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短編集「死の物語」

またいつか、あなたと笑って過ごせる日まで

作者: 九十九疾風

「私が、緋乃里(ひのり)を殺したんだ」


 私は、目の前で頭から血を流して倒れている幼馴染を見ながら、そう呟いた。

 地面を、血が真っ赤に染めていく。まるで泥水のように、ゆっくりと。

 私たちを囲んでいる人達が、悲鳴を上げたり、緋乃里のために応急処置を行うために叫び声を上げたりしながら動き始めた。

 そんな周りの人達の声が、少しずつ遠くなった。

 そう、私は逃げ出したのだ。本当に緋乃里が死んだのか確認することもなく、周りの人達からの制止を振り払い、ただひたすらに走って逃げた。


 雪が僅かに降り続けている、なんともない日のことだった。





 ・・・





 あれからしばらく走った私は、気づいた時には自分の家を通り過ぎ、町外れの公園にたどり着いた。昔、よく緋乃里と遊んだ公園だった。


「はぁ……はぁ…………誰も、追ってきてないよね……?」


 上がった息を整えながら、ゆっくりと走ってきた方を見る。

 誰も居なかった。

 その事に安堵し、薄い雪の積もった公園に足を踏み入れた。


「……ここは、何も変わってないな」


 入口すぐにあるブランコに座り、少し狭い公園を眺めながらポツリと呟いた。

 他に人は誰もいなかった。場所が場所ということもあるが、2年ほど前に新しくて広い公園が住宅街の真ん中辺りに出来たせいで、この公園に来る人はほとんど居なくなってしまったのが大きいだろう。それでも、私の記憶と全く変わっていないのは、まだこの場所を覚えている人がいるということなのだろう。


「私……これからどうすればいいのかな」


 一通り公園を眺めた後、深呼吸を1つ挟んでからゆっくりと現状を整理し始めた。

 とは言っても、まともに考えられる精神状態じゃない今、ずっとあの時の情景が頭の中を回り続けているだけで……


「お〜い、柊奈(ひな)〜。聞いてんのか〜?」

「……え?」

「あ、やっと気づいたか。さっきからずっと呼んでたのに」

(しゅん)……?なんでここに?」

「なんでって……それはこっちのセリフだ。お前の家もっと町側だろ?なんでこんなとこにいるんだよ」

「それは……」


 私が口ごもっていると、隼は不思議そうな顔で首を傾げた。

 多分、隼はさっき私が何をしたかを知らない。知っていたら、もっと責め立てるように聞いてくるだろうから。だから私は、今ここで話すべきかどうかを迷っている。ここで全部話して楽になりたい。でも、隼に私が人殺しだって言うのは怖い。

 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、隼はため息をついてから隣のブランコに腰かけた。


「まぁなんつぅか……別に、話せって言ってるわけじゃない。でも……」

「……うん……」

「でもまぁ……何があったとしてもよ、俺はお前の味方でいるからよ。少しだけでいいから話してみ。さっきのお前、今にも潰れそうな顔してたから」

「……本当に、味方でいてくれる?」

「え?おう。お前と俺の付き合いだろ。なんで今更疑問に思ってんだよ」


 恐る恐る隼の方を見る。隼は、少し照れくさそうに、でも優しく笑いかけてくれていた。


「…………隼……私ね」


 だから話すことにした。震える声で、震える体で、一つ一つ絞り出すように言葉を零しながら。


「……緋乃里を……殺したの」


 視界が歪む。体の震えが止まらなくなる。嫌な汗が止まらなくなる。隼に嫌われたらどうしようという気持ちが、体の中から湧き上がってくる。それでも、1度紡ぎ出した言葉が止まることはなかった。


「さっき……本当に、さっきなんだ……緋乃里とちょっとした言い合いになって…………それで……少し強く突き飛ばしちゃって……そのまま、背中から倒れて…………」


 頭の中を、スローモーションのように緋乃里が倒れていく光景が埋め尽くす。それに耐えられなくなって、ずっと下を向いていた私は隼の方に顔を向けた。


「私……これからどうしたらいいのかな……」


 視界がぐちゃぐちゃで、すぐ近くにあるはずの隼の顔が分からない。ただずっと、頭の中で緋乃里を殺した瞬間だけが鮮明に見え続けていた。

 私は、隼が何も言わないことが怖くなって、また顔を下に向けてしまった。隼の顔と同じように歪んだ地面、それもまた緋乃里が倒れた地面と同じような光景に見えてきて、ブランコから転がり落ちるようにして地面に四つん這いになり、思わず吐いてしまった。


「柊奈?!だいじょ……うぶじゃなさそうだな。立てるか?」

「はぁ…………はぁ…………うっ……」

「よしよし……落ち着け。安心していい。俺は見捨てねぇよ。とりあえず……ずっとここにいるのもあれだし、一旦うちに連れてくぞ」

「はぁ…………はぁ……しゅ…………ん……?」

「ああ隼だ。ゆっくり起こすからな。また吐きたくなったらすぐ言……えないだろうから俺の体2回ポンポンと叩いてくれ」

「……え…………?わか…………た……」

「よし、それじゃあ行くぞ。せ〜のっ」


 隼に優しく頭を撫でてもらったおかげで、ちょっとだけ回復した私は、隼の肩を借りてゆっくりと立ち上がった。足が震えすぎていて、上手く歩くことが出来なかったけど、隼が私を支えながらゆっくりゆっくり進んでくれたおかげでなんとか隼の家までたどり着くことが出来た。


「ただいま〜。母さんか姉貴いる?」

「おかえり隼。(まい)ならまだ寝てるわよ。それにしても、あなた遅かったじゃない。どこかで寄りみ……なんか、ただならぬ状況のようね」

「あぁ。柊奈が色々とあったみたいでな。それで、雪の中傘もささねぇでいたからさすがに風邪ひくと思って……」

「なるほどね。わかった。お風呂なら沸いてるから、私が入れてあげる。服は……一旦苺のを貸してあげましょうか」

「そうしてくれると助かる。俺はそんなに濡れてないから、タオルだけ貰えればそれでいい」

「すぐに持ってくるから、2人ともそこで待っててね」


 早歩きで奥の方に向かった隼のお母さんを見ながら、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりそうだった。でも、隼が優しく「気にしなくてもいいよ。これは俺の、ただのお節介だから」と言ってくれて、少しだけ安心できた。

 少しして、タオルを1枚持ってきた隼のお母さんが戻ってきた。隼がタオルだけ受け取ると、私を隼のお母さんの方に渡してから靴を脱がせてくれた。


「これでよしっと。母さん、柊奈だいぶ弱ってるから気を付けてね」

「あんたに言われなくても分かってるわよ。それじゃ、行きましょうか。どう?歩けそう?」

「は……はい…………なん、とか……」

「遠慮しなくていいのよ。柊奈ちゃんにはいつもお世話になってるから、こんな時くらい、頼って欲しいわ」

「え…………えと……あり、がとう…………ございます……」

「ふふっ。どういたしまして。それじゃ、行きましょうか」


 私は、隼のお母さんに背中から抱えられるように支えてもらいながら、お風呂場にたどり着いた。玄関からあまり距離は無いはずなのに、まるでランニングをしたかのような疲労感に襲われた。


「あ、柊奈ちゃん柊奈ちゃん。立ってるの辛いと思うから、この椅子に座ってちょうだい」

「え……でも…………」

「大丈夫よ。ちょっと苺の服がサイズ合うかの確認がしたいだけだから。持ってくるからちょっと待っててね」


 そう言うと、隼のお母さんはどこかへと……恐らく苺さんの部屋へと向かってしまった。お風呂場の脱衣所には私1人。さっきよりは落ち着いてきているとはいえ、少し考えるだけでまた簡単に取り乱すくらいには不安定な状態だって自分でもわかる。

 数分?数十分?もしかしたら1時間くらいたったかもしれない……そうとも思えるほど、1人の時間は長く感じてしまった。少し先から足音が聞こえてきて、入口の方に目を向けると、そこにはさっきまでとは別の人が立っていた。


「よっ。久しぶりだな」

「えっ……あっ…………」

「ははっ。そんな固くなんなって。それより、1つ確認すんぞ。酒は飲んでないよな?」

「さ…………え……?いえ……」

「ならよし。私も入るから、一緒に風呂入ろうぜ。あぁ、服脱ぐの体力使うだろうし、手伝ってやるよ」


 話が急展開すぎて処理しきれず戸惑っているうちに、苺さんは自分の服を脱いで私の服も全部脱がせてくれた。


「これでよし。立てるか?」

「えと…………少し……なら」

「うし、じゃあお姉さんの肩使いな。あとはそうだな……滑らないようにだけ気をつけな。最悪の場合私ごと転けちまうからな」

「……は…………い……」

「うん。そんじゃ、あと少し歩いたら座るやつ置いてあるから、それ使いな。それに、今回は大サービスだ。私が全部洗ってやるからな。柊奈は安心して私に委ねればいいさ」

「そ……それ、は…………」


 苺さんに促され、よくお風呂に置いてあるような椅子?に腰掛けた。

 さすがに自分の体を洗ってもらうのは、あまりにも申し訳なさと罪悪感が勝ってしまったために断ろうとしたが、苺さんは私の肩を優しくポンポンと叩いてから、有無を言わさぬようにシャワーを使って私の頭から洗い始めた。


「……何があったかは知らねぇけどさ、こんな時に遠慮なんてするもんじゃねぇよ。柊奈は優しいから、昔からどんなに自分が辛くても自分を最優先にしない。常に自分の前に他人を置いてんだ。だから、こんな時でも遠慮しちまうのさ。無意識に」


 慣れた手つきでシャンプーを使いながら、私にゆっくり語りかけてくれていた。私に何があったのかを聞くでもなく、苺さん自身の想いを。


「そこが柊奈の良い所でもあり、悪い所でもある。その考え方を辞めろとか、変えろとかって意味じゃない。でも、他人に向けることが出来る優しさを、もっと自分にも向けてやってもいいんじゃないか?おっとこれはさすがにお節介か。でも──」


 シャンプーを洗い流し、リンスとトリートメントも終わった時、背中からギュッと抱きしめられた。


「──今くらいは、好きに泣いていいだよ」


 その瞬間、私の中で何かが決壊した。

 心の底から湧き上がるかのように、涙が溢れて止まらなくない。嗚咽を押し殺そうにも、今までどうやってたのか分からないほど、嗚咽がこぼれていく。心の奥が少しずつポカポカしてきて、涙を拭う手が暖かい。


「よしよし……今までよく頑張ったね」

「うっ……ううっ…………はい……」


 私が泣き止むまで、苺さんはずっと抱きしめながら頭を撫でていてくれた。まるで、子供の時のように。

 そのまま5分程泣いた後、だんだん落ち着きを取り戻した私は深呼吸を何度かして呼吸を整えた。その時もずっと、苺さんは頭を撫でるのだけは続けてくれていた。


「すみ……ません…………お見苦しい、所を……」

「いいのいいの。そんじゃ、さっきよりは落ち着いたみたいだし、体の方洗い始めるぞ」

「……はい……お願い、します……」

「うん!素直でよろしい」


 その後は、私の体を洗い終わるまで何も話さなかった。私は、今はなんとか落ち着けているけど、話し出した瞬間にまた乱れちゃいそうで怖かったし、苺さんは苺さんで、軽く鼻歌を口ずさんでいるしで、お互いに話すきっかけが無いって感じだった。


「よし、流すぞ〜」


 一通り洗い終わったあと、それまでの沈黙の空気は苺さんのこの言葉によってかき消された。

 私が少しだけ頷いたことを確認してから、苺さんはシャワーで私に付いている泡を流し始めた。洗うのには時間がかかったのに、使った泡を流すのはすぐ終わって、なんだか儚いなと感じていた。


「これでよし。それじゃ、先に湯船入りな。私も自分の体洗ったら入るから」

「はい……ありがとう、ございます……」

「いいのいいの。あ、立つ時気をつけな。あと、私を支えにしちゃっていいから」

「で……でも…………」

「でもじゃない。さっき遠慮すんなっつたろ?それに、無理に自分でやって転けられた時の方が私は嫌だね。だからほら。肩持てる?」

「え…………あ、はい……」

「よし、立てたな。それじゃあ少し近づいて……その辺で足上げて。片足入れたか?それじゃ、同じ要領でもう片方も……これで湯船には入れたな。壁の方に手すりあるから、それ使ってゆっくり座りな」


 苺さんに言われた通り、苺さんの肩を掴んでいた手を離してから壁にあった手すりを両手で掴んだ。そのままゆっくりと座ろうとしたが、私は自分で思っていたよりも弱ってしまっている感じだった。上手く重心を落とすことが出来なくて、湯船の中で転けそうになってしまったのだ。


「えっ…………あ……」

「あっぶねぇ……ギリギリセーフってとこか?」

「あ……苺…………さん……」

「手伝ってやるから、ひとまず深呼吸しな。このままの体勢だと難しいかもしれねぇから、一旦縁に座らせるけど」


 でも、間一髪の所で苺さんが脇の下から抱えるようにして助けてくれた。私は、言われた通り深呼吸を何回かして、今度は苺さんに補助してもらいながら何とかお湯に肩まで浸かることが出来た。


「本当に…………何から何まで……」

「気に病むな。それに、さっきのは私の注意不足だ。ごめんな。怖かったろ?」

「いえ…………苺さんが、謝ることじゃ……」

「だから気に病むなって言ってるだろ。それに、もしお礼がしたいってんならまた元気な姿で私たちに会いに来てくれたらいい。なんなら、元気になるまでこの家に居てくれて構わない」

「そ……そこまでは…………さすがに……」

「私が構わないって言ってるんだから、そんなに遠慮しなくていい。嫌なら無理に引き止めないが……隼から聞いたが、柊奈今一人暮らしなんだろ?」

「はい…………」

「それなら、尚更この家にいて欲しいな。そんな状態で1人きりの場所に返すのは、心配で気が気じゃなくなるし……何より、私たち家族は柊奈に救われた。その恩返しって程じゃないが、こんな時くらい頼って欲しい」

「……わかり、ました…………それじゃあ、お願い……します」

「おうよ!さて、ちょうど体洗い終わったし、私も湯に浸かるかな。柊奈、ちょっと前行ける?」


 なんでだろう?そんなことを思いながら、手に力を入れて前に進もうとするも……力が入らなくて全く動けなかった。

 その様子を見て、苺さんは優しく笑いながら私と向かい合うような位置に座った。私も苺さんも、体格が女性の中で見ても小柄だったけど、それでも少し狭かった。


「移動無理そうだったし、思い切って前に来てみたぜ」

「えっと……その…………」

「いいのいいの。あ、あとのぼせそうだったら早く言いな?縁に座らせてあげっから」

「ありがとう、ございます…………まだ、大丈夫……です……」

「それなら良かった」


 苺さんはぐぐぐっと上に伸びをした後、大きくひと息ついてから懐かしそうに話し始めた。


「いやぁ、こうしてると柊奈が小学生だった頃を思い出すな〜。ほら、前の公園で遊んだ後にさ、こうやって一緒に風呂入ったじゃん?私と、柊奈と隼、あと緋乃里の4人で」


 私は、「緋乃里」という名前を聞いた瞬間に一気に血の気が引いていくのを感じた。それもそうだ。苺さんは、まだ私がどうしてこんなにも不安定になってしまったのかを知らない。だからなるべく刺激しないようにと、思い出話を選んでくれたというのも、苺さんらしいなとも思う。

 また、あの時の記憶が私の頭を支配し始めた。心臓の鼓動が早くなり、呼吸の間隔が無くなっていき、視界が狭くなって苺さんの声が果てしなく遠くなっていく。心の底から無限に湧き出てくる罪悪感に支配され、体の震えが止まらなくなる。ちゃんと湯船に浸かっているはずなのに、真冬に外を薄着で歩いているかのように寒い。

