやくイメージに近い形で、ご飯の炊き具合も良くようやく満足のいく出来上がりに仕上がってようやくこの日を迎えたのである。
ちょっと時間がかかるし、物珍しいけれども今日は難しい人もいるかもしれないけど、食べて喜んでもらえたらいいな。
今日エドワルドは、来るかな……。
考えていた途中、ふいにエドワルドを思い出して、少し風が冷たい水場で米を研いでいたシズクの手が止まる。
ロイの家に遊びに行っていたあの日以来、帰り際見たエドワルドの笑顔を思い出すと、心の奥が物凄くむずむずとくすぐったくなるのだ。
いつもとなんかちょっと、いや結構、全然、違った。
気心の知れた仲のいい友人であるエドワルドは、いつも元気いっぱいでとても優しい。
けれど先日は、またね、といつもと同じようにとても優しいことに違いはなかったが、瞳が甘く優しい蜂蜜を思わせるようなうるりとした謎の色気があった、ような気がする。
「ありゃ心臓に悪いって……」
冷たい水で手がかじかむが、思い出してぽつりとつぶやくとまた胸の奥がむずむずし始めてきたのを鎮めるように一心不乱にシズクは白米を研ぐ。
じゃっじゃっという白米が研がれる音と、ジャーッという水の音と、活気を増してきた市場のざわめきが混ざってようやく落ち着いてきた矢先、背後から肩をトントンと叩かれた。
店には水場にいると書置きしておいたので、客が来たのだと振り返るとそこにはベルディエットがにこやかに立っていた。
「おはようございます。シズク」
「おはよう。ベルディエット」
したり顔で後ろに立つアッシュブルーの髪の持ち主は、貴族然としたすまし顔はどこへやら。ふんふんと鼻息が荒い。
「聞きましてよ」
「なにを?」
米を研ぎ終わってミニかまどに米を計量して、適量まで水を入れる。この後いつもであれば客が増えてくるのは三十分ほど後になるので浸水時間としては問題ないだろう。羽釜を洗えば何回でも使えはするが浸水時間や米を研ぐ時間も必要なので朝一番から四名限定でしばらく様子を見ていくつもりで、四つセットしてからシズクはベルディエットにようやく振り返る。
「なにをってあなた……」
うん?とベルディエットに聞いてみても、いや、そんなはずは、でも、いや、でもでも……、と謎の自問自答を繰り返した挙句、
「まだ、だったのね」
と、一瞬苦いような顔をしたが、ぱんっと手を叩いて妙に納得した表情でシズクの肩を叩いた。
「だからなんなのよ……」
「いいのいいの、気にしないで」
あんな分かりやすい自問自答を見せつけられて気にならないはずないでしょと、ベルディエットに詰め寄ってみてもどこ吹く風である。どこで覚えたのか、口を少し尖らせて吹けないのに口笛を吹くようにひゅーひゅーと音だけを鳴らし下手なごまかしを続けている。
「たまにシズクがやるのを真似してみたのですわ」
うふふと言いながらベルディエットは話題を逸らすように何をしているのかとシズクの手元を覗き込んでこれはなにかと聞いてきた。
「あ、これはね、炊き立てご飯を提供するために今日から投入を決めた秘密兵器です」
「秘密、兵器、ですって!?」
「言い方!!」
今度は先ほどとは違いおざなりに見ただけではなくちゃんと興味深そうにミニかまどを覗き込んで、ベルディエットはその形状を観察し始めた。
「そう言えばご飯を作るではなく、たく、というのですわね」
「あー、そうだね。ご飯を炊くって言うね」
「どうしてかしら……」
日本語の勉強をちゃんとしておけばよかったなと思うが、そこまで『ご飯を炊く』という言葉についてさほど疑問に思っていなかったシズクにとっては、もしかしたら学生時代に調べたたことがあったとしても、ふーん、ほうほう……そんな感じか、ぐらいにしか思わず身にならなかったのかもしれない。
真剣に考えるベルディエットには申し訳ないが、語源の意味は分からなくてその質問には答えられない。と断りをいれつつ、実際炊いているところを見てもらえれば何となく答えが見つかるかもしれないとからと、さっそくミニかまど体験者第一号になってもらうことにした。
