表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/102

68.アップルパイ

 ヴォーノ・ボックスは朝早くから営業している。とはいっても市場で開業している店は大体が朝早くから営業しているわけで別に特別というわけではない。


 最近はミョンの鳴き声の勢いが納まって来たので、そろそろ夏も終盤に近付いていると言ったところではあるがまだまだ熱さは続いている。しかしその中でも暑さなどに負けるものかと威勢のいい挨拶が市場には響いているその中を、フェリスは一人で歩いていた。

 

 フェリスは長い夏季休暇をこのユリシスで過ごしている間、午前中にシズクの店に立ち寄りお喋りをしながらゆっくりと食事をすることがたまの楽しみであった。今日は新作の総菜が出るからと言われていたので絶対に足を運ぶぞと勢い勇んでいたのだが、午前中セリオン家でどうしても外せない来客があって昼を回ってしまったのだった。


 何度か通ったので知っている店も多かったのだが、朝と昼では随分と市場の雰囲気も違う。


 いつもの花屋はもういないし、隣の店は既に閉店準備を始めているのが見えたのでフェリスは少し速足で店に向かった。


 ヴォーノ キッチンにある小さな丸椅子には食事をほどんど終えていたクレドが、フェリスがやってきたのが分かるや否や席を立って譲ると、シズクはそのあまりにもスマートなやりとりに不思議な顔をした。

 

「ん? シズク殿とはすでに知り合いだったか」


 息を整えにこりと笑い、フェリスは目の前にいる先客であるクレドとシズクに一礼して席に着く。


「久しぶりにお会いできて光栄です。相変わらずお美しくあられる」

「お世辞がお上手になられましたね。クレド様。お久しぶりにございます」

「え? どんな知り合い?」


 シズクは貴族の友人は居るにはいるがそう言った貴族的な部分をあまり見たことがなかった。聞きかじった程度の知識によれば貴族同士の初めての挨拶は腹の探り合い、と聞いたことがある。

 しかし二人の会話はそれとは少し違うようにシズクが思っていると、クレドが教えてくれた。


「何年か前に、城の舞踏会でお会いしたことがあってな。エドワルドに紹介されたことがあるだ」

「えぇ、覚えてくださって光栄です」


 何というか気軽にいつも市場に来るし、なんなら友人なのですっかり忘れていたが……。クレドもベルディエットも、そしてエドワルドもこのユリシスの名門貴族なのだ。そう思えばその従妹であるフェリスも社交の場で顔をあわせていてもおかしくはないなと思いながらふと考える。


 ただだからと言ってシズクが関わり合い方を変える気は毛頭ない。


「遅くなってしまってごめんなさい。どうしても抜けられない茶会があって……」

「お茶会に出てからこっちに来たの? お腹いっぱいじゃない?」

「ふふ。こちらで新作が出ると言われて足を運ぶ予定だったのですから、ある程度お腹中をあけておくのは嗜みですわ」


 楽しみにしてくれていたのである程度食べる量をセーブしたのだということだろう。独特の言い回しであるが楽しみにしてくれていたのは大変うれしい。


「確かにシズク殿の作る食事はどれも絶品だからな。今日はこのしょうがやきを先ほど食したのだが、白米が進みすぎてしまってとても困る代物だった」


 忙しいクレドにスタミナをつけてもらいたくてシズクが勧めた生姜焼きは残念ながら新作ではない。


「今日の新作は、これか?」


 そう言ってクレドが指さしたのは鶏肉に黄色いメイスの実が色鮮やかな揚げ物だ。


「そうそう。ちょっとね、メイスが結構安定して手に入るようになってきたからもう少ししっかりお惣菜にも入れてみようって思って」


 鶏むね肉を角切りにしたものに塩や醤油、ニンニクとショウガで味付け。さらにメイスの実を混ぜて片栗粉で丸め揚げ焼きにしたものだ。鶏むね肉はどうしてもパサついてしまうのだが角切りにすることで火が通りやすくなりジューシーにしやがりやすくなるのだ。

 それに生のメイスを一緒に混ぜて揚げることによって、ほのかな甘みと違う触感が加わり、夏らしい一品に仕上げた。


「メイスはこの間ベルディエットが冷製ポタージュを美味しそうに朝から飲んでいたのだけれど、ユリシスではよく食べられているのかしら」

「いや、ここ最近だな。シズク殿が広めたのだろう?」


 何というか、勝手に広がっていってしまったのだ。

 流行っているのは美味しいのでもちろん構わないのだが、自分が広めたと言うにはおこがましいので何とも言えない。


「そう言うわけではないんだけど……。たまたま?」

「たまたまでこんなに美味しいものを……」


 ひとしきり感動しっきりのフェリスが、ようやくぱくりと上品に口に運ぶ。

 唐揚げだと嚙み切らなければならない場合もあるのだが、今回は鶏むね肉を角切りにしてあるので気合を入れなくても簡単に嚙み切ることができる。大きな口でがぶりと食べる唐揚げももちろん美味しいのだが、今回の揚げ物はさくりと食べれてメイスの触感が楽しい一品にしたいとシズクは思っていた。


「お肉が……、とても食べやすいですわ。丁度いい所で噛み切れるのもいいですけれど、メイスの甘さと触感が程よいアクセントになって楽しいです」


 うんうん、そうでしょう。そうでしょうと思いながらも目の前でこんなにもお手本のような返しがあるとは思わず、シズクはなんだか照れてしまう。


 しかし新作はこれだけではない。

 夏にぴったり!かどうかは分からないがシズクが前々から考えていた品である。


 この世界にはミーロンと言う名だったが林檎があった。

 さらにセイルヴェルという名前でシナモンが存在したのだ。

 

 私はお弁当屋さんですけれど、それでも作らずにはいられない!