 このまま私は死ぬんじゃないかなとすら思えてきた。でも、もうそれでいいと思った。このまま死んで、あの世で緋乃里にちゃんと謝れるのならそれでいいと。だから私は、気絶するかのように目を閉じ──


「柊奈!!柊奈!!!!」


 私の名前を呼ぶ苺さんの声が聞こえたのを最後に、意識が暗い暗い海底のような場所へと落ちていった。





 ・・・





 暗かった。

 ここが夢の中だと、最初分からなかった程に暗い場所だった。

 その場所に私は、1人ポツンと座り込んでいた。

 周りには誰もいなくて、声を上げてもただ虚しく響いてくだけで……ただただ、寂しくて。

 それでも、これが自分にとって当然の報いだと思えてきて。

 そう思うと余計寂しくて、悲しくて……

 そんな、夢を見ていた。





 ・・・





 目が覚めた私は、見たことの無い部屋のベッドの中にいた。

 体を起こそうとしたけど、上手く体が言うことを聞いてくれない。まるで自分の体が他人の物のように、全ての感覚が薄まっているようで……

 このままどうすればいいんだろう。そんなことを考えていると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。


「柊奈〜?入るよ〜」


 ドアの向こうから聞こえたのは、少し申し訳なさそうな苺さんの声だった。


「あ、目が覚めたんだね……よかった」

「苺さん……私……」

「うん……無理して話さなくても大丈夫だよ。あと、何があったのかは、隼から聞いた。ごめんね、勝手に」

「……いえ…………」


 苺さんはベッドの横にしゃがんで、ベッドで寝たままの私と同じ高さで話してくれた。でも、今はそれ以上に自分がやったことが苺さんに知られてしまったことへの恐怖の方が勝ってしまい、苺さんと逆の壁側を向いてしまった。

 そんな私に、苺さんは今までと変わらない感じで、いつもよりももっと優しい言葉遣いと雰囲気で話し続けてくれた。


「……その、なんて言えばいいかな。まずは、柊奈の許可無しに、隼から聞いちゃってごめんね。これだけは謝らせてほしい」

「それは……その…………」

「許さなくても大丈夫だよ……でも、今から話すことだけは聞いて欲しいな。これが私の本心だからさ」

「…………わかり、ました……」

「ありがとう」


 安堵したような声の後、何度か深呼吸が聞こえてから、真剣だけども優しい声色で話し始めた。その声は、お風呂の時に話してくれた声と、全く同じだった。


「私ね、緋乃里が死んじゃったって聞いてショックだったし、その理由が柊奈だって言うのも……現実だって思えなかった。でも、そこまで不安定な柊奈を見たことがなかったから、少し腑に落ちたところもあったんだ。なんというか……上手く言葉に出来ないけど、殺したくて殺したんじゃなくて、不慮の事故でこうなったんじゃないのかなって思えた」


 私の左手が、優しい温かさに包まれる。その優しさが、冷えきった私の心に染み渡っていき、気づいた時には苺さんの方に顔を向けていた。

 私と目が合った苺さんは、少しだけ嬉しそうに笑った。


「ねぇ、柊奈……さっき私ショック受けたって言ったけど、1番辛いのは……痛いのは柊奈だよね」

「苺…………さん……」

「もしかしたら柊奈は、私達に嫌われるって思ってるかもしれないけどさ……私は……私達は絶対に柊奈の事嫌うなんてことしないよ。もし世界が柊奈のことを嫌っても、もし私達以外の全てが柊奈のことを殺そうとしても、絶対に守るから」

「ま……いさん…………」

「だからさ、せめて生きて。今は全てが信じられなくて、何も見えなくて、ただひたすらに絶望していると思う。だから、今は私達を信じられなくてもいい。でも、これだけは覚えていて欲しい」


 さっきの夢の中のような暗闇に、一筋の光が射し込んでくるような気がした。苺さんが言ったように、ここまで言ってくれてもなお、このまま塞ぎ込んでしまおうという気持ちは消えなかった。

 でも、そんな気持ちは次の苺さんの言葉で一気に遠くなって行った。


「私達は、いつまでもいつまでも、柊奈の隣に寄り添っているから。例え柊奈が人を殺しても」

「はい…………はい……!あり、がとう……ございます…………苺……さん…………!」


 あぁ……言葉の力って不思議だな。こんな私でも、救われていいんだって……希望を、持ってもいいんじゃないかって……そう、思わせてくれるんだから。

 私は、苺さんの方へ体を向けて、右手を苺さんの手に重ねた。本当に、温かかった。苺さんの手も、苺さんの言葉も。

 気がついた時には、涙がこれでもかと溢れ出していた。今まで閉じ込めていた感情たちと一緒に。

 恐怖も、絶望も、想いも……全てを乗せた声で、私は泣き叫んだ。苺さんの腕の中で泣き疲れて眠ってしまう、その時までずっと。






 ・・・






 目が覚めた時、すぐ目の前に眠っている苺さんの顔があった。驚いたけど、少しずつ寝る前の記憶が蘇ってきたことで恥ずかしさがどんどん込み上げてきた。

 今何時だろう?そう思って時計を探していると、私の動きで苺さんの目が覚めてしまったみたいで、眠そうな苺さんの声が聞こえてきた。


「ふぁぁ……寝ちゃってた」

「すみません……起こし……ちゃいましたね」

「大丈夫大丈夫。えっと……今何時だ??」


 苺さんは眠そうな目を擦りながら自分のスマホの画面を見た瞬間、飛び起きそうな感じで素っ頓狂な声を上げた。


「うへぇ?!もう9時やんけ!そろそろ起きなきゃお昼ご飯無くなっちゃう!」

「えっ……9時?夜の……?」

「違う違う。朝の。私たち、めっちゃ寝ちゃってたね」

「そう……なんですね…………」

「そんなことより、一緒にご飯食べに行こうぜ!ところで柊奈、動けそう?」

「えっと……無理そう、です……」

「わかった。ちょっと待ってな」


 そう言うと、苺さんは布団から出て私をお姫様抱っこした。

 完全に思考停止した私は、私の体と苺さんの顔を交互に何度も見てから、急にこみ上げてきた恥ずかしさでめをつむってしまった。

 そんな私を見て、苺さんは苦笑いしながら1番安定する位置に調整してから歩き始めた。


「えっと…………あ、あの……!」

「どうした?」

「えっと……えぇっと…………!」

「あ、もうそろそろ階段だから、衝撃気をつけてな」

「は……はい…………」

「……ねぇ柊奈、私の気のせいだったら本当に申し訳ないんだけど……」


 階段の途中で立ち止まった苺さんは、不思議そうに私の体を上下させてから私に聞いてきた。


「だいぶ軽く……なった?痩せたって言うより、全体的に軽くなったというか」

「それは…………」

「あれ?もしかして聞いちゃダメなやつだった?」

「いえ……そういうわけでは…………ただ……」

「ただ?」

「まだ…………言えません……すみ、ません……」

「いいよ。いつか話せるようになったら、話してくれたらいいさ」

「はい…………」


 誤魔化した。正直、今すぐにでも言える。むしろ、なるべく早く話した方が楽になれるかもしれない。でも、どれだけ苺さんのことを信じることが出来ても……今は話せない。1番信じていた人を、殺してしまった……その、言い合いの原因なんだから。

 そんなことを考えている内に、苺さんは歩を進めていてリビングに辿り着いていた。

 リビングに着いて早々、こたつでくつろいでいた隼と目が合った。


「あ、おはよう柊奈。よく眠れたか?」

「お……おはよう、隼…………えっと……昨日は…………」

「え?いいよいいよ。そんなことより、朝飯できてるから食べな。食欲無かったら無理にとは言わないけど」

「隼はもう食べたのか?」

「おう。言うてさっき食い終わったんだけどな。それにしても姉貴……なんでお姫様抱っこ?」

「動けないらしいから。おぶるより運びやすいし」

「いや、まぁ……そっか」

「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ」

「はぁ……柊奈が困ってんぞ。早く食卓に座らせてやれよ」

「それもそうか。柊奈、行くよ〜」

「は……はい……」


 食卓は、リビングの入口から見て左にあるソファと反対側にあった。食卓の椅子は4つあって、向かい合うように長辺に2つずつ置かれていて、私はソファが見える席にゆっくりと座らせてもらった。前には目玉焼きとご飯、小さなサラダが置かれており、シンプルながらちゃんとした朝食だった。

 食欲は……あると言えば嘘になるけど、今食べないと本当に食べられなくなった時に後悔すると思った。

 どうにかゆっくりとだけ動かせる右手を使い、少しずつ少しずつご飯を食べていると、隼のお母さんが横の椅子に座っていた。


「柊奈ちゃんまだ大変そうね。柊奈ちゃんさえ良ければ、私が食べさせてあげようか?」

「えっ……?!あの…………そのぉ……」

「どう?私のことは気にしなくても大丈夫だし、食べられなくなったら言ってくれたらやめるから」

「それじゃあ…………お願い、します……」

「えぇ。それじゃあ、箸借りるね」


 私の手から優しく箸を受け取ると、隼のお母さんは何を食べたいか聞きながら私の速度に合わせて食べさせてくれた。それでも私の胃はすぐに限界が来て、3分の1程残してしまった。


「すみません……もう、大丈夫…………です」

「あらそうなの?でも、食べてくれてありがとね。多分、食欲もあまりなかったでしょ?あんなことがあった後だもんね……お腹が空いたらいつでも言ってね!遠慮しなくて大丈夫だから」

「えっと…………もしかして、隼……から?」

「えぇ。ごめんなさいね。勝手に聞いちゃって」

「いえ…………大丈夫です……それで…………その……」

「……苺から話は聞いた?」

「…………はい……」

「私たちの気持ちは同じよ。私たち潮規(しおのり)家は、全身全霊をもって瑚野(このや) 柊奈を支えていくし、永遠に味方でい続けるわ。もちろん、世界が敵になってもね」


 真剣な眼差しで私にそう告げた隼のお母さんの言葉に、苺さんも隼も強く頷いていた。

 どうしてこんなに、私に良くしてくれているんだろう。そう、口から言葉が漏れそうになったのをぐっと堪えた。その答えは、もう自分の中にあったのだから。


「よし!しんみりしててもあれだし、今日はなにかして遊ぼうぜ!母さんも隼も今日なんも予定無いだろ?」

「急だな姉貴。俺はいいけど、母さんと柊奈は?」

「私は問題無いわよ。柊奈ちゃんは?」

「え、えと…………私も……大丈夫、です……」

「よし!とはいえ、柊奈はまだ動けないから、あまり激しい遊びは出来ないよな〜。手はどれくらい動かせそう?」

「その……少し、だけ…………」


 自分が出来る最大限の動きを見せてみると、苺さんは顎に手を当てて考え始めた。


「なぁ姉貴。別に話してるだけでもいいんじゃね?俺はともかく、姉貴も母さんもしばらく柊奈と話せてないだろ?柊奈も、話すのが辛いなら聞いてるだけでもいいからさ」

「それもそうだな。それじゃ、ソファのが話しやすいだろうし、移動するか。まだ立てなさそうか?」

「はい…………まだ、力が……」

「うし、お姉さんに任せな。またお姫様抱っこだけど許せ」


 私は、朝と同じような体勢で苺さんに運ばれ、無事ソファに座ることが出来た。ソファは元々4人用だったため、苺さん、隼のお母さんも一緒に座ってちょうどいい感じになった。

 家族みたいだった。私はまだ、言葉を上手く使えないから聞くことしか出来なかったけど、それでもこの空間にいられるだけで、家族のように感じられた。

 本当に他愛のない会話。それが何よりも心に染みた。


「そういえば、隼は学校いつからなの?私聞いてなかったわ」

「あ〜、俺は10日から。姉貴は?」

「ふっふっふ……私は20日から。そういえば、柊奈は隼と高校違うんだよな。3学期っていつから始まるんだ?」

「え……?えっと…………」

「そういえば聞いたこと無かったな。でも、だいたい同じくらいの時期じゃなかったか?」

「その……私…………諸事情で、今……休学、してて……」

「休学?!高校で何かあったの?」

「い、いえ……そういう訳では…………」


 正直、今話してもいいとも思う。でも、その1歩を踏み出す勇気が踏み出せなかった。さっきまでの他愛のない会話に……このままずっと居られるような、そんな空気に戻れる気がしなかったから。


「まぁまぁ母さん。そんなに詰め寄ったら話せるものも話せないよ。それに、柊奈はそんなに弱くない」

「苺……さん…………」

「そ、それもそうね。ごめんなさい、柊奈ちゃん」

「い、いえ……大丈夫、です……」

「まぁなんだ。多分、階段のところで言えなかったことが原因なんじゃないか?だったら、また今度話したくなった時に話してくれたらいいよ。待ってるから」

「ありがとう……ございます…………苺さん」

「お礼なんていいさ。さ、別の話しようぜ!柊奈がもっと楽しめるような話をよ!」


 苺さんは、私の悩みをお見通しかのようだった。思えば、昨日からずっと苺さんには助けてもらってばかりだ。肉体的にも、精神的にも。だから、今の私はここまで精神的に安定出来てるし、少しだけ幸せな気持ちを味わうことが出来ている。

 あと、どれくらいこの気持ちを味わえるのだろう。1回?2回?それとも無限?わからないけど、この人たちとこのままずっと一緒に居たいな。

 あの時も、こんな気持ちだったら……こんなことにはならなかったのかな……






 ・・・






 あれから時間が経つにつれ、私の体と声は少しづつ回復していった。1週間ほど経って隼が高校に行き始めた時には、何とか普通に話すことができるようになっていた。体の方は、どうにか家の中で少しだけ歩くことができるくらいになっていた。

 隼のお母さんは昼間は働いており、隼も高校に行ってしまったため今家に居るのは私と苺さんだけだ。そんな苺さんも、20日からは大学が始まってしまうため、そうなるとこの家には私1人だけになってしまう。それまでには、どうにか自分のことだけでもできるようになっておきたい。そう思って今日、苺さんに家事の手伝いをさせてもらおうとしたのだが……


「柊奈はいいよ。まだ万全じゃないだろ?」


 と言われてしまった。食い下がろうとも思ったのだが、無理にやって苺さんの手間を増やしたら元も子もないと思ってやめた。

 手持ち無沙汰になってしまった私は、隼が私の家から持ってきてくれた勉強道具を取り出して食卓に座った。休学中とはいえ、いつでも復帰できるように勉強するのはちょうどいい暇潰しだった。とはいえ、やりすぎて三学期に習う範囲がもうそろそろ終わってしまいそうなのだが。


「お、勉強か〜。私は自主学習なんてほとんどしなかったからな。感心感心」

「なんと言いますか……私も、今までしてこなかったんですけど、いざ時間が出来たら何をすればいいのか……わかんなくなって……それで、ですね」

「なるほどな〜。でも、柊奈は賢いし、私より良い大学行けるかもしれねぇな!」

「どうでしょうね……私は、将来何がしたいか決まってないので」

「そうだろうよ。むしろ、1年から決まってるやつの方が少ないからな。いいんだよ、まだ2年もある。ゆっくりと、自分の道を見定めればいいさ」

「……2年、ですか……」

「おう。とはいえ、高校生活なんて一瞬だからな。ちゃんと日にちだけは確認しといた方がいいぞ。私みたいにギリッギリの滑り込みやらかさないようにな」


 そう、自嘲気味に笑いながら苺さんは言った。

 私は、さっきまで動かしていた手を止め、誰にも聞こえないような声で何度も何度も口の中で呟いた。「2年……2年……」と。まるで、その先のことなんて考えていないかのように。


「どした?手止まってんぞ?」

「ふぇっ……?!え?あ、すみません……」

「いや、謝んなくていいんだけどよ……なんかあったか?」


 私の様子を不審に思ったのだろう。気づいたら、苺さんは私の隣の椅子に座っていた。


「えっと……」

「まぁなんだ。隼とか母さんには言いにくくても、私になら言いやすいこともあると思ってな……秘密を秘密のまま抱えるのはさ、辛いだろ。ただでさえ1人で抱えきれないようなもん抱えてんだから」