「お米とお水を入れて、蓋をして……」
二十分から三十分ほど炊く。
前世であればホームストアーなどでも売られている固形燃料を思い浮かべるのだが、この世界でも似たようなものがあった。ただし固形燃料は燃え尽きてしまえば終わりだが、こちらのものはそうではなく使いまわせるタイプである。
「まぁ、これは焚き火石ですか?」
「そう。焚き火石」
「でも、この石……少しずつ火力が弱くなって消えてしまうでしょう?」
目を真ん丸にしてびっくりするベルディエットのその反応も無理はない。
この世界には基本的には魔法があって、日常的なことにも結構魔法を使って生活しているのだ。その一つが火起こしである。
しかしシズクはが外部に出力する魔法が使えない。そしてシズクのように使えないわけではないが日常魔法が苦手な人もいるわけだで、そういった人でも生活に不自由がないように今では色々な生活の知恵がこのユリシスには沢山ある。
今はその生活の知恵や文明の利器であまり使わなくなってしまった中でも最も初歩の初歩の初歩的な火を補助するものが焚き火石である。
その名の通り焚き火用の石で、シズクの体感で言えば三十分ほどで自動消灯する燃える石である。しかもしばらく時間をおけばまた同じように使える優れものだ。
まぁ、この世界ではあまり使われないないので本当に優れものかと問われれば自信を持って大きく頷けないし、点火する際には微量ながら魔法が必要なのでシズクが点火出来ない分客本人に点火してもらう必要もあるのだが、それはシズク以外の人間にとって大した問題ではない。
そして、今回大事なのは旅館のイメージのミニかまどセットの再現と、固形燃料のような火力で三十分ほど燃えて消えることなのだ。
「そう。でもそこが大事なんだなー」
ご飯が炊ける工程を見せていけば少しは分かってもらえるだろうと、シズクは早々にベルディエットの為にこの店初めてのミニかまど釜セットを準備した。点火するのはベルディエットだが……。
「百聞は一見に如かず。では、この焚き火石に優しく点火をお願いします」
「よろしくてよ」
そう言ってベルディエットが指をパチンと鳴らすと焚き火石に魔法で火が灯る。
「こういう魔法は、あの長い祝詞みたいなのは必要ないの?」
「大きな力をお借りする場合はしっかりと呪文を唱えますけれど、生活魔法を使うぐらいであれば短くとも心の中で感謝の祈りを捧げれば使えるのですわ」
「ほーん……」
自分がまったく魔法が使えないので、気のない返事をしてしまったのは許して欲しい。
さて、ぽっというなんとも可愛らしい音を立てて焚き火石に灯が灯る。
本当に前世でよく見た固形燃料のように火がついて、かまど釜の底に中火程度の火があたる。
「これは、本当にこれで良いのかしら?」
結構検証を繰り返したのだが、丁度いい所で当たる様にしっかりと高さも調整済みである。
お喋りをしながら少しだけ総菜を選んでつまんでいる間も、ベルディエットは何やらもの言いたげな表情でシズクの事を伺い見てきていたのだが、それもぷすす……というあまり聞きなれない音にベルディエットの注意がそちらに向いた。
そう、ご飯を炊いている羽釜が吹きこぼれ始めたのだ。沸騰して出てきた泡が羽の部分でしっかりと止まって、下の方にはほとんど落ちていない。羽釜とは本当によくできたものである。
「ちょっと、吹きこぼれてしまってますわ! 蓋を取らなくては、いえ、火を早く止めないとですわ!」
「だめだめ、まだまだ蓋は取らないし火も止めません」
「でも、こんな、あ、あーーー!!!」
あまりこういった状態で料理が出来るのを見たことが無いのだろう。ベルディエットにしてはうろたえて随分と情けないレアな声を聞けたので面白くはあるのだが、実際はそんなに残念がるほど吹きこぼれているわけではない。
そしてこのタイミングで焚き火石の火力が少し下がってくる。