 それからのシズクの動きは素早かった。

 すぐに購入すると家に持ち帰りすりこ木で細かめの粉にしておく。

 小麦粉を何回も折り曲げながら薄くして何層かにしてから一旦冷蔵庫で休ませる。

 その間にミーロンを薄切りにしたものを砂糖とシナモンで焦げないように煮詰め……。


 チョコを入れたりジャムを入れたり、ソーセージを巻いたり肉を入れたり……。無限に広がる可能性があるパイの第一歩、小さめアップルパイの出来上がりである。ワンホールで作りたかったのだがとりあえず今回は試食用として包んで作れる小さめのものを選んだのだった。


「こちらをどうぞ!」

「パン……、ではなさそうですわね」

「結構柔らかそうな生地だな……」


 この世界にパイが無いのはリサーチ済みである。

 なのでこのフェリスとクレドの反応もシズクの想定内だ。


 一度ちらりとシズクを見て、フェリスが食べるには七口ほどかかるであろう一口アップルパイにためらいがちに口をつけた。

 エドワルドが食べたら二口ぐらいで終わってしまいそうだな、とふとその光景が脳裏に浮かんでシズクの口元が緩む。


「食べた時の反応が楽しみなのだな。どれ、おれも一ついただこうか」


 どうやら勘違いしてくれた様子のクレドに、謎の照れ笑いを向けながらシズクはクレドにも一つ差し出した。


「では……。む……」

「わたくしも……」


 一口食むと、二人のその手が止まった。

 自分で試食した時には、甘さ控えめでシナモンが品よく香って個人的には好みの味に仕上がったと思っていたのだ。出来立ての熱々にアイスを添えて食べたら最高じゃないかとまで思ったほどの出色の出来だと思ったのだが、この世界の人達はあまり好きではないのだろうか。


 心配になってシズクが声をかけようとしたその瞬間、止まっていた口と手が動き出した。


 いつもはゆっくりとかみしめるように食べるクレドが、大きな口を開けて三口でぺろりと食べ終わり、食べ終わるのに八口ほどは必要かと思っていたフェリスもその半分ほどで食べ終わってしまった。


「これは、パンではなくいったい何かしら」

「パイだよ」

「ぱい?」


 この世界にはたくさんの食べ物がある。

 そのたくさんの中に、やはりパイはない。


 日本では小さなお菓子からコース料理にみられるようなパイ包みまで色々なものがあった。さすがに生地から手作りしようとすれば面倒だが冷凍のパイシートもあったし、気軽に家でもアップルパイやカボチャパイ、ミートパイなんかも良くシズクは作ったものだ。


「さくさくの何層にもなっている生地に、色々包み込んでオーブンで焼きあげる料理なんだけれど……」

「さくさくのなんじゅうにもなっている?」


 タルトは何度も織り込んで作る。タルトは生地を練り込んで作る。

 その違いが大きな違いでもある。


「確かに、口に入れた際に芳醇なバターの香りはするのに口当たりが軽い気がしたのは薄い生地が何層にもなっていたからなのか」

「そうそう。これはお肉を包んでも美味しいしシチューの上に乗せてパイシチューにしてもいいんですよ」

「そうか。この生地自体は特段甘いわけではないから食事にも合うと言うわけだな」


 クレドの言葉にその通りとシズクは大きく首を縦に振ると、もう一つ……と手を伸ばすとその手をぱしっと叩くもう一つの大きな手が見えた。


「俺に黙ってシズクの新作食べるなんて、許されないんだけど?」

「エドワルド。いらっしゃい」

「む。別に黙ってと言うわけではない。足を運んだ今日、たまたま新作があったと言うだけだ」


 店に来た早々口げんかにならないように、シズクはエドワルドにアップルパイを勧める。

 案の定すぐに上機嫌な笑顔に変わって、いただきますと一口かぶりつくと……、もう一口目はすぐにその手からなくなってしまっていた。


 二口!!!


「エドワルド。お行儀が悪いですわ」

「ここは大丈夫なの。って言うか、美味しい! サクサクで中がミーロンが甘酸っぱくて程よい触感。これって新作の……お菓子? これさ中にカレーとか入ってたらよくない? あと……、作りたてにあいすくりーむとか乗ってたら最高に美味しそう!」


 シズクにエドワルドが満面の笑顔を向けてそう言い放った。


「お前……」

「エドワルド……。あなた、天才ですわ!」

「ん??」


 フェリスのお小言にもめげずに、パイの違う食べ方や、アップルパイの感想とアップルパイの食べ方における正解の一つを爆速で導き出したエドワルドに驚愕したのはシズクだけではなかった。

あれ?お菓子ばっかりですね。お弁当のおかずを考えなくては……。


お読みいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