「……そう、ですね。いつかは話さないといけないのは、変わらないので……」


 不思議だ。倒れるその瞬間まで、自分1人で抱えて生きていこうと思ったのに……苺さんになら話していいかなって。頼っても……もたれかかってもいいかなって。そう思えてくる。甘えてもいいかなって思えてくる。

 だから私は、ぽつりぽつりと話し始めた。苺さんに知ってもらえているだけで、安心もできるし、なによりいざと言う時に頼ることができるから。


「苺さんは……私が緋乃里を殺してしまった原因って、隼から……聞きました?」

「ちょっとした言い合いになって、それで強く突き飛ばしちゃった……そう聞いたな」

「はい。それで合ってます……その言い合いの原因は、私なんです」

「う〜ん……でも、お前らそんな言い合いするような感じだったか?昔から、言い合いなんて滅多にしなかっただろ?」

「そうですね……それは、高校でも変わってません」


 私は1度、深呼吸をした。心の準備はまだ出来ていないけど、今踏み出さない理由なんてどこにもなかった。


「あの時言い合いになったのは……私が、緋乃里から距離を置こうとしたからなんです。それに、今から話す内容も、休学したことも……あの日、言い合いになる前に全部緋乃里話しました。緋乃里から、距離を置くために……」

「……それで、別れ際にもう会わないようにしようって言ったら言い合いになって……感情的になって、少し押しただけのつもりが強く押してしまっていて……ってことか」

「はい……それで合ってます」

「そうか……でも、柊奈が緋乃里から距離を置こうとするなんてな。それだけの事が──」


 そこまで話した時、体の中から込み上げてくるものを耐えることが出来ずに咳き込んでしまった。

 もう、時間が無いのかもしれない。前病院に行った時は、まだ大丈夫だったのに……ついさっきまで、何も起きていなかったのに……

 咳が収まってから口を覆っていた手を見ると、そこには血がべっとりと付いていた。乱れた息を整えていると、口の中が血の味で広がっているような感覚が襲ってきた。


「おい、大丈夫か?!柊奈!」

「……いえ…………少し洗面所、行ってきます」

「お、おう……って血付いてるじゃねぇか!私が支えてやるから、無理すんなよ」

「あ……ありがとう、ございます……」

「お礼はあと。さ、行くよ。袋持ってきたから、また出そうになったら立ち止まって。私は後ろから支えるから」

「……はい」


 私は、震える体を何とか動かしながら、苺さんに支えられて洗面台まで向かった。洗面台と言いつつ、顔と手を洗える水場ならば良かったため、歩いた距離はシンクまでの短い距離だった。

 苺さんは何も言わずに、私の手と口に付いた血を洗い流すのを手伝ってくれた。さっき出したばかりのはずなのに、綺麗にするのは時間がかかった。


「……なぁ柊奈。これがその……緋乃里から距離を置こうとした理由か?」

「はい……私は今、癌なんです……発見した時には、もう治療が不可能であると……お医者さんに言われました」

「癌……か。だから、あの時あんなに軽くなっていたのか」

「そうだと……思います。この家に来てからもそうですが、ここ数ヶ月、まともにご飯を食べることが出来ていなくて……」

「そう……だったんだな」

「それに……今はもっと短くなってしまっているかもしれませんが……私の命は、もってあと2ヶ月です」

「だから、2年って私が言った時に止まったのか?」

「はい」

「なんというか……すまなかった」

「いえ……苺さんが謝ることじゃ、無いです……でも、そうですね」


 私は、いつ止まってもおかしくない程弱々しく鼓動を刻んでいる心臓の前で手を握り、溢れ出そうになっている涙を堪えながら少し上の方を見上げた。


「もっと……ちゃんと生きたかったな」

「柊奈……」

「苺さん……私のお願い、聞いてくれますか?」

「あぁ、もちろんだ!なんでも言ってくれ!」

「このこと……2人だけの秘密にしてくれませんか?ここにいない……2人のために」

「……知られたく、ないのか?」

「違います……隼も、隼のお母さんも……私のことを知ったら、躍起になってしまいそうなので……私は、私のために誰かが犠牲になるのだけは、本当に嫌なので」

「……わかった」

「それと……」


 私は、緊張が解けて体から段々力が抜けて行くのを感じながら、ゆっくりと苺さんに体を預けた。血を吐いたのもあるけど、それ以上に自分のことを話すのに体力を使い果たしてしまった。だから私は、今ある体力で苺さんにもう1つだけ……お願いと言うより、わがままを言うことにした。


「苺さん……私、もう少し、人間の生き方をしてもいいですか……もっと色んな場所に行ったり、遊んだりしたい……です……」

「あぁ……あぁ!私が色んなとこに連れてってやる。死ぬことなんて忘れちゃうくらい、楽しませてやる!だから、今はゆっくり休め……安心して、眠っていればいいさ。また明日、私が起こしてやるから」

「はい…………ありがとう、ございます……」


 そこで私は、体力の限界に達した。苺さんの温かさに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。今日はきっと、いい夢を見ることが出来る……そう思いながら。






 ・・・





 意識が覚醒するのに任せて、私はゆっくりと目を開けた。

 詳しい内容は覚えてないけど、少し温かさのある夢の余韻を感じていた。


「……幸せ…………だな」


 その余韻を噛み締めるように呟いてから、苺さんに移動して貰ったベッドから出た。歩けるか分からなかったので、軽く足踏みしてみた。階段は壁にもたれかからないと難しそうだけど、平らな場所を歩くだけなら問題なく出来そう。

 部屋から出ると、下の方から声が聞こえてきた。私が寝ている間に隼も隼のお母さんも帰ってきたみたい。会話の内容は分からないけど、起きたら人の声がするのは安心感があった。


「あれ?もう起きてきたんだね。おはよう」

「お?思ったより元気そうだな。おはよう」

「おはようございます、苺さん、隼。隼のお母さんも」

「あら?おはよう柊奈ちゃん。ちょっと待っててね。あと少しで晩御飯できるから」

「ありがとうございます。それでは……食卓の椅子、座らせてもらいますね」

「どうぞ座って座って〜。あ、苺!この辺出来てるから運んじゃって!」

「はいよ〜。あ、ちょっと前失礼するよ柊奈」


 私の前に、大皿に盛られた料理が3つほど並んだ。もう見慣れてきたけど、家族ならではって感じがして不思議な感覚が抜けない。


「柊奈ちゃ〜ん、ご飯どれくらい食べれそう?いつも通りでいい?」

「えっとその……少し減らして貰えると……」

「わかったわ。これ、柊奈ちゃんのところに運んでもらえる?」

「OK〜。柊奈、こんなもんで大丈夫そう?」

「はい。ありがとうございます」

「姉貴!俺のも持ってき……」

「あんたは自分で」

「ちぇ〜。けちだな〜」

「はいはい。そんなこと言ってないで飯持って席に着け〜」

「ふふっ。仲良いのはわかってるから、食べる時は静かにね。柊奈ちゃんを見習いなさい?」


 4人とも食卓につき、隼のお母さんの合図に合わせて全員で同時に食べ始めた。

 少しして、私の食事ペースがいつもよりゆっくりなことに気づいた苺さんが、こっそり耳打ちで「食べれそう?」と聞いてくれた。私は、苺さんの顔を見ながらこくりと頷いた。苺さんだけは私の現状を知っているから、この少しの時間だけでずっと気にかけてくれていることがわかった。だから、いつもは無い食欲が少しだけあって、この感覚をゆっくりと味わいたかった。


「あ、そうだ母さん。言わなきゃ行けないことあったんだった」

「ん?なぁに?」

「私、ちょっと事情あって大学4月まで休むことにしたから」

「事情?私は構わないけど、単位とか大丈夫なの?」

「それは問題ないってさ。ちゃんと講義の教授にも、ゼミの教授にも説明したし、そのうえでちゃんとやることやれば講義は出なくていいって。資料は今度、お母さんに柊奈の手助けを頼めそうな時に取りに行く」

「そう……わかったわ。ちゃんとやることだけはやるのよ?」

「分かってるって。ありがと、母さん」

「え?姉貴休み伸びるの?ずりぃ俺も高校休みてぇ!」

「しゅ〜ん?苺はちゃんと良い成績取れてるけど、あなたいつもギリギリなの知ってるんだからね?休みたいなら、ちゃんとした成績取ってから言って欲しいわね」

「う、うぐ……それを言われると…………」


 苺さんは詳しいことの説明はしなかったけど、間違いなく私のため。嬉しかった……本気で一緒に背負ってくれようとしてるんだって思えたから。それに、苺さんが居るとこの少しだけの人生すら楽しもうと思えてくる。


「あ、それと柊奈」

「え?!あ、はい……なんでしょう?」

「明日、少しお出かけしないか?散歩がてらって感じだと思うけど」

「……ぜひ。苺さんとなら、行きたいです」

「よっし決まり!」

「……なんか、姉貴と柊奈が知らない間に仲良くなってんだけど」

「ふっふっふ。羨ましいか?」

「そりゃな。まぁでも、高校で離れてちょっと疎遠になっちゃってたから、今こうして同じ飯食ったり話したりしてるだけで俺は十分嬉しいよ」

「何それ……でもそうだね。隼、あのさ」

「ん?どうした柊奈。そんな改まって」

「ありがとね……あの時、あの公園で私を見つけて──ううん、助けてくれて」

「……おう!俺も、あの時追いかけてよかったって思ってるよ。今こうして同じ時間を過ごせてるんだからな」


 その言葉の後、私と隼は顔を合わせて笑った。

 そうこうしているうちに、全員がご飯を食べ終わていた。隼のお母さんは、空になったお皿を片付けながら、私たち3人で話しててと言ってキッチンの方に向かっていった。多分、私のことを察してくれているんだと思う。

 私はそれから、隼と苺さんとお風呂までの時間を潰すために話した。内容は、その時していたテレビに関連したこと、隼の高校でのこと、私の高校でのこと……今まで話してなかった分を埋めるような、そんな話。してもし足りないくらいたくさんの、他愛のない話。


「隼〜、苺〜、柊奈ちゃ〜ん、もうそろそろお風呂入りなさい?」

「あ、それなら俺から行くよ。俺が1番時間かかんないし」

「わかった。その後は……どうする柊奈、一緒に入るか?」

「えっと……いえ、今日は1人で入ります」

「そうか。風呂でなんかあったらすぐ呼べよ。じゃあ、隼が出たら柊奈がお風呂入った方がいいな。その方が万が一に対応しやすいな」

「わかりました……ずっと気になってたんですけど、苺さんって大学で何を専攻してるんですか?なんというか……私のことを助けてくれるのに、慣れてる感じがするので……」

「え?あ〜。福祉。主に身体障害者の生活支援だね」

「なるほどそれで……」


 私の中で完全に納得できた。多分、大学を休むことが出来たのは、専攻内容的に問題がなかったからじゃないかな。

 でも、それ以上に苺さんは優しい人なんだって感じた。じゃないと、こんなに沢山温かい気持ちを貰えない。明日もきっと、もっともっと温かい気持ちを貰えるんだって思うと、楽しみで笑顔がこぼれそうになってくる。


「ふい〜、お先〜」

「ちょっと隼、さすがに早くないか?」

「いや、いつもくらいだぞ?」

「そうか?まぁいっか。柊奈、お風呂入っておいで」

「わかりました。では、お先失礼します」

「ごゆっくり〜」


 階段を使うのを最小限にするために、脱衣所に置いてある鞄から服を取り出し、服を脱いでお風呂場に入った。

 1週間前のことを考えると、こうやって1人で入れてるだけだいぶ回復してきてるんだなと思った。とはいえ、自分の体はどんどん蝕まれているんだけど……

 髪の毛を洗い終わり、シャワーを止めて体を洗おうとした時、シャワーを止める為に伸ばしていた手を慌てて口元に持っていった。

 口を手で覆った瞬間、体を小さく丸めながら咳き込んだ。最初はただの咳だったけど、段々手に何かが……血が付く感覚と、口の中が血の味がする感覚が増していった。今日の昼間ぶりの吐血だった。これが隼や隼のお母さんの前じゃなくて良かったと安堵しながら、咳が収まるのを待った。

 30秒か、1分か……それくらい咳が続いて、やっと落ち着いた。ゆっくりと顔を上げ、前にある鏡で自分の姿を確認すると、口の周りと手にびったりと血が付いていて、その血の色も赤というより赤黒い感じだった。


「……まだ……大丈夫…………」


 シャワーを使って、なかなか落ちない血を落としながら自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫……大丈夫……と。苺さんを呼ぼうかも迷ったけど、そんな余裕は残っていなかった。

 鏡を見て血が残っていないことを確認してから、うがいで口の中の血を洗い流した。


「これで……よし」


 その後は特に何事もなく、体を洗い終わって湯船に浸かることが出来た。体力的にも、精神的にも余裕がまだあるのは、苺さんが一緒に背負ってくれている安心感が大きいのかな。

 湯船で体育座りをしながら、これからの事を考え始めた。もうそろそろ考え始めないと、絶対に後悔する。それ程まで、私の体は限界すれすれなんじゃないかなって思えてしまった。でも、もしあの日自分が願ったみたいに私が1人になっていたら……こうやってちゃんと考える時間すらなかったと思うと、緋乃里の言っていたことが正しかったんじゃないかって。


「……緋乃里は…………こうなること、分かってたのかな」


 今はもう……確かめようのないことだけど、そんなことを呟いてしまった。あの時緋乃里に言われた言葉──「今1人になったら、すぐに死んじゃいそうだからほっとけない」今なら、大切な言葉だって思える。

 そろそろ上がろう。のぼせたらいけないし。


「……あれ?」


 立ち上がった瞬間、強い立ちくらみに襲われた。倒れそうになったけど、何とか縁に座って堪えた。早くなってる鼓動を抑えるために、何回か深呼吸をしてからもう1回立ち上がった。

 お風呂場と脱衣所を繋ぐ扉を開けると、すぐ目の前に苺さんが立っていた。


「あれ?もうよかったのか?」

「はい。これ以上はのぼせちゃいそうだったので……」

「そっか。大丈夫だった?」

「えっと……また少し……」

「……そう。だからのぼせるまでが早くなったんだな。OK。今日は早めに寝た方がいいよ」

「わかりました。ありがとう……ございます」

「良いって良いって。あ、これタオル」


 苺さんと入れ替わるように風呂から出て、タオルで体を拭いていると、お風呂の中から苺さんに話しかけられた。


「ねぇ柊奈、今までもこんなことはあったの?」

「……はい。でも、今までは少しだけで、ここまでのは……初めてです」

「そっか……薬とかは飲んでないのか?」

「はい……薬を使った方が長く生きられるのは、分かるんですが……そこまでして生きてもって、思っちゃって」

「……そうか。すまねぇな、変な事聞いて」

「いえ、そんなことは……」

「まぁ、なんだ……明日はよろしくな。湯冷めするといけねぇし、もう部屋の方行きな?話に付き合ってくれてありがとな」

「わかりました……話、楽しかったです。こちらこそ、明日よろしくお願いします」


 私は、寝る前の挨拶をするためにリビングの方に向かった。リビングでは、隼がソファでくつろいでいて、隼のお母さんは机で家計簿をつけていた。


「お風呂いただきました〜」

「あら?苺とは一緒に入らなかったのね」

「はい。入れ違いになってしまって……それでその…………もう眠くなってしまったので、寝てきます」

「わかったわ。おやすみなさい、柊奈ちゃん」

「ん?もう寝るのか。おやすみ柊奈」

「はい……おやすみなさい」


 そう言ってから、リビングのドアを閉めた。

 階段をいつも通り壁にも垂れながら上っていた時、あと数段のところで辛くなってきて座ってしまった。前なら全然余裕だった事が簡単に出来ないと、普通だと思ってたことが幸せな事だったんだって実感する。