火加減の調整については、それ用に羽釜を作ったわけではあるが、火加減と言い燃焼のタイミングや時間を考えると、これは本当にご飯を炊くためにあるような石だなとシズクは力ずよくそう思う。
陽の加減が弱まってくると吹きこぼれはなくなったがベルディエットの目が羽釜に釘付けである。
「火が止まったら蓋を開けて確かめたらいいのかしら」
「気が早いなー。火が止まっても絶対に蓋は取っちゃダメ」
「出来上がったのに?」
「そ、赤子泣いても蓋取るな、だよ」
何故かしらと貴族然として小首をかしげるベルディエットだが、疑問が蓋を取るか否かというギャップに笑いが込み上げてくる。
それにしてもはじめちょろちょろなかぱっぱ赤子泣いても蓋取るな、とは昔から伝えて言われていた米を炊く手順だ。ボタン一つで美味しくご飯が炊ける時代になっても、土鍋や普通の鍋でご飯を炊く人は沢山いたし、便利になったとしてもしっかり受け継がれてきたと言うのは物凄い文化なのだとシズクは今さらながらに思った。
「ちょっと、何が面白いと言うのかしら……」
「お、しっかりと蒸らしてから出来上がりだよ」
火が止まってから十分程度蒸らし、そろそろ蓋を開けても大丈夫だと笑いを誤魔化すようにベルディエットにうながすと、恐る恐る木の蓋を開ける。
ふわっと香る、ほんのり甘い白米の香り。
「これは、なかなかに食欲をそそりますわね」
木で作ったしゃもじに水をつけて、羽釜の淵を持ってほぐす様に底の方から混ぜて出来上がりだ。
米が一粒一粒立って、かなりいい出来にニヤニヤが止まらない。
「今日はね、ぺスカ干しとイキュア持ってきたから上に乗せて食べてみて!」
シズクとしてはどちらも美味しい。どちらか一つを選べと言われればぺスカ干しなのだがここは押し付けにならないように、今ある総菜の中から何かを選んでもらうと思ったのだが、今日はぺスカ干しとイキュアだけでいいと断られてしまった。
「この茶色いものが美味しいことは食べなくてもわかっていますが、この炊き立ての白米が美味しいということはまだ証明されておりません。今日のところはシンプルに炊き立て白米を追求していくのが得策かと思いましてよ。ぺスカ干しとイキュアは最小限にとどめておきましょう」
きりっ、と品よく微笑んだところで話している内容は白米を食べるご飯のお供を少し控えるという話である。
そして美味しいご飯はそれだけでとても満たされることも事実である。
目の前にいるベルディエットはフォークで器用に、かなり小さめにぺスカ干しを切ってご飯に乗せつつ一口。またその後に続いてイキュアを乗せたご飯を一口。一口、一口、無心で食べ進めている。
正直普段も鍋で炊いているので、味に大きな変化はないはずである。
それでも目の前のベルディエットは、よっぽど感動したのか箸を持つ手(と言いつつもフォークだが)が止まらず、黙々と完食を決めため息をつくようにごちそうさまと言ったベルディエットが急に何かを思い出したかのように目を見開く。
「一体ここに何をしにここに来たと思っているの!」
来た時よりもさらに鼻息が荒めで立ち上がる
ベルディエットの貴族令嬢然とした姿しか知らない人達が見たら卒倒するのではないかと思うが、何をしに来たのかと問われればシズクはこう答えるしかない。
「えっと……うちの店に朝ご飯を食べに来てくれたんじゃないの?」
「え、……、あ、えぇ、全く、その、通り、ですわ、ね」
答えたその返事もまた、その通り。
しかしなんだかいつもと少し様子が違ったベルディエットは新鮮だ。
大真面目に眉間にしわを寄せるその眉間をシズクがぐいぐいと押し伸ばす。ここしわになっちゃうからねと脅すように言えば、大慌てで眉間のしわを自ら伸ばしている。
本当に何しに来たんだかわからないけれど、まぁ面白いからいいかとシズクはベルディエットの肩を笑って叩いて、また二人で笑った。
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