 数分、座ったまま呼吸を整えてから残り数段を這うように上がった。そこから部屋まではあまり距離がないことが、わずかながら救いだなって思いながら四つん這いになって移動した。

 部屋に入りベッドに潜り込んだ瞬間、大きな睡魔に飲み込まれるように眠りについた。



 また明日、楽しい時間が過ごせることに期待を乗せて。






 ・・・






「……ここに来るのも、1週間ぶりなんですね」

「そっか。ここで隼に拾ってもらったんだもんな。気分はどう?大丈夫そう?」


 私は、苺さんに連れられてあの日来た公園に来ていた。相変わらず、私たち以外に誰もいなかった。

 今日は、お昼ごはんを食べてから歩き始めた。この公園に来たのは、私がここに行きたいって言ったから。もう一度、この場所をゆっくりと見たかった。


「はい……苺さん、この中一緒に歩いてもらってもいいですか?」

「いいぞ。私もここ来るのは久しぶりだしな」

「ありがとうございます」

「それに、思い出話もしたいし。話せることはさ、全部話しちゃおうぜ。この際だし」

「そうですね……私も、沢山話したいです。今度は隼も一緒に」

「おう!思い出話にあいつは不可欠だしな」


 公園の中を、苺さんと話しながらゆっくり歩いた。公園の中にある遊具一つ一つの前で、その遊具で遊んだ思い出を話した。隼のことも……もちろん、緋乃里のことも沢山。


「あの、そろそろ休憩しても……いいですか?」

「いいよ〜。だいぶ歩いたと思うしな。ブランコでいいか?」

「はい」


 一通り話した後、入口近くにあるブランコに2人で腰を下ろした。子供の時も、休憩する時はこのブランコだったから、この感じも懐かしかった。ブランコに座ることで、少しあの日のことがフラッシュバックしたけど、今は苺さんがいる。その事だけで簡単に乗り越えられた。

 一息つくと、強い疲労感に襲われた。でも、それは心地良い疲労感だった。

 苺さんはそんな私を見て、お茶の入った水筒を渡してくれた。


「あ、ありがとう……ございます」

「ゆっくり少しずつ飲めよ?むせちゃうからな」

「き、気をつけます……」

「にしても……変わんないな、ここも」

「そうですね……本当に、何も変わってないですね」

「そうだな。ほんと、落ち着くな〜」


 優しい風が、公園の周りにある木々を揺らした。その音を聞きながら、公園に残っている思い出の余韻たちに浸っていた。

 私と苺さんの間に、会話はなくなっていた。話すことがなくなったわけじゃないし、気まずいわけじゃない。むしろ、もっと話したいこともある。でも今は、この静かな時間が心地よかった。


「……なぁ柊奈、明日はどこに行きたい?」

「明日、ですか?えっと……」

「好きな場所を言ってくれて構わないぞ。一応車の免許持ってるからな」

「じゃ、じゃあ……明日、連れて行って欲しい場所があります」

「どこだい?」

「それは──」


 私は、スマホの地図アプリを使って、公園から街を横断したような場所にあるとある地点を指さした。その場所の名前は、地図には表示されていなかった。

 私が渡したスマホの画面をまじまじと見つめ、拡大したり縮小したりしながら、私が行きたいと言った場所を確認していた。その後、苺さんは自分のスマホの地図アプリを開いて、その場所をピン刺ししていた。


「ここで合ってるか?」

「はい。ありがとうございます」

「にしてもここ……見たことないんだよな。ここに何かあるのか?」

「……お墓です。私の、両親の」

「お墓参り、したかったのか?」

「はい……もう、随分と行けていないので」

「えっとその……両親はいつ頃亡くなられたんだ?」

「小学6年生になる前だったので……だいたい、5年くらい前、ですね。その後は母方の親戚に引き取られたんですが、中学2年生になった時に、引き取ってくれた親戚の方々も、事故で亡くなってしまって……他の親戚の方に……『死神』だと言われて……一緒に、住みたくないって…………」


 話しているうちに、自然と涙が溢れ出てきた。おかしいな。あの時は涙なんて出なかったのに。あの時は、こんなに苦しくなかったのに……今はもう苦しくて、寂しくて、悔しくて……止めたいと思うほどに涙が溢れてきて、話したいと思うほどに嗚咽が止まらなくなって話せなくなる。もうどうすればいいのか分からなくなって、ブランコに座ったままうずくまった。

 そんな時、優しく包み込まれた。

 それは、真っ暗な世界を照らす太陽のようで、思わず私はくしゃくしゃになった顔を上げた。


「柊奈はもう、大丈夫だから」

「うぅ……ま……いさ……ん…………」

「ははっ。酷い顔だな……でも、そんなになるまで頑張って来たんだよな。ほんと……柊奈は昔から頑張り過ぎなんだよ。残された時間くらい、自分に付けた重りを外せ」

「うぅぅぅ……うっ…………はい……」

「まぁ今は、私の胸使って泣け。その涙はな……今まで凍ってた心が、少しずつ溶け始めている証拠なんだからな」

「苺……さ……うっ……」

「……叫んでいいぞ。好きなだけ」

「うっ……うわぁぁぁぁ!」


 もう、止まらなかった。公園とか、苺さんの前とか……そんなことすらどうでもいいと思った。


「ううっ……死にたく……ないよぉぉぉ……!」

「うん……うん……」

「私……私っ……!!」


 だんだん、自分でも何を言っているのか分からなくなっていった。ただひたすらに、体の底から湧き上がる感情だけに任せて叫び続けた。苺さんは、ずっと私を抱きしめていてくれた。爆発し続けている私の感情を、優しく受け止めてくれながら。

 時間が経つにつれ、感情の波が少しずつ引いていき、呼吸も元に戻っていった。意識が少しずつ落ち着く中で、ずっとギュッと握りしめていた苺さんの服から手を離し、背中の方に回して抱きついた。


「……落ち着いた?」

「…………はい……ありがとうございました」

「お礼はいらないよ。どうする?立てそう?」

「えっと……もう少しこのままで……」

「いいよ。好きなだけ私に抱きついていてくれて」

「はい……」

「一緒に背負ってんだからさ。いつでも甘えたくなったら甘えてきてくれていいからな。それに……」


 苺さんは、一呼吸置いてから静かに呟いた。


「まだ知らない隼と母さんの代わりに、私が柊奈に恩返ししていかないとだしな。いつ、出来なくなるかわかんないんだし」

「……恩返し……ですか?」

「おう。なんだかんだずっと出来てなかった、大事な大事な恩返しだ」

「私……何かしましたっけ?」

「……してくれたよ。柊奈が忘れていても、私たちは絶対に忘れない……私達を救ってくれた、柊奈のこと」

「そんなこと……私……」

「じゃあ聞くか?柊奈が思い出せるように」


 そう言うと、苺さんはゆっくりと私の頭を撫でながら話し始めた。私がいつの間にか消してしまった、人生で初めて本気で怒った日のことを。






 ・・・





 私の家族──潮規家は、最初は温かい家庭だったらしい。幼い私が写った写真には、幸せだけがあったから。でも、隼が小学校に入った時から少しずつ家族の歯車が狂って行った。本当に少しずつ。

 いつからか父と母さんは、毎日のように喧嘩していた。私たちがいても、当たり前のように。

 最初は……ただの口喧嘩だった。でも、喧嘩をすればするほどだんだんヒートアップしていくようになっていった。私が中学生になる頃には、父が喧嘩以外でも暴力を振るうようになっていた。私も、隼も、母さんも……父が家にいる時もいない時も、ずっと怯えて過ごしていた。息苦しかったし、何より恐怖だけが家族を縛り付けているような感じだった。


 私も最初の頃は、父には向かっていたし母さんを守ろうともした。でも、すぐに無駄だって思い知らされちゃったんだ。何を言っても暴力で支配しようとしてくるし、こっちの話に耳を貸そうともしなかったし……何より、殴られて腕の骨が折れてた時に「この人にとって、自分に従わない家族は必要ないんだな」って思ってしまったんだ。

 あの人は私達を、ただの下僕にしか見ていなかった。「全部俺の金だ」って感じで、食事以外で自由に使えるお金なんて用意されていなかった。

 本当に死にたいって思ってた。隼はどんなことを考えていたのかわかんなかったけど、母さんは1回自殺しようとしてた。もちろん、止めたけどね……でも、いつ限界が来てもおかしくないような状態で、3人いたからこそ耐えることが出来てる状態だった。


 そんな家族の状態が柊奈にバレたのは、隼が小学6年生の時だったかな。確かあの日、幼馴染組で遊ぼうってなってたんだけど、父が家にいたせいでなかなか家を出れなくて……家を出るまでに隼が3発くらい殴られちゃったんだよね。それで、遅れて行った私たちを見て、柊奈が血相を変えて事情を聞いてきたんだよね。「何があったの?!」って。

 確か私も隼も、最初は隠そうとしてたんだけど……隼が殴られた痣を柊奈が見つけてから、柊奈の目が変わった。私から見ても、柊奈が本気で怒ってるんだってわかった。だから、あの時公園で全部話したんだ。父に今までされた仕打ちとか、母が今どんな状態なのかとか……

 私たちの話を聞いた柊奈は、1度だけ深呼吸をしてから私たちに、柊奈を家に案内することと、緋乃里には帰ってもらうこと、またちゃんと……今度こそ笑顔で集まって遊ぶことの約束をほとんど同時に済ませた。緋乃里も、納得してくれていた。


 その後は、今でも事細かに思い出せる。家に柊奈を連れて行った瞬間から全部。

 柊奈は、無言で家の中を進んで行って、リビングに繋がるドアを勢いよく開けた。バァン!って音と一緒に風が起こるほどに。

 リビングでは、父が抵抗できない状態の母さんを殴っていた。


「……何を、しているんですか?」

「あ?誰だテメェ。部外者は帰ってくれ」

「私の質問に答えてください。何をしているんですか?」

「部外者は帰れっつてんだよ。お前こそ質問に答えろ。お前は誰だ」

「……私は柊奈。瑚野柊奈。隼の幼馴染で親友です。私は答えました。あなたも答えてください。何をしているんですか?」

「生意気な奴だな。お前、小学生だろ」


 父は、すごい形相で柊奈の前に歩み寄った。


「あんま舐めた口聞いてると、お前もあいつと同じ目に合わせるぞ」

「……あいつとは?」

「あそこに倒れてるあいつだよ。見りゃわかんだろ?」

「……好きにしていいです。ただし、その後私の言うことを聞いてください」

「へっ。お前にそんな余裕があれば、な!」


 父は、容赦なく柊奈を殴り始めた。何発も何発も。顔を、お腹を、頭を、胸を、肩を……正直、見ていられなかった。柊奈がボロボロになってしまうって思ったから。

 でも、柊奈はどれだけ殴られても、蹴られても……何も言わず、ただ立ち続けていた。

 最初は余裕を見せていた父の顔が、少しずつ歪んでいった。殴る力も、どんどん強くなっていった。それでも全く動じない柊奈に、父の顔は怒りから焦り、そして恐怖へと変わっていった。


「……もう、終わりですか?」

「クソがっ……!バケモンかよ」

「化け物?いいえ。それはただの見当違いです」


 殴る腕が止まり、少しずつ後ずさりしている父に、痣だらけになり鼻や口から血を出している柊奈は、右腕で胸ぐらを掴みながら迫り寄った。身長差がかなりあったせいか、父が膝から地面に落ちるようになった。


「……あなたは、本当の痛みを知らない。ただそれだけの話です。見せかけだけの痛みで、本当の痛みを知ろうとしなかった。その結果が、これです」

「お、お前は……お前は何が言いてぇんだよ!言いたいことがあるならはっきり言いやがれこのくそg……!!」

「痛みは!!」


 柊奈は胸ぐらを両腕で掴み、同じ目線の位置まで父の顔を持ってきて叫んだ。今まで聞いたことがないような、強い声で。


「本当の痛みは!体じゃなくて心に刻まれる!!あなたは今まで、自分の家族に!本当の痛みを!本当の傷を!!どれだけつけ続けた??答えろよおい!!!」

「え……あっ…………」

「私の目を見ろ!おい!!」


 父は、もう声が出ないほど恐怖に支配されていた。今まで私たちが過ごしていた時のように。今にも座り込んで泣き出してしまいそうな顔だった。


「……あなたは私に、部外者は帰れと言いました。確かにあの時、私は部外者でした。でも今はどうでしょう?あなたこそが、本当の部外者じゃないのですか?」

「え……うっ……あ……」

「あなたには今から、本当の痛みを少しだけ経験してもらいます。3人とも、それでいいですか?」

「えっ?あ、私は問題ない」

「俺も、姉ちゃんと同じ」

「私……は…………」

「……大丈夫ですよ。ゆっくり考えてください。私は、あなたの意志を尊重したいので」

「私は……」


 母さんは、まだ踏ん切りがついていない感じだった。でも、次の父の言葉で過去を切り捨てることを決めることが出来たような表情に変わった。その言葉は、今も思い出したくないくらい、本当にクズの発言だった。

 その後は、話が進むのが早かった。父は柊奈のおかげで自信が完全喪失してたし、話がまとまるまで柊奈がずっとそばにいてくれたから、また父が暴虐の限りを尽くすことはなかった。





 ・・・





「あの後、その日のうちに離婚が成立したんだよな。その後柊奈が、急に電池が切れたかのように倒れた時はびっくりしたけどな」

「……そんなことも……ありましたね」

「あれから少し疎遠になっちゃったけど、私たちが柊奈を忘れた日はなかったんだ。私たちの日々を明るくしてくれた、柊奈のこと」


 私は、感情だけで動いていたあの日のことを完全に思い出して、ちょっと恥ずかしかった。


「……落ち着いた?」

「はい……でも、今はちょっと」

「どうした?まさか体調が?!」

「ち、違……あっ…………」


 苺さんは心配したのか、私を胸から少し離して顔を確認しようとした。そのせいで、涙でぐちゃぐちゃになった上に恥ずかしさで真っ赤になった顔を見られてしまった。

 私は、苺さんの顔が見れなくて目を逸らしてしまった。苺さんが今どんな表情をしているのか分からないけど、何も言われないことが少し怖かった。


「……なんだ、可愛いじゃん」

「口説いてるんですか……?ふざけないでくださいよ……」

「そんなつもりは無いよ。ただ、柊奈もそんな顔できるんだなって思ってな」

「う〜〜…………もぉ!」


 我慢できなくなって、苺さんから顔を隠すようにブランコから立ち上がって歩き始めた。早くなりすぎた心臓の鼓動が落ち着かないし、自分でも分かるくらい顔が熱くなっている。後ろの方から苺さんの声が聞こえるから、追ってきてくれているのはわかったけど、何より早く家に着いて1人でこの恥ずかしさを鎮めたかった。

 ただ、私の足はどうしようもないくらい遅いので、苺さんに簡単に追いつかれてしまった。


「はい、追いついた」

「うぅ……苺さん意地悪です……」

「ごめんごめん。さ、一緒に帰ろ。多分、隼がもう少しで帰ってくるだろうし」

「はい……ゴホッゴホッ……」

「おっと……大丈夫か?」

「なんとか……早歩きしちゃったせいで、少しむせちゃったみたいです」

「なら良いんだが……よし、もうそろそろ着くからな」


 私は苺さんの肩を借りながら、家までの道をゆっくりと歩いた。そこまで距離はないけど、この歩いている時間が何よりも長く感じて、永遠に続いて欲しいと思った。


「よっし到着。ただいま〜」

「ただいま……」

「まだ誰も居ないみたいだな。母さんは遅くなるって言ってたから、私は晩ご飯作るけど柊奈はどうする?」

「私は……できることは手伝いたいです」

「ありがとう。それじゃあ……ちょっと手伝ってもらおうかな」

「はい……!」


 それから、私と苺さんで一緒にキッチンに立って晩ご飯を作った。と言っても、実際に料理をしていたのは苺さんで、私はお皿の用意をしたり食材を冷蔵庫から出したりしただけだけど。でも、今まで手伝わせてもらえていなかったから嬉しかった。

 その途中で隼が帰ってきていた。隼は、私と苺さんが一緒にキッチンに立っていることに驚いていたけど、私の顔を見て嬉しそうに笑って自分の部屋に着替えをしに行った。隼のお母さんも、ちょうど用意が終わった時に帰ってきて、苺さんが私と一緒に用意したことを嬉しそうに報告していた。

 そんな幸せな空気で、一家団欒の晩ご飯を食べた。今までも幸せな空気に変わりはなかったけど、今日だけは同じ場所でご飯を食べているっていう気持ちになれた。


「苺と柊奈ちゃんは、今日何かあったの?」

「え?なんで?」

「なんか、距離が近いな〜って思っちゃって」

「それ俺も思った!なにかあった?」

「えっと……」

「そんな大したことはないさ。前の公園あるだろ?あそこで昔遊んだな〜って話をしただけ。そうだよな、柊奈」

「はい……そうですね。でも、私にとっては大事な時間でしたよ、苺さん」

「お、おう……なんつうか、やっと柊奈らしくなってきたな!うりうりぃ」

「わっ……ちょ、やめてくださいよ」

「ふふっ。仲がいいならいいのよ。なんなら、今日一緒にお風呂入っちゃえば?」

「私はいいぞ。柊奈は?」

「私も……大丈夫です」


 私は、晩ご飯を食べ終わってから苺さんとお風呂場に向かった。苺さんと一緒にお風呂に入るのは、あの日以来だった。


「あ、先入っちゃって大丈夫だよ」

「はい。あ、苺さん」

「ん?どした?」

「今日は……洗ってもらってもいいですか?」

「……いいよ!むしろ私から頼みたかったくらいだ」

「えへへ……ありがとうございます」

「よし、ちょっと待ってな!」


 苺さんは少し慌て気味で服を脱ぐと、私の背中を軽く押しながら一緒にお風呂に入った。

 あの日と同じように、お風呂の椅子に座らせてもらった。今日は安定してるから吐血はしないと思うけど、一応いつでも対応できるように手は太ももの上に置いておいた。


「よし!準備はいいか?」

「はい」

「それじゃ、お湯かけるぞ〜」


 それからはあの日と同じ感じで、髪の毛と体を洗ってくれた。ただあの日と違うのは、会話の内容だった。あの日は苺さんが一方的に私に話しかけていたけど、今日は2人で笑いながら話してた。

 話の内容は、未来のこと。明日や明後日のことだけじゃなくて、私が死ぬまでの……残された時間のこと。

 今まで未来のことを考えられなかった私にとって、この時間は新鮮だった。なんというか、今まで花が咲いていなかった場所に1本ずつ花を植えているかのような、そんな時間だった。


「よしっと……これで洗い終わったぞ」

「ありがとうございます。それじゃあ……苺さん、交代しましょう。今日は調子が良いので、私が苺さんを洗います」

「え?!いいよそんな……これは私がしたくてやってる事だし」

「なら問題ないですね。私が苺さんを洗うのも、『したくてやってる事』なので」

「ははっ……こりゃ1本取られたな。それじゃあ、よろしく頼むよ」

「はい!」


 場所を入れ替わって、大きいようで小さな苺さんを洗い始めた。苺さんにしてもらったのと同じように、髪の毛から。

 人の体を洗ったことが初めてだってせいで、苺さんほど上手く出来なかったかもしれないけど、終始苺さんが満足そうにしてくれていたから私も楽しかった。


「よいしょっと……これでどうですか?」

「うん!ありがとう。なんだか不思議な気分だな、こうやって柊奈に洗ってもらうって」

「そんな大したことはしてませんけどね……」

「いいのいいの。私にとっては幸せなことなんだから」


 体の泡を流し終えた苺さんが、私の方を見て頭を撫でてくれた。


「よし、入るか」

「はい……えへへ。苺さんに撫でてもらうの……気持ちいい」

「もう〜、嬉しいこと言ってくれんじゃん!もうどんだけでも撫でてやるからな!」

「ありがとうございます……嬉しい……」


 私は苺さんに撫でられたまま一緒にお風呂に入った。私が苺さんの足の間に座るような形で、苺さんに包まれているみたいだった。

 お風呂の入り方も、あの日にやろうと思って出来なかった入り方だった。このまま眠りについてしまってもいいとすら思えてくる、そんな幸せな気持ちに包まれながらゆっくりと目を閉じた。そのまま少しだけこの感覚を味わってから、ゆっくりと目を開けた。


「……私、幸せです」

「ど、どうしたんだ急に?」

「いえ……ただ、この時間が……何気ない、こんな時間が幸せだなって思ったんです。私は、久しくこの時間を……避けていたので」

「避けてた?柊奈が?」

「はい……苺さんは、あの時私が言った『本当の痛み』ってなんだと思いますか?」

「『本当の痛み』?う〜ん……独りの痛みとかか?」

「間違っていませんが、違います」


 私は胸に手を当て、懐かしい痛みを感じながら話した。もうこの際話してしまおう。そんな気持ちで。


「『大切な人や、家族を失う痛み』……です。私は、その痛みを知っています。一生をかけても、乗り越えることなんて出来ない痛みです」

「……もしかしてだけど柊奈は、その痛みを感じて欲しくないから緋乃里から距離を取ろうとした……ということか?」

「……はい。あと……今から言うこと、怒らないでくださいね?」

「わかった。心配しなくても、私は怒ったりなんかしないさ」

「……私、中学2年生の時から隼とだんだん疎遠になったんです。隼以外の人も含め、私を知っていた人全員と……唯一、緋乃里を除いて」

「中学2年生ってことは……」

「はい……私の病気が判明したのは中学3年生の時でしたが、その時には私と積極的に話そうとしてくれていたのは……緋乃里だけになってました」


 1年くらいしか経ってないはずなのに、もう遥か遠い過去のように感じる。それは、私が完全に心を閉ざしてしまっていたからだろう。嫌な思い出も、大切な思い出も、かけがえのない想い出も……その全てを心の奥底に押し込んでいたから。

 でも、押し込んで閉ざし、凍らせていたものは昼に苺さんによって溶かされた。だからもう、涙は流れなかった。


「その緋乃里に対してすら……私は心を閉ざしてました。馬鹿ですよね。周りが傷ついて欲しくないからって、1番大切な人を傷つけて……殺したんですから」

「柊奈……」

「……苺さん、私があのことを忘れていたのは…………隼に、苺さんに、隼のお母さんに……私を忘れて欲しかったから……私のせいで、また傷つけたくなかったからなんです」

「……柊奈は優しいな」

「うわっ……!」


 恐る恐る言った私を、苺さんは怒ることも罵倒することもせず、くしゃくしゃと頭を撫でてくれた。


「でも、それが柊奈の長所であり短所だ。いつも他人が最優先になる。柊奈のほんとの、何の遠慮もない想いを教えてくれないか?私のこと……私達のこと、どう思ってる?」

「……今はもう、家族です……死ぬまで一緒に、居たい人達です……!」

「ならそれでいいじゃないか。一緒にいようぜ。柊奈が死ぬまでも、死んでからもな」

「はい…………はい……!」


 やっぱりこの人には敵わないや。

 苺さんの優しさに包まれながら、私はそう思うのだった。

 その後、顔を見合せて2人して笑ってお風呂から出た。明日、久しぶりに両親に挨拶をしに行けることがより楽しみになるような、そんな夜になった。





 ・・・





「……久しぶり。父さん、母さん」


 私は苺さんに連れてきてもらって、両親のお墓参りに来ていた。

 お墓は私が最後に来て以来誰も来ていないみたいで、供えられていたであろう花は完全に枯れてしまっており、所々蔦が絡まってしまっていた。

 あの人たちは、本当に薄情な人達だな。1年に1回くらいはお墓参りに来ているんじゃないかって思ってたけど……この枯れている花を見た感じ、来ていないんだね。


「苺さん、袋ありますか?」

「袋?あるけど……」

「貰ってもいいですか?」

「……いいよ。ちゃんと掃除、してあげな」

「はい。あ、苺さんは手伝わないでください。これは……私が今できる、最大限の親孝行なので」


 苺さんから貰った袋に、枯れた花を入れ、墓石に絡まっている蔦を優しく取り除いて入れた。蔦が細く、少し枯れていたことに救われたと思いながら。


「それ、持ち帰ってもいいのか?」

「はい。ここは、枯れた花とか……こういう蔦は、各自持ち帰って処分しないといけない場所なので」

「そうなのか」

「さてと……お待たせしました。お花、持ってくれてありがとうございます」

「これくらいどうってことないさ」


 花を入れる筒の中の水を捨て、新しい水と共にさっき近くの花屋さんで買ってきた花を筒に入れた。

 その後、苺さんと並んで手を合わせた。私は目を閉じ、そこにいると思いながら両親に色んなことを話した。しばらく来れてなくてごめんねとか、今隼や苺さんと一緒に暮らしているとか、今日まであった色んなこととか……私が、あと2ヶ月もしないうちに死ぬこととか、緋乃里を殺してしまったこととか。

 どれだけ時間をかけても話しきれない、2人が知らない私の時間を少しだけ話した。残りは、私がそっちに行くまで待っててねと……それだけを告げて目を開けた。


「……お待たせしました」

「ううん。満足出来たか?」

「……苺さん、今から私変なこと言いますね」

「お、おう。いいぞ」

「私も、もう少しでここに入るんだなって思うと……不思議と今までの人生を振り返っちゃうんですよね。今も、こうやって話しながら……思い出の記憶が波となって私の体に流れ込んできてます」


 私はゆっくりと苺さんの正面まで歩いていき、横向きのまま苺さんの胸に体を預けた。


「今日……この場所に来れて良かったです。両親の命日がちょうど来月なんですけど……来月だったら私、このまま倒れちゃってます」

「その時は、今みたいに私が支えてやるよ。だから、来月も来ような。柊奈の両親に、『まだ生きてるよ』って報告しに」

「ありがとう、ございます……もう、大丈夫です」

「おう、そうか。おぶってやるから、辛くなったらいつでも言えよ?」

「はい……でも今は、本当に大丈夫です」


 そう言って、私は苺さんから離れて少しだけ覚束無い足取りで歩き出した。1歩ずつ、深呼吸をしながら。苺さんは心配そうに私を見ながら、真横を歩いてくれていた。

 車に着く頃には、私の足取りも安定してきていた。まだ、私は生きていける。むしろ、生きていかなきゃいけない。今日の墓参りは、そう思え時間だった。


「よっし、乗ったか?」

「はい。今日は、本当にありがとうございました……私だけじゃ、出来なかったので」

「それなら良かったよ。あ、柊奈はどこか寄りたいとこあるか?時間としてはお昼前だけど」

「えっと……それじゃあ、この近くに昔よく行ってたお店があるんですけど、いいですか?」

「いいぞ。どの辺だ?」

「えっと、この道を5分くらい……家と反対側に行ったところです。そこにある、『健軒亭(けんけんてい)』ってお店です」

「OK!任せな!」


 健軒亭は、私が子供の時からずっと通っていたお店で、店主のおばちゃんにはまるで自分の子供のようにお世話になっていた。引き取ってくれた親戚の人達が死んでからは、ここに来る機会がなくて行けてなかったから、今回行くことができるのは本当に嬉しい。最期の、挨拶もできるし……

 車の窓から見える景色は、最後に見た景色と全く変わっていなくて、懐かしさで少し泣きそうになってしまった。

 そうこうしていると、お店に着いた。定休日とか覚えてないけど、他の車がいくつか止まっている所を見ると営業しているみたいだった。


「よし、ここであってたか?」

「はい。ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか……あ、食べたい料理があるんですけど…………」

「ん?あぁ、大丈夫だ。残った分は私が食べてやるよ」

「すみません……ありがとうございます」

「いいっていいって」


 そんな話をしながら、私は入口の引き戸に手をかけた。

 緊張で手が震えるけど、多分大丈夫。おばちゃんなら、私の事ちゃんと覚えてくれているはず。ううん、不安なのはそこじゃない……久しぶりに来た私が、もう少しで死ぬって知った時のおばちゃんの顔を見るのが怖い……

 でも、踏み出さないともっと後悔する。後回しになんて出来ない、きっと今日がラストチャンスになるんだから。

 そう思って1度深呼吸をし、ゆっくりと戸を開けた。店内を見ると、このお店の常連の人で昔来る度に会っていた人と、いつもいた店員さんが2人、そして──


「あら?柊奈ちゃんじゃな〜い!!久しぶり!元気にしてた?」

「お久しぶりです、おばちゃん。おばちゃんは変わらないね」


 ──おばちゃんが、あの人変わらない笑顔で出迎えてくれた。


「もう〜、お世辞が上手になったね〜!あら?今日は別の人と来たの?」

「はい。紹介さるねおばちゃん。この人は苺さん。今、私を支えてくれている人だよ」

「初めまして。潮規苺です。色々あって、柊奈と一緒に暮らしてます」

「そうなのね〜。ほら、立ち話もなんだし座んなさいな。いつもの席空いてるよ!」

「ありがとう」


 いつもの席まで……おばちゃん、覚えてくれてたんだ。ほんと、変わんないな。私だけ、ずっと遠い場所に行っちゃってたみたい。

 私たちが席に着くと、常連の人達が話しかけてきてくれた。常連の人たちも全然変わってなくて、安心した。


「皆久しぶりに柊奈ちゃんに会えて嬉しいのは分かるけど、注文取らなきゃでしょ?柊奈ちゃんと苺ちゃん、注文は決まったかしら?」

「苺さん決まりました?」

「うん。柊奈は?」

「私はいつものやつですので、決まってますよ」

「じゃあ、私もそれを」

「は〜い!花帆(かほ)さ〜ん!柊奈ちゃんのやつ2つ〜!」

「了解〜。久しぶりだから腕がなるね!」


 注文が終わると、また懐かしい人達との話に花を咲かせた。ここにいる人たちは、本当に温かかった。家族の温かさとはまた違う、人間関係的な温かさがあった。

 話の内容は、9割が私のことだった。正直、答えられないような質問ばかりだったけど、その度におばちゃんが「こら、柊奈ちゃんが困ってるでしょ」と庇ってくれていた。もしかしたら……というか多分、私が普通じゃないことに気づいてるんじゃないかな。


「お待ちど〜。カツ丼2つね」

「ありがとう、おばちゃん」

「柊奈がいつも頼んでたやつ、カツ丼だったんだ。なんか意外」

「えへへ……カツ丼は、ここのしか食べてないので」

「あら?嬉しいこと言ってくれるじゃな〜い」

「……ねぇ、おばちゃん」

「ん?どうしたの?」

「今日、久しぶりに来たのはね……言わなきゃいけないことがあるからなの」

「……だろうね。いいよ。私たちは何でも受け止める準備は出来てるよ」

「ありがとう。おばちゃん……おじさん達も、ありがとう」

「おうよ!なんてったって柊奈ちゃんだしな!」

「久しぶりに会えただけでも嬉しいから、俺はなんでも受け止められるよ!」


 胸に手を当て、目を閉じて1つ、深呼吸をした。静まり返った店内は、その呼吸音ですらかすかに響いていた。


「私は……もうすぐ死にます」


 そして、ゆっくりと目を開けながらそう告げた。ポツリポツリ、涙を流しながら。


「前に一緒にここに来た時にいた、あの人たち……親戚の人たちも、2年前に、死にました。私も……残された時間は、ほとんどありません」


 誰も言葉を発しなかった。

 ただ静かに、私の言葉を受け止めていてくれた。


「なので……今日来たのは、最期に……このお店の……大好きなここの、ご飯を食べたかったから……」


 涙が一気に溢れ出すのを感じる。

 膝の上に置いた手で、スカートをきゅっと握りしめてしむっている。

 言葉はもう、震えている。


「私はもう……いつ死ぬか、わかりません……いつまた、入院するかも、わかりません…………だから、今を後悔したく、なくて……」


 そこまで話したのに、言葉を紡げないくらい、涙が溢れてきた。

 どうしてこんな時に限って……

 私は、慌てて袖で涙を拭う。でも、拭えば拭うほど涙が溢れて止まらなくなる。言葉を絞り出そうとしても、ただの嗚咽となって漏れ出してしまう。


「……ありがとう。もう十分よ」

「うぅっ……ひっぐ…………うっ……」

「ほら、こっちおいで」


 そんな私を、おばちゃんは優しく抱きしめてくれた。もう、涙は止まらなかった。


「よく頑張ったわね、柊奈ちゃん。私たちにはもう、十分に伝わったから。だから、もう不安に怯えないで……柊奈ちゃんのことは、私たちが死ぬまで……ううん、死んでも遺し続けるからね。だから、今はおばちゃんに委ねて深呼吸深呼吸」

「うっ……ひぐっ……うんっ……!うんっ……!」

「ふふっ。気にしなくて良いのよ、私の服なんて。柊奈ちゃんは、私たちの宝物なんだから」


 また、救われた。私はいつも、おばちゃんに救ってもらってばかりだ……恩返し、死ぬまでにちゃんとやらなきゃな……でも今は、少しでもおばちゃんとの想い出に浸りたい。

 おばちゃんに抱きしめてもらったまま、私はそう思った。

 そしてそのまま、おばちゃんに背中を撫でてもらったおかげでいつもより早く落ち着くことができた私は、ゆっくりとおばちゃんから離れた。


「……ありがとう、おばちゃん……落ち着いた」

「そう?柊奈ちゃんがして欲しいなら、もっと抱きしめてあげたっていいのよ?」

「ありがとう。でも、大丈夫。私ももう、子供じゃないんだから」

「そう。ほんと、強くなったわね……ってあんた達なんでまだ泣いてんのさ!柊奈ちゃんを見習いなさいよ」

「だって……だってよぉぉ!!」

「お、俺は別に……泣いてなんて……」


 周りを見渡す余裕が出来たから、おじさんたちの方を見た。1人は声を上げて大泣きしていたし、もう1人はこちらに背中を向けていたから表情は見えなかったけど……その背中は、小刻みに震えていた。

 この場所は、本当に温かい。私なんかのために、こんなにもないてくれて……悲しんでくれる人たちがいるんだから。


「皆、ありがとう。私、この場所に出逢えて良かった。本当に、幸せだよ……だから、皆にお願い。私の分まで、しっかり生きてね。私のことを後悔にしたら絶対に許さないからね」


 だから私は、できる限りの笑顔でそう言った。おじさん達も、もちろん、おばちゃんにも。もちろん、苺さんも。この場所にいる全員に、「私」を後悔にして欲しくなかったから。


「全く……柊奈ちゃんは昔っから変わらないわね。わかったわ。さ、もう冷めちゃってるかもしれないけどカツ丼食べてね。私はちょっとやること思い出したからさ」

「わかった。ありがとう、おばちゃん」


 おばちゃんは、くるりと背中を向けて厨房の奥に向かって行った。多分、私に泣いている姿を見られたくなかったのかな。なんか、おばちゃんらしいな。昔から、私に弱い所を見せないようにと、泣く時は私のいない場所で静かに泣いていた。本当に、優しくて大事な人。

 そんなことを思いながら、ゆっくりと人生最後のカツ丼を食べ始める。懐かしくて、温かくて、心の底から安心する、まるでおばあちゃんの家で食べるご飯のような、そんな味だった。

 1口1口、体に染み渡るカツ丼の味を噛み締めていた。お腹がいっぱいになるのはすぐだったけど、それでも幸せが体を満たしていた。


「……ごめんなさい、苺さん……もう、食べられなさそうです」

「ん?OK〜。でも柊奈、いつもよりは全然食べれてんじゃん」

「はい。なんだか今日も、調子がいい日みたいです。それに、この場所だから……いつもより食べられました」

「そっか……残った分、今日の夜なら食べられそう?」

「えっと……多分、食べられると思います」

「よし、それじゃあ店員さん!お持ち帰り用の容器とかってありますか?」

「は〜い、今お持ちしますね〜」


 苺さんが急に、厨房にいた花帆さんに言って容器を持ってきてもらった。


「残った分も家に帰ってからでいいからさ、柊奈が食べてよ。最後のここのカツ丼なんだよね……なら、不完全燃焼にしてあげたくないからさ」

「もう……ほんと、苺さんはさすがですね」

「だろ?さ、入れてくぞ」


 もう既に食べ終わっていた苺さんは、慣れた手つきで残ったカツ丼を容器に入れた。それが終わった時、ちょうど花帆さんがお店の奥からおばちゃんを連れて出てきた。おばちゃんは、まだ涙の跡が残っている顔を恥ずかしそうに手で隠していた。

 花帆さんが呼びに行くついさっきまで、ずっと泣いてくれていたのかな。


「あ、おばちゃんおかえり」

「もう……花帆さんもう少し待ってくれても良かったじゃないの……こんな顔でお別れなんて、柊奈ちゃんが不安になっちゃうじゃない」

「もう!柊奈ちゃんはそんなに弱くないんだから。おばちゃんがしっかりしなくてどうするのよ!」

「あはは……ねぇおばちゃん、ここにいるみんなと一緒に写真撮ってもいい?」

「柊奈ちゃん……もちろんよ!ほら、あんた達も全員で映るわよ!」

「おうよ!ありがとうな、柊奈ちゃん」

「あぁ。当たり前さ」

「ありがとう、皆……それじゃあ苺さん、カメラをお願いしてもいいですか?」

「おうよ!それじゃ、スマホ貸して」

「はい。これを」


 私は苺さんにスマホを渡し、皆と一緒に店の外に出た。

 その後は、皆で一緒の写真、それぞれとのツーショット、そして、私一人だけの写真を撮った。沢山、沢山撮った。私の過去と現在(いま)を……そして無くなってしまった未来ですらも繋いでくれている、この場所とそこにいる人々を。

 私が帰る時、全員と握手してハグをした。大好きな人達。大切な人達。私にとって、本当にかけがえのない人達だからこそ、最後の最後まで後悔をしないような別れをしたかった。

 そして最後に、おばちゃんとハグした時に今までの感謝を告げた。おばちゃんは必死に泣くのを我慢していたけど、私もそれは同じだったから、別れ際にハイタッチをした。

 それからは、皆に手を振ってもらいながら、苺さんの車に乗って帰路に着いた。私たちが見えなくなるまで、皆手を振り続けてくれていた。それだけで、私の涙は簡単に流れ出した。そんな私を見て、苺さんが優しく言ってくれた。


「よく頑張ったな」


 と──





 ・・・





 両親のお墓参りをした日から、不思議と体調が良い日が続いた。以前よりも自然に笑えるようになり、前まで避けていた緋乃里のことも、少し胸がきゅっとなるけど話せるようになった。吐血も、1週間に1、2回あるかないかってくらいで、普通の生活を送ることが出来ていた。

 苺さんと買い物に行ったり、公園で話したり、一緒に家事をやったり。全員が休みの日には、4人で一緒に過ごしていた。家で遊べるゲームをしたり、少し遠いところにある思い出の遊園地に行ったり。楽しい思い出達が、私の記憶に積み重なっていくような、そんな日々だった。

 そう、日記を書いていたノートを読み返しながら思った。このノートは、今からちょうど1か月前──健軒亭からの帰りに、苺さんに貰ったノート。1ページに2日ずつくらい書いてるから、このノートはちょうど半分くらいまでびっしりと日記が書いてある。もちろん、1番最初のページにはあの日撮ったおばちゃん達との写真を貼っている。


「……早かったな、今日まで」


 ノートを閉じながら、私はそんなことを呟いた。

 今日は、約束の日。苺さんと、もう一度両親のお墓参りに行く日。あの日感じたものと同じものを感じるのなら、もしかしたら今日が「普通」の終わりになる日かもしれない。

 だから私は、こうしてゆっくりと今日までの日々の余韻に浸っていた。少しでも、自分を信じるために。


「柊奈〜、そろそろ行くぞ〜」

「分かりました。今行きます」

「おう。まだ時間あるから、慌てなくていいからな」


 1階から苺さんの呼ぶ声が聞こえてきた。もう、あとは自分を信じきるしかないみたいだ。

 私は、ゆっくりと歩を進めながら1階のリビングに向かった。


「お待たせしました〜……ってあれ?2人も来るんですか?」

「えぇ。私も、柊奈ちゃんのご両親に挨拶したかったから」

「俺はまぁ、なんつぅか……柊奈には色々と世話になってるからな。そのお礼をしたくてよ」

「だとよ。柊奈は良いか?この2人も連れて行って」

「もちろんです……むしろ、両親も喜ぶと思います」

「それなら決まりだな。行くか。4人で」


 正直、隼と隼のお母さんと一緒に行くのは、嬉しい反面怖い気持ちもあった。だってまだ……私の体のことを、ちゃんと話せていないから……でも、それ以上に私を救ってくれたこの2人も、両親に紹介したかった。

 全員の準備はもう終わっていたので、私たちは苺さんの車に乗った。いつもは隼のお母さんが運転していたけど、今日は行き先が行き先なだけあって苺さんが運転席に座っている。そして助手席に私、後部座席に隼と隼のお母さんが座っているという感じだ。

 そのまま私たちは、色々な話をしながら目的地まで向かった。和気あいあいとしていて、その中で私と苺さんが少しだけ緊張からか固くなっているって感じだった。花は、先月と同じ場所に行って買った。


「はい、到着だよ」

「ありがとうございます、苺さん」

「へ〜……こんな所に墓地があったなんてな」

「……ねぇ柊奈ちゃん、1つ聞いてもいいかしら?」

「はい、大丈夫ですよ」

「柊奈ちゃんの『瑚野(このや)』は、ご両親の苗字?それとも、引き取ってもらった親戚の苗字?」

「…………やっぱり、隼のお母さんはこの場所だけで分かっちゃうんですね。『瑚野』は引き取ってもらった、母方の親戚の苗字です。両親の苗字は、『寿東(ひさしの)』です……そして、私を捨てた人たちの苗字でもあります」


 このことだけは、誰にも言わないままいようと思っていたけど……バレちゃったならしょうがないよね。


「そうだったのね……だから、この場所にご両親のお墓が建っているのね。ありがとう、教えてくれて」

「大丈夫です……私も、少しスッキリしましたから」

「母さん、なんでわかったんだ?」

「えっとね、この場所は少し権力のある家のお墓を建てる場所なの。それで、寿東家は政治家として優秀な人達を排出してきた、いわば名門なのよ」

「なるほどな〜。それなら、なんで前来た時は柊奈の両親の墓だけあんなに荒れてたんだ?」

「……父が、落ちこぼれだったからです。この場所にお墓を建ててもらったのも、あの人たちにとっては納得がいってないことなので……」

「ひでぇ話だなそりゃ。そいつらの顔殴りたくなってきたぜ」

「大丈夫だよ、隼。私にはもう、関係の無い話だから」


 私はそう言うと、ゆっくりと先頭を歩き始めた。


「行きましょうか。両親も、待ってくれていると思うので」


 歩きながらふと空を見ると、雲が青空を覆い始めていた。このままだと雨が降り出してきそうな、そんな空模様だった。

 墓地の入口付近にある蛇口で桶に水を入れ、緩やかな坂道を登っていく。両親の墓は坂を登って3分の1程の位置にあるので、入口からかなり近い位置にある。


「……着きました。ここです。お花を変えるので、少し待っていてください」

「あ、私も手伝うぞ」

「苺さんありがとうございます。それじゃあ──」


 今回は花を変えるだけで良さそうだったので、苺さんと一緒に新しい花に変えた。他に手入れすべきところはないかだけを確認し、苺さんの隣で、かつ1番奥の位置に立ってからお待たせしましたと2人に言った。

 その後は、何も言わず4人全員で手を合わせた。

 私は、まず「まだ生きています」ということ。前に紹介できなかった2人の紹介。そして……今、もう既に限界ギリギリであることを目を閉じたまま心の中で話し、話し終えてからゆっくりと目を開けたが、その視界はもう既に歪んでいて、重力を感じることが出来ないような状態だった。


「……っと、あぶね!」

「ちょっと柊奈?!大丈夫か!?」

「早く急……ううん、私たちで向かって方が早いわ!2人とも急ぐわよ!!」

「おう!柊奈、気をしっかり持てよ!今から病院行くからな!」


 視界が完全に真っ白になってしまったせいで、自分が今どうなっているのか分からなかった……ただ、3人の声と、苺さんの背中の安心感だけはわかった。

 でも、意識はそこで切れた。微かな、本当に微かな意識の線だけを残して。






 ・・・






 病院へと向かう車の中、意識を失い呼吸が荒くなってしまった柊奈をできる限り看病しながら、私は後悔に苛まれていた。

 病院へは、あの場所から10分ほど車を走らせれば着く。その病院は大学の附属病院らしく、柊奈の病気が判明した病院を説明してくれた時に言っていた病院だった。

 車の中での会話は、隼が病院に電話している声だけだった。電話が終わると、誰も何も話さなかった。現実を受け止められない、そんな感じの空気だけが私達を包み込んでいた。


「よし、着いたよ。隼、病院の人に行って担架持ってきてもらって!」

「わかった!」


 病院についてすぐ、隼と私は母さんの指示に従って行動した。本来は私が母さんのように行動するべきだったのに、何も出来なかった。

 そして、まるで嵐のようだった時間が終わり、柊奈の検査を待っている時間になった。その時間は、驚くほど静かな時間だった。まるで車の中と同じような、静かで重くて、息が苦しくなってしまいそうな時間。

 無限にも感じてしまうようなそんな時間を引き裂くように、私たちは診察室に呼ばれた。

 診察室では、酸素マスクを付けて点滴を刺し、心拍を図る装置に繋がれた柊奈がベッドで寝ていた。さっきよりは幾分か落ち着いているようだったので、安堵の息を漏らしたのもつかの間、医師の一言で全てが絶望に染った。


「検査の結果ですが……えぇ〜、単刀直入に言います。来週が山場です」

「……来、週ですか」

「はい。えぇ〜、その様子ですと、1から説明した方が早そうですね。瑚野さんは3年程前、末期癌と診断されました。それから2年間、学校に通いながらの治療を受けたのですが、悪化する一方であり、治療そのものが不可能な段階へと達してしまったのです。その時の余命宣告は……もって半年、奇跡が起きても1年しか生きられない……というものでした」


 医者は重々しく言葉を紡ぐ。おそらくこの人も、柊奈を救おうと尽力してくれていたのだろう。でもそれも、叶わなかった。


「ですので……今日まで生きていたこと自体、奇跡そのものなのです。瑚野さんは、今日までずっと戦い続けていました」

「それで先生、我々はどうすれば良いのでしょうか……」

「今から、空いている個室に瑚野さんを移動しますので、着いてきてください。面会時間は……特別免除という形を取りますので、明日や毛布が欲しくなった際は近くのナースセンターまでお願いします。瑚野さんは、今は眠っているだけです。私としても、瑚野さんが起きた時に、誰かいてあげて欲しいのです」

「はい……わかり、ました」

「ありがとうございます。それでは、移動します。こちらへどうぞ」


 私たちは、医者に促されるように柊奈のベッドの後ろを歩き始めた。

 移動している時、医者は柊奈がどのようにして病気と向き合っていたのかを話してくれた。治療している時は、できるだけ入院しない方法を選びながら、治療する時はちゃんと治療に全力だったこと。どんなに辛くても、しっかりと前を見て乗り越えてきたこと。どんな時でも、「先生も頑張ってくれてるもんね!私も頑張らないと」と口癖のように言っていたこと。

 医者から柊奈のことを聞いていると、柊奈の病室に着いていた。


「話にお付き合い頂きありがとうございました。えぇ〜、ここが瑚野さんの病室です。出来れば今日中に、身の回りの物などを持ってきていただけると嬉しいのですが……」

「分かりました。私が取りに帰りますね」

「お母さまが取りに帰ってくださるのですね。ありがとうございます。えぇ〜……私から最後に、瑚野さんが私から余命宣告をされた時に、約束された言伝がありますので……」

「言伝……ですか?それは、私たちにってやつですか?」

「いえ……ですが、最期までそばに居てくれる人へと、預かっておりますので。今でしたらあなた方に言うのがいいかと思った次第です……では、言伝の方を……『せめて最期は、私らしく終わりたい』」


 そう言い終え、医者は深く深く頭を下げてから部屋から出て行った。最期は柊奈らしく……その言葉が、すでに柊奈らしいなと感じてしまった。


「ねぇ苺、1つ聞いてもいいかしら?」

「……?おう。どうした、母さん」

「苺は、このことを知っていたの?」

「……うん。知ってた。と言うより、たまたま知っちゃっただけなんだけどな……1か月ちょい前くらいにさ、柊奈が私の目の前で吐血しちゃってな。それから、柊奈と約束したんだ。一緒に背負うってな」

「じゃ、じゃあ姉貴は……もう知ってたのか?柊奈がこうなるってこと」

「そう……だな。日記のノートを上げたのも、こうなる前に柊奈の記録を少しでも残して欲しかったからなんだ……隼、母さん、今まで隠してて、ごめ──」

「謝らなくていいわよ、苺」


 私がごめんなさいと言おうとした瞬間、言葉を遮るように母さんに抱きしめられた。


「私もね、柊奈ちゃんがおかしなことには気づいていたの。でも、何も出来なかった。だから、苺は謝らないで。あなたは、柊奈ちゃんをずっと支えていたんだもの。今まで、よく頑張ったわね。これからは、私達も一緒よ」

「……母さん……ありがとう」

「ありがとうは私のセリフよ?それに、あんたがシャキッとしないでどうするのよ。私は今から柊奈ちゃんの荷物を取りに行くから、隼と見守っててあげてね」


 母さんはそう言うと、小走りで駐車場の方に向かった。

 部屋に残されたのは、隼と私。私は、隼にずっと気になっていたことを聞いた。


「ねぇ、緋乃里ってこの病院なのか?」


 それは緋乃里のこと。この前、隼がいつもよりも帰宅が遅いことが気になって少し問い詰めたところ、緋乃里の見舞いに行っていると言う答えが来たことを、今ふと思い出したのだ。


「……うん、そうだよ。でも、今は会わない方がいい」

「それはなんでだよ」

「今のあいつは……記憶が無いっつぅか、混濁してるらしいからな。そのせいで、意識が戻った今も入院中なんだ。俺はまぁ、目が覚める前から定期的に行ってたせいで、俺の事だけは記憶がちゃんと残ってる感じだった」

「そう、だったんだな……すまんな」

「いいよいいよ。俺が勝手にやったことだしな……それに、このことは柊奈は知らない方がいいだろ」

「うん、そうだな」


 そしてまた、私たちは静かに寝息を立てている柊奈の方を見た。柊奈がいつ目覚めてもいいように、2人で柊奈の想い出を語り合いながら。





 ・・・





 規則的な電子音に誘われるように、私はゆっくりと目を開けた。懐かしい天井がそこにはあった。

 体を起こそうとしたが、色んな機械が付けられているせいかほとんど身動きが取れない。その上酸素マスクまでつけられていることに気付き、私は自力で体を起こすことを諦めた。

 まだ電気が着いていないところを見ると、時間帯は深夜だろう。


「……あれ?」

「…………ん?あ、柊奈起きたんだね。おはよ〜」

「え?はい、おはよう……ございます……」

「隼と母さんはちょっと前に帰ったよ。だから今は2人きりだね」


 真っ暗で最初気づかなかったけど、壁際の椅子に苺さんが座っていた。

 私が起きたことに気づいた苺さんは、椅子を持ってゆっくりとベッドのそばに近寄ってきた。


「気分はどう?」

「えっと……まぁまぁです」

「そか。私ちょっとナースさん呼んでくるから、ちょっと待ってな」


 そう言うと、苺さんは早歩きで部屋の外に向かった。多分、すぐに帰ってくるだろう。その間に少しだけ、この部屋を観察でもしようかな。

 そして私は、寝転んだままゆっくりと部屋を見回した。そしてふと、床に置かれていた私のカバンに気づいた。床にカバンが置いてあるのは、家から持ってきてもらった荷物だと思うけど、家にあった時より気持ち少し膨らんでいるような……?


「はい、さっきです。ありがとうございます」

「分かりました。失礼しますね」

「あ、はじめまして……」

「はじめまして。えっと、自分の名前はわかりますか?」

「はい。瑚野 柊奈です」

「ここがどこだか分かりますか?」

「……病院です。私、倒れちゃったんですよね」

「そうです。その調子ですと、記憶の方は問題なさそうですね。呼吸が苦しいとかはありますか?」

「いえ、特には……」

「分かりました。本日の朝にも先生が来られてお聞きしますので、その時はまたよろしくお願いします。では、失礼します」

「はい……ありがとうございました」

「こんな夜遅くに、ありがとうございました」

「いえ。それが私たちの仕事ですので」


 そう言って、ナースさんは出て行ってしまった。

 静かになった病室には、私と苺さんだけが残された。


「なぁ柊奈」

「はい、どうかしましたか?」

「こんな時に言うのもなんだけどさ……」

「???」


 苺さんは、布団の中にある私の手を両手で握りながら話し始めた。まるで、あの日のように。


「私、ちゃんと柊奈を支えられてたかな……ちゃんと恩返し出来ていたのかな……」


 でも、あの日と違うところだってある。あの日と違って、今日の苺さんの声は弱々しくて、震えていて……後悔や恐怖みたいな、自分を責める感情に染まりかけているみたいだった。

 だから私は、そんな苺さんの手を優しく握り返した。


「もちろんです。苺さんがいなかったら私、あと1ヶ月は早く死んでましたから」

「……柊奈は、怖くないのか?」

「そりゃもちろん、怖いです。でも、今はもうそれすらも心地いいんですよ。死を恐れるということは、まだ自分が生きてるんだって……感じられるので」

「やっぱり柊奈は……強いな」

「そうですね……でも、この強さは私だけの強さじゃないんですよ?」


 私は元々、この運命から逃げようとしていた。親友を突き飛ばしてしまう程に……それほどまでに、私は弱かった。弱っていた。でも、今こうして穏やかな気持ちで病院にいられるのは、本当に苺さんに支えてもらったからだ。だからその感謝を、今言える時に言いたかった。


「この強さは、苺さんに支えてもらえたからこそ手に入った強さなんです。それに、私は苺さんからたくさんの『生きる糧』をもらいました。だから……それ以上、自分を責めないでください」

「それでも私……もっと、支えたかった……恩返し、したかった……」

「……それ、もう私が死んだみたいじゃないですか。やめてくださいよ。私、まだ生きてます」

「でも……」

「でもじゃありません生きてます。後悔するには、まだ早いですよ苺さん」


 苺さんは、今にも泣きそうな目で私を見ていた。そりゃそうだよね。倒れて病院に運ばれてこんな状態なら、そうなるよ。でも、こういう時って不思議と当事者の方が冷静なんだよね。生存本能とかなのかな?

 私は布団の中で指をどうにか移動させて、苺さんの小指と絡ませて指切りげんまんの形にした。


「約束です。後悔を吐くのは私の死体相手にしてください。生きてる私を相手にしないでください。わかりましたか?約束ですよ」

「あぁ……!わかった……」

「それじゃあ、久しぶりに一緒に歌いましょ。指切りげんま〜ん♪」


 そして私たちは、小学生ぶりに指切りげんまんをした。約束する時は指切りをする。これを教えてくれたのも、苺さんだったな。


「ふふっ。懐かしいですね」

「そうだな……よし、柊奈はまだ生きてるもんな。後悔するのはまだ早かったかもしれねぇな」

「ほんとそうですよ。反省してください」

「ごめんごめん。あ、話は変わるが……医者の人から問題なくお話できるなら、酸素マスクは外してあげてもいいって言われてたんだ。どうだ?外しても大丈夫そうか?」

「えっと……むしろ外して欲しいです」

「わかった。ちょっと待ってろ」


 指切りをした後の苺さんは、いつもの苺さんだった。でも……少しだけ、隠しきれないほどの後悔が目に映っていた。

 無理もない、よね。もしこのまま私が死んだら、後追いみたいなことをする可能性すらある。それだけは絶対に嫌だ。でも、死んだ後に私の言葉を残す方法なんて……

 そう思い少し記憶を遡っていくと、死んでもなお遺り続ける、そんな今の私にうってつけのものを思い出した。もう半分は埋まっちゃってるけど、残りの半分もあれば、ちゃんと言葉を遺せるんじゃないか。


「これでよし。外せたぞ」

「ありがとうございます……すぅ……はぁ…………やっぱり、こっちの方が生きてる感じがします」

「そりゃよかった。にしても、さっきなにか考えてるみたいだったが、何考えてたんだ?」

「内緒です」

「この期に及んで?!」

「えへへ。ちゃんと後で分かりますから」

「???」

「そんなことより、今何時くらいですか?」

「今か?今は……午前4時だな。どうする?一応ナースさんに確認したら、柊奈の起きる時間は自由でいいんだとよ。先生が来るのは昼頃だから、それまでに起きてくれればそれでいいって言ってた」

「でしたら……私はもう少し寝ることにします」

「そうか。私も軽く寝るよ。おやすみ、柊奈」

「はい。おやすみなさい、苺さん」





 ・・・





 それからの日々は、正直退屈だった。毎日、軽い検査と自分が食べられる限界量の食事をして苺さん達と話して寝るだけ。苺さん達と話している時間は楽しかったけど、自由があまり効かないのは退屈だった。

 体調は不思議とずっと安定していて、苺さん達が来れない時間帯を見つけては日記帳の残りのページに、人生最期の『贈り物』を綴ることができるほどだった。贈る相手は、苺さん、隼、隼のお母さん、そして……緋乃里。緋乃里にあの世で会った時に、同じ言葉を面と向かって言えるように。

 ただ、書きたい感謝が多すぎて、書き終わる頃にはノートの残りがほとんど埋まってしまっていた。それを1度読み返し、あまりの長さに苦笑いを浮かべながらも、ノートの裏表紙に「最期の感謝」という文字を綴った。

 そのノートは私が死ぬまで見られたくなかったから、ナースさんに頼んでカバンの中の奥深くに入れてもらった。



 そして、私が入院してから5日が経った日……私の身体は、1度限界に達したらしい。

 私としては、少し眠くなってきたから昼寝をしようと思っただけだった。でも、現実は違ったらしい。私が眠ってから1時間後、1度私の心臓が止まったらしい。その後は心臓マッサージと人工呼吸などを用いて、なんとか一命を取り留めたみたい。

 目が覚めた時、周りには先生と苺さん達、そして見たことない先生やナースさんも数人ずついた。


「瑚野さん、よく聞いてくださいね」


 さっき話したことは、全部先生にこの時教えてもらったこと。そしてもう1つ、明日が私にとって最期の日になるだろうと……そう、教えてもらった。

 先生は、あの日の私の言葉を今も覚えてくれていたから、「明日は、現実的な範囲でやりたいことをやってください」とも言ってくれた。

 そして今、部屋に苺さん達3人と私だけが残された状況だった。夕日に照らされている病室内の空気は、あまりにも重たかった。誰も口を開かないし、開けない。誰も、何を話せばいいのか分からなくなってしまっている、そんな状況だった。


「ねぇ、皆…………明日、一緒に行きたい場所があるんだけど……いいかな」

「行きたい、場所?」

「先生は、車椅子で行ける場所ならいいみたいなこと言ってたけど……」

「大丈夫……この病院の敷地内だから」


 私は、後悔だけはしたくなかった。こんな寂しい病室で死んだら、間違いなく後悔する。


「中庭にある桜……今、咲いてると思うから……そこに、行きたい」

「中庭の桜?確かにあったけど……」

「本当に、そこでいいのね?柊奈ちゃん」

「はい……あそこは、私が大好きな……場所だから」

「そっか……なら、車椅子は私が押すよ。扱いは私が慣れてるからな」

「うん……ありがとう、苺さん」

「それじゃあ、明日に備えて早めに休もっか。柊奈の様子は今日も私が見てるから、母さん達は帰っても大丈夫だぜ」

「苺、大丈夫?あなたずっと朝までいるけど……」

「大丈夫大丈夫。それに、これは私のわがままだ……せめてこういう時くらい、貫かせてくれ」

「そう……わかったわ。隼、行きましょう」

「お、おう。無理すんなよ……姉貴」

「ありがとさん。あんたが心配しなくても分かってるよ」


 そう言って、隼と隼のお母さんは部屋から出て行った。苺さんは、毎日1人で残って私の世話をしてくれていた。倒れたあの日から、今日のあの瞬間まで目立った症状は無かったが、自分の体を支えたりすることは出来なくなっていた。ご飯を食べる時も、起きている時も、ベッドのリクライニング機能を使って何とか座っているような感じだった。

 一応、朝から昼の間に帰って寝ているらしいけど、1日4時間も眠れていないんじゃないかって程戻ってくるまでが早かった。


「柊奈、体拭いて服着替えるぞ〜」

「はい……」

「少し身体起こすぞ〜。あ、自分で力入れなくてもいいからな。私が支えてるから……にしても、不思議と体型自体はあまり変わってないよな。体質とかかね」

「多分、そうかと……体型は、元々変わりにくかったので」

「そっか〜。ちょっと羨ましいな〜その体質」

「そう、ですかね。私として……体が死んでるみたいで、ちょっと嫌でしたけど」

「あはは。それもそうかもな。パジャマはどれがいい?」

「えっと……いつものやつで」

「……わかった。最期は自分らしく、だもんな」

「はい」


 苺さんは、いつもと同じパジャマを私に着させてくれて、ゆっくりとベッドに体を戻してくれた。


「それじゃ、ベッド戻すぞ〜」

「はい、お願いします」

「ほいしょっと。これでよし。消灯時間までまだ時間あるけど、どうする?」

「そうだな〜……私は、寝るとします」

「すげぇな。昼間1回心臓止まったばっかってのに」

「でも、寝ないと明日を拒んでしまいそうだから……」

「そっか……わかった。電気消すぞ」

「ありがとう、苺さん……」


 そして、電気が消え部屋の中が暗闇に包まれる。その中で私はゆっくりと目を閉じ、明日の朝、ちゃんと目を覚ますことができることを願いながら眠りについた。





 ・・・





 外から聞こえてきた鳥の声で、私の意識は少しずつ浮上した。目を開け、カーテンの隙間からこぼれる光を見て安堵の息を漏らした。


「おはよう。よく眠れたみたいで何より」

「おはよう、苺さん……苺さんは?」

「私もそこそこには寝れたぞ。それじゃあ、体拭いて着替え……の前に、ちょっとナースさん呼んでくる」


 そう言うと、苺さんは慌ててナースさんを呼びに行った。

 目的はおそらく、私に付けられている機械の電極とかを外してもらうためだろう。現に、すぐにナースさんを連れて戻ってきた苺さんは、ナースさんに点滴以外の機械を外してもらうよう頼んでいた。点滴は、食事ができない私にとって貴重な栄養補給なので外さずに残してもらっている。


「お待たせ〜。それじゃあ、吹くよ」

「お願いします」

「にしても……これで柊奈の体拭くのも最後か……あっという間だったな」

「そう、だね。ほんと、早かった……」

「それ、もしかして人生の話だったり?でもまぁ、そうだよな……16年なんて、あっという間だよな……よし、拭き終わったぞ〜。あ、そうだ!服はどれがいい?最後だし、着たい服にしようぜ」

「えっと……それじゃあ、今カバンの1番上に置いてある服で……」

「これか?」

「はい」

「わかった。ちょっと失礼するよ〜」


 私は最期の服を、いつも着ていたシンプルな紺色のロングスカートと、黒色のTシャツにクリーム色のカーディガンという服装にした。寝る時はカーディガン外すけど、これなら自分らしい服だと胸を張って言える。

 今までの16年の全てが、今日の最期を作っているという気持ちで、最期の日を楽しもう。


「これでよし。今が……8時だから、あと2時間くらいは母さん達来るまで時間あるな。どうする?何かしたいことってかして欲しいこと、あるか?」

「それじゃあ……お話、したい」

「いいぞ。って言っても、何も新しい話なんて持ってないけどな」

「大丈夫。話してる時間そのものが楽しいから」

「……そっか。それじゃあ──」


 そして、苺さんはいつも聞かせてくれている話と昔話してくれた話、そしてもし私がこのまま生きていたらの話まで、2時間ずっと話し続けていてくれた。隼と隼のお母さんが病室の扉を開ける、その瞬間までずっと。


「おはよう柊奈ちゃん」

「おはよう柊奈。思ったより大丈夫そうでなによりだ」

「2人とも、おはよう……なんとか生きてるよ」

「あはは。それじゃ、全員揃ったし、私は車椅子借りてくる」

「ありがとう、苺さん」

「ありがとね。ほんと、忙しないんだから……でも、苺はそれだけ、柊奈ちゃんの時間を大切に思ってるのよね」

「うん。それは、本当に感じる……ずっと」

「お待たせ〜!借りてきたぜ」

「もう、そんなに慌てなくてもいいのに……柊奈ちゃんは準備できてるの?」

「うん……それじゃあ、お願いします」

「らじゃ!」


 苺さんは、私を手際よく車椅子に乗せて目的地の中庭まで、四人で一緒に向かった。


「ねぇ柊奈、少し気になったんだけど……どうして中庭の桜の木なんだ?桜なら、近くに沢山あると思うけど」

「あの木は……私が前に入院してた頃、よくお昼寝してた場所なんだ……不思議とあそこは、落ち着くの」

「そうだったのか……」

「うん……あ、見えてきたね。あの木だよ」


 病院の中から中庭に出てすぐ、私は中庭の中心で立派に立つ桜の木を指さした。今日の天候は快晴。桜の花も、所々咲きかけていて、木漏れ日が木の下の芝生を優しく照らしている。

 私達はその木の下に入り、ポカポカとした空気をたくさん吸い込んだ。


「……落ち着くでしょ?」

「あぁ……確かにな」

「そうねぇ〜。これはお昼寝したくなっちゃう気持ちもわかるわ」

「ほんと、すげぇな。ここだけ全く別の場所みてぇだ」

「ふふっ……ありがとう」


 少しずつ意識が薄くなっていくのを感じながら、私は3人に色んな思いを話し始めた。


「……3人とも、ありがとう。私を、ここまで連れてきてくれて」


 自分の声が少し遠い位置から聞こえている。タイムリミットは、もう近かった。


「私ね……諦めてたんだ。人生をさ……でも、3人が引き留めて、引っ張って……支えてくれた。だから私は、今まで生きてこられた…………たくさん、迷惑をかけた。たくさん、辛い思いをさせた……それなのに、みんなは私を、救ってくれた」


 あぁ、私って本当に口下手だな。


「……ねぇ、隼」

「……どうした?」

「あの日、私を……見つけてくれてありがとう。私を、家族にしてくれて……ありがとう」


 だから、口下手なりに全力で……今は全力で、言葉を紡ぐ。


「……ねぇ、隼のお母さん」

「はい」

「いつも美味しいご飯……ありがとう。温かい時間を……家族を、教えてくれて……ありがとう。それと、ご飯、全部食べられなくてごめん」

「そんなことは気にしなくてもいいの……!私こそ……お礼を言わせて欲しいわ!ありがとう!!」


 そして最後……全部言葉にできるか分からない。でも、そんなことを悩んでる時間すら今は惜しい。


「最後に……苺さん」

「…………おう」

「苺さんには……感謝してもし切れない、たくさんの……大切な時間をもらった。その全てが、私にとって……宝物みたいだった。夢みたいだった……本当に、夢のような時間達だった……苺さん、私は……本当に幸せだったよ。ありがとう」

「柊奈……ありがとう」


 そして最後に、ここにいる3人全員に、無限の感謝を。


「皆……ありがとう…………私、幸せ…………だった………………ょ……」





 ・・・





 その言葉を最期に、柊奈は私持つ車椅子の中で息絶えた。

 柊奈の顔は、まるで眠っているようで……また数時間後に、目が覚めてきそうだった。

 横を見たら、母さんも隼も泣いていた。私だけが、まだ現実を受け止めきれていなくて涙が出てこない。もしかしたらまだ生きている、そんな僅かな無駄な期待が、さっきの柊奈の言葉と一緒に頭の中をぐるぐると駆け回っている。



 少しして、医者の人が私たちの元に歩み寄ってきた。


「……やはり、ここでしたか」

「柊奈が最期に選んだ場所……知ってたんですか?」

「……違いますよ、苺さん。私は瑚野さん本人から聞いておりません。ですので……予想が当たった……ってところですね」


 そう言うと、医者の人が車椅子の上にいる柊奈の顔をそっと見て、立ったままの私たちに地面に腰かけるように言ってくれた。


「……どうして、来たんですか?」

「そう警戒しないでください……私は、少しだけお届け物があったので」

「お届け……物?」

「はい……看護師の1人に頼まれましてね。このノートを、苺さん……あなたに渡して欲しいと」


 そう言われて差し出されたのは、私が柊奈にあげた日記用のノートだった。


「これが……?」

「裏返してみてください」

「裏が……え……?」


 医者の人に言われた通り裏返すと、そこには「最期の感謝」と柊奈の文字で書かれていた。私は、恐る恐るその中身を読み始めた。最初は、隼への言葉だった。内容は、純粋な感謝と、少しだけの恋心だった。もし私が生きていられたら……そんな言葉が色んなところに書かれていた。

 その次に書かれていたのは、母さんへの言葉だった。たくさんたくさん、一緒に暮らしていた時間への感謝と、食べていて好きだった食べ物はもっと食べて見たかった食べ物が書かれていた。そして最後に、「本当のお母さんと思っていました」と、そう書かれていた。

 その次に書かれていたのは……緋乃里への言葉だった。それは、後悔と懺悔の手紙だった。少し前に柊奈は、「緋乃里を殺してしまったことは、ただの後悔でしかない。でも、こうして今みんなと暮らせていて幸せ」って言っていた……やっぱり、最後の最後まで、その後悔を抱え込んで生きてきたんだろう……私は、少しやるせない気持ちになった。

 そして最後は、私への言葉だった。


「……あれ?私のだけ…………」


 他の人は3〜5ページくらいだったのに、私のは10ページ程に渡ってズラっと書かれていた。

 それは全て、純粋な感謝の言葉だった。「私を支えてくれてありがとう」、「色んな場所に連れて行ってくれてありがとう」、「私に生きる希望をくれてありがとう」……そんな言葉が、私のどんな行動からとかも全部含めて書かれていた。多分、純粋な感謝だけじゃ私は後悔するって思ってこの文章を書いていたんだと思う。

 私は、この文章を読み進めていくうちに自然と涙が溢れ出た。ついさっきまで出なかったのに、今になって何も見えなくなってしまう程に涙が溢れ出た。


「え……あれ…………」


 柊奈はきっと分かっていたのだ。私が、ずっと私を許さないでいること。だから、こういう「言葉」という形で自分の思いをと想いを遺した。


「まっ……たく…………もう…………!」


 私はノートを地面に置き、無限に溢れ出てくる温かい涙を乱暴に拭い続けた。それでも涙は止まらず、どうすればいいのか分からなくなって、胸の奥底から湧き上がる気持ちと共に叫び声として吐き出した。ここがどこなのかすら忘れて。

 それにつられて、隼も母さんも声を上げ始めた。いつもなら止めるはずの医者の人も、今この瞬間だけは、一切止めようとしなかった。

 ひとしきり泣いて、全員が少し落ち着いて来た頃、医者の人が優しく話しかけてきてくれた。


「……落ち着きましたか?」

「……はい……」

「…………なんとか……」

「えぇ……すみません、でした……」

「いえいえ。大丈夫です。ああいうのは、我慢していいことありませんから」


 医者の人は地面に置かれたままのノートを手に取り、そっと母さんに渡した。


「こちらを……もう苺さんには渡したのですが、これは家にお帰りになってからじっくりとお読みください。もちろん、苺さんも」

「……はい。ありがとう、ございます」

「いえいえ……それでは、そうですね……私は、最後にやるべきことが1つ残っておりますので、あなた方は先に帰ってください。瑚野さんは、いったん私が預かりますが、しっかりとお返し致します」

「わかりました……先生、よろしくお願いしますね」

「それと……お母様、電話番号を伺ってもよろしいでしょうか?瑚野さんの受け取りの方お願いしたいのですが、日付が明日か明後日か……それ以降になってしまう可能性もありますので、その連絡用です」

「それでしたら大丈夫ですよ。では、お願いします」

「はい。これで私からの話は終わりです。皆さんおつかれでしょうから、家の方に帰られてはどうでしょう?」


 その日の記憶は、医者の人に諭されながら車に乗った所までしかなかった。気がついた時には家に着いていて、全員で泣きながら柊奈からの「最期の感謝」と柊奈が残した日記をじっくりと読み進めていた。

 ご飯を食べることも忘れ、自分が現実にいるのかすら分からなくなってしまった時間を過ごしているような感じだった。


「……もしかしたらさ…………柊奈は、分かってたのかな」

「……急にどうしたの、苺……」

「なんとなくだけどさ……私達がさ、こうなること…………柊奈は分かってたんじゃないかなって……この言葉読んでると、私はちゃんと後悔なく生きたから皆も前見て生きてって言われてるような気がして……」

「それは……言えてるわね」

「……俺はまだ……ちょっと…………だけど……そうだな」

「でしょ……そろそろ、ご飯作るよ。今日は、私が作るよ」


 私は、先に1回読んでいたのもあって母さんと隼に比べて意識が現実に戻り始めるのが早かった。だから、軽いものだけど作ることのした。あの日、柊奈と一緒に食べた自分たちを励ますための料理を。

 調理を始めると、まだ不安定のままになっていた感情が少しずつ安定していくのを感じた。それは残りの2人も同じみたいで、調理が進むにつれて会話がぽつりぽつりと増え始めた。柊奈もきっと、落ち込んでいる私たちよりもいつも通りの私たちの方が安心するよね。


「出来たぞ〜」

「ありがとう、苺……やっぱり、生姜焼きなのね」

「うん。今日はこれかなって思って」

「そうね。私も、そう思うわ。食べましょうか」

「おうよ。俺は皿用意するわ」


 もう、いつも通りの食事に変わっていた。それでも、心のどこかに寂しさがこびりついていた。それはご飯を食べ終わって、1人でお風呂に入っている時に余計に感じた。

 私は、その寂しさに負けそうになりながらお風呂に入っていると、不思議と柊奈がすぐ近くにいるように感じた。まるで、「私はここにいるよ」って言ってくれているみたいに。


「……いつまでもクヨクヨしてる訳にも、いかないよな」


 私の言葉は、静かな風呂場に反響した。

 その後は、今までほとんど眠らずに動けていたことが不思議なくらい深い眠りについた。





 ・・・





 私は、夢を見ていた。

 柊奈と一緒に暮らす夢。

 夢の中の柊奈は元気で、昔みたいに無邪気に笑っていた。

 その夢の最後に、柊奈は唐突に玄関に立った。

 ドアノブに手をかけ、静かにその先に進もうとする柊奈に、私は焦りながら「待って!」と声をかけた。

 そんな私に柊奈は、振り返って優しく笑いながら言ったんだ。


「またね!」





 ・・・





 目が覚めた時、右目から涙が一筋こぼれていた。

 夢の中の柊奈の声が、ずっと耳に響いていた。


「またね……またね、か…………最後の最後までどころか……その後すら、柊奈らしくしやがって」


 涙をそっと拭い、柊奈が過ごしていた部屋に向かった。柊奈が入院してからもう使うことはないって分かってたけど、ずっと柊奈のものを残している。柊奈が生きていた証を、少しでも残したかったから。

 でも、それももう終わりにしよう。柊奈の想い出は、あのノート1冊で十分だと感じたから。


「苺〜、先生から連絡が……あんた何してるの?」

「ちょっと片付け。お葬式で、柊奈の物いくつか棺桶に入れてあげたいし」

「そう……あ、先生からの連絡がそのお葬式の事だったんだけどね。お葬式場が取れたから、柊奈のお葬式を私たちでやって欲しいって言われたの。だから、私も一緒に準備するわ」

「そっか……うん、ありがとう。それで隼は?」

「さぁ?用事があるって言って出ていったわ。多分、夕方くらいには帰ってくるんじゃない?」

「なら、私たちで柊奈の荷物まとめよっか。時間無さそうだし」


 とは言いつつも、家にあった柊奈の荷物が少なかったのですぐに終わった。それから、病院まで行って医者の人と話した。お葬式の話がメインだったけど、それ以外のこともたくさん話した。偶然病院にいた隼と、合流するまで。





 ・・・





「なぁ緋乃里……今日も来たよ」


 隼は、今も眠ったままの緋乃里の元に来ていた。

 柊奈が入院する前から、隼はほとんど毎日緋乃里の元を訪れていた。今まで何度か目が覚めたこともあったけど、記憶が混乱したままで回復はできていない感じだった。

 穏やかな寝息を立てている緋乃里を見ながら、隼はゆっくりと話しかけた。


「緋乃里……君が寝ている間に、柊奈はもう死んじゃったよ……早いよな」


 そう話しかけていると、緋乃里は静かに「んっ……」と反応した。そこまではいつも通りの反応だったが、そのまま緋乃里は、ゆっくりと目を開けた。


「……あれ?ここ……」

「緋乃里?目が覚めたのか?」

「隼……?なんで、ここに……?柊奈……は?」


 奇跡的に、その瞬間に緋乃里の意識が回復した。今回は、記憶の混濁もない完全な意識の回復だった。

 隼は、緋乃里の質問に答えあぐねてしまって。目が覚めたばかりの緋乃里に、柊奈のことをちゃんと話すべきかどうかを瞬間的に決められなかった。


「ねぇ、聞いてる?柊奈は?」

「……今から俺が話すより、これを読んでもらった方がいい」

「え?これって……ノート?」

「その、『最期の感謝』って方から読んで欲しい。緋乃里への言葉もあるから」

「最期の……」


 隼は緋乃里に、万が一の時のために持ってきていたノートを見せた。緋乃里は、そのノートを1ページずつゆっくりと捲って柊奈からの言葉を読み始めた。最初はキョトンとした顔をしていたけど、読み進めるにつれて体が震え始めて、その目には涙が溜まっていた。


「……柊奈、ほんと…………」


 そして、全てを読み終えた緋乃里は怒りの籠った目で斜め上を睨みながら呟いた。


「柊奈……なんで、1人で行っちゃうのよ…………」









こんにちは。九十九疾風です。

今回はこの作品を読んで頂き、誠にありがとうございます。

この作品なのですが、ちょっとした思いつきから始まったんです。そのため、設定がガバガバなところもあったと思いますがお許しください。

このような大作を出すことは今後あるか分かりませんが、その時が来ましたらまた読んでいただけると幸いです。



それでは、いつかまた次の作品でお会いしましょう。ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  緋乃里を殺してしまったと心取り乱す柊奈の様子が、真に迫っていました。それによって深い後悔が伝わってきました。  隼に助けられた後も柊奈のショックは続いており、尋常ではない雰囲気が漂ってい…
